「これは何だ」
放課後の箱根学園の正門の前。いつも以上の低いその福富が響く。
こっそりと荒北はため息をつく。
何だと言われてもねェ。
視線の先には宙に揺れる紙袋を見つめる。つるりとした質感で構成されたそれは何も不思議な力で浮かんでいるわけではない。
持ち手を力強く掴んでいる指を見る。
また、ため息が出そうになる。げんなりとした気分で荒北はその手の主に声をかけた。
「だってよ、金城」
もう一回説明してくれナァイ。荒北は皮肉げに続ける。
その男
――金城真護は一瞬だけぎょろりと荒北に視線を向け、再び福富に向き直った。
風が大きく吹く。春をまだ感じさせない肌寒さでコートをはためかせる。
「だから、少し早いがお返しだ。バレンタインデーの」
「知らん」
間髪入れずに福富が声を上げる。
あぁ。荒北は片手で顔を覆った。さっきからこの調子だ。
「あの嵐の日に家のポストにチョコレートを入れただろう」
金城の緑色の瞳に福富が映る。
「ずっと礼を言いたかった」
そのまま放たれる真っ直ぐな言葉に福富の耳がほんの少し赤くなる。だが、これは付き合いの長い荒北だからわかる変化だ。
「な、何の事だ?」
福富が金城の視線から逃れるように顔を逸らす。あくまでも誤魔化すつもりのようだ。
恥ずかしいのはわかる。わかるのだが。
密やかに荒北は周囲を見渡した。下級生たちはまだ部活をやっている時間のせいか、正門に近いこの場所では奇跡的に他の生徒の姿はない。
もしいたら確実に奇異な目で見られただろう。
男三人。一人の手にはプレゼントらしき赤い紙袋。
不毛だ。不毛でしかない。
「で、その中身はなんなんだよ」
ため息混じりに荒北は金城に問う。二人に任せていたら会話が一歩たりとも前に進まない気がした。
「あぁ。これか」
意味ありげに金城が福富へ視線を走らす。
「リンゴだ」
その単語にピクリと福富の眉が動く。荒北は頭を掻いた。
「オイオイ。それにしちゃ随分立派な包みじゃねェか」
「なかなか希少なリンゴでな。わざわざ取り寄せて買ったんだ」
「へェ。それは相当うめェんだろうな」
荒北は横目で福富の様子をうかがう。金髪の王様はアシストの視線にも気が付かず、金城の持つ紙袋に釘付けだ。
「もちろんだ。果肉はシャッリと歯ごたえがあり、蜜が多く糖度も高いらしい」
金城も荒北に話すふりをして横目で福富の様子をうかがう。
熱心に紙袋を見ていた福富は、二人の視線に気がつくと決まり悪げにそっぽを向いた。
「そうか。だが、オレには関係ない」
いかにも興味ありませんという顔で素っ気なく福富言った。しかし、その黒目は紙袋をチラチラと追いかけている。
「福ちゃーん」
素直になんなよォ。喉まで出かかった台詞を荒北は飲みこむ。
今それを言っても福富を無駄に追い詰めるだけだ。
荒北は福富のアシストであり友人だ。
今やるべきことは福富の見え見えの嘘を守りつつ、金城のお返しを福富に受け取らせる事ではないか。そうすればお互い無用に傷つかずに済むはずだ。
荒北は福富の横顔を見つめる。不機嫌そうに眉をしかめているが、怒っているわけではなさそうだ。
むしろ普段、感情を表に出さない福富にしては表情筋が動いている。おそらくこれは
――照れ隠しに違いない。
福富は嬉しいのだ。
金城が、自分のチョコをわかってくれたこと、わざわざお返しを持ってきてくれたこと、自分の好物を覚えてくれていたことが。
だが、それを悟られたくなくて必死で隠そうとしているのだろう。その苦悩が眉間の皺の深さに現れている気がして、荒北は気の毒な気持ちになった。
――要するに何かちょうどいい言い訳さえあればいいんだろなァ。
荒北は金城を盗み見る。奴はさっきから袋を差し出した姿のまま動かない。真っ直ぐに福富を見つめている。
この様子では金城にそのきっかけを期待するのは無茶なようだ。
どうして主将ってものはこう堅物が多いのだろうか。
荒北が内心で匙を投げかけた時、声が聞こえた。
「よう。みんな揃って何をしているんだ?」
「新開」
福富がほっとしたように声のした方を振り返る。
そこには箱学の元エーススプリンター新開隼人が立っていた。
「見ての通りだ」
「いや、わかんねェよ」
仏頂面した福富の説明に新開が苦笑する。
「でも、なんとなくわかったかもな」
新開は金城に気付く軽く頭を下げた。金城も会釈する。
「で、何で寿一は受け取らないんだ?」
流石、中学からの付き合いだ。理解が早い。感心する荒北の隣で福富が冷静に応える。
「バレンタインの礼だそうだが、生憎オレには心当たりがない。受け取るわけにはいかない」
あの嵐の中、強行したくせによく言う。
荒北の目が半眼になる。福富も気まずいのか荒北から目を逸らす。その様子がまた面白くない。
福富は潔癖な精神を持った男だ。どん底にいた荒北を救い上げられたのは彼にある種の高潔さがあったからだと思っている。
その福富が恋ごときに振り回されているのはいい気がしない。自分勝手な願望だとはわかっているが、荒北は福富にはいつもどっしりと構えていて欲しいと思っている。
新開も似たような気持ちなのではないかと思う。それともこんな感情は既に中学の時に経験済みなのだろうか。福富の言葉に「へえ」とおかしそうに笑う新開を見る。
一瞬、荒北は息を止めた。
愉快そうなその顔に対して新開の瞳に宿る光があまりにも
――剣呑だった。
「つまり、寿一はそれ、いらないって事だな」
「なっ
――」
「せっかく持ってきてくれたのに、な」
わざわざ千葉から。
新開は柔らかく微笑む。学校の女どもが見たら悲鳴を上げそうな顔だ。不意打ちのようなその表情に金城が戸惑ったように言う。
「いや、そんなに大変だったわけでは……」
「このまま受け取らずに帰らせるのは悪いよな?」
新開は無視して荒北に同意を求めてきた。その意図を薄々勘付いて荒北は頷く。
「アァ。それは悪ィし、もったいねェな」
そんな二人を福富は腕を組んで難しい顔で見ていた。展開が変わったことについていけてないようだ。そんなことはお構いなしに、新開は言い放つ。
「だよな。だから、これはオレがもらう」
にっと悪い顔で新開は笑った。。
「なに?」
金城が固まる。その隙にその手に持っていた真っ赤な紙袋を新開が掴む。
「ちょうど腹も減っているし」
そう言って片目をつむってみせる。これは、明らかな挑発だ。
福富が纏う不機嫌なオーラが一層濃くなる。その恐ろしい顔にも新開は動じない。
「なぁ、いいよな」
ダメ押しとばかりに新開は金城の肩に手を回す。
ぶちッ。
その時荒北は聴こえないはずの何かが切れる音が聞こえた気がした。
「……新開」
地を這うような低い声が福富の口より漏れる。反面、その表情はいつもと変わらないように見えるが荒北にはわかる。福富は怒っている。
「金城が困っている。やめろ」
「なんだよ。寿一には関係ないだろ?」
だってこれいらないんだろ?
新開が手に持つ袋を左右に振った。そんな新開を福富は睨みつけた。
「関係あるッ」
そう言うやいなや福富は手を伸ばして新開の手から紙袋を奪い返した。
「これは……オレのモノだ」
力強い宣言が響き渡る。
新開が背中の後ろで親指を立てる。
――うまく言ったぜ。
新開からは見えないことは承知しながらも荒北は小さく頷く。
――おめーにしては上出来だヨ。
そんなやりとりがあった事など知らない金城がぽつりと呟いた。
「福富」
「いや、これはその……」
顔を真赤にして福富は視線を逸らす。こうなっては鉄仮面も形無しだ。
もごもごと口を動かす福富の横で新開が小さく肩を震わす。
「良かったな。寿一」
そうだ。と新開は福富の方を叩いた。
「いいモノをもらったんだからお礼をしないと」
駅まで送っていってこいよ。新開は朗らかに提案した。
「な
――」
福富が固まる。いや、だの、しかし、だのその口が言いかけては止まる。
「いいじゃナァイ」
煮え切らない福富に荒北は声をかける。どうやらエースには背中を押してやるアシストが必要なようだ。
「とっとと行って来い。夕飯に遅れたらオレの唐揚げ分けてやるからヨ」
「荒北」
福富は何かを言いたそうな顔したが、結局「わかった」と言うと金城と連れ立って歩き出した。
遠ざかるその背中を見ながら荒北は一抹の寂しさを感じた。なんとなくカルガモの子どもが一人り立ちするシーンを思い浮かべる。
「寂しいな」
まるで心を読んでいるかのような新開の声が聞こえて荒北はどきりとした。慌てて見てみればしょんぼりと目を垂らした新開の顔があった。
「寂しいぜ」
再び新開は繰り返した。
そんな顔すんな言いかけて荒北は誤魔化すように頬を掻いた。
きっと自分も同じ顔をしている。
何を話せばいいのだろうか。
福富は隣の気配をうかがいながら、だが決して視線は向けない。
そろそろ駅に着く。見覚えのある赤い屋根の家を見てそんな目算を立てる。じっとりと背中に汗をかく。あれから一言も金城と話していない。
やはり新開か荒北を連れてくるべきだった。猛烈に福富は後悔した。あの二人ならばこんな風に金城に退屈な思いをさせることはなかっただろう。
きっと金城は福富の事をつまらない男だと思っているだろう。話さなければと思う。
だが、引き結ばれた唇は動かない。
何を喋ればいい。くだらないと思われないだろうか、つまらないと思われないだろうか。いっそ何も話さない方がマシなのではないだろうか。
――俺は弱い。
手に提げた金城から貰った紙袋がずしりと重く感じた。
その時、前方から派手なバイクが猛スピードで走ってきた。爆音を鳴らしながら金城たちの脇を通り抜ける。砂埃が舞い上げる。
危ないではないか。
憤然としながら車道へ目を向ければ、隣を歩く金城と目が合った。
息を飲む。
「福富」
歩みを止めないまま静かに金城は言った。
「やっとこっちを向いてくれた」
その瞳が見たことない程に優しく感じられて。福富の心は風に揺れる枝のように騒めいた。嬉しさと戸惑い。両極端な感情が入り乱れる。
何故そんな目をしてる。何故自分はここにいる。
自分たちは何かを踏み越えてしまった。そんな気がした。
「すまなかった」
続いて発せられた金城の言葉に福富は目を見開く。
疑問だらけの目線を送れば金城は自嘲げに口を歪めた。
「突然押しかけて悪かったと思っている」
「金城」
「卒業したら忙しくなる。今日しか時間がとれなかった」
金城はどこか遠くへ行くつもりなのだろうか。ひやりと心の奥が冷える。
互いの進路を福富たちは知らない。尋ねることもなければ教えることもなかった。
じわりと広がる漠然な不安に福富は自分に言い聞かせる。
金城がどこへ行こうと恐れることはない。ロードを続けている限り自分たちは同じ道の上にいる。
そんな福富の心情を知らない金城は「それに」と話を続ける。
「お前が“箱学”の福富であるうちに渡したかった」
「どういう意味だ?」
「福富。お前は大した奴だ」
金城は目を僅かに細める。
「インターハイ、お前が率いたチームは強かった」
ありがとう。と金城は言った。
「オレはあの夏のレースを一生忘れない。お前たちの強さも、走りも」
その瞬間、福富の脳裏にあの強い陽射しが蘇った。吹き付ける風の感触。見送った背中。ぎらぎらと輝いては胸を締め付ける。
「次は負けない」
「あぁ。望むところだ」
金城は頷く。
「だが、それは受け取ってくれ。お前への礼だ」
そんな物はいらない。オレはオレの望む強いチームを作っただけだ。そう告げようとした福富だったが、次に発せられた金城の言葉に声を失った。
「だから、福富。もう二年の時のことは気にしなくていい」
「何?」
「バレンタインの事だ。あれはそういう意味なんだろう?」
いつかの温泉饅頭と同じ。律儀な事だ。
そんな声が聞こえた気がした。
「違うッ」
福富は立ち止まった。全身の血が逆流したように頭のてっぺんの温度がどんどん上昇していく。
「金城。オレは、オレは」
自分が何を喋ろうとしているのかわからないまま福富は口を開く。
「お前の
――」
金城の目が大きく見開かれる。
「お前の事が
――」
その時、断罪するかのようにけたたましい音が二人の間に割って入った。
踏切のサイレンの音だ。
福富ははっと口を噤んだ。
自分は今、何を言おうとした。
言うべきはない。金城を困らせてはいけない。そもそもチョコを贈るだけで満足だったはずではないか。
自分だとバレてしまったのは誤算だったが、誤解されているのならそのままの方が良い。
福富は下を向いた。足元から真っ直ぐに伸びる自分の影までも悲しそうで。福富はぐっと唇を噛んだ。
「もういいだろう」
「福富?」
「このまま真っ直ぐ行けばすぐに駅だ」
りんご、すまなかった。そう言って福富は背を向けた。金城の顔は見れなかった。
自分の影を踏みにじって引き返す。未だに鳴り響くサイレンがうるさい。
逃れるように福富は歩く。だが、影も騒音もべったりとついて離れない。
「福富」
うるさい。うるさい。
耳の奥でわんわんとサイレンが響く。
「福富
――ッ」
強引に後ろから抱きしめられて福富は硬直した。
「すまない、嘘を言った」
首筋に熱い息があたる。
これは夢だろうか。こんな都合の良い事があるはずがない。
「……金城」
「お前からチョコレートを貰った時、オレははっきり言って浮かれた」
福富は真面目だから、特別な意味などないとわかっていたはずなのに。
「いつしかオレは期待していた」
福富の好物のリンゴのチョコレートをくれたのはどうしてだろう。嵐の中、わざわざ届けてくれたのは何故だろう。
「お前もオレと同じ気持じゃないかと」
「金城」
「バカだろう? だからはっきりと否定して欲しかった」
だが、今は違う。
ゆっくりと金城の唇が動く。
「お前が好きだ、福富」
福富の耳から一切の音が消えた。やはりこれは夢だ。現実であるはずがない。
半ば反射的に福富は叫んだ。
「う、嘘だ」
「嘘じゃない。オレの心臓の音が聴こえないか?」
そう言われて福富は耳を澄ます。だが、激しく脈打つ自分の鼓動の音が大きくて聴こえない。
「わからない」
何もかもわからない。
「福富。オレは」
福富は金城が何かを言う前にその腕の中から抜け出す。そして、金城と向き合う。その緑の瞳は陽の光を受けてきらきらと輝いていた。嘘や欺瞞は一切なかった。
目頭が熱い。やっとの想いで福富は言葉を発した。
「お前はずるい」
「福富」
「何でもないような顔をしていつも」
言いたかった。でも言えなかった言葉を。
「何でもない顔?」
金城は困惑したように眉をひそめた。
「今だって心臓が爆発なんだが」
おおよそ金城らしからぬセリフに福富は目を見張る。
「だが、オレは後悔だけはしたくないんだ」
――福富。お前は
金城の言葉を遮って福富は口を開く。
「好きだ、金城」
お前がオレを好きになるずっとずっと前から。
良い顔してるじゃナァイ。
寮に戻った福富を見るなり荒北は開口一番そう言った。
福富は軽く頷いて答える。まだ口を開きたくはなかった。胸に宿るこの暖かさが逃げていってしまいそうで。
腕に提げた袋の中を覗きこむ。そこには金城からもらったリンゴがある。
思えばバレンタインに金城へとリンゴのチョコレートを渡した事から全てが始まった。
福富はひとつの逸話を思い出す。
禁断の果実を食べて楽園を追われた人間の始祖、アダム。もしイヴがアダムに果実を分け与えなかったら、彼は楽園に留まることができたのだろうか。イヴは彼に果実をあげた事を悔いただろうか。 アダムは彼女を恨んだだろうか。
“お前が好きだ。福富”
耳の奥で低い声が甦る。
信じようと思った。楽園から追い出された二人がそれでも幸せだったことを。
「やっぱ唐揚げはあげねェから」
そんな福富の顔を見て荒北が呟く。それを聞いた福富はひっそりと微笑んだ。
【春はもうすぐそこに】