窓が激しい風に音を立てて揺れている。
ガラス越しに見える空は重苦しい灰色の雲に覆われていた。時折、稲妻がチラリチラリと光っては消えていく。ゴロゴロと不愉快な音を立てながら。
朝からこの調子だ。
ついていない。
福富は組んでいた腕に力を込める。
どうして今日なのだと思う。よりによって。
――明日に延期しようか。
心の中でもうひとりの自分が囁く。
一日くらい遅れたとしても金城は気にしない。こんな日に外に出るなど愚か者のすることだ。
その意見を後押しするように雨がアスファルトを打ち鳴らす音がより大きくなる。規則的にも不規則的にも聴こえる奇妙な音楽。
「ダメだ」
福富は首を振る。
一日だって一秒だって遅れてはダメだ。
福富は腕に下げているビニール袋の中身を覗き込む。綺麗な薄い緑色の箱が見える。
これを買った時の心境を思い出して、血液が逆流したように頭が熱くなった。
昂ぶる神経を落ち着ける為に、福富は大きく息を吸って吐いた。
一、二、三。
顔を上げる。相変わらずどんよりとした灰色が世界に影を落としている。
不吉な象徴のようなそれを福富は睨む。
喩えそうであろうと
――構わない。
福富は大股で寮の玄関へと向かう。
迷いはもうない。
「福ちゃん。こんなとこで何してんのォ?」
その時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
受験生に休みはない。世間が休みだろうが、奴隷のように机にかじりついてひたすら問題集とにらめっこをしなければならない。
荒北も例外ではない。その日も朝からシャープペンを握りしめていた。だが、そのペン先の動きは緩慢だった。のろのろと揺れるそれはノートにいくつかみみずを描き、やがて動きを完全に止めた。
「アァー。ダメだ、ダメだ」
シャープペンを放り投げて大きく伸びをする。イマイチ気分が乗らない。こういう時は経験から何をやっても無駄だ。荒北は白い天井を意味もなく眺める。その時、ふっと空色の自転車の姿が浮かんだ。
――ビアンキで走りてェな。
そうすればすっきりするに違いない。あの速い乗り物で風のように道路を駆け抜ければ。
しばらく乗っていない相棒のつるりとしたボディを思い浮かべる。
走りたい。
あまりにもストレートな欲求に荒北はため息を吐く。
あともう少し。
荒北は自分に言い聞かせる。あとしばらく我慢すれば自由の身だ。
どっちにしろと荒北は思う。
今日の天気では走ることなんてできない。
気分転換にジュースでも飲もうと荒北は部屋を出た。人気のない廊下を抜けて階段を降りる。玄関ホールにある自販機目当てだ。談話室の自販機の方が荒北の部屋から近いのだが、残念なことに現在は故障している。
「ダリィ」
ポケットに手を突っ込んだまま、ずるずると足を階下へ運ぶ。時折外からは脅すような雷の音がする。荒北は首を竦める。
つくづく今日が試験日でなくて良かった。
一階へと辿り着いた荒北は迷うことなく玄関へと足を運んだ。休日は開け放たれていることが多い大きなガラスの扉は今は固く閉ざされている。そこには無数の雨粒がひっきりなしに叩きつけられていた。
当然だが、玄関には誰もいない。
「いるはずねェか」
こんな天候だ。
荒北が内心で頷こうとした瞬間、視界の隅で金色が動いた。反射的に眼球がそれを追って動く。
その正体を認識した時、荒北は驚きの声を上げた。
「福ちゃん。こんなとこで何してんのォ?」
その声に福富が振り返る。僅かに目を見開いた珍しい顔で。
「どうしたの、その格好」
荒北は呆然と呟く。
福富はこんな嵐の日には不釣り合いな格好をしていた。サイクルジャージを身に纏い、ヘルメットまで手にしている。
ありえない。こんな日に走る気なのだろうか。
「まさか」
「ロードレースはオールウェザースポーツだ」
荒北の言葉を遮って福富が重々しく言った。だが、荒北は見逃さなかった。その鉄仮面の額に浮かぶ大粒の汗に。
「なんか福ちゃん。嘘言ってナァイ」
「い、言っていない」
荒北を見る福富の眼光が鋭くなる。しかし、それで怯む荒北ではない。
「なァんか怪しいな」
荒北は鼻を動かす。微かに甘い薫りが鼻孔をくすぐる。
「これは……チョコ、か?」
はっと福富が身体を強張らせる。荒北は薫りの元へと素早く視線を動かす。福富の太い腕に通されたクリーム色の袋が目に入る。お洒落な筆記体が描かれたそれは福富のイメージとはかけ離れていた。
「福ちゃん。それ
――」
「これは違うぞ。断じてチョコレートなどではない」
そうか。と荒北の頭の中で電球が灯る。今日はバレンタインだ。
「喩えチョコレートだとしてもだ。金城とは一切関係がないからな」
普段の口数の少なさが嘘のように福富が言い訳がましく述べている。それこそがただ事ではないと白状しているようなものなのだが。
つまり。と荒北は頭の中で状況を整理する。
「福ちゃんはこんの嵐の中、金城にチョコレートを渡しに行くってことォ?」
ぴたりと福富が動きを止めた。そして、ゆっくりと荒北と目を合わす。そこには躊躇いの色があった。
「福ちゃん」
焦れた荒北が名を呼ぶと福富は目を伏せた。それからたっぷりを間を置いて呟いた。
「……そうだ」
正気か。
荒北は頭を抱えた。
福富が金城に対して並々ならぬ感情を抱いていたのは薄々気が付いていた。彼を見る目が、彼を語るその口ぶりが、教えてくれた。
それを非難する気持ちも邪魔するつもりもは荒北にはない。これは福富と金城の問題だ。
だが
――。
荒北はガラスを叩く雨音に耳を澄ます。力強いその響きはしばらく雨雲が動かないことを示していた。
いくらなんでも今日はまずい。
「明日でも」
大丈夫だ。と言いかけた荒北の言葉はあっさりと遮られた。
「今日でなければダメだ」
固く引き結ばれていた福富の唇が動く。その言葉は静かでそれ故に揺るがない決意を感じさせた。
「福ちゃん」
「荒北、お前は止めるだろうがオレは
――」
「だァれが止めるって?」
死地に赴くような兵士の悲壮さを漂わせる福富に荒北は唇の端を上げた。戸惑うように自分を見つめる福富に構わず荒北は続ける。
「オレを誰だと思ってんだよ」
箱学のエースナンバー二番。
「エースをゴールまで運ぶのがオレの仕事だ」
「荒北」
「よく言ったぞ、荒北」
「それでこそ靖友だ」
珍しい福富の驚く顔を眺める暇もなく背後からよく知った声が聞こえた。
振り向くとそこにはいつもの二人が立っていた。
「てめェら、いつの間に」
「お前たちの動向などお見通しだ」
東堂が得意気に指を振る。
「オレたちも行くぜ、寿一」
隣に立つ新開が当然というように笑う。
おそらく東堂も新開も荒北と同じ気持ちなのだろう。走りたくて、暴れたくてうずうずしている。
「お前たち」
それでも何事か言いたげな福富に荒北は歩み寄る。 その逞しい肩を軽く叩く。
「そういう事だから。福ちゃん、オーダーよろしく」
朝の雨が嘘のように綺麗な夕焼けだ。
窓から差し込む赤い陽に金城は手を止める。
雨で洗い流された空は遠くまで広がっているように見える。
こんな空の下、思いっきり走れたら気持ち良いに違いない。
金城は苦笑する。受験勉強の弊害か。そろそろ禁断症状が出ているのかもしれない。
あの男は今頃どうしているのだろうか。
インハイが終わってから度々やりとりをするようになった男を思い浮かべる。派手な髪色に似合わず真面目な奴だから、自分と同じように受験生のジレンマを抱えているかもしれない。
受験が終わったら。
金城は仮定する。
誘ってみようか。一緒に彼が食べてみたいと言っていたアップルパイの店まで走りにいかないか、と。
驚く福富の顔を想像して金城は目尻を下げる。案外、悪くない思いつきかもしれない。
密やかに喉の奥で笑っていると不意にノックの音が聴こえた。素早く金城は表情を引き締める。
部屋の外にいたのは母親だった。ドアを開けた金城に彼女は意味ありげに微笑んだ。
「これ、ポストに入っていたわよ」
「これは」
差し出された袋の中を覗き込むと緑色の箱が入っていた。
「あんたもやるわね」
そういえば、今日はバレンタインか。
ぼんやりと考えながら金城は箱を手に取る。蓋には金色の文字が刻まれている。
「でも、差出人の名前がないのよ。奥ゆかしい子ののかしら」
首を傾げる母親の隣で金城は密かに相好を崩した。
箱の中から現れたリンゴの形をしたチョコレートを見て。
「本当に会わなくて良かったのォ?」
並走する福富に荒北は声をかけた。箱根への帰り道は行き時と反対に穏やかだ。
「あぁ」
福富が応える。その素っ気のない様子に「千葉まで行ったのにねェ」と荒北はボヤく。
きっと福富は渡せただけで満足なのだろう。まったく天然記念物の純情だ。
「ところで寿一。どんなチョコレートをあげたんだ?」
後方から新開の声がした。
「ずっと気になっていたんだ」
「おめェはそればっかりだな」
呆れる荒北の隣で福富が口を開く。
「りんご型のチョコレートだ」
え。荒北は一瞬呼吸を忘れた。
「金城ってりんごが好きなのか?」
「いや、リンゴが好きなのはオレだ」
知ってる。
心の中で荒北は呟く。
「じゃ、何で
――」
言いかけて荒北は気付く。福富の耳が赤く染まっていることに。
「その、オレが好きなものを、金城にも食べてもらいたかったからだ」
堪らず荒北はペダルを踏む。風に逆らって前へと進む。
「荒北?」
「このまま箱根まできっちり引いてやんよ」
後ろを振り返らず怒鳴る。
この気持ちをどうすれば良いのだろうか。
荒北は空に浮かぶ丸い月に向かって吠える。
あぁ本当に、ごちそうさま!
【嵐のバレンタインディ】