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 黒霧の聖者 1






 緩やかな丘陵に並ぶ果樹は実りをつけ、広大な湖は空の色を太陽の光と共に映し出していた。
 湖に面して神殿が建てられている。ラドニール教王領の中心に位置する神殿だ。今年の実りは豊かで、巡礼街は奉納に来た人々で賑わっていた。
「父上ー、ユロンー、どこー」
 人波の中で背の低い少年が辺りを見回している。少年の名はイジャティカ。父親と使用人の姿を見失い一人になってしまったのだ。
「どこではぐれたんだっけ」
 思い出せない。目抜き通りを歩いていたところ、馬の何倍もの大きさの動物が引かれているのを見た。初めて見る動物に夢中になって追いかけて、いつのまにかここにいた。
 イジャティカは涙が溢れそうになるのをこらえて、神殿に向かうことにした。巡礼に来た父は必ずそこに向かうはずだ。

 ラドニール教王領は聖域として近隣諸国から独立している。領土が狭い上にほとんど湖と山だが各国に信者や寺が存在しているため収益は多い。イジャティカの父など隣国の貴族も折々この神殿を訪れる。特に今年は教王が代替わりしたために、遠地からの参拝も続々とあった。
 教王はラドニールの代表であるが神聖さを尊ぶために余人には決して顔を見せず常にベールを被っている。次期教王は当時の教王に生まれる月と地域を預言されて、僧侶達が預言に当てはまる妊婦を探す。その子は生まれてすぐ教団によってベールが掛けられるため、母親さえその顔を見ることが無い。
 現在の教王は幼年らしく、補佐役である大教主が一切を取り仕切っている。今年は着任をアピールするために外に出向くことが多いため、信者がその姿を見る機会も多いが、来年からは教王への教育が終了するまで目通りしにくくなる。自然とラドニールに人が溢れた。

 神殿には着いたが、どうやらここは正門ではなく通用門のようだ。塀の外から神殿の側面を見上げる。閉鎖された扉の周りには誰もおらず、取っ手には埃が被っていた。周囲の道は行き止まりばかりで、正面に回る道はないようだ。少年は引き返してまた迷うのが恐く、門の側にあったリンゴの木に登って塀に飛び移り中に入ってしまった。
 塀の中は静かな庭で、噴水の音だけが聞こえた。塀の内側に沿って歩けば正門に出られそうだ。少年はそちらに走っていこうとした。
 だがそのとき、自分の他にもう一人、少年がいることに気づいた。
 その子は日向の芝の上に座っていて、少年が急に現れて驚いている。横に本が落ちていた。白いローブをまとっていて神殿の者のようだった。
「わあ」
 イジャティカは頬を染めた。赤茶色の目をいっぱいに開いてこちらを見ている少年は、まるで絵本に出てくる妖精のように、
「かわいい……」
 ぽーっと見惚れていたが、すぐに少年が怯えていることに気付いた。
「ごめん。道に迷っただけなんだ。勝手に入ったこと、おねがい、誰にも言わないで」
「……あくま…?」
「悪魔、なんで。人間だよ」
 イジャティカは震える少年をなだめようと近づいた。
「こないで!」
 少年は泣き声混じりに叫んだ。
 その時、ピキッとイジャティカは右腕に痛みを覚えた。
 見ると数本の指の爪が割れてしまっている。
「何……」
 イジャティカが不気味に思った瞬間、指先が変色しだした。暗紫色に染まっては腐っていくのだ。
「嫌だ! 何。父上―!」
 イジャティカは恐怖で声をあげて泣きだした。イジャティカの様子を見て、少年は今度はオロオロし始めた。その間にも腕の壊疽は進んでいく。
「止まって! お願い。違うの」
 少年はイジャティカの腕を掴んで叫んだが、不気味な呪詛には何の効果もない。
 少年は庭の隅にある小屋に走った。立て付けの悪い扉を体当たりして開いて、斧を引きずり出してきた。
「止まって!」
 少年はよろけながら斧をかつぐとイジャティカの腕に振り下ろした。腕は陽光にきらめく草の上に血をまき散らしながら転がった。そして全体が黒ずみ崩れていった。
 少年はイジャティカの斬った肩まで壊疽しないかじっと見ていた。呪詛は断ち切れたらしく変色は無い。だが出血がひどかった。少年のローブを切り裂き縛って血を止めようとしても、子供の力ではどうしようもない。イジャティカが勝手に入ってきたことを大人に知らせていいものか迷いもしたが、少年は血を浴びてボロボロになったローブの裾を蹴りながら神殿に走った。
 途中、神殿の入口の欄干に白いベールを掛けてあったことを思い出し、それを取って被った。
 イジャティカは朦朧とした意識でその後ろ姿を見ていた。


 右手は失ったが、イジャティカの命は助かった。
 あの後すぐに神殿の僧が駆けつけ、僧が得意とするところの治療を行った。イジャティカの父は神殿に着いていたらしく、イジャティカが意識を取り戻した時には手を握っていた。少年の姿はなかった。
 イジャティカは腕を失って泣いた。父は泣き止むよう諭す。
「イジャティカ。お前がお会いした方はね、ラドニールの教王様なんだよ。誰も来ないはずの庭でベールを外していて、その姿を見てしまったお前を彼の神聖さを奪いにきた悪魔だと勘違いしてしまったんだ」
 泣き声が石造りの部屋に響いて、父の言葉は耳に入らない。
「今の教王様は特別お力が強い。あの力は彼が神に近いという証拠だ。お前が一度その矛先を向けられてなお生きているのは、彼が必死でお前を助けようとしてくださったからなんだよ」
 イジャティカの泣き声でその言葉は掻き消えた。父は拳を握った。教王を崇敬していてもやはり、一人息子の腕を失った哀しみが込み上げてくる。
「イジャティカ……、教王様のお顔を見たことと、何故腕を失ったのか。そのことは誰にも話してはいけないよ。教王様の御慈悲でお前が神殿奥に忍び込んだことは教団も伏せてくださる。もし話したら―、お前はラドニールの反逆者になるのだからね……」


「将軍の片腕にはそんな逸話があったのですね」
 野営のテントの中でランプの灯越しにイジャティカは部下と昔話をしていた。
「よろしいのですか。話してしまって」
「この状況で反逆者も何もないだろう」
 野営の地はラドニール神殿をすぐそこに臨んでいた。
 ラドニール教団と、イジャティカの母国ボンは現在交戦中である。

 戦争の発端はボン領内の町が税金の滞納をした上で蜂起したこと、それを教団が横から庇い立てしたことだ。
 町の支配権が国にあるのか教団にあるのか。この機会にボン政府は町からラドニール教を追い払おうとした。結果、正面切っての武力衝突となり、それは国中に広がった。
 戦力ではボンが圧倒していた。国内にはラドニール教徒が多数いるため、彼らが裏切る前に教団の指導者を素早く抑えなくてはいけなかった。作戦はうまくいった。そしてついにラドニール教王領に侵入した。
 だがボン軍の優勢は止まる。
 指揮官が次々に謎の奇病を発症して死んでいったのだ。それは突然体が暗紫色に染まって腐るように崩れ落ちていくというものだった。イジャティカにはこの奇病に覚えがあった。ラドニール指導層の者が言うにはこれが教王の力らしい。
「人を呪い殺すなんて人間ができるはずがないと思っていましたけど、将軍の話を聞くと本当みたいですね」
 部下のマトリは沈痛な顔をした。次々と上官が殺され、現在この軍の最高指揮官はイジャティカだ。今度の標的は彼になるに違いない。
 イジャティカは兵に人気のある将軍だった。作戦は的確で速攻を得意とし、片腕のため剣を取っての戦闘は得意でないにも関わらず、安全な後方で指示を出すようなことはしない。
「呪いがあるからといって引くわけにはいかない。……次の戦いで俺が殺される可能性は高い。マトリ、そうなったら私の死を隠し、司令官が生きているように見せて戦闘を続けるんだ。ラドニール教王を倒すまで、決して攻撃を止めるな」
「そんな……!」
「そうでもしなければ奴は倒せない!」
 イジャティカは拳を震わした。
「そうまでして教王を」
「俺の人生を狂わせた男だ。何としてでも、俺が、殺してやる……」

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「教王。間者の情報では今度の総指揮官はあのテントにいるようです」
 ラドニール神殿の塔に、ボン軍を見下ろす数人の人影があった。白いローブを着た高位の聖職者で、その内一人は顔にベールをかけている。教王だった。
 ベールで分からないが浮かない顔だった。
「そうか。名前は」
 せめて死後の祝福を与えるために名を聞いた。
 聞かなければよかった。
「イジャティカと呼ばれる義手の将軍です」

 イジャティカはテントの外で夜の空を見上げた。月が細い頃で雲もなく、星がよく見えた。だが死が迫っている今では美しさを感じる心は鈍く、空しい広さだけを感じた。総大将が不用心だとも思ったが、一人で陣内を通り過ぎて、少し離れた丘の上に立った。神殿の高い塔が見える。憎き教王はあそこにいるのだろうか。
 その時、カタッと後ろで物音が聞こえた。
「誰かいるのか」
 気配は感じるが返事がない。イジャティカは剣の柄に手をかけた。クシャッと地面の草を踏む音がした。木の陰から白い服を着た人間が恐る恐る出てきた。
「!」
 綺麗な顔をした青年だった。イジャティカには一瞬、絵物語に出てくる女神に見えた。それほど清い雰囲気に包まれている。
「貴方は……?」
 イジャティカは彼に引き寄せられるようにして近づいた。ゆっくりとその手を取り、彼の赤茶色の目を覗き込んだ。
「私は……、メイスといいます」
 メイスは本名を答えた。どうせこの名前は教団の上層部の中でも限られた者しかしらない。
「そのローブを纏っているということは教団の者だな」
 イジャティカは尋問しなければならないのに、強い口調で言えなかった。
 自分に少年愛の気があるのは薄々承知していたが、目の前の青年は、少年という程若くはないにせよ、まさにイジャティカの理想を体現していた。優しい顔立ちと頼りない背丈。それでありながら赤茶色のぱっちりとした目はつり上がっていて、気が強そうだ。清らかさと威厳を併せ持った雰囲気は、支配欲を駆りたてる。
(花を手折るが如く、優しく手に入れてしまいたい)
 そんなことを考えられているとは知らず、メイスはイジャティカの右腕に触れた。その手は鉄で出来ている。
(イジャティカ……、彼だ)
 二十年近くも前のことだが忘れない。自分が右腕を奪った少年だ。こんなに逞しく成長しても失ったものは戻らない。
 メイスはあれから何度もあの時のことを夢で思い出した。あの時イジャティカにメイスに対する害意は無かった。だがラドニールの掟の中で生きてきた少年のメイスには、ベールの下の顔を見られたことが恐ろしくてたまらなかった。
 未だにその顔を見たことがあるのはイジャティカだけで、自分のことを鏡で覗くことさえしたことがない。そのためメイスは自分がどんな顔か知らなかった。イジャティカはあの時少年のメイスを見て、
『かわいい』
 と小さく言った。あの言葉が深く心に残っていた。

「教団の者か」
 もう一度イジャティカは訊いた。彼はメイスの顔を覚えていないようだ。ラドニール教王に何をされたかは決して忘れることはできないだろうが、顔まで具体的に覚えているのには、お互い子供だったし、二十年の歳月は長過ぎた。
「……そうです」
 メイスはスッと顔を上げてイジャティカの目を見た。ここはボン軍の陣地。敵であるラドニール教団の者が忍び込んでいれば、捕われて斬られたり拷問にかけられても仕方ない。だがメイスは(それでもいい)と思っていた。このまま神殿に逃げ帰っても、メイスにはもう教団の為にイジャティカを呪い殺すことはできない。ならばここで、イジャティカ自身に二十年前の罰を与えてもらおう。メイスは目を瞑った。

 イジャティカは戸惑った。メイスは剣に手をかけているイジャティカを前に逃げるそぶりも見せない。
「本当にラドニールの者なのか」
「? そうです」
 イジャティカが何故何度も確認してくるのか疑問に思い、メイスは目を開けた。イジャティカはメイスの綺麗な目を見つめた。
「あんたがラドニールなんかの手先とは信じられない……。彼らにいいように騙されているんじゃないか。ラドニール教なんか信じるのはやめろ。あいつらは人殺しの集団なんだぞ」
 人殺し、の言葉にメイスの胸は痛んだ。確かにここ最近のメイスの力は、神に祈りを捧げることよりも、人を呪い殺すことに費やされていた。
 メイスが戸惑ったのを見て、イジャティカはさらに説得を重ねた。
「あんたもこの戦争でラドニールの残虐さを少しは知っただろう。卑怯な奴らだ。呪いの力で人間を恐怖に陥れて逆らえないようにする」
 メイスは耳を塞ぎたかった。そのラドニールのトップに君臨しているのが自分なのだ。
「ボン国に亡命するといい。私が君の身を保証する。こちらにおいで」
 イジャティカはメイスの腰に手を添えて引き寄せた。
「すみません!」
 メイスはその手を突き飛ばした。そのまま振り返って走り去っていく。
「メイス!」
 追いかけたが宵闇の中で見失ってしまった。

 走ってきたメイスは息を弾ませていた。
「何処に行っていらしたのですか、教王!」
 街の通りに入ってすぐに教王を探していた僧に発見される。ベールで教王の顔は見えないが、民家の壁にもたれ掛かっている様子を見て疲れていることに気がつく。僧は顔を青ざめて心配した。
「祈祷に集中するために、少し森の綺麗な空気を吸いたかったんだ。許せ」
「それでもお一人で行動なさるなんて! そんなに息を切らして、まさかボン兵に見つかって追われたのでは……」
「無事に帰ってきたんだ。それで良かろう」
 教王はそう突き放して言うと、用意された馬車に乗った。白い天蓋の付いた馬車で外から教王の様子は見えない。僧は不満な顔のままその後ろについて歩いた。
 教王は咽び泣く音を噛み殺していた。
(イジャティカ……、彼を殺すことなどできない! だがラドニールは私がいたが為に―私の術が忌まわしい呪いの力を強く持っていたがゆえに、呪いによる支配などを始めてしまったのだ。私のせいだ。私には捨てられぬ。……どうすれば!)


 夜が明けた。
 すでにボン軍の全兵力は、ラドニール神殿と湖を囲む広大な平野に布陣していた。戦の作戦は伝わっていて、総大将の言葉を待っている。イジャティカは馬上にあった。見下ろす湖は雲間から覗く朝日に輝いている。
(メイス……。貴方を殺したくはない。だが神殿に戻ったあんたに配慮はできない)
 昨夜あった理想の青年を思い出していた。
(惜しくはあるが……、私は教王を、そしてラドニールを滅亡させる。その為には何者の邪魔立ても許さない)
「全軍進め! 人を惑わす妖怪共に、力の裁きをくれてやれ!」
 何千何万という歩兵と騎馬が進み、地が揺れた。

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「呪詛をッ……、早く敵の総大将を殺してくだされ!」
 地を埋め尽くすボン軍の布陣を見たラドニール側は動揺していた。僧達は、神殿の中央、円形祈祷場に集まっていた。非常に装飾的な屋根の形と窓の配置をした建物で、天井から降りてくる光が場に神聖さを与える。
 騒然とした僧達の中、教王は一段高い場所にいた。顔を覆う白いベールが僧達の声に揺れているが、教王は口を閉じたままだった。
「教王!」
「私は―」
 教王は口を開いた。
「私は呪詛を使わない。力を封印することに決めた」
「何を……!」
「黙れ。教王が話しているのだ」
 言葉を遮った僧はビクッと竦んだ。いつもの教王の澄んだ声に、ドスがきいていた。
「ラドニールの子らよ。私が教王になって二十年、我らは何をしていた。祈りは途絶え、呪詛だけが横行している。私はラドニールのためになると思い、お前達の言う『人々に害を為す者』を始末してきたが、私の力の下、傲慢になったお前達は罪無き者を幾人も犠牲にしてきた」
 心当たりのある僧が顔を見合わせて苦い顔をする。
「私とてそれにいつまでも気がつかなかった訳ではない。だがお前達を傲慢にしてしまったのは私のせいだ。何も言えなかった。だが此度のボンとの戦で、ラドニールに怒れる人々の感情は極まったとみる。呪いでは感情まで消し去ることはできない。
 ラドニールの子らよ。教えはすでに死んだも同然だ。もうこれ以上、ラドニールに泥を塗るのはやめよう。……この教団は無くなるべきなんだ」
 ドオオォォと地鳴りがした。ボン軍の進撃が始まる。
「教王! 呪詛を!」
「教王!!」
 僧達は口々に言う。
「逃げなさい」
 教王はもう諦めたという声でそう言った。
「教王!」
 それでも僧達は食い下がる。ここから無事に逃げる方法などない。ボン軍の足音が僧達に判断力を奪うほどの恐怖を与える。教王はいますぐ逃げれば助かると思っていた。だから僧達の決断の鈍さに苛立つ。
「死にたければ残りなさい。だが私はお前らの為に力は使わない。死にたい奴はここに残って勝手に軍兵に殺されろ」
 負のオーラを纏った教王の言葉に、僧達は凍り付いた。
「……生きたい奴は逃げなさい」
 僧達はポツポツと動き出した。そしてだんだんと皆走り去る。
 最後に教王一人残った。

 教王はその場に立て膝を付いて、手を合わせ指を組んだ。目を閉じて、最後の力を使う。
 意識の中で、教団員達が逃げ惑っている姿が映し出された。
 街を跋扈する軍兵。彼らの剣が教団員に振り下ろされそうになった。
「! な、何だ!」
 兵と教団員の間に、地面から黒い霧が沸きあがった。霧はボン側とラドニール側を分けるように広がる。霧に触れた石畳の間の草木が黒く変色して崩れ落ちた。
「の、呪いだ……」
 ボン兵は恐れおののいて近づけない。教団員にはすぐに教王の力だと分かった。黒い霧が道を塞いでいるうちに逃げていく。
 街中の至る所で黒い霧が溢れている。黒い霧はボン兵に襲いかかることはしないが、動きを止めることには成功していた。教団員にとっては盾となり、時にははぐれた者を味方の集団の所へ誘導するように動いた。
 何万という兵が動いたにも関わらず、死者は無し。混乱で怪我人が数百名出たに抑えられた。


「くっ……!」
 教団員全員がボン軍の囲みを抜け出したのを感じた教王は力の放出を止めた。さすがにこれだけ大掛かりなことをすると体に負担がかかる。教王は息を整えた。
 教王は祈祷場から動こうとしなかった。そのうちボン軍が来て捕まえられて殺されるだろう。教王はそれを望んでいた。
 神聖さの象徴である白いベールも外した。

 一人で待っている間、様々なことが思い出された。
 自分の力。
 教王はこれまでの代々の教王よりもずば抜けた力を持っていた。いままでの教王は可視の力を持たなかったが、教王の力は誰の目にも明らかに、それも簡単に人の命を奪っていく。自分の力が他の人間とは明らかに“違うもの”だと気づくのに時間はかからなかった。
 十歳の頃、教王は神殿を抜け出して、魔族が住むと云われる天険に向かった。そこで会ったのは老人の姿をした物知りな魔族だった。彼が言うには天険までの道には人間には抜けられない魔術が掛かっていて、そこを通ったならば命を落とすはずだった。
「あの道を抜けてきたのならば、お前は間違いなく魔族か、魔族の契約者だよ」
 物知りな魔族は薄笑いを浮かべながら教えてくれた。
「お前はラドニールの頭なんだろ。人間の女の腹ん中に宿っている時から、前の教王に指名されるんだってね。一人の魔族がその変な風習に興味を持ってね、悪戯してやったんだ。腹ん中のまだ口も訊けない命と契約を交わしたんだよ。そんでそいつは魔族並みに強い力を持つようになったのさ」
 幼い教王はショックを受けた。
(自分の力は、魔族の力……)
 ラドニールに帰ると心配していた僧達が涙を流して迎えてくれた。
(この人達とは、違う力……)
 教王はそれから必死で教団に尽くした。心の隙間を埋めるように。


 軍靴の足音が近づいてきた。
(時間か)
 教王はその方向を見た。一人分の影が薄暗い廊下からこちらに向かってくる。
「!」
―メイス……!」
「イジャティカ―、さん……」
 誰もいない神殿にいたメイスに、イジャティカは驚いた。メイスは顔を背ける。名も無い兵が来て、一刀で切り捨てられればいいと思っていたが、そう旨くはいかないようだ。
(覚悟は、できている)
 メイスは目を瞑って、拳を握った。イジャティカの手がメイスの肩にかかる。
「メイス! 逃げろ」
「え」
「何であんただけここにいるのかは知らないが……、他の奴らに置いていかれたのか? 今ボン軍の兵は誰か教団員が残っていないか躍起になって探している。見つかったらあんたみたいな下っ端でも酷い拷問にかけられるぞ」
「違います! 私は教―」
 教王、と言おうとして言葉に詰まった。“教王”はイジャティカに憎まれている。彼が気づいていないのに、教えたくなかった。
―……!」
「俺が匿ってやる。どこか隠れていられそうな場所は無いか」
 断ろうと思うが上手く言葉が紡げない。
(私は、生きていてはいけない存在……!)
 だがメイスは己の意志とは反して隠し部屋のありかをイジャティカに教えていた。
「よし、ここならまず見つからなそうだ。俺が戻ってくるまでここに隠れていろ。俺はやらなくちゃならないことがあるから、今は側にいてやれないが」
 イジャティカに背を押されてメイスは隠し部屋に入った。
「やらなくては、いけないこと……?」
「教王を見つけだして殺すことだ」
 そう言ってイジャティカは隠し部屋の扉を外から閉めた。
 室内は暗闇に閉ざされた。


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