ひとつ歳上のヒーロー 1
音楽室や化学実験室などがある教科棟。
その隅っこにあるこの部屋は、昼休みはとても静かだった。八畳程度の、学校にしては狭い部屋だけど、僕一人しかいないので広々している。四階にあるため眺めもいい。地平線の彼方までひしめく街並みは、昼の光によってほんわりと霞んでいた。
僕は長机の上に弁当を広げようとしていた。
その時、カーテンのはためく音だけがする部屋に、ノックが響いた。
「どうぞ……、あ」
ドアが開いて、背の高い男子生徒が入ってきた。
「先輩」
この俳優ばりに格好いい人は、国笠治道(くにかさ はるみち)先輩。部活でお世話になっている。
「律規(りつき)、一緒に食べていい?」
鼻筋の通った苦味のある顔立ちだけど、浮かべた表情が明るくて、とても親しみやすいのだ。
「はいっ。ここ、座ってください」
先輩は購買の紙袋に入ったパンを机置いて、僕の隣に座った。横によけてあった書類に目を落とす。
「また生徒会の仕事一人で任されたのか。役員がやるべきだろ」
「でも、各部からプリント受け取るだけのことですから、誰でもできますよ」
今週末までに、部活の今年の経費と来年の予算を出さないといけない。提出場所はここ、生徒会室だ。
「僕もしたくない時はあるんですけど……」
「断っていいんだぞ。じゃなかったら交代制にするとか。俺が秋下に言おうか」
秋下先輩は生徒会長だ。
「でも、先輩が毎日来てくれるから、今回は結構楽しいです」
「……っ、そうか」
先輩は照れたように頬をかいた。
「それに、二年生は直接秋下先輩とか役員の人に渡すことが多いみたいです。大抵来るのは二年の教室に入りにくい一年だから、一年の僕がいた方がいいかなと思って」
「優しいな」
小さい子にするように撫でられて、こっちも照れてしまった。
「今日はどれ作ったんだ」
「卵焼きです」
弁当は毎朝父と二人で作っている。
「もらってもいい?」
「はい」
箸を渡そうとしたけど、その前に先輩は口を大きく開けた。これは……、食べさせろということかな。
「えっと、あーん」
卵焼きを差し出すと、ぱくっと先輩の口が閉じた。正解だったみたい。
「うん……、うまい」
「やった」
先輩は毎回褒め言葉をくれる。
「俺のパンも一口あげる」
「ありがとうございます」
紙袋を一つ渡されて、中を見てみるとカツサンドだった。
「ちぎれないから、先輩が食べたあとでもらいます」
返そうとすると、
「いい。かじって」
今度は先輩の手で、パンを口にもっていかれる。コッペパンの先に唇を叩かれたので、僕は口を開けてかぶりついた。
滅多に食べないけど、コクのある特製ソースがおいしくて好きだ。にこっと微笑むと、先輩も笑い返してくれる。
「……」
でもなぜか、僕のかじった跡を見つめながら食べようとしないのだ。
「あの、やっぱり嫌でしたか」
「嫌じゃないっ。むしろ嬉し……っあ」
「?」
「い、いただきます」
大きい口でがぶっと食べだした。ほんのり頬が赤くなっている気がする。
「寒くないですか。窓閉めますね」
「ん」
頬張りながら答えが返ってきた。
窓を閉めて外の音が静かになる。黙々と食べながら、なんとなく隣に座る先輩を見つめる。
(かっこいいなぁ)
この距離でじーっと顔を鑑賞していても、欠点が見つからないのだからすごい。
(先輩、喉仏しっかりある)
僕と同じ制服を着ているのに、ずっと大人な感じだ。
「何みてんだよ」
先輩がこっちに振り向いた。眉間を寄せて、でも笑った顔。手を引き寄せられ、持っていた蜜柑を一房食べられてしまう。
「ごちそうさま」
先輩が持ってきたテニス雑誌を一緒に見ているうちに、予鈴が鳴った。
生徒会室に鍵をかけて、階段を降りていく。
「明日も来ていいか」
「わぁっ、来てくれるんですか」
明日はお弁当もっと頑張ろう。
「毎日来ているのに、嬉しそうな顔して……」
ギュっと抱きしめられた。
「……先輩……?」
逞しい胸に頭を預けている。一つ年上なだけなのに、がっしりとした腕の中で動けない。
「お前の体、あったかいな」
確かにくっつくと温かいけど。先輩大丈夫かな。風邪引いているんじゃないかな。見上げると、先輩の耳が赤くなっている。
「早く教室行きましょう」
もうすぐ授業が始まるし。廊下は寒いけど、教室は暖房が効いているはずだ。
「……。ああ」
教室棟まで廊下を歩くけど、先輩、今日はちょっと足が遅い。
「……やっぱり……、ただのいい先輩扱いか……?」
小声で何か言っていて、溜め息がついている。やっぱり調子が悪いみたいだ。
「今日部活無くてよかった」
「
――!」
テニス部の、しかもエースに対する厳しい練習なんてあったら大変だ。
……先輩のプレイする姿見るの大好きだけど、今日は元気になることが先決!
「折角会える時間なのに。何でだ……。気に触るようなこと……したかな」
「先輩?」
「いや、なんでもない」
「…………」
でも、笑顔に力が無い。
(大丈夫かな。よし! 今日の放課後は……)
一つ決心して、先輩の方に向き直った。
少し、風が吹いている。ひんやりとした空気が緩やかに頬を撫でる。学ランのホックを閉め、首に巻いたマフラーを口元まで手繰り寄せた。
「ごめん! 待たせた」
明るい声。振り返ると、校舎の方から走ってくる人がいた。
先輩だ。彼のシルエットは、そのスタイルの良さで遠くからでも見分けがつく。
「先輩! 走らないでください」
「何で? 廊下でもあるまいし」
コートは着ずに、鞄と一緒に手に持っていた。いかにも急いできたという様子だ。
「もう。待たせていいから、ちゃんとコート着てください……」
コートは着てくれたけど、首元が寒そうなので、僕のマフラーを取って、先輩の首に巻きつけた。
「すごく温かい……。律規の体温が移ってる」
先輩は幸せそうに言った。
「でもお前が寒いだろ。これ使え」
と、おもむろに鞄からマフラーを取りだした。
「なんだ。持ってたんですか」
先に持っているか聞けば良かったと思いながら、先輩の首から自分のマフラーをはずそうと手を伸ばす。
「え……」
近づいたとたん、先輩のマフラーを僕の首にくるんと巻かれてしまった。肌触り抜群で、軽いのに温かい。
「あのっ、先輩こっち使ってください」
僕のマフラーは手編み風のもこっとした感じで、先輩にはこのモノトーンのタータンチェックの方がスタイリッシュで似合う。
「やだ。俺はこれがいい」
「えー?」
先輩って変わった趣味だ。
「……お前ら、こんなところで何やってるんだ」
「あ、市田先輩」
「市田」
テニス部の市田先輩に声を掛けられ、僕と先輩は同時に振り返った。
(こんなところ……?)
校門前。授業が終わり、帰る人が沢山いる。生徒達が、皆こっちを見ていた。
(先輩はいつも目立つなぁ)
先輩は校内で有名だから、皆目を引かれているのだろう。
「ついに一緒に登下校する仲になったのか」
「あ、いや」
「今日だけです」
きっぱりと答える。ここ数日の昼休みに、先輩を一人占めしているだけでも幸せなのに、登下校もなんて恐れ多い。
「……そんな……、そんなはっきり、今日だけとか……」
あれ、先輩またぶつぶつ言っている。さっきまで持ち直したみたいだったのに。
「先輩が具合悪いから、家まで送って行くんです」
「具合悪い? 機嫌良さそうだけど」
「不治の病」
「ええっ!?」
な、風邪かと思っていたけど、そんなに重い病気だったの?
「律規が送ってくれるなら、ずっと病気でいい」
ずっと病気とか、なんて後ろ向きな!
僕は頭がパニックになって、涙がにじんできた。
「せ、先輩っ。病は気からですよ! そんなこと口にしちゃだめです」
「……病気じゃなくても一緒に登下校してくれるなら、治る」
「僕で力になるなら何でもします!」
「治った」
「はやいっ」
市田先輩から、
「だから目立つ場所で、そういう会話するなよ……。さっさと帰れ」
と言われて、校門を出た。
よく分からなかったけど、市田先輩も先輩を心配して早く帰るよう言ったんだろう、きっと。
「先輩、おうちどの辺ですか」
「市立図書館の近くのマンション」
「あそこかぁ」
エントランスがぴかぴか光っている、綺麗なマンションだ。
「芝生公園まででいいよ。律規んち、そこから駅の方向だろ」
バス通学の生徒に手を振りつつ追い抜かされたりしながら、ケヤキ並木の歩道を歩く。同じ学校の人達が、何人も先輩に挨拶をしていった。
先輩は、うちの高校で一番有名な人だ。高い背と、スポーツ万能の引き締まった体。整った顔立ちに、明るい表情がのる。それだけでも誰もが目を引かれるのに、なんと! テニスの全国大会で優勝している。学業だって、テニス部の先輩が盗み見たところによると、前回の考査で満点の答案を五枚以上確認したらしい。
ちなみに僕は、徳見律規(とくみ りつき)と云って、普通の見た目に普通の中身だ。学級委員という肩書はついているけど、一年の始まりにジャンケンで決めたことだし。
隣を歩く先輩の手が、こつんと僕の手に当たる。あ、また当たった。友達と帰る時はこんなことないんだけど、先輩は手が長いから、ぶつかっちゃうのかも。
(えいっ)
気になるので、先輩の手を捕まえた。こうすればブラブラすることはない。
そしたら、先輩が握り返してきた。
(……なんだか、手を繋いでいるみたい)
「先ぱ……」
「律規」
離してもらった方がいいかなと、話しかけようとしたら、先輩の方が先に声をかけた。
「好きだ」
…………。
……。…………わっ、映画みたいと思った。
先輩、顔も格好いいし、美声なんだもの。大きなスクリーンで見る役者より、ここにいる先輩の方がきらきら光っていた。一瞬トリップして、恋愛漫画によくある、胸の鼓動というのを体感してしまった。
まあ、男同士で恋愛なわけがない。
だけど、先輩に好きだって言われるくらい、後輩として可愛がられていること、とっても嬉しい……。
「僕も、先輩のこと好きです……」
僕の言葉なんて、先輩に比べたらちっぽけなものだ。それでも、先輩に言われて嬉しかった気持ちを、少しでも返せたらいい。
先輩の目をじっと見つめる。
「律規……」
見つめ合っているうちに、先輩が目を逸らした。
「すごく嬉しい……」
顔を赤くして、柔らかい声で言ってくれた。先輩が僕の好きという言葉を、大切に受け取ってくれたのが分かった。
つないだ手をほどき、バイバイと手を振った。
お互い相手を家まで送ると聞かなかったから、公園のところで別れることにした。
「お前のうちに迎えに行きたいが、明日の朝もここで待ち合わせしようか」
そうだった。一緒に登下校する約束したんだ。
「はいっ」
『明日まで待てない。会いたい』
「……っ」
風呂上がりに携帯をチェックすると、先輩からのメールがあった。
先輩って結構寂しがりやだ。生徒会室で一緒にいる時も、向かいに椅子があっても、僕のすぐ隣に座るし。
『僕も先輩に会いたいです。でも眠っちゃえばすぐに朝になるから寝ます。おやすみなさい』
送信して、髪を乾かしていると、すぐに返事が来た。
『夢の中で律規に会って、朝までしのぐことにする。おやすみ』
おとなしく寝てくれた。僕も先輩の夢見たいな。
ハンガーにかけたマフラーを見た。昨日までの手編み風のものではない。先輩のものだ。
別れる時、元のを返してもらおうとしたが、
「交換したい」
と先輩が言ったのだ。
「絶対値段が違うから悪いです」
と言ったのだけど譲ってくれなかった。あのマフラーそんなに気に入ったのかな。
代わりに先輩からもらったマフラーを、
「大事にします」
と言ったら、先輩は嬉しそうな顔をした。
(寝よう)
メールを終わらせて、待ち受け画面に戻った。待ち受け画像は、テニス部のユニフォームを着た先輩の写真だ。
中学まではプロのテニス選手の写真を使っていたのだけど、高校に入ってからずっと、先輩の写真だ。今一番尊敬して、応援している人だから。
「おやすみなさい」
携帯閉じ枕元に置いて、電気を消した。