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 黒霧の聖者 2






 神殿はボン軍が完全に占領した。
 イジャティカは神殿内をくまなく探索して回っていた。そのイジャティカを探しまわっていた直属の部下達が塔の上で彼に追いついた。ぜえぜえと息を切らして、
「将軍……! 生きて、らして…本当に良かった……!」
 とマトリは節くれ立った手で涙を拭きつつ、イジャティカの無事を喜んだ。だがイジャティカは浮かない顔をしていた。
 教王を見つけ出すことはできなかった。すでに何処かに逃げてしまっていたんだろう。それに加え、イジャティカがあの隠し部屋に戻ってきた時、メイスは中にいなかった。隠し部屋の奥に隠し通路があって、その扉がごく最近開かれた跡があった。メイスはここからいなくなったのだろうか。ボン軍が血眼になって探してどうにか捕まえた数人の教団員の中にメイスはいなかった。
「教王は捕まえられなかったそうですね。ですが命があった分いいではないですか。あの街中に溢れた黒い霧の力があれば、ボン軍の兵力が何万あろうと全滅させられていたかもしれません。何故教王はあの霧をいままで使わなかったのか不思議なくらいです」
「そんなことはどうでもいい。私は命を引き換えにでも教王を殺してやりたかった。神殿奥まで必死に探したというのに、奴を逃してしまった」
「将軍が馬を駆けてお一人で神殿に向かった時は、私共の心臓は縮みあがりました。二度とあんな危険な真似なさらないでください。命さえあれば、また教王を狙うことが出来る時がくるかもしれないのですから」
 マトリが言い終わらないうちに、イジャティカは踵を返して塔の窓に近づき、眼下の街や湖を見た。どこかに教王が隠れているのかと思うと、この美しい景色が憎くてたまらない。
 いつものイジャティカと違う様子に部下達は戸惑ったが、彼の安全が確認されたためとりあえずはいいと、その場から離れて遠巻きに彼を見守った。


 メイスは隠し通路の先、湖の縁にある森の中を歩いていた。教王の豪奢な靴はでこぼこ道を歩くのに適していなかったため、土の上を裸足で歩いた。振り返って神殿にそびえ立つ塔を見た。
(あそこから人々を見下ろし、私は呪詛を行ってきた……)
 そこからゆっくりとボンの軍旗が掲げられるのを見て、また森の中に視線を戻し、奥へと歩いていった。


 それから、ラドニール神殿は徹底的に破壊された。教王領の重要な役所なども破壊される。丘の地形を活かして造られていた美しい街は荒廃し、戦争から避難していた町の住人達も、戻ってくることはなかった。
 ボン軍が引き揚げた後、メイスは神殿跡にこっそりと戻ってきた。白い装飾柱が並ぶ荘厳な姿は見る影も無く、割れた白い石がゴロゴロと転がっていた。その様子を死人のように感情の無い目で、メイスは見つめていた。
 ぼうっとしながら歩き回っていると、足下に黒ずんだ白い棒切れのようなものを見つけた。人の焼かれた骨だった。
(やはり何人か逃げ切れなかった教団員がいたか)
 おそらくこれは彼らが拷問の果てに殺された後、焼き捨てられたものだ。メイスは膝の力が抜けてその場に崩れ落ちた。
 しばらく項垂れていたが、のそっと立ち上がり、神殿跡の裏手に向かった。この丘から湖に降りる階段がある。
 メイスは湖の側で咲く色とりどりの花を摘んだ。そして神殿に戻り、花と白い石をてこを使ってどうにか動かして、墓所を整えた。壮麗な装飾は施しようも無いが、日差しを受けた神殿跡の丘の美しさがその不利な条件を払拭して、美しい墓所にしあがった。ラドニールの総本山に選ばれただけはある丘だ。
 湖から吹きあがってくる風に、花びらが舞った。

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 イジャティカはたまの休暇がとれると、ボン国の首都から元ラドニール教王領に馬を駆って一人、訪れた。教王を探しているのだ。ボン軍も、イジャティカの配下も捜索に当たっていたが、イジャティカ自身も首都でおとなしく待っていられずに動き回っていた。
 拷問で得た情報によると、教王は味方のラドニール僧達を見捨て、現在一人で行動しているはずだということだった。教王が一人である好機を逃したくない。もちろん教王はあの悪魔の力を持っているため大して味方など必要ないだろうが、一人ならば得られる情報などの制限が有り、つけいる隙があるはずだ。
 この日イジャティカはあまりあてもなく来たため、まずは神殿跡の高台に登ってラドニールを一望して捜索する場所を決めようと思っていた。
 正門への大通りは上り坂で、イジャティカはその道を馬で走る。賑やかだった街はゴーストタウンと化していた。戦いの血の跡は砂埃と雨で消えていた。呪いで黒く枯れ落ちた草木の灰も、風で何処かに飛ばされて、廃墟となったラドニールの街だが、静かで清らかだった。

 丘の上に着いた。この頃の日差しの暖かさで、崩壊した神殿の床から覗いた土の上に、草の芽が生えていた。白い廃墟が緑に染まりだしている。高台に登ろうとした時、神殿の端に色が溢れている場所を見つけた。
「花……? こんな場所に」
 ボン軍の占領で踏み荒らされなかったのだろうか。イジャティカが近づいていくと、白く動くものが見えた。ローブを着た人間だ。
(! まさか教王!?)
 イジャティカは足音をひそめて走り寄った。白いローブの者はこちらには気づかずに、花の上にしゃがんで何か手を動かしていた。イジャティカは花の溢れかえる地に足を踏み込む。
「あっ、貴方は!」
 メイスは振り返った。そこにイジャティカは飛ぶように走ってきて抱きついた。
「わっ」
 二人は地面に倒れこみ、花びらが宙に飛んだ。
「無事だったのか! 心配したぞ。俺が隠し部屋に戻った時はいなくなっていたから」
 イジャティカは笑顔でメイスをきつく抱きしめた。日差しの中にいたせいか、メイスの体はぽかぽかしていた。イジャティカに押し倒されている格好のメイスは苦しそうに手をばたばたさせた。イジャティカはハッと気づいて、手を離し起き上がった。
「イジャティカ将軍。ボン軍は引き揚げたのでは……?」
「ああ。だが教王や高位の僧がまだ捕まっていない。その捜索をしている」
「そうですか……」
 メイスは暗い声でうつむいた。またイジャティカに会ってしまったことが辛かった。だがイジャティカはその様子を、ボン軍に捕まることを不安に思っているのだと感じた。
 メイスの服はボロボロで土に汚れていた。遠くから見た時は日差しの眩しさに真っ白に見えたが、近くで見るとあれから重ねた苦労が目に見えた。しかも裸足で、イジャティカが撫でるとマメの潰れた痕があった。
 イジャティカはメイスを抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が守ってやる! 一緒に俺の家があるボンの都に……、は駄目だな。今は人に見つかっては不味い。他に別荘がある。そこにいくか」
 自分のことを必死に考えてくれているイジャティカの言葉に、メイスは慌てる。
「いや、あの、私はここで、このままでいいのです」
(彼に守られるなど、“教王”を憎んでいる彼にこれ以上優しくしてもらってはいけない)
 それに今のメイスには懺悔しなくてはいけない相手はイジャティカ一人ではない。この戦争で亡くなった命、その大元の責めは自分にある、とメイスは思っていた。ここでそれらの魂を弔いながら、ボン兵に偶然見つかることがあれば捕まってしまおうと思っていた。
「何を言っているんだ。駄目だ。上層部が全員逃げ出したってのに、あんたみたいな綺麗な奴が残っているなんて」
(綺麗か。私が一番、呪詛で手を汚しているんだがな)
 メイスはイジャティカが言った『綺麗』の意味を勘違いして、悲しげに笑った。イジャティカは容姿のことを言ったのだが、生まれてからずっと特殊な立場にいたメイスには、色恋に関する勘が全く備わっていない。
「イジャティカ将軍、私もラドニールの者。手を汚していない訳ではありません。その償いにこの墓所に花を捧げて残りの人生を過ごしたいのです」
 メイスは吹き飛んでしまった花を集めて、石に文字を刻んだだけの墓標の前を飾った。
「ここは……、軍が壊した後よりも少し整理されているが、貴方がやったのか」
「はい」
「石など、重かっただろう」
「はい。ですがやっていたらできました」
 そう言ってニコッと微笑んだ。イジャティカの髪に花びらがくっついているのに気づき、それを取ろうと「すみません」と手を伸ばした。その手をイジャティカは握りしめる。
「分かった。気の済むまで供養してやればいい。だけどもしボンの兵士に見つかりそうになったら逃げるんだよ。俺はあんたを失いたくないんだから」
 イジャティカに真剣な目と口調で己の身を案じられ、メイスは胸が熱くなった。
(絶対に、言えない。私の正体は……)
 メイスは罪悪感で胸が痛くなりポロポロと涙を落とした。イジャティカはその子供のようなメイスの様子に戸惑い、そして可愛いとも思いつつ、背をポンと叩いた。


 あの後、イジャティカに優しく撫でられて、メイスは落ち着きを取り戻していった。そろそろ首都に戻らなければいけないイジャティカに、自分の隠れ家を教えておいた。
 メイスは湖の側の森の中にあるラドニールの監視小屋で暮らしていた。ラドニールのこういった場所はボン軍が全て潰したはずだったが、霧深い森の中で見落とされていたみたいだ。
「また来る」
 小屋の前でメイスと別れて、馬を置いてきた神殿に戻ろうとした。
「神殿はそちらじゃありませんよ」
「へ」
 メイスが指し示す方と反対の方向へ行こうとしていた。自分の方向感覚のなさを露呈してイジャティカは赤面した。彼はこの辺りに慣れていないだけだと思っていたメイスは、赤くなったイジャティカの様子にきょとんとした。
 神殿まで共に歩いていった。


 それからイジャティカは月に一度、都から馬を飛ばしてラドニール神殿跡に来るようになった。どんなに馬を飛ばしても往復で三日はかかる距離だろうに「鍛錬になってちょうどいい」と強がりを言って通っていた。
 メイスはたまに心が痛むけど、イジャティカがいてくれると楽しかった。友人というものを持ったことがなかったため、彼と草の上に寝転んで話したり、動物を狩りに二人で森の中に潜んだり、そんなことがすごく面白かった。ベールをつけなくなったばかりで、メイスは表情が上手く出せなかったが、イジャティカといるうちにいっぱい笑うようになった。
「メイス、これ俺の家で咲いていた花の種」
 メイスに両手を出させると、その上に明るい緑色の種をばらまいた。
「ありがとう。どんな花なんだ」
「花びらがこう……、いや、咲いてからのお楽しみ」
「そっか。楽しみだ……」
 メイスは幸せそうにその種を見つめて、そっと握りしめた。その後イジャティカが日向で咲く花だというので、二人で丘の上に植えた。
(ずっとこのままでいられたらいいのに)
 イジャティカは時折メイスを自分の家に来るよう誘ってくれる。
「やっぱりメイスをここで一人にしておきたくない。まだ教団の捜索は続けられているけど、俺の家から出なければ大丈夫だから、来てくれないか。俺の家、小さいけど庭も噴水もあるし、好きな物なんでも買ってやるし。絶対幸せにするから。な」
 そう言って暖かい腕と金属の腕でメイスを抱きしめる。嬉しかった。だけど頷くわけにはいかない。教王の身で、もし知られたら……。
 メイスは断った。イジャティカは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「絶対、守ってやるのに」
 そう言って座ったまま伸びをして、仰向けに倒れて草の上に寝っ転がった。
「……ごめん」
 メイスはその顔を覗き込む。赤茶色の目は申し訳なさそうに沈んでいた。イジャティカはその表情にクラッと来て、メイスの方に手を伸ばし自分の方に引き寄せた。メイスはイジャティカの上に倒れ込んでしまう。
「メイス、可愛い!」
「え! え?」
 メイスは急に抱きしめられて驚いた。イジャティカはメイスのバサバサになった髪に頬擦りをする。メイスはなんだか心が騒いで、顔がムズムズする。
 イジャティカはまた突然立ち上がって、
「時間だから帰るけど……、俺は絶対あきらめないからな!」
 と笑顔で言って、大通りの方へ颯爽と歩いていってしまった。メイスは呆然とその後ろ姿を見ていた。翻るマントの下の鋼鉄の腕が、夕日を照り返して綺麗だった。


「イジャティカ将軍だけど、最近ラドニール神殿跡に行くとき楽しそうにするんだよな」
 軍部の休憩室でイジャティカの部下のマトリは上司のことを話しながら同僚とカードゲームをしていた。相手はラブー将軍の配下の者で、軍学校からの友人達だ。たわいもない話をしながら手札に目を通している。
「ラブー将軍がラドニールの探索を担当しているけど、神殿と巡礼街には今は人はいないぞ。ラドニールに行く途中の街道で、彼女でもできたんじゃないか」
 マトリは腕を組んで悩んだ。どの札を捨てるか。
「女はないと思うぞ。あの人、茶色っぽい目をした少年が好みみたいだから。いや、子供に手を出したことは無い、はず……だけど」
「あそこは狩り場としてもいいぞ」
「んー、でもわざわざ都から毎月通うかな」
 またマトリに順番が回ってきて、(これは勝てそうだ)と目を光らした。
 その時廊下からドタドタと走り来る音が聞こえた。
「おい、ラブー将軍旗下の奴らは手伝いに来い! 大物が引っかかったぞ!」
「どうした」
 皆手札を投げ捨ててそちらを向いた。マトリは心の中で舌打ちをする。
「ラドニールの上層部の一人が、都に知り合いがいてその家を張っていたんだが、姿を現しやがった。奴なら教王の居場所も知っているかもしれん」
 友人達は意気揚々と部屋を出ていった。
(これは―、将軍にも是非知らせなくては! 待ちわびていた教王の手がかりだ)

 イジャティカは休暇を取ってラドニールに向かう用意をしていた所だったが、マトリの報告を受けて、直ちに軍部に戻った。拷問部屋にはすでにボロボロになった男性が拘束されていた。
「何度も言っているだろう! 教王が何処にいるかなど知らないんだ。あの日教王と行動を共にした者は一人もいない」
 棒が振り下ろされ男は「ぐうっ」と声をあげた。
「そんなはずはないだろう。お前らのトップだぞ。奴がいなければ何もできない腰巾着共!」
「教王の奴は私等を見捨てたんだ! 誰も神殿に残ることは許されず、最後に教王一人を残して全員神殿を出ていったよ!」
(教王一人残して?)
 そんなはずはない。最後まで残っていたのはメイスだ。イジャティカは男に疑念の目を向けた。拷問役に話しかける。
「本当のことは喋りそうにないか」
「はい……。上層部の僧のくせに教王の顔も知らないなどと言うんですよ。そりゃ私だって『教王は何者にも顔を見せてはならない』という掟は知っていますが、そんなの守りきれる訳がないじゃないですか」
「ほ、本当だ! 全て本当なんだ! あの教王の力は気味が悪いくらい強かったから誰もベールの下を覗こうなんてしなかったし。それに昔、あいつが年端もいかない頃に、あいつと同じ歳くらいの子供が偶然顔を見たってだけで、そいつの腕を呪いでもぎ取ったんだ。あんな奴の顔なんて見たいとも思わんよ!」
 イジャティカはすでに無い右腕がズキッと痛んだ気がした。自分は教王の顔を見たことがあるが、全くその顔を覚えていない。捜査に協力できないのに「俺がその子供だ」などと余計なことは言わないことにした。イジャティカは憎い相手の顔も覚えていられない自分を呪った。
(顔は確かに誰も見ていなくても不思議ではないな。これに関しては嘘ではないかもしれない)
 拷問部屋の扉がギギッと開いた。入ってきた太鼓腹の男、彼がラブー将軍だ。
「イジャティカ将軍、ここは私の管轄だ。口出しはやめてもらおう」
「失礼。いま出ていきますよ」
 イジャティカは頭を掻きながら、血腥い拷問部屋を後にした。ラブーとはあまりいい関係とは言えない。
(マトリ経由で情報を流してもらうか)
 イジャティカが出ていった後、拘束された男はなにやらブツブツ言っていた。
「イジャティカ、…イジャティカ……。どこかで聞いた名だ……」
「彼はラドニール殲滅戦の凱旋将軍だ。そのためだろう」
「いや…、もっと前……。あっ、あの男だ。教王の顔を唯一見た少年! 義手だったし間違いない」
 その言葉にラブーは興味を持った。
「イジャティカ将軍が教王の顔を見たことがある? 間違いないか」
「ああ、絶対だ! あいつの父親が熱心な教徒で、あの事件まではよくラドニールに来ていた。あの男自分は教王の顔を知っているくせに涼しい顔しやがって……!」
 ラブーはほくそ笑んだ。
(気に入らなかったんだ。あの若造! ラドニール戦の凱旋をしてから飛ぶ鳥落とす勢いで手が出せなかったが。ふふ、こいつはいい弱みを握った)


 メイスはこの日も神殿跡の丘にいた。イジャティカと植えた花が咲いた。白と橙色の二種類が混じっていたようだ。花びらが不規則にあちこちの方向を向いていて、何となく(イジャティカに似ている)と思った。
(早く一緒に見たいな)
 丘の上はその他にもいろんな花を植えていたので、いまではお花畑のような景色になっていた。ラドニールの湖の側は地形の影響で温暖なため、建物が壊れて無くなったとたん、植物で溢れた。
―!」
 馬の足音が聞こえる。数匹いるようなのでイジャティカではない。メイスは岩陰に隠れた。元ラドニール教総本山の神殿、隠し通路は一つ二つではない。生まれたときから住んでいたメイスにとって、ボン兵から隠れるのはなんてことない。 隠し扉の鍵を開けつつ、ボン兵の様子を窺った。
「教王! 隠れていていいのか! お前の協力者のイジャティカは捕らえられたぞ!」
(どういうことだ……!)
 メイスは開けかけていた扉を、音を立てて閉めてしまった。ボン兵が気づいた。


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