水辺に風が吹き 6
目覚めたのは、イグスの屋敷のいつもの部屋。
「どうしてこちらに……?」
ベッドの横に座り、イグスが手を握ってくれていた。
「……迷惑だったか」
イグスが顔をうつむけるのを見て、フウはぶんぶんと首を振って否定した。
「良かった」
イグスは頬を緩め、優しい手つきでフウの頬を撫でる。
「フウに手を掴まれて、離れがたかったんだ」
「――……」
体中が熱くなるとともに、思い出した。意識が朦朧としていたとはいえ、イグスをおじいさんに間違え、甘えるようなことをしてしまった。
手を引こうとすると、イグスが不安気に眉を寄せた。
「……やはり、まだ嫌か。その、ユイルを呼ぼうか」
「い、いえ」
嫌ではないと伝えたいのだが、
(そういえば、ユイルがいない……)
二人きりであることに気づくと、どうしてか、フウの体温はさらに上がる。
「それとも医者を呼んだ方がいいだろうか」
ふっと、横たわるフウの上に影が落ちる。
「随分と赤い」
イグスが身を乗りだし、フウの額に触れながら、目をじっと見つめて……。
呼吸困難でフウは意識を失い、再び意識を取り戻すまでの数十分、イグスを散々心配させた。
起きた時も、手にはイグスのぬくもりがあったが、今度は医師も同席していたため、どうにか冷静になれた。
「ずっと手を握っていたわけではないぞ」
イグスはそう言ったあと、医師を退席させた。
そしてローサ河で起きた事件――銃声が何だったのか、教えてくれた。
銃を撃ったのは、イブルタ商会の者だった。
タブランの経営する南ルオン商会と、王太子が親密になることを避けるために。
イグスに責任を取らせるために。
この大失態に王太子なら、イグスとタブランを罰する。
――そう、そうなるはずだ。
「焦っていたんだ。彼らは」
王太子が贔屓にするイブルタ商会は、影で王太子の名を騙り、数々の利益を得ていた。
イブルタ商会のやり口は巧妙で、手を出せないままイグスは王都を離れローシルクに赴任した。
イグスは少し言いにくそうにしてから、
「私が追っていた間者……、あれは他国の将が放っていたのだが」
フウが捕えられた原因の……。
「将と誰が連絡を取っているか分からなかったのが、今回分かった。相手はイブルタ商会だ」
イブルタ商会にとって、彼らの闇に手を伸ばしかけているイグスは、邪魔な存在だった。
それにタブラン――、業務内容の被る南ルオン商会に、王太子が過去に行なった取引内容を見られたら、不正を見破られる可能性が高い。しかもそこには、他国への武器の横流しも含まれていた。
イブルタ商会にとってタブランは、はたから見るよりずっと危険な存在だった。
ローシルクには、王太子、タブラン、そしてイグスが集まっている。
「そして、フウがいた」
「僕?」
「ああ、フウが捕まった日、間者の中に、どうしても顔を見られてはまずい奴がいたんだ」
顔……。
(暗かったし、何人いたかも覚えていない)
首を傾げるフウにイグスは、
「思い出さなくていい」
と言った。
「あの次の日、船頭が一人行方不明になっている。……奴らが岸を渡った後に殺したそうだ」
フウは息を飲んだ。それほど、見られてはまずい相手がいたのか。
「フウが捕まった騒動に間者たちは気づいた。フウが何を見たのか探ろうとしたが、監獄には私が出入りしているし、その後のフウの行先が分からなかったらしい」
事件の後イグスに動きがないため、何も見られていないと一時は判断した。
そのフウが、姿を現したのだ。
「私は王太子殿下はイブルタ商会の悪事……、少なくとも殿下の名を騙った商売については知っていると思っていたのだが、何も知らなかったことが分かった」
イグスの表情には、安堵が浮かんでいるように見えた。
「殿下に不審を抱かれる前に、私と殿下の接触を止めたかったイブルタ商会は、隠密行動に慣れている他国の密偵の協力を得る約束だった。だが、密偵たちは粛々と逃走準備を進めていた。イブルタ商会が彼らの逃走に気づいたのは、ローサ河の事件の一時間前を切っていた。焦ったイブルタ商会は、無茶な事件を慣れない手で行った――これが事件のあらましだ」
「…………」
フウは呆然と聞いていた。
「ああ、今聞いたことは忘れてしまっていい。言いたかったのは、事件の犯人も目的もはっきりしたから、フウは安心して良いということだ。フウが見てしまったかもしれない相手も、もう間者の口から聞きだして、国王陛下にお伝えしてある。フウを狙う理由はなくなった」
「王子様は……」
「怪我はない。だがしばらくは、イブルタ商会を好きにさせていることに気づかなかった咎によって謹慎になる。そして、その後は……」
イグスは口をつぐんだ。
「彼らを止められなかったのは私も同じ。たまたま解決したようなものだ」
暗い顔に、フウは首を傾げた。
「……けど、イグス様が調べて、間者を追い詰めていたから、相手も焦ったのでしょう。何か、王様から怒られるのですか?」
心配げなフウを見て、イグスの表情はさらに曇る。
「またフウをひどい目に合わせてしまった」
また……。一度目を思い出し、フウの体が、ぴくりと固まった。
(…………)
けれど、もう震えるほどではない。
「イグス様のせいではありません」
「しかし……」
「ほら」
フウはイグスの片方の手を、両手で包み込む。
「僕、もうイグス様が怖くありません」
フウよりずっと大きい手。だが、その手は力なく震えている。
「溺れた僕を、助けてくれてありがとうございます」
微笑むと、彼は、
「無事で、良かった……」
フウの手を引き、己の額に触れさせた。
伏せたその表情はよく分からないが、触れたイグスの体温は温かい。
祈りを捧げるような格好のイグスを、フウは静かに、穏やかな心地で見つめていた。
イグスの屋敷は街の一等地だ。
閑静な朝に響くのは、鳥の鳴き声と、主人を待つ馬車が表に止まる音。
寝過ごしかけていたフウは、急いで階段を降りた。
高鳴る心臓の音は、廊下を駆けたせいか。
「いってらっしゃいませ、イグス様」
主人を送り出す使用人の中に混じり、イグスに声を掛ける。
ばっとイグスが振り返り、フウをまじまじと見つめる。
(あれ、何か変だったかな)
イグスの視線に焦る。
(この家の人じゃないもんね……。イグス様と、朝も会いたかったから、つい)
フウの心配を余所に、イグスは頬を緩めた。優しい笑顔が、フウの鼓動を跳ねさせる。
しばらく見つめあった後、
「行ってくる」
背を向けるイグスは名残惜しそうだ。
玄関の向こうに彼が消えると、フウはやっと息をついた。
周りの使用人も何人か、うっとりと溜息をついている。
ひとつ、呆れたような溜息が聞こえた。
はっと気を取り戻し、周りの使用人がそれぞれの仕事に戻っていく。
「ユイル」
「フウはお客様なんだから、決まりきった挨拶以外にも声をかけていいのに」
「そんな、言葉なんて出てこないよ」
あれだけで、こんなに頬が熱くなるのに。
「さて……、今日は早いけど何する? どこか出掛けるなら、まだ仕事片してないから、少し待っていてほしいんだけど」
「あのね、今日は一人で出掛けたいんだ」
ユイルは訝しげに口を尖らせる。
「駄目かな」
「んー、フウ自身の表情はすっかり明るくなったから行かせたいんだけど。イグス様にとってフウが何なのか、勘づいた人間がいないともかぎらないし……」
イグス様にとって?
(例の事件で怪我をさせた客人だよね。まだ何か解決していないのかな)
二人で話していたところに、外まで主人を見送ってきた執事が戻ってきた。
「フウ様に、お客様がいらしております」
玄関から入ってきたのは、タブランだった。
「タブランさん! ちょうどお会いしたいと思っていたんです」
「おお、なんと。水上の精霊と両想いとは光栄です」
軽口を言うタブランに、フウはくすくす笑ったが、ユイルは冷たい声で、
「イグス様が聞いたらなんと思うか」
「ユイル君! どうか、どうか内密に」
タブランを翻弄し、口止めに高級レストランに連れていってもらう約束を取りつけていた。
執事が応接間を開けてくれ、タブランを通す。
ユイルが入れたお茶を、べた褒めするタブランに、フウは気合いを入れて話を切りだす。
「あの、舟の仕事をいただけませんか!」
そういうと、タブランは目を丸くして、喜色を浮かべた。
「話の中身も一緒とは。私もお願いしにきたんですよ」
タブラン率いる南ルオン商会は、本格的にローシルクに根を下ろすそうだ。
だが、王都に止まらず各地で失脚したイブルタ商会のパイを奪うために、タブランは東奔西走しなければならない。
急ぎローシルクの人員を確保したいタブランにとって、腕と人柄を知っているフウはすぐにリストに挙がった。
「そんなにお忙しいんですね。あ、でも僕舟が壊れていて、すぐにお力には……」
「あるよ、舟」
ユイルの言葉にフウは驚く。
「ちょうど昨日、完成したって連絡がきた。見にいく?」
家のように、イグスが手を回してくれたのだろう。
「行く」
フウは、素直に頷いた。
タブランは本当に時間がないようで、ローサ河に向かう馬車の中で、フウとの契約は行われた。ユイルがタブランの隣に座り、フウに有利なように条件を釣り上げる。美少年に顔を近づけられ、たじたじのタブランをかばおうとするが、フウではあわあわと二人のやりとりを見ているしかなかった。
ローサ河に着くと、タブランはフウをローサ河担当の商会の商人に紹介し、すぐに他の仕事に向かった。……ユイルから逃げたようにも見えたが、きっと気のせいだろう。
商会を出て、ユイルと二人、岸に向かう。
所々に今まで見なかった武装した人を見掛ける。商会で説明があった、自治警備らしい。船賃の揉め事にも対処してくれるそうだ。
「これだよ」
ユイルが指した舟は、真新しい小ぶりのものだった。フウがいままで使っていたものと同じくらいの大きさだ。
「綺麗だね。あれ……」
一部分、使い古されたような木材がはまっている。
「あ……」
”一人前おめでとう”
おじいさんが刻んでくれた、フウへの言葉だ。
フウがそこを手でなぞるのを見てユイルは、
「イグス様が、残骸の中から見つけたんだよ」
そう教えてくれた。
(僕の舟……)
イグスのくれた舟が、フウの中にぴったり収まるのを感じた。
「どうする? もう仕事始められるけど」
契約したと云っても、商会の紹介の客がいないうちは自由だ。
フウは少し考えてから、
「今日は腕慣らしだけにする。しばらくやるから、ユイルは帰ってて」
「僕も付きあうよ?」
ユイルはそう口にしたが、フウの複雑そうな表情に、
「あ、やっぱり用ができた」
そう言って去っていった。
フウはほっとして、
「よし」
舟に足を乗せた。
(勘が戻ってきた)
岸に戻り、お昼を買って、また舟に乗りこもうとした時、
「あ!」
イグスが岸に立っていた。辺りを見回して、舟を探しているように見える。
「イグス様!」
フウに気づくと、イグスは微笑んで、
「フウ、いた……」
そう呟いた。彼に駈け寄って、興奮のまま、その手を取った。
「イグス様、対岸へお越しですか? 僕の舟に乗ってください!」
掴んだ手にぎゅっと力が入ってしまう。緊張しながら、イグスの言葉を待った。
「……私で良ければ」
「……――!」
すごく嬉しくて、
「こっちです!」
彼の腕に、腕を絡めて引っ張る。
イグスは文句も言わずついてきてくれた。
舟に彼を乗せたところで失礼に気づき、
「すみません……」
と謝る。
「そんなに喜んでくれるなんて」
「はい! イグス様に一番に乗ってもらいたくって。帰ったらどう誘おうと思っていたんです。嬉しい……」
イグスは目を見開いた。
「――舟に、喜んでいるのではないのか」
「舟もありがとうございます。これ、とても嬉しいです」
一部分だけ古い木材に触れる。
「では、出しますね。対岸のどこの通りがよろしいですか」
櫂を持ったフウの手に、今度はイグスが手を重ねる。
「対岸ではなくどこか……、舟の上で時間を過ごしたい」
首を傾げるフウの頬を、イグスの手が包む。
「フウが河に戻ったと聞いて、会いにきたんだ」
教えたのはユイルだろうか。舟の練習に付きあってくれるという彼の言葉に頷けなかったことを反省した。だって、あの時イグスの顔が頭に浮かんでしまったのだ。
「ご心配をお掛けして……」
「違う」
イグスは首を振る。
「会いたかったんだ。新しい生活に向かうフウの中から、私が消えないように」
「新品の舟です。一番乗りです」
無邪気なフウの言葉に、イグスは優しげに見つめた。
「ああ」
「イグス様が僕の一番だって、絶対忘れません」
「……ああ」
その言葉には少し顔を赤らめて、顔を逸らした。
小さな舟が、大河に一筋軌跡を作る。
フウはご機嫌で、お気に入りの場所をイグスに教えていき、イグスはひとつひとつに喜んでくれた。
「綺麗な河だな。君がここを好きになる気持ちも分かる」
「河ってどこも綺麗なんじゃないんですか」
きょとんとした様子に、イグスは目を瞬かせた。
「そうか、はは。君は水のことなら何でも知っていると思っていた」
声をあげて笑うイグスに、
「なんだかイグス様と、友達になったみたいです」
フウがつい呟いた。
「……友達」
イグスが微妙な表情をし、フウは焦った。
「ごめんなさい。馴れ馴れしかったですか」
「いや、いいのだが……。その、ユイルにも頬を撫でさせたりしているのか」
「ユイルはそんなにスキンシップの多い方ではないですよ」
あ、でも今日はタブランさんにいっぱい触っていた。……僕の方が少し付き合いが長いのに悔しい、かも。
フウが眉を寄せていると、その眉間にイグスが触れた。
「友達としても、私が一番か?」
(友達……)
イグス様が一番。それは違和感がないのに、友達として一番、というのは何か違う気がする。
悩むフウに、イグスは少し残念そうにして、
「とりあえずはそこを目指すか」
とフウの頭を撫でた。
「フウが元気になって、笑顔で話してくれるだけで、私には奇跡のようなものだから」
(……うん)
悲しい気持ちは、ほとんど薄れ、今は今のイグス様でいっぱいだ。
舟はちょうど、フウの一番のお気に入りの場所に入った。
少しだけ浅瀬になっていて、流れが緩む。透明度を増した水は、最上の青を放っている。
「ここにいると、きらきらしたことばかり思い出すんです」
「本当に、美しい」
「はい、ここに戻れて良かった」
暗い牢獄での記憶もいつか……いつかきっと薄れ……。
(……あれ)
辛そうなイグスの顔と、吐きだした一言を思い出した。
「あのとき、イグス様”ひとめぼれ”って……」
フウが呟くと、イグスは固まった。
沈黙の時間が続いた後、
「……どうして今、思い出すんだ」
本当に困った様子で、イグスは唸るように言った。
水面は青くきらきら反射する。
その光で隠せないくらい、フウとイグスは真っ赤になった。
〈終〉