百年の神子 3
頭に柔らかい感触……。誰かが、髪を撫でている。
「起きたか、チャム」
「……はい」
アランは服を着て、枕元に座っていた。カーテンが開けられ、窓辺が白んでいる。
「あ、朝食……」
起きようとしたが、肩を押され寝かされる。
「私が用意するよ。チャムのように美味しいものはできないがな。それより……」
アランはチャムの手を取り、二人の前に掲げた。
「痣はどうなった」
「あ……」
何もない、普通の腕。神の気配もない。
「消えました」
「ああ」
アランの様子は落ち着いていた。
「リアンが来たんだ。自分の腕に痣が現れたから」
思っていたように神託が移ったんだ。
「君の痣も無くなったと推測していたが、はっきり聞けて安心した」
痣は凹凸が無く色だけなのでアランは見えないが、
「リアン様に確認してもらわなかったのですか」
彼は少しむっとした表情をした。
「初めて夜を過ごした相手がまだ目覚めないのに、他の人間に見せたくない」
そう言われ、体が熱くなる。
(アラン様としたんだ)
神様が寄りつかなくなるくらい激しい行為を。アランの言葉が独占欲を持ってくれているようで嬉しい。
(そんなこと、ないと思うけど……)
仕方なく抱いた相手だけど、翌朝ぐらいはこういう雰囲気が続くものなのかもしれない。
思ったよりも股関節や尻に違和感がある。
アランは朝食をベッドまで運んでくれた。
「ありがとうございます」
「今日は何もせずゆっくりお休み」
トレイをベッドの上に置き、アランの分は壁際の机の上に置く。彼は椅子に座ってそこで食べ始める。チャムはパンを手に取ったまま止まっている。
「食欲が無い?」
「いえ、パン屑をベッドに落としてしまいそうで」
「気にしなくていいよ。新しいシーツがあるから。あ、掃き掃除は明日チャムにやってもらうけど。今日は妹の婚姻が行われるから、祭りに行かないわけにはいかない。掃除には手が回らなそうだ」
「私がやっておきます」
「それは明日な。今日は、体が動くようなら祭りを見においで」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
自分のことを考えてくれることが嬉しい。
「ところで、百年祭は大丈夫でしょうか」
当日に神子の一人が変更することになったのだ。
「エゼムがついているから平気だろう。リアンも、今日はどんなことでも頑張るさ」
「リアン様についていなくてよろしいのですか」
好きな人と一緒になれるけど、不安もあるはずだ。
「それはエゼムの仕事だ」
アランはベッドに近づき、チャムの手からパンを取って千切った。小さくなったパンを、チャムの口に運ぶ。
「私は儀式ぎりぎりまでは、チャムの側にいるよ」
チャムが狼狽えながら開けた口にパンが入れられ、アランの指が少し触れた。
アランが出掛けた後、チャムはひっそりと外出着に着替えた。
そういえば、チャムが起きた時、汗や体液を綺麗に拭かれ、アランの寝室着を着せられていた。アランの目ではチャムの部屋で物を探すのは難しいから、アランのものにしたのだろうが、下帯のないままローブを着せられていて、落ち着かなかった。
いつもの高台に行く道すがら、祭りに行くと思える人達とすれ違っていく。
(良かった……)
急に神子が替わったのには驚くかもしれないが、リアンはこの国で育ち、この国のために働いてきた神子だ。きっと皆喜ぶ。
高台に着き、祈りの姿勢を取る。集中すると、自分の魔力がほんの少し落ちているのが分かった。
(こんなちょっとの差なのに)
昨日まで周りの人を苦しめたことが嘘のようだ。
「…………」
――アランにどう償えばいいだろう。主人と召使いとして越えてはいけない柵を越えてしまったのだ。気持ちが伴っていればいいのだろうけど、自分達はそうではない。
これからも彼に仕えたい。けれどそれは、彼に気疲れさせることにならないだろうか。
心の奥底だけの思い出にする。だから……、どうか疎まないでほしい。
「そうだ……。明日が百日目だ」
祈りを捧げてから、アランと出会ってからもうそんなに経った。
疎まれるくらいなら、
(明日の『百日の願掛け』が終わったら……)
消えてしまいたい。
祭りは数日続く。
次の日、朝食の片付けをしている時、彼に声を掛けられた。
「今日は一緒に祭りを見て回らないか。舞台やパレードが綺麗だそうだ」
……今日も優しい。自分は夢を見ているのかと、固まってしまった。
「とはいえ私自身、兵団が受ける祝福の儀式に参列しなければならないから、昼頃しか時間が取れないのだが」
「昼頃……」
行きたいけど、祈りをすべき時間と重なる。少しくらい時間ずらした日はあったが、今日は大事な日だからできない。
「申し訳ございません。その時間は用事があって行けません」
「……どこかに行くのか」
「はい」
「どこへ」
前に一度軽く訊かれたことはあったが、今回は問い詰められた。
「それは……」
あの場所に毎日決まった時間に行くのは怪しい。しかも主の誘いを断ってまで。魔力があることを知られるのが怖くて黙っていたが、もう言ってもいいだろうか。だが、
「言えません……」
願掛けの内容を知られたくないのだ。
「君は…ッ…。……いや、すまない」
怒りが滲んだその声に、少し怯える。
「雇い主だからと言って、なんでも聞いていいわけではないよな」
気落ちしたような声に変わった。焦って声を掛けようとしたが、アランは背を見せる。
「では軍の者達との会合に行ってくる。飲み明かすはずだから、今夜は帰らない」
「……いってらっしゃいませ」
アランはそのまま支度を終え、屋敷を出ていく。
――いつもの関係に戻ってしまった。
昨日さぼった掃除や洗濯をして、最後の祈りに向かった。
本祭は昨日だが、今日は目に楽しい祭事が多い。郊外に向かう道は人通りが少なく、高台まで行くと人のざわめきがすっかり消える。
一人きりなのを感じた。
――集中できてちょうどいい。
(どうか……)
チャムはここに漂う霊気に体中を明け渡すつもりで祈った。
オルシー国に伝わる秘術。そして祈りの盛んなエミュス国の霊気。
(アラン様……)
霊気が川の谷間を登り、チャムの目前に浮かび上がる。
「あっ……」
その霊気はチャムの体を突き抜け、後ろの方へ流れていった。途中で、その気配を追えなくなる。
「成功だ……」
チャムの体から、全ての魔力が無くなっていた。
霊気と魔力がどこに行ったか、辿れないが分かっている。
アランの、目だ。
その行先に幸せが訪れているように。そう願って、チャムは微笑んだ。
もし叶わなければ、アランに無駄な期待を持たせてしまう。そう思って言えなかった。
(秘密だらけの亡命者を、傍に置いてくれてありがとう)
少しは恩を返せただろうか。
魔力の消えた手を見つめる。ほんの一日、祈りが通じるのが早ければ、彼はチャムを抱く必要など無かったのに。
神殿や王宮を繋ぐ通りでは、華やかなパレードが行われていた。歴々の貴族のために王宮の敷地に見物の席が設けられ、アランはそこで貴族や軍上部の者と談笑していた。百年神子の一人を輩出したこともあり、アランの周りはにぎやかだった。
(パレードか……)
アランには見えないが、周りの人の反応で想像する。
だが、本当に一緒に居たかったのはただ一人だ。
(チャム……)
彼に自分の目となってもらい、この百年の宴を見てみたかった。彼の口から語られる祭りなら、きっと輝いて見える。
(都合の良い考えか)
共に暮らしてから三か月を過ぎても親しくなれなかった。それを、一度抱いただけ……それも、彼の罪悪感を利用して。
病により目が見えなくなったのは三年前。必死に治療と訓練をし、目が見えずとも剣を振るえるようになったが、将軍の座を退くこととなった。多くの兵と民の命が関わる仕事だ。否やは言えなかった。
ある日、国境視察に訪れた山中で、追われていた青年を拾った。事情がありそうだったので、誰にも知られないよう宿屋に連れて帰った。手当てをするためにその体に触れ、傷だらけであることに気付いた。
「お願いです! 見逃してください」
怯える彼が憐れに思えた。当てもなく異国に来た青年。
「私のところに来ないか」
口が勝手に動いていた。
誰にも頼りたくない
――。そう考えるうちに、人との仲が疎遠になっていた。
誰か頼ってくれる人が欲しかった。手のひらに感じる、彼の泣きすする声が、とても儚げに思えた。
とても真面目で懸命に仕事をしてくれる子だった。部下や剣術指南の相手を褒めることはできるのに、彼に感謝を表すのは戸惑ってしまう。
使用人の仕事に慣れた頃、チャムが買い物でもなく毎日同じ時間に出掛けていることに気付いた。訊いてみたが言葉を濁される。彼が何を考えているか分からないことにもやもやとしたものが心を覆う。
あの子に冷たい態度を取ってしまうようになった。頼りがいのある男になりたいというのに。
だがチャムは変わらず明るい声で受け答えしてくれる。彼に嫌われないために、今のうちに態度を改めなければと思った。
その矢先、
「兄さん、あの人に暗い顔させないで」
リアンにそう言われた。アランは毎日チャムの明るい声を聞いていた。リアンは何故かチャムを避け、滅多に会わない。その彼女は、一目見ただけで、チャムが暗い顔をしていると言ったのだ。
彼のことが、全く分からなくなった。
チャムとぎくしゃくしたまま、……百年祭の神子の神託が降りた。
どうしてチャムと会ったこともないエゼムが! 何故彼と婚姻できる!
書庫に籠り、神官に頼み込み、儀式を回避する方法を探した。諦められなかった。
視力を失い軍の指揮を譲った時、少しずつ皆の信頼を得ていくエゼムに嫉妬しないでもなかったが、エミュス国のために後援しようと思った。だが今は、
(あの時、将として戦い続けることを選んでおけば
――)
この目に関係なく、誰にも負けないよう精進をしていれば。
(チャムと婚姻する相手は……)
顔色がひどいと、休むように言われ、確かに意識が朦朧としていたので、リアンに部屋を借りようと神殿内の廊下を歩いた。
そこでチャムの笑い声を聞いた。ちょうど右手に部屋があるのだろう。石の壁の向こうで声が小さく、内容を聞き取れないが、相手がエゼムということと、時折楽しそうに笑っていることだけは分かった。
おかしくなりそうだった。
書庫を出る前に、魔力が落ちる要因として、性交渉を経験することが挙げられると知った。神官がそう読み上げた声が、頭にこびりついた。
チャムのことが頭から離れないのは、自分の庇護する者に対する独占欲だと思っていた。だが……。
彼に抱かせろと言って、彼が簡単に受け入れた時、心が悲しみで溢れた。
(こんな、形じゃ……)
恩や、罪悪感や諦めでなどしたくない。自分が本当はチャムとどうしたいのか、やっと分かった。
だがすでに、儀式は明日に迫っている。
自分の気持ちに蓋をして、彼が心の中では悲鳴を上げているだろうことに耳を塞ぎ、彼の体だけを、奪った。
彼に触れる度、彼の喘ぎ声が耳に届く度に、心が内側から叩かれている気がした。外に出たい、言葉にしたい。彼に伝えたい気持ちがあると。
気付けばパレードは途切れ、貴族達は舞台の方へ移動しようとしていた。
「どうかなさいましたか。よろしければご案内しましょう」
目の見えないアランを気遣い、貴族の一人がそう言う。
「いえ、結構。ありがとうございます」
アランは拳を握った。
「やらなくてはいけないことを思い出しました。今日はこれで失礼させていただきます」
足早にその場を去り、王宮、そして中央通りを後にする。
(チャムに、伝えたいことがある
――)
彼を抱いてから、甘い雰囲気に酔いしれ、本当にしたかったことを忘れていた。
今朝、チャムにどこに行くのか教えてもらえず、関係が近付いていないことに勝手に失望した。
(言わなければ)
黙っていても、関係は変わらない。
(私は、チャムと
――)
駆け出そうとした時、何かが閃光のように早くアランの目を突き抜けた。
「……!」
その場に膝を崩した。
「……なんだ」
伏せた瞼を触ってみるが、怪我をした様子はない。周りの気配を探ってみるが、祭りから離れ、誰もいない。だが、耳を傾けるために首を動かして、あることに気付いた。
「光……?」
瞼の向こうに、光の濃淡を感じる。恐る恐る目を開けた。
蜂蜜色の地面、木々が落とす葉の色を帯びた影。
懐かしい、館までの坂道だった。
「……どういうことだ」
館に入り、帰宅を知らせる声を掛けた。誰もいない。
屋内は、昔見た記憶と、目が見えなくなってから片付けた記憶が混じりあっていた。
食堂に来ると、机の上に手紙が置かれていた。見たことのない書き癖の文字。その文面を、読み進めていくのが恐ろしかった。
『貴方の目に魔力を送りました。勝手な行動をどうか許してください。リアン様なら払えると思いますが、できれば、そのまま受け取ってください。
私はこの国を出ていこうと思います。もう大丈夫です。私はもうこの願いを最後に、神子でも魔術師でも無くなりましたから。
いままで、本当にありがとうございました。何も言わない私を、お側にいさせてくれたこと、とても嬉しかったです。貴方のために働かせてもらうことが幸せでした。ずっとずっとお屋敷にいたかったけれど』
ペン先に力を入れたのだろう。インクが滲んでいる。
『貴方が、好きです。貴方と夜を過ごせたことは、私にとって神様がくれた贈り物でした。
ごめんなさい。このままこれからも貴方の側にいたら、私はあの夜に悩む。大事な思い出なのに、それが辛いです。本当の私は、貴方のただの召使いだから。
この手紙一つで、仕事を放り出してしまって申し訳ありません。上手く口で言えそうにありませんでしたし、貴方の姿を見たら、離れがたく縋りついてしまいそうだったんです。
さようなら。貴方にエミュスの神のご加護がありますように』
川の隣の土道を、流れの方向に歩く。チャムは用意していた鞄一つを背に抱えている。
やがて分かれ道となった。橋を渡るか、このまま川沿いに下るか。……どちらの道も惹かれないが、後ろは振り向けない。
「
――――」
後ろから聞き慣れた声が聞こえ、
「……!」
全身が熱くなった。馬の蹄の音が近づいてくる。焦って橋を渡ろうとするが、
「チャム!」
彼の腕に捕まえられ、馬上に引き上げられた。橋の中央で馬は止まり、チャムはアランの腕の中に収まった。
「アラン様……」
「こんな顔をしていたんだな」
アランとまっすぐ視線が合った。
「どうして……」
「手紙を読んで……、いや、それ以上に伝えなければいけないことがあるんだ。消えるのは、私の言葉を聞いてからにしてくれ。私を好きだと書いてくれた……」
見つめ合いながら、彼が微笑み掛けた。
「
――その返事を」
〈終〉