「あの野郎、まだ来てねェのかよ」
ジャージに着替えて外に出た瞬間、声が聞こえた。苛立ち混じりの口調で見なくともそれが誰のものだかわかった。
「どうかしたのか、荒北」
「ッと、福ちゃん」
荒北がこちらを振り返る。その後ろでは今井が太めの眉毛を下げて引きつった笑顔を見せている。
「遅かったじゃナァイ」
「すまない。生徒会から各部長に呼び出しがあった」
「そんなの東堂に押し付けちまえばいいのに」
荒北が口の端を上げた。
「そんなわけにはいかない」
「ヘイヘイ。真面目チャンだねェ」
そう言うと荒北は笑いを引っ込め、目を細めた。
「ところで新開の奴。どっかで見かけたァ?」
まだ来てねェらしいんだよ。荒北は視線で今井を指し示す。
「新開? いや、見ていないが」
新開とは教室移動の時に会ったきりだった。ロッカーでも顔を合わせていない。
「うさぎ小屋には?」
大抵、新開はそこにいる。
「見てきたけどいないんだ。これが」
今井が肩をすくめた。
「どこほっつき歩いてんだ、あいつ」
荒北が舌打ちをして身体の向きを校舎へと向けた。捜しにいくつもりのようだ。福富は咄嗟に声をかけた。
「荒北」
「なァに、福ちゃん」
「オレが捜しに行く」
最後に会った時に見た月を見上げる新開の横顔が思い浮かぶ。
嫌な予感がした。
自分から新開を捜しに行くと申し出たが心当たりがあるわけではなかった。
とりあえず、もう一度うさぎ小屋を見てこようと思った。裏門の前を経由してうさぎ小屋へ向かうのが最も近道だ。福富は足早に歩く。
それにしても新開はどこへ行ったのだろうか。
焦燥感だけが募る。何故、そんなに焦っているのか福富自身もわからない。
急かされるようにどんどん早足になっていく。
その時、裏門の方から女性の悲鳴が聴こえた。
福富は息を詰める。そして、すぐに駆け出した。
そこに新開がいるような気がした。
福富が裏門に着くと同時に誰かが飛び出てきた。顔をよりも先に福富はその胸元に目を奪われた。
赤だ。白いシャツを鮮やかな赤が染め上げている。
――新開。
呼びかける間もなかった。新開は大事そうに胸元に何かを抱えて、校舎へと走って行ってしまった。
何があったのだろうか。
辺りを見回すと青ざめた顔をした一人の女生徒と目が合った。口を掌で覆っている彼女こそおそらく悲鳴の上げた張本人だろう。
「何があった」
福富の声に女生徒は身体を大きく震わす。今にも泣き出しそうな顔で裏門の外の道路を指差した。
「ね、猫ちゃんが」
道路には血痕が黒くこびりついている。何が起こったかすぐにわかった。福富は唇を噛みしめる。
「すごい鳴き声がして。見たら。猫ちゃんが車に」
女生徒は俯きながら途切れ途切れに言った。
「よくこの辺りで見かけた子なの。私、びっくりして叫んじゃって」
「白色と茶色が混ざった猫か」
「はい」
虚ろな目をして女生徒は頷く。福富は手を強く握り込んだ。それに気付かずに女生徒は続ける。
「私どうしたらいいかわからなく。そうしたら、さっきの人が来て。猫ちゃんを」
そこまでで十分だ。福富は女生徒の言葉を遮って尋ねた。
「轢いた車はどこだ」
女生徒は黙って首を振る。二つに縛られた黒い髪が揺れた。
「そうか。ありがとう」
福富は律儀にそう言うと投げ出してあった新開の鞄と上着を拾う。
再び福富は走りだす。
行き先はわかっている。
保健室だ。
ドアを開けると馴染みの消毒液の臭いろ混じって鉄の臭いが鼻をついた。
福富は構わず保健室の中へ踏み込む。どこもかしこも白で調えられた空間に異質の赤があった。
「寿一」
新開のシャツを染めた血は赤黒く変色していた。保健室の机の上には白いシーツで包まれた物体が置いてある。保険医が痛ましげな顔して新開とそれを見比べていた。
「寿一」
何も言えないでいる福富に新開が歩み寄ってくる。その顔を福富は直視することができなかった。
新開の手が福富の肩に置かれる。そのまま新開は福富の耳元に唇を寄せて囁いた。
「わりィ。ちょっと付き合ってくんねェ」
土を掘る音が止んだ。
「これくらいかな」
スコップを握っていた新開は福富を振り返った。
「あぁ」
福富は頷く。二人は裏庭の片隅にいた。樹々が疎らに生えたその場所は滅多に人が来ない。特別に許可を貰って新開はその固い土を掘り返していた。
福富は腕に白いシーツの包みを抱えたまま穴を覗き込む。縦五十センチほど深くに掘られたその穴の底は暗くてよく見えなかった。
「ほら」
スコップを地面へと投げ捨てた新開が福富へと両手を伸ばす。カランと金属音が響く。福富は一瞬だけ自らの腕の中へと視線をやってから、それを新開へと手渡した。
新開は丁寧に両手で受け取る。
ごめんな。新開の口が緩やかにそう形作るのを福富は無言で見つめていた。
そして、新開は穴の中に包みを置くと再びスコップを手に取った。堪らず福富は声を発した。
「それはオレがやろう」
「いいんだ。最後までオレにやらしてくれ」
新開は緩慢に首を振るとスコップを握りしめた。土を被せる単調な音が辺りに響く。福富には見守ることしかできない。
やがてすっかりと元の通りに土を被せると新開は手を合わせて俯いた。福富も新開の隣に立ち、目を瞑る。
元気に走り回る猫の姿を思い浮かべる。ボールのように飛び跳ね、自分の脚に触れたその体温までまだありありと思い出すことができた。
やるせない怒りと悲しみがこみ上げる。
気持ちを落ち着ける為には福富は大きく呼吸をする。
隣にいる新開の事が気になった。
ゆっくりと目を開ける。
新開は目を閉じたままだ。強い風が奴の髪を掻き混ぜても彫像のように立ち尽くしている。
一抹の不安が福富の心に影を落とす。
福富は慎重に新開へと手を伸ばした。新開が少しでも動いたら即座に引っ込められるようにのろのろと進む手。それは妨害されることもなく、新開の手へとたどり着いた。
福富は幾分か逡巡して、その手を軽く握りしめる。微かな温かさを感じた。
「やめねェよ」
その途端、厚みのある新開の唇が動いた。
「大丈夫。これくらいでロードを休んだりしない」
「新開」
うさ吉の母親の事を思い出しているのだろう。新開は眉を寄せてつらそうな表情をしていた。
「だけど、もう少しだけこのまま」
今度は新開が縋るように福富の手を握る。その力の強さが新開のショックの強さを物語っていた。
福富は黙ってそれを受け止める。
以前の新開だったらこんな事すらしなかっただろう。心配をかけないように平気に振る舞って、一人で悲しみを抱え込んでいたにちがいない。
あの湖のほとりで感情をさらけだしてから新開は少し変わった。左側が抜けないと告白した新開の様子を思い出す。少しだけ奴を覆っていた壁が薄くなったのを感じた。
新開の手の熱を感じながら福富は小さく息を吐く。
変わったと感じる事は他にもある。
視線だ。
新開は時々思いつめたように自分を見つめる。
福富が振り向くと決まって新開は目を逸らす。まるで最初から見ていないとでも言うように。
その理由を福富は問えないでいる。
言ってしまえば新開が離れてしまうような気がした。
福富は新開の指に自らの指を絡ませ、その感触を確かめる。
自分とあまり大きさの変わらない新開の手。
この手が他の誰かを求める日がいつか来るのだろうか。
胸が締め付けられる。
嫌だと思った。
どんなに素晴らしい女性でも、男だろうと新開の隣を自分から奪う事は許さない。
この感情は何だ。
相手の人生に寄り添い、全てが欲しいと願うこの欲望は。
その答えをきっと福富は知っている。だが、同時にきっと知りもしない。
「
――あの鳥さ」
不意に新開が目を開いた。手から彼の緊張が伝わり、自然と福富も身体がこわばる。
「あ、オレが中学の時に拾った鳥だけど。覚えてる?」
「覚えている」
落下のショックで飛べなくなった白い小鳥。
そう言うと新開がほっと息を吐いた。
「オレ、最近思うんだ」
その目はずっと遠くを見ている。
「アイツきっと飛べたんだ。逃げたんだよ」
飛べなかった事が嘘のように鋭い猫の爪を華麗にかわし、そのまま宙返りして大空へ。
「飛べたんだ」
そう繰り返す新開の手を握りながら福富は夢想する。
風切って群れの先頭を飛ぶ白い鳥。最速でこの空を翔けていく。
その光景がとあるシーンと重なっていく。
インターハイ。ここ箱根の地で先頭を力強く走る新開。誰よりも速く。
福富の胸に熱いものが迫り上がってくる。
「寿一、見ろよ。昼間の月だ」
新開が空を指差す。欠けた月が自分たちを見下ろしていた。
その姿に福富は新開と交わした会話を思い出す。
「やはりオレはこちらの方が好きだ」
地平線の向こうに橙色の光が沈んでいく。
怪訝そうな新開の声を聞きながら福富はすみれ色の空の中で輝きを増す銀の光を見守る。
――もうすぐ奴の時間が始まる。