作中でシェークスピアのハムレットを一部引用しました。
――青が見えた。
いい天気だな。
新開は本を開いたまま顔を窓へと向けた。窓の外では夏よりも少しだけ和らいだ陽射しが眩しいほど降り注いでいる。グラウンドではビブスを身につけたサッカー部員たちが試合をしていた。わーわーと騒がしいその様子を新開はしばらく眺めた。
自転車競技部に顔を出さなくなってから困ったことは時間の使い方だ。授業が終わって毎日ウサ吉の世話をしているが、それだけではどうしても時間があまる。
寮に帰って勉強でもすればいいのだろうが、そんな気にはなれなかった。かといって、他の帰宅部の生徒と連んで遊びに行く気にもなれない。最初の頃は付き合いで行ってみたがあまり楽しめなかった。他のみんなが自転車に乗っている時に遊ぶのは、裏切り行為に思えた。
だから、新開はよく図書室で時間を潰すようになった。
新開は室内へと視線を戻す。明暗の変化に少しだけ目眩がした。
椅子に座っているのは新開だけで他の疎らにいる生徒たちは本棚の前に立って本を選んでいる。それもそのはずで、本を読むのならば寮に持ち帰って読んだ方が良い。この図書館の机と椅子を使う場合なんて課題をやる時くらいだろう。
新開は手元の本を見る。少し前に話題になったミステリーだ。猟奇的な殺人を繰り返す犯罪者を刑事が追う話だ。ちょうど新開は刑事の努力も虚しく第三の被害者が出たところを読んでいた。本の中で刑事が怒りを露わにする。
新開はため息をついた。
残りのページ数を考えてまだまだ被害者が出るに違いない。この刑事の心労は続くな。そう思いながら読み進める。そんな刑事を嘲笑うような犯人からの手紙。軽薄な態度の部下を刑事は怒鳴りつける。
『馬鹿野郎ッ。死んだ奴はどんな事をしても生き返らねぇ。』
『あいつは取り返しのつかないことをやったんだ』
そこで新開は手を止めた。
冷房の冷たい風がすぅっと背中を撫でる。
その時、向かいの椅子に誰かが座る気配がして新開は顔を上げた。
「ええっと、新開くん?」
焦げ茶色の髪のわりと整った顔をした男が慣れ慣れしい笑顔を浮かべている。
「そうですけど」
知った顔ではない。同じ学年ではないだろう。その態度から新開は相手を三年生だと判断した。
「噂通り男前だ」
「そりゃどうも」
新開は軽く頭を下げる。見え透いたお世辞は何か裏があるに違いない。
警戒感を露わにする新開に男は快活に笑った。
「怪しい奴じゃないって説得力ないか」
男が自分の名を名乗る。そして、最後に演劇部で部長をやっていると言った。
「演劇部?」
予想外の単語に新開は僅かに目を見開く。
「単刀直入に言う。勧誘しに来た。」
「オレをですか」
今まで部活を休むようになってから運動部からは幾つか誘いがあったが文化部からは初めてだ。
「演技なんて。オレ、小学生の時にやったくらいですよ」
確か、役名は村人B。
「初めはみんなそんなもんだ」
演劇部の部長は芝居がかった調子で頷いた。
「向いてないですよ」
「俺はそう思わない」
首を振る新開に相手は身を乗り出す。
「舞台に上がる人間に必要なものはなんだと思う?」
「……演技力、ですか」
少し考えて新開は答えた。
「もちろん、それも大事だ。だけどな、演技力てのは勉強すればある程度はつくんだよ」
そこで男は一度、言葉を切って新開を見つめる。
「舞台で人を惹きつけるには“華”がなきゃいけない」
グラウンドで大きな歓声が上がる。点が入ったのかもしれない。
「俺は新開にはそれがあると思う」
真剣な男の表情に気圧される。流石、演劇部だ。相手を引き込むのが上手い。
「そんなことないです。それに、オレよりも向いている奴がチャリ部にいますよ」
新開は誤魔化そうと笑ったが、男は片頬も動かさない。
「東堂尽八のことか」
そう言って男は腕を組んだ。
「彼もスター性がある。サービス精神に溢れているし、ファンも多い。来てもらえるならきてもらいてーよ」
でも、無理だろうな。男がボヤく。
「オレも無理ですよ」
そう言って新開は本を持って立ち上がった。これ以上、ここで無駄な時間を過ごすつもりはなかった。
慌てて男も立ち上がる。
「どうしてもか」
「どうしてもです」
食い下がる男に新開は「失礼します」とだけ言うと背を向けた。鞄を肩にぶら下げて歩く。
「今、文化祭でやる演目の練習をしているから。良かったら見学にきてくれ」
その背に言葉が投げかけられる。
「ありがとうございます」
おざなりに返事をして新開はカウンターへ読みかけの本を差し出すと、図書室を出た。
ひんやりとした廊下をあてもなく新開は歩いていた。
演劇部か。
新開は派手な衣装を着て舞台に立つ自分を想像してみた。
似合わねェ。
思わず噴き出す。全く、そんなところを見られたら、みんなに何て言われるだろうか。
東堂はきっと『オレよりも目立つな』って言って対抗するに違いない。自分にも同じ格好をさせろと主張しそうだ。
荒北には冷ややかに『おめェ、そういうのが好きだったのォ』と馬鹿にするに違いない。新開がそれにどう応えようか考えていると想像上の荒北が勝手に囁いた。
『知ってた? 福ちゃん』
さっと血の気が引く。サイクルジャージを身につけた福富が新開を見つめている。表情は逆光で見えない。
『何をしている』
有無を言わせない声色だった。
『行くぞ』
福富が背を向ける。東堂が、荒北が、それに従う。
――待ってくれ。
想像の中で新開が声を上げる。
その瞬間、強烈な光が新開の顔へ飛び込んできた。
新開は手で目を覆う。
いつの間にか新開は両サイドが外に面した廊下へと出ていた。この廊下を抜けるとすぐに自転車競技部の部室がある。
癖って怖いな。
新開は自嘲するように笑い、鞄を持つ手に力を入れた。
戻らないと。
そこで廊下の反対側からやってくる人物が目に入る。全身を黒い衣服で身を包んだ中年くらいの男。尖ったナイフのような鋭い目つきはとても教育関係者には見えない。
不機嫌そうに廊下を歩く男は胸ポケットから煙草は箱を取り出した。一本取り出して口に咥える。
「禁煙ですよ」
男がライターを取り出した瞬間、新開は反射的に声を出した。舌打ちと共に男が新開を睨む。が、その顔はすぐに相好を崩した。取り繕うような笑顔が気持ち悪い。
「君」
後退ろうとする新開に男は大股で距離を詰める。
「新開隼人くんだよね?」
一体、今日はなんなんだ。
内心ため息をつきながら、新開は仕方なしに頷く。すると男は胸元を探り「こういう者です」と言いながら名刺を差し出してきた。そこには聞いたことあるようなないような名前の雑誌社の名前が乗っていた。
「記者……の方ですか」
自転車部の取材に来たのだろうか。
箱根学園の自転車競技部は名門だ。他校と比較して取材の申し込みが格段に多い。現在はプロである福富選手の息子が在籍していることもあって特に注目度が高いらしい。
「そうそう」
男が笑みを貼り付けて首を振る。
「今しがた一仕事終えたところだよ。でも、良かった。君に会いたいと思っていたんだ」
「オレに?」
首を傾げる新開に男は口を歪めた。
顔は笑っているのに、その瞳は驚くほど冷たく新開を見つめている。
「どうしてインターハイを辞退したんだい?」
「
――ッ」
新開は思わず息を詰めた。
「君の戦績は知ってる。選手に選ばれないはずがない。でも君はインハイのメンバーから漏れた」
男は持ったままのタバコを指先でクルクルと回す。
「君が辞退したとしか考えられない。何故?」
回転するタバコを目に追いながら新開は口を開いた。
「買いかぶりですよ。選ばれなかった。それだけです」
「へぇ」男が呟く。
「そういう事にしてあげてもいいかな」
じゃぁ、質問を変えようか。
新開が反応を示す前に男は言った。すっかり主導権は完全に男に握られている。
「君は何で制服でここにいる? 練習は?」
「それは」
「君はとあるレースで優勝してから公式戦に一切出場しなくなった」
言い訳をしようとする新開を男は遮る。
「それどころか部活も休んでいるらしい」
なぁ。薄ら笑いを浮かべて男が新開に迫る。
「何が原因だ? もしかしてアレ? こういう大きな部活って多いらしいからな」
「何がですか」
「いじめ、とかさ」
「ありえません」
頭に血が昇っていくのを感じながらも新開は愛想良く応えた。こんな男に怒る価値もない。
「へぇ、そう。それじゃあ」
男の指に弄ばれていたタバコが動きを止めて。そのまま握り潰される。
「もしかして君が最後に出ていたレースで何かあったのかな」
新開は顔を逸そうとしてやめた。真っ直ぐに相手の瞳を睨む。
「ありませんよ。何にもね」
そう言い切って完璧に微笑んで見せる。演劇部の部長の言う通り、確かに自分は演技の才能があるのかもしれない。ふつふつと自分の血液が沸騰する音が聞こえているというのに。
男はそんな新開を気味の悪い目で見つめると再びタバコを取り出した。
「ところで
――」
男がそう切り出した所で騒がしい声がした。
「アァッ。さっきの記者さん」
サイクルジャージを着た今井だ。今井はずんずんと男に近寄るといつもの軽い感じで話す。
「東堂が帰ってきましたよ。さっき取材したかったって言ってましたよね?」
「あ、あぁ」
突然の闖入者に戸惑っている男の背中を今井が押す。
「さっさっ早く早く。早くしないとまた走りに行っちまうかもしんないです」
渋々と言った感じで男が歩き出す。その背を押したままの今井は新開と目が合うと思わせぶりに片目を瞑った。
「なんなんだ。一体」
独り取り残された新開は今日何度目かわからない大きなため息をついた。
「おい。あの記者に妙な事を訊かれなかったか?」
その夜。新開が食堂で夕飯を食べていると今井が隣に座ってきた。今井はしばらく自転車競技部の連中のバカ話を話した後、急に声を潜めた。
「なんで部活に出てないのかって訊かれたよ」
新開は大盛りのご飯を口に入れながら答える。
「やっぱり」
今井はそう言って生姜焼きを飲み込む。
「なぁ、あの記者の人ってなんかあんのか?」
「オレ、先生からこっそり聞いたんだけどな」
先生とは自転車競技部の顧問のことだ。
「強引な取材で色々問題を起こしている記者らしい」
「へぇ」
「相手の突かれたくないところを煽ってくるっていうか」
ふうん。新開は相対した記者の姿を思い浮かべる。確かに相手をわざと怒らせようとしているような態度だった。
「高校生相手に大人げないな」
「プロ意識が高いってことらしいぜ」
迷惑だよなーと今井は言うと急に真面目な顔をした。
「とりあえず、お前は余計な事を喋るなよ」
「余計な事って」
「またお前のところに現れたら広報担当であるオレを呼べ」
やはり今井はあの時新開を助けてくれたらしい。今更、礼を言っていなかった事に気付く。
「あん時はありがとうな」
言った瞬間、今井が盛大にむせた。
「なんだよ、失礼だな」
言うと今井が目を泳がせる。
「いや、お前に礼を言われる日がくるなんてな」
しみじみと言いながら水を呑む今井。なんとなく腹が立って新開は今井の皿から生姜焼きを一つ奪ってやった。
「あ、おい」
腰を浮かせる今井を無視して新開は肉の切れ端を口に押し込む。ご飯にぴったりの濃いめの味が口の中に広がる。
「オレの肉ー」
「何を騒いでいる」
「寿一」
トレイを持った福富が新開たちを不思議そうに見下ろしていた。
「聞いてくれよ、福富。新開の奴、オレの肉を食べたんだ」
「寿一、とりあえず座ろうぜ」
新開は自分の正面の席を指し示す。福富は素直にその言葉に従った。
席に着くと福富は律儀に「いただきます」というとみそ汁を箸でかき混ぜる。
「ところで新開」
みそ汁を見つめたまま福富が言った。
「今日、部室の近くまできていたそうだが、何かあったのか」
新開は反射的に今井を見た。すると今井は小さく首を振った。福富には言うなということらしい。 福富から目を逸らして新開は茶碗に残っていたご飯をかっこむ。
「いや、何もねェよ」
そんなことより。新開はそう言って話題を変えた。
「聞いてくれよ。オレ、演劇部に勧誘されたんだぜ」
それから何事もなく一週間が経過した。
相変わらず新開は放課後を無為に過ごしていた。図書室に行ったり、うさぎ小屋にいたり。自転車には乗らない日々。変わった事と言えば、演劇部に勧誘された次の日にクラスメイトの女の子に謝られた事くらいだ。
彼女は朝礼まえに新開の席へ飛ぶようにやってきた。
「ちょっといい? 新開。昨日、ウチの部長が来なかった?」
「もしかして、演劇部の……?」
新開がそう言うと彼女は目を開いた。
「やっぱり。新開、ごめん」
クラスでもサバけている彼女は両手をぴったり合わせて謝った。
「ウチの後輩のせいなの」
「え」
ぽかんとする新開に彼女は事情を説明する。
「後輩が、図書室で見たあんたを気に入ったみたいでね。部室で『ドビュッシーの月の光みたーい』て部室で騒いでたのよ。そうしたら、部長がその気になっちゃって」
「ド、え?」
「変わった子なのよ」戸惑う新開に彼女は腕を組んでため息をはいた。
「地味目で大人しい子なんだけど、時々暴走するの」
「そうなんだ」
部活だったら一人くらいそんな生徒がいてもおかしくないだろう。実際に自転車競技部なんて変わり者ばかりだ。
「本当にごめん。迷惑だったよね」
彼女が改めて頭を下げる。肩まで伸びた髪が不規則に揺れる。
「そうだな」
新開は笑い出す。
「あれから気になって演劇について色々調べちまったよ」
お陰で寝不足、と大あくびしてみせれば演劇部の彼女がやっと笑った。
「新開。ありがとう」
「で、演劇部は今年の文化祭で何をやるんだ?」
新開は思い切って尋ねてみる。
「ハムレット、だけど」
「えー……とシェークスピア?」
そう。と彼女は頷く。ちょうどその時、先生が教室に入ってきた。
「部長のこと、本当にごめんね」と彼女はもう一度頭を下げて席に戻った。
律儀なものだと思う。
演劇部の部長に勧誘されたのはあの一度だけだ。断ったらのならば素直に引いてくれたし、新開はそこまで不快な思いはしなかった。むしろ、その後に会った記者の方がよほど
――。
新開が思考に耽っていると指先に湿った感触が押し付けられた。小屋から出したウサ吉だ。つぶらな瞳でこちらを見上げ、餌を催促するようにヒクヒクした鼻を新開の指に当てる。
そこでやっと新開は自分がウサ吉に餌をやっている途中だということを思い出した。
「わりィ」
新開は食堂のおばちゃんからもらった野菜の切れ端が入った袋を漁る。
「はい。大きくなれよ」
ニンジンを差し出すとウサ吉はさっそくもしゃもしゃ口に含んだ。無邪気なその様子に新開も癒やされる。新開は優しくその背を撫でた。滑らかな毛の感触が心地良い。
「ごめんな」
堪らず呟いた。脳裏に赤く染まった道路が思い浮かぶ。今朝見た夢。何度も再生される光景に何度も後悔する。
ウサ吉の母親をはねて、振り返りもせずに走る自分。邪魔だと。苛立って走り去った自分。
いつからそんな人間になってしまったのだろうか。元からか。それともロードを始めてからか。鬼と呼ばれるうちに心まで鬼になってしまったか。
――でも。
新開はウサ吉から手を離した。その手を握り締める。
――オレはロードにまだ乗りたいと思ってる。
その手からニンジンを食べ終えたウサ吉が新開を見上げた。餌があると思ったのだろう。何も知らないその姿に新開の胸が痛む。
「ウサ吉。オレは」
新開がそう言いかけた時、猫の鳴き声が聞こえた。新開ははっとして立ち上がる。注意深く辺りを見回す。猫はうさぎを襲うこともある。箱学には時々野良猫が入ってくるから、ウサ吉を外に出す際には十分注意しなければならない。
しばらく辺りを観察していたが猫の姿はどこにもなかった。穏やかな風が草花を揺らしているだけだ。
新開は息を吐いた。
「良かった。新開くん、ここにいたんだ」
その時、聞き覚えのある声がした。ちょうど一週間前に聞いた声。
新開は声のした方へと視線を向ける。以前会った時と同じように上下を黒で揃えている。薄ら笑いを貼り付けたその顔を新開はまじまじと見た。近づいてくる男から庇うようにウサ吉の前へと立つ。
「うさぎ小屋によく来てるって本当の話だったんだ」
「なんの用ですか」
「あの時の話の続きをしたくてね」
「続きなんてないですよ」
新開が強めの口調で言う男は鋭い目で新開を見た。口元に微笑みを湛えたまま。
「じゃ、君は特に理由もなく部活を休んでいるってことかい」
青少年の気の迷いか。男が嘲笑うように言う。
「学業に専念したくて」
「うさぎ小屋で何の勉強をするんだ?」
定番の言い訳をしてみるも男はそれを許さない。しばし二人は睨み合った。不穏な空気に足元のうさ吉が新開の足に頭を擦り付ける。
ピンと張り詰めた状態に終止符を打ったのは男の方だった。
男は新開から視線を逸らすと肩を竦めると胸ポケットを探った。タバコの箱を取り出す。
「校内は禁煙ですよ」
いつかと同じ台詞を新開を新開は繰り返した。
「真面目だねぇ。新開くんは」
男が目を細める。
「まぁ、いいや。ところで君に聞きたいことがあるんだ」
お友達の事でね。男のその言葉に断ろうとした新開の口が止まる。
「福富寿一くんからインターハイの事について何か聞いてない?」
「寿一?」
予想もしない名に新開は目を見張った。
「彼、第二ステージで落車したよね」
新開は黙り込んだ。確かに福富は落車をした。それも他校の選手を巻き込んで。
最初にそれを人づてに聞いた時は信じられなかった。あの“寿一”が落車。福富は新開の知る中で最も強い選手だ。
だけど。と新開は思い直した。広島のインターハイは猛暑の影響でそれは過酷なものだったらしい。棄権者も多く出たという。
いくら福富が強かろうが人間だ。ロードを続けていれば落車くらいすることがあるだろう。むしろ福富に大きな怪我がなくて良かったさえ新開は考えていた。
インターハイから帰ってきた福富は様子が少しおかしかった。落車のショックを引きずっているせいだと新開は思い、福富の事はそっとしていた。それなのにこの男は
――。
「そうでしたっけ」
新開は穏やかに言ったが、内心は自分のみならず福富の傷にさえ土足で踏み込もうとする男への怒りで震えていた。
「オレは何も知らねェ。帰って下さい」
「当時、落車の瞬間を目撃した人間はいなかった」
「え?」
思わず新開は声を出した。
「そんなわけねェ。あの時、二人は先頭だったって」
「あの日、先頭に付いていた審判車にトラブルがあった」
淡々と男は続ける。
「エンジンだったかな。とにかく途中で動かなくなった。代わりを手配している間に」
例の落車事故が起こった。
「面白いだろう。もちろん観客もいない。事故の状況は当事者の二人にしかわからない」
「それがどうしたって言うんですか」
新開は若干冷静さの冷静さを取り戻していた。
「何が言いたいんですか」
新開の問いに男は無表情になった。
「あの大会で唯一箱学の脅威だったのは総北だけだった」
事実、二年のエースの金城は第二ステージ優勝目前だった。それを足がかりに総北は必ず箱学の優勝を脅かしたはずだ。あの事故さえなければ。
「逆に総北の金城を潰せば箱学の優勝は確実だったてことだ」
ニタリと口の端を上げて男が笑う。
「わざとやったんじゃないか?」
「は」
意味をなさない音が口を通り過ぎる。理解できない、男の言っていることが。
「だーから。自分が落車する時にわざと巻き込んだんじゃないかってこと」
馬鹿な生徒に説明するように男はゆっくりと言い放つ。
カッと頭に血が昇った。
「寿一がそんなことするはずがない」
この男は福富がどんなにどんな想いで努力しているか知らない。だから、そんなことが軽々しく言える。知っていたら絶対に言えない。口が裂けても言えない。
「そんな事、君に言い切れる?」
「ロードに乗ったことのない人間にはわからないと思いますよ」
目で相手を殺せるならば。新開は殺気を込めて男を睨む。
そんな新開の形相に男は苦笑する。
「わかったよ。君が何も知らないって事は」
「なん
――」
「はいはい。今日は帰るから、何か聞いたら教えてね」
軽薄な口調でそう言うと男はさっさと背を向けて歩き出した。その背が見えなくなった頃、新開は崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。ウサ吉が顔を寄せてくるが構う余裕はなかった。
――そんな事は絶対ない。寿一がそんな事をするはずがない。
地面に伸びる自分の影を見つめる。
確かにそうだと信じているのに。何故だろう。
レースの帰りでウサ吉の母親を見つけた時のように動悸が止まらなかった。