黒霧の聖者 3
ボンの都はこの季節はいつも雲が立ちこめている。
ラドニール方面の街道から、数十人の兵の一団が都に入った。教王の護送隊だ。その中心で教王は冷たい煉瓦の上を歩いていた。
イジャティカにもらった靴は、ここまで歩かされていた間に底が抜けてしまった。首には縄が巻かれていて、それをボン兵が引いている。後ろ手にされて、そこに呪詛除けのまじないが墨で書き込まれていた。
こんな人間の古臭いまじないなど、魔族の力を持つ教王には効かない。護送の為にボンは一人の男のために五十人も人を割いたが、彼らを全員始末することも簡単だった。
だがその前に、イジャティカの身がどうなっているかを知らなければいけないため、大人しくしていた。自分が教王であることを認めてもいない。一応はただの僧だと名乗っている。
大通りを歩いていたが、道行く人は護送されているのがラドニール教王だと知るとサッと建物の中に隠れていった。通りに立ったままの者も顔を帽子で隠すなどして教王に見られることを恐れた。『教王は顔を知った者を呪い殺せる』という話を聞いたことがあるからだ。実際は顔を見ずとも呪えるのだが。
ボンの都の中心とは思えぬ程ガランとあいた道を進んだ。
その進路に少年が一人、ナイフを持って立ち塞がった。
「死ね、化け物!」
少年は教王に走りよってナイフを突き立てた。
「……くッ」
縛られたまま避けることができずに、腹部にナイフが刺さった。カランッとナイフと血が舗装された道に飛び散る。教王は一瞬顔を歪めたが、傷はシュッと一瞬で消え、後には血の染みだけが残った。少年の使用人らしき男が少年を連れ戻そうと出てきて、教王の力を見て驚いていた。
「ひっ。ぼ、坊ちゃま、戻りましょう。殺されますよ」
子供も怯えた目で教王を見て固まっていた。教王はちらりと乾いた目をそちらに向けたが、すぐに兵士について歩いていった。
監獄の扉が閉まる。鍵は魔術を研究している痩せた老学者が掛けていった。
教王の為に用意された部屋は他の囚人部屋とは離されているようで、人の気配がまるでしない。教王は目を瞑った。視界が真っ暗になると頭の奥底の感覚が冴えてくる。イジャティカの気配を探した。
(……ここにはいないのか?)
獄舎は約四百メートル四方。その隅々に教王は不思議な感覚を行き渡らせた。だがイジャティカの、あの暖かさと冷たさの混じり合った気配は見つからない。ふと探しものとは違う気配に気づいた。
「これは、ツレサヴォか」
教王は知らないが、捕まってラブー将軍にイジャティカのことを話したラドニールの高僧だ。牢に入っているツレサヴォの体力は随分落ちているように感じた。
「逃げられるか」
ツレサヴォの前にある鉄製の檻を狙って力を発する。檻は黒い布切れが燃えているかのように収縮しながら崩れ落ちた。さらに牢の先にある壁も崩れ落ちる。ツレサヴォの気配はしばらく動かなかったが、やがて外に向かって移動を開始した。
その気配が街中に入った。教王はホッと集中を解く。
「お前が教王か」
ビクッとして牢扉にある小窓を見ると、看守ではない兵がこちらを覗いていた。教王にとっては知らない顔、マトリだった。教王は無言でいる。独房の中は暗く、マトリから教王の顔は見にくい。蝋燭を小窓に近づけた。
照らされた教王の顔を見て、マトリは嫌そうな顔をした。
「なんだ」
「いや、あんたの容姿が……、赤っぽい茶色の目で釣り上がっていて、髪は明るめの色で、背はあまり高くなくて。前に聞いたイジャティカ将軍の好み、そのまんまだから」
「イジャティカさんと親しいのか」
教王が反応した。
「部下だよ。どうやらあんたが教王ってのは間違いみたいだな。将軍に気に入られたラドニールの生き残りで下っ端かなんかじゃないか。将軍が教王なんかに会う為にラドニールにいくはずが無い」
「彼はどうしている」
「病気療養の名目で自宅に籠っているよ。王宮や軍に顔を出すとラブー将軍の執拗な追及が面倒なんでね」
とりあえず無事だと分かって教王は胸を撫で下ろした。だがマトリがさらに状況を説明してくれて、決してイジャティカにとって良い状態では無いことを知る。
「裁判?」
「教王と通じていたという容疑のな。だが将軍に与えられたのは裁判という名ばかりの罠だ。貴族の裁判には八人の陪審員がいるが、それがラブー将軍と友好的な人たちに占められている。一席イジャティカ将軍と同門の貴族にも与えられているが、あの人は同門の中で浮いているから」
「浮いているというのは」
「将軍の一族はラドニール教を深く信仰していたんだが、将軍の父上が信仰をやめて、将軍もそれに従って以来、同門と仲が悪いんだ。先の戦争でラドニールの息の根を止めたのも彼だしな」
「だがラドニールの教王を庇っていると思われているのなら、同門の者達もイジャティカさんへの態度が軟化するのではないか」
「溝が深くなりすぎた今となっては、将軍を蹴落とせればどうでもいいのさ。彼らは教王ほどの力の持ち主がラブー軍ごときに捕まるとは考えていない。あんたが教王なんて信じていないが、将軍を貶める為に黙認している」
「私が教王だと証明されたらどうだろう」
マトリはしばし考えた。
「同門の連中は将軍につくかもしれない。陪審員の一人でも反対者がいれば刑は施行できないから、そしたら……」
暗い牢獄で蝋燭の影がゆらゆら揺れる。
「牢番」
小窓から教王が声をかけると、牢番の兵士が面倒そうに寄ってきた。
「白状する。だが取引がしたい。高官を呼んでくれ。ラブーの下の者以外をな」
「高官? 馬鹿なことを言うな。今尋問官を呼んでやる」
教王の要望を受けようとしない兵を睨みつけた。兵の胸当ての、ちょうど心臓の上の部分が焦げて崩れ落ちていく。
「ひっ!」
「言った通りにしろ」
牢番は震えながら頷いて走っていった。
教王は牢の中で待っていた。ふいに風が吹いて蝋燭の火が消えた。
(妙だ)
風は窓のない牢屋の内側から吹いた。そちらを見ると黒い影が一つ立っていた。
「あ、貴方は……」
「久しぶりだな。妙な部屋に閉じ込められているねえ、ラドニールの頭ともあろう者が」
天険に住む物知りな魔族だった。
「魔王アグラムが腹心、レトラアノーの力を分けられているお前だ。この牢を抜け出してこの国の人間を皆殺し、木も草も生えない土地にすることなど容易いことだろうに」
「魔王の腹心……」
魔王アグラムなら知っている。大陸を一夜で塵にするほどの力を持つ魔族だ。その腹心ならば間違いなく最上級の魔族だろう。自分の力の出どころが改めて恐ろしくなった。
「イジャティカの生まれた国をそんな風にするわけがない。私一人……死ねば……彼はまた人間の間で平穏に暮らせる」
「そんなにあの男が好きかい?」
魔族は不可解そうに呟いた。
「私と普通に話して、普通に遊んだりしてくれた初めての……、たった一人の人なんだ。魔族の力と教王の権力の二つを背にしてしか、人と対したことのない私の、たった一人の……。人は私のことを恐ろしいとしか言わない。だが彼だけは可愛いと言ってくれて、嬉しかったんだ……!」
魔族は深い皺をねじまげてニヤニヤと笑っている。
「奴はお前の魔性に惹かれてしまったんだろう。魔力ある者は、目を合わせただけで人間を虜にできるほどの魔性がある。
皮肉だな。二十年前の事件は、彼奴の心にお前の像を強く焼き付けた。憎むべき呪詛師のお前と、美しき聖者のお前、二つの像を。しかも気づいていない。目に焼き付いた二十年前のお前の姿が、自分の好みを決定していることなぞな」
「何を言って……」
「分からないのか? イジャティカはお前に恋をしているんだよ」
教王は耳を疑った。そして眉宇を曇らせる。
「悪魔の力は……そんな形でも彼を苦しめるのか」
「もうすぐ兵が帰ってくるぞ。このまま牢の中にいるつもりか」
「……教王として死刑を受ける。それが彼に人間の世界に戻ってもらう唯一の手段だ」
心は定まっている。
イジャティカは裁判の行われる王宮前の公会堂に来ていた。両側をラブーの手の者に囲まれながら奥へ向かう。大理石の廊下を歩いていると、マトリが待っていた。小声で話しかける。
「将軍、大丈夫です。オード様がこちらについて下さると」
「叔父がか。何故急に」
オードは陪審員の一席を持っているイジャティカの同門だ。
「将軍が教王を庇っていたことを認めて、絶縁状態を今だけ取り消すと」
「教王? 教王は見つかってはいないから、そんなこと認められるはずが……」
「将軍と親しい仲の、メイスさんが教王と間違えられて捕まって、将軍の境遇で相談したところ、……自分が教王だと彼らの前で偽ってくれたのです。一族の方達がそれを信じて……」
「何だと! マトリ、そんなこといままで報告しなかったじゃないか!」
「すみません……、言えませんでした。現在将軍の同門の方が助命に動いていらっしゃいますが、何分相手が教王となればラブー将軍だけでなく、軍も政府も本気で、一秒でも早く教王を抹殺しようとしていて……」
「くそ!」
イジャティカは外へ走ろうとした。周りにいた兵達四人掛かりで押さえつけられる。
「将軍、もうすぐ開廷の時間です。このままで」
「離せ! メイス……、メイス
――!!」
ボンの都の北東の処刑場。春にも関わらず荒寥とした原野だ。そこに火刑台が設置され、教王が磔になる。その周りに学者達が魔封じの魔法陣を描いているのを、兵が急がせる。薪と藁の上に油が注がれ、準備は整った。
「これより! 悪魔に魅入られし宗教者の処刑を行う!」
たった一人の処刑だというのに処刑場をぐるりと取り囲む兵は数百人程度いる。教王の最期を見届けに来た軍や政府の高官は、黒いベールを被って顔を隠している。その外側に見物に来た民衆が群れをなしていた。たまにラドニール信者と思われる者達が突っ込んでこようとしたが、予見していた軍に取り押さえられる。場の緊迫感に、物見遊山の民衆は次第に数を減らしていった。
「神よ。悪魔を沈め、地獄の淵に封印させたまえ」
学者が聖教書を片手に呪文を唱える。それに勇気づけられて、火を焼べるたいまつを手にした兵が教王の薪が積まれた足下に近づく。火がつくと、並んでいた高官の中から太った男が進み出てきた。黒いベールを取って笑いを浮かべた。
「お前が本当に教王だったとは誤算だったよ。こんなことになるなら陪審員席をイジャティカの一族に渡すんではなかったな」
「ラブーとやらか」
教王の足下がパチパチと言いはじめた。
「呼び捨てにするでない! ふん、だが刑は免れようとも、ボンでの栄達はもはや望めまい。その間に私はトップまで登りつめる。さすれば、イジャティカごときの処遇は思いのままだ」
「……! 貴様のような愚劣な者に、イジャティカに指一本触れさせるものか!!」
教王の叫びに空気が破裂するように揺れた。
「うぎゃあ!」
処刑場の真ん中の炎が飛び散る。学者の持っていた聖教書が炎で一瞬で燃え尽き、地に描かれた魔法陣の上を炎が走り煙のように消された。
「う、あ、あ……」
ラブーは尻餅ついてガクガクと震えた。火炎は勢いを増し、教王の身に降り掛かる。だが炎の向こうの教王の顔は歪みもせず、冷たい目で処刑場を見下ろしていた。
――止まれ。
「! ……」
場にいた全ての者の動きが止まる。炎のうねりも、人間の呼吸も感じない。教王だけが首を左右に動かして凍ったように止まった世界を見た。
「そんな炎でレトラアノーの契約者が死ねる訳がないじゃないか」
人混みの中から老人が歩いてきた。いや、老人姿の魔族だ。
「レトラアノーからお前が死ぬ為の方法を聞いてきたよ。薪の中にこれを加えることだ。上級魔族が封じた魔炎が巻き起こる」
魔族は真っ赤な木の枝を差し出した。
「……手が縛られている。ここに置いてくれ」
教王の頼み事に反応を見せず、魔族は黙っている。
「レトラアノー程の魔族の力を与えられておいて、何故死を選ぶ」
「人間の世界ではこれは悪魔の力なんだよ」
教王は寂しげに笑った。老魔族は笑いもせずに語りだした。
「力とは厄介だな。私は時間を止める能力を持っている。自らの姿の老いを引き換えにな。他の誰も持たない稀な力であるとともに、不老の魔族で老人の姿をしている者は私だけだ。姿が若いうちは力を重宝されたが、老いてからは気味悪がられた。私は……魔王やその腹心達の単純に強い力に憧れ、自分の力は疎ましかったよ。
――だが死の魅力は分からんな。自らの為に何を傷つけようと、生きられるだけ生きることこそ、美徳だと教わった」
「それは、私がラドニールの僧だからかな。誰かの為に何かができることこそ、至福であると教わった」
老魔族と教王は、互いに見つめ合って同時に笑った。老魔族が近づいてきて魔炎の枝を火の中に置く。彼は人混みの中に歩いていき、やがて時間が動き出した。
とたんに白い炎が吹き上がる。
(これが…魔炎の枝の力……! 熱い……!)
それでも教王の命をすぐに奪うものではなかったが、身が確実に軋んでいくのが分かる。だが最期に、言わねばならぬことがある。教王はグッと顔を上げた。
「ラドニール教王の最期の忠告だ。よく聞くがいい」
教王の体を括っていた縄が崩れ落ちた。教王はガクッと地に膝をつく。観衆は悲鳴を上げて逃げはじめた。教王は逃げもせずに、燃えさかる火の中にゆっくりと立つ。白い炎の中に恐ろしい形相で堂々と立つ教王の姿は、まさに悪魔そのものだった。
「ボンの将軍イジャティカと私には何の関係もない。今後、彼に手出ししようものなら、死して永遠のものとなった私の怨恨が、其奴を喰いちぎる」
ラブーを指さした。
「特に貴様……、次にイジャティカの視界に入ることがあったら、臓物から一つずつ焼き尽くしてやる」
そう言った指先から黒い灰になって炎に巻き上げられていく。炎の色はだんだんと濃くなり、真っ黒になった。
「そして今日ここであったことを、……イジャティカだけには
――、言ってはならない」
体が消えていくのを感じる。無くなっていく感覚の中で教王は、イジャティカの言葉や表情を思い出していた。熱さがなくなり、胸の内から温かさが生まれてくる。
――ありがとう。イジャティカさん。
炎は教王を焼き尽くすと、何事も無かったかのように終息していった。
黒い炎はボンの人々の心に恐怖を植え付け、以後長い間支配し続けた。
公会堂ではすでに裁判が終わっていた。中にはまだ二人だけ残っていて、椅子に座る貴族が一人、頭を抱えている。横にはマトリがいた。
「オード様、反対票ありがとうございます。ですがラブー派の者達も皆反対票を入れるとは。……処刑場であったことを聞かされては仕方ありませんが」
「……私にはもう、誰が悪魔なのか分からんよ」
オードは白髪頭を掻きむしって呻いていた。
裁判から解放されたイジャティカは、処刑場に来ていた。もう誰一人この荒寥とした場所には残っていない。ここまで走ってきて、息が切れている。中央の黒い焼け跡によろけながら近づいた。
「メイス……、なんでお前が……!」
教王の呪いの遺言のため、誰もイジャティカに処刑場での光景を伝えていない。
「教王……教王……、
――教王……!! 絶対に許さない! お前だけは、この俺が、俺が殺してやる!!」
地面の焦げ跡に突っ伏して、地を叩いた。
「たとえ地の果てにいようとも……、絶対に見つけ出してやる……!!」
地に伏して涙を流しているイジャティカの上に、天を舞っていた灰がほとりと落ちてきた。黒い灰はふわっと優しい光を放って広がり、その体を包み込んだ。光が収まると、イジャティカの髪の色がほんの少しだけ濃くなった。
彼はそれには気づかずに、歯を食いしばって泣いていた。
〈終〉