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 2. 魔獣の王






 王女が果実を差しだした。
 少年の方も得意げに手を差しだす。そこには、王女の手にある実の、三分の一くらいの直径の実があった。
「これ……、ベルニルの実?」
「はい! 種から育てて、まだ腰ぐらいの高さなんですが、実が生ったんです」
 王女は実を受けとって、しげしげと見ている。
「すごいわ。本で読んだところでは、もっと乾いた地域の植物だったのに」
「ベルニルの木のことが載っている本があるのですか」
「植物辞典のたった一頁よ。どこの植物か気になったのだけど、意外と広い地域に分布しているようで、あまり絞れなかったわ」
「良かったです。この国では絶対育たないような気難しい子でなくて」
「……ふふ、そうね。それと、ベルニルの実は体をほぐす効果があるそうよ」
「リラックスするのですか」
「詳しくは載っていなかったけど、そうだと思うわ。鎮静作用より覚醒作用の方がありそうだけど」
 学者の書く本だ。素人には分からない見極め方があるのだろう。
「この実は王女様にプレゼントです」
「ありがとう。久しぶりに食べてみようかしら。子供の時とは味覚が変わったでしょうし」
 王女は一房口に入れ、その酸味に固く目を瞑った。
「やっぱりいらないわ」
 残りは少年に返す。
 少年はがくりと肩を落とした。



 城の使用人は年々減って、身分の低い少年が中枢の城の建物に入って掃除することも多くなった。

 偉い人たちの目につかぬように気をつけながら、せっせと箒を動かす。
 掃いたばかりの廊下を、女性が靴音を立てて走りくる。
「なぜですか、陛下!」
 すっかり淑女になったはずの王女が、聞いたことがないくらい声を荒げている。
 相手はひと際煌びやかな衣装を纏っている。
 王様という、城の一番偉い人だった。
「もう婚礼衣装を作り始めています。それなのに、どうして……」
 婚礼衣装……。
 毎日のように王女と話をしているのに、婚礼衣装の話はまだ聞いてなかった。
「どうして婚約者の名前も、国も知らされないのですか!」
 王女の叫びに、鼓動が高鳴った。
 少年にとっても、とても気になる話だ。
 廊下の隅で頭を下げて縮こまりながら、ドキドキと聞き耳を立てる。
 だが王は歩みを止めず、近くの執務室に入り、扉を閉ざした。
「どうして……」
 ここは城の中。貴族たちの社交場。
 王女の泣きそうな声がしても、奴隷の少年は顔を上げてはいけない。
 ぎゅっと、箒を握りしめた。



「これが最後になると思う」
 王女の部屋の窓越しに、ベルニルの実を受けとった。
「こちらの窓から覗いてごらんなさい。あなたの好きそうなものがあるわ」
 隣の部屋の窓の外に移動すると、中から王女がカーテンを開けてくれた。
「……綺麗……」
 衣裳部屋の真ん中に、純白のドレスが飾られていた。
「そうね。お金持ちの国に嫁ぐから、久しぶりに奮発したみたい」
 少年は目をきらきらさせて、ドレスの眩さにひたすら見蕩れていた。

「……王女様」
「なあに」
「幸せになりますよね」
「…………」
 王女は耳に掛かる髪を手で払った。
「当たり前でしょう」
 ふてぶてしい笑みと共にそう答えた。





 それから数日の間、少年は息つく暇もないほど忙殺されていた。
 城に他国の王が訪れるらしく、歓待の準備に駆り出されたのだ。



 今日が本番。
 歓待の料理のために、朝から晩まで火の番だ。
 その合い間に料理を運ぶ。
 会場と厨房を往復している時だった。人々のざわめく声。
 その中心には、王女がいた。
 純白のドレスの高貴さが、これ以上ないほど似合っている。
 城の人々が溜息をついた。
「王女様方の中で、一番美しいな」
 賛美の声を聞き、少年は鼻高々だった。
「……もったいないことだ」
 賛美の声のはずが、そこには失望があった。
 少年は不思議に思いながら、大広間に向かう王女を見送った。

 少年は昨日、大広間でなにやら式典の準備をさせられた。
 何か王女と関係あるのだろうか。

「どれだけ美しく着飾っても、幸せになどなれようがない」
 不穏な言葉に、少年は声の主を探す。柱の側で、貴族たちがひそひそ話をしている。
「魔獣王の妃など、人の身から落ちるに等しい」



 少年は無意識のうちに大広間へ向かっていた。
 使用人用のひっそりとした通用口から中に入る。
 見張りはいたが、城で長く働いている少年は一瞥されただけ。
 幾重にも連なる柱の陰から、式典を覗く。

 広間を埋める人の列。
 この国の貴族たちだが、なんだか皆渋い顔だ。

 陽光の差し込む壇上に、王女は跪き、目を瞑っている。
 その側に立つ王が手を上げると、正面の扉が開かれた。



 幾人もの従者を連れて、その中心にいる一際背の高い男性。
 ―あの方が。
 少年は見入った。
 ―あの方が、夢にまで見た婚約者。
 見たこともない容姿が、少年にはとても特別に見えた。
 夜空に星がきらきら輝くようだ。

 壇を上がったところで、男は足を止めた。王が進み出る。
「遠路遥々、我が娘を迎えにきていただき感謝いたします。さあ、挨拶を」
 王は跪いている王女に促す。
「お初にお目に掛かります。私、サンドラと……」
 顔を上げた王女の前には、思わぬ巨体。腰の辺りしか見えなくて、さらに顔を上に向ける。
「―……!」
 王女の悲鳴が聞こえ、少年は思わず身を乗り出した。

 王女は震えながら一歩、また一歩と後ずさる。
「黒い獣毛……、真っ赤な角……四つの目、そんな……」
 少年と王女、二人で何年も待ちわびた相手。
「ガグルエの、魔獣王……」
 王女は目を見開いて、まるで化け物を見るかのような目で見る。

 ガグルエ国。噂で聞いたことがある。
 魔獣族の王が治める国。
 去年はこの国の西の隣国、三年前はさらに西の隣国を落としている。
(魔獣族……。初めて会った)
 凶悪で醜悪な化け物と聞いたけど、
(大きくて、逞しい)
 ここからでは横顔しか見えず、四つの目が珍しくて判断しづらいが、すっと伸びた鼻梁、顎から襟元への引き締まった筋肉は、惚れ惚れするような美しさだ。堂々とした立ち姿からは、王者の風格と気品が漂っている。
 とても噂に聞く化け物とは思えない。魔獣族の見た目の統一性は薄いと聞くので、彼が特別なのかもしれない。

 ガグルエ王の赤い目が、老齢の王に向けられる。
「姫君の様子、どうしたことかな。セブ王」
 低く響く声からは、感情は読み取れない。
「サンドラ!」
 セブ王が声を荒げた。
「何をしている。大人しくガグルエ王の手を取るんだ。それが王女の務めだろう!」
「……ッ」
 王女は口を引き結び、後ずさる足を止める。だが、震える足を前に出せない。
「こんな……、こんなこと……」
「サンドラ!」
「魔獣族なんて無理よ!」

 ガグルエ王は怯える王女を冷めた目で見下ろす。
「私の妃になるということを知らされていなかったようだな」
 ガグルエ王がそう言うと、その横に控えていた男が進み出た。魚の鰭のような耳をしている。
「サンドラ王女は妃になるどころか、我が王を恐れて近づくこともできない様子。これでは盟約は結べませんねえ。オーラリオが攻めてきたらどうするのでしょう。かの国の雪が解け、兵を動かせるようになれば、貴国のみで退けねばなりません」
「それだけは……! ……そうです。侍従を付けましょう。サンドラが逃げぬよう見張らせます」
「それで寝所に侍れるとでも」
「女の細腕など、陛下なら片手で押さえられます。ベルニルの実は毎日食べさせているので、体はいつでも使えます」
「あのまずい実を説明も無しに? よく食べさせましたね」
 鰭型の耳の従者は疑っている。
 王女は首を横に振った。
「私、食べていない……もう何年も」
「やはりね」
「な……」
 王女の言葉に、セブ王は顔を引きつらせた。
「なんてことを……!」
 セブ王が手を上げた。少年はハッとして駆け出した。
「王女様!」
 ガグルエの従者は反応したが、少年を止めはしなかった。
 少年は王女とセブ王の間に割り込む。
「!」
 当たる、と思っていたセブ王の手は空を切った。
 少年と王女は共に剛腕に……、ガグルエ王に引っ張り上げられたのだ。
「…………」
 体が宙に浮いている。服の背を掴まれ、ガグルエ王の片手で持ち上げられていた。
 すでに離された王女は、さっとガグルエ王から距離を取った。
 少年は呆然としていたが、ようやく助けられたことに気づいた。
「ありがとう……」
 お礼を言おうとすると、ガグルエ王が少年を持つ手を離した。
「わっ」
 少年はよろけながら着地した。服を引っ張られて胸元が締めつけられたせいか、どきどきする。
(婚約者……様。……ガグルエ王)
 彼を見ようとして、まだ青い顔の王女が目に入った。
(王女様、どうしよう……)
 よく分からないけど、ベルニルの実を食べなかったことはとてもいけないことのようだ。
「あのっ、僕にくれていたんです! 王女様、お腹を空かせている僕を心配してくれて」
 本当は味が嫌いという理由だけど、少年は王女をかばうために必死だ。
「許してください……。王女様は良い人です! きっと素敵なお妃様になります」
 ガグルエ王の四つの目をまっすぐ見つめ、少年は目を潤ませる。
「…………」
 ガグルエ王は少年をじっと見下ろしている。その手が、少年の顎に触れた。
「エルフ……、いや、ノーム族の血が混じっているな」
「はい……」
 顔を覗きこむように見下ろされ、興奮している少年の頬が、さらに赤くなり、その瞳が潤みだす。恐怖ではなく、何か期待を孕んだ瞳。
「……おかしなノームだ」
 ガグルエ王は小さく呟いた。

 そして視線だけセブ王に向ける。
「時間をやろう」
 セブの王侯貴族は緊迫した様子で静まりかえっている。
「一晩だけこの街に滞在する。その間に、私がこの国を助けたくなるような提案を捻りだすといい」
「あ、ありがとうございます! さっそく歓待の宴を」
「いらん」
「あ……ええ、そうですね。長旅でお疲れでしょう。最上の格式の部屋をご用意……」
「それもいらん。今夜はガグルエの駐在館に泊まる」
 取りつく島もない様子に、セブ王とセブ貴族は狼狽える。
「ただひとつ譲ってもらいたいものがある」
「は、はい! いかなるものでもご用意いたします」

 ガグルエ王が少年の肩を掴んだ。
「実を食べていたということは、使えるんだろう」
「え……」
 少年と王女は意味を掴みかねていたが、王女ははっとした。
 セブ王は、その異種族は何だ、と横に控える従者に質問している。従者が耳打ちすると、セブ王はほっとしたようにガグルエ王に向き直った。
「ええ。もちろんどうぞ。城で買った奴隷です。ガグルエ王のお役にたてるなら本望でしょう」
「その子は……何も関係ない……」
 王女は小さな声で抗議する。
「それならあなたが相手を?」
 鰭耳の男の言葉に、王女はびくっと震えた。
「冗談はよせ、フィルド。実を食べていない人族の体では、私が楽しめない。……さあ、行くぞ」
 ガグルエ王が壇上に背を向けて歩き出す。

「…………」
 少年が戸惑っているのに気づき、ガグルエ王は振り向く。
「あの、ガグルエ王、様」
「なんだ」
「僕で、お役に立つのですか?」
 少年が訊ねると、彼は口の端で笑って、
「そうだ」
 と肯定した。
(ついていって、いいんだ……)
 胸の中でうずうずしていたものが、ぱあっと解放されたような気がした。少年は満面の笑顔で、壇上から駆け下りる。
 ガグルエ王のすぐ側まで駆け寄ると、彼はまた歩き出した。
 その一歩後ろを、少年は弾むような足取りでついていく。

「フィルド、お前は残ってセブに”助言”でもするか?」
 ガグルエ王と隣を歩く鰭耳の男が話している。
「いえ、その価値もないでしょう。駐在館でこちら側の準備をした方が有意義です」
 少年には会話の意味が分からない。ガグルエ王の歩幅についていくのに必死だ。

 少年はふと、後ろを振り返った。
 少年と目が合った王女が、目を逸らした。
(……?)
 何だろうと疑問に思ったが、後ろに続くガグルエの従者たちの長身に、視線を遮られていく。
「来い」
 ガグルエ王に片腕で軽々と抱えられた。目の前は彼の胸板で、他のものは見えない。
 熱い体温にドキドキしている間に、少年は広間を後にしていた。


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