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【下編 愛するひと】 9. 近づきたい






「アージュ様、今日のご予定はなんですか!」
 リューは着替えを済ますなり、アージュに走り寄る。
「オールディーク山脈を越え、セブに入る」
「分かりました! 手伝うことはありませんか」
「行軍に遅れないことを第一に……、いや、ノームならそれは大丈夫か。手伝うならロッダに訊け」
「はい!」
 テントの外に駆けていこうとして、思いとどまる。
「アージュ様」
 アージュの側に寄り、ぴょんぴょん飛び跳ねるが、顔に届かない。
 アージュは不可解そうにリューを見下ろしている。
(仕方ない。本当は頬が良いけど)
 リューは両手でアージュの手を取って、その甲に口付けた。
「……!」
「朝のご挨拶です!」
 恋愛小説で学んだ知識だ。恋人だけでなく、仲良し同士もしていいらしい。一緒に寝ているから、仲良しにいれていいはずだ。
(アージュ様の手、ふわふわで気持ちいい……)
 頬が熱り、リューはテントの外へ駆け出した。
(アージュ様の笑顔を見るためなのに……)
 アージュの反応を見る勇気が持てなかった。テントの陰にしゃがみこむ。
(好きなひとにアピールって、難しい……)
 これで合っているのか、見当がつかない。
 テントの側でロッダを見つけたので、今日も彼の手伝いを名乗りでた。



 ―アージュ様に笑いかけてもらいたい。
 そのために、アージュの喜ぶことをして好いてもらうのだ。
(毎日しているから、交合はきっと好きなはず)
 もっと艶めかしい夜を贈ろうと思ったけど、いざその時になると、何もできない。
(まだ、アージュ様の裸……ドキドキする……)
 夜は一旦置いておき、日中もくっつけるだけくっつけないか、狙うことにした。
(それと、薬草は役に立った)
 頭を撫でてくれたことを思い出し、リューはにやける。
(今日もいっぱい採る!)

 宿営を片して、今日は山登りだ。

 アージュはガグルエの王にして、軍にあっては総司令だ。軍を指揮している時は、愛妾のリューを側に置かない。会えるのは夜休む時だけだ。
 移動中は馬車の荷台に乗れば楽だ、と言われたけど、ロッダたちと歩きたいと頼めば許可された。今日も足並みを乱さないよう気をつけながら、周囲をよく見て薬草を探す。

「俺、王様に名前覚えてもらっているなんて思わなかった」
 隣を歩くロッダが言う。
 リューがアージュに、ロッダと仲良くなったことを伝えると、名前を教えただけで誰だか分かってくれたのだ。
「身の回りのお世話をしているんだから、以前紹介されたことがあったんじゃないの?」
「名乗ったの一度だけだぜ。一緒に五、六人は紹介されたはず」
「アージュ様、記憶力がいいんだねえ」
「……うん」
 ロッダは嬉しそうだ。鼻歌まで歌いだしたけど、坂道にすぐ息を切らして黙った。
 そんなロッダを見て、リューは複雑な気分になる。
(……アージュ様、もてなければいいのに)
 魔獣族の中でも際立って魔に近い容姿。ガグルエ兵さえも、アージュには近寄りがたいらしい。実際残忍なこともするし、冷たい態度もとる。
 けれど彼は、力も優しさも持ち合わせている。好きになってしまう者は大勢いそうだ。ロッダも以前から尊敬していたような口振りだった。

 山肌に沿った道。湾曲した道の先が、向こうの山肌に見える。
 遠くからでも、ヴィーの姿が見えた。雪上のヴィーは、宝石のように青く輝いている。その上のアージュの漆黒が、深さを増して見えた。
 アージュの隣ではフィルドが馬に乗っていた。アージュと言葉を交わしながら。

 オーラリオ首都を落としてしばらくしてから、アージュはフィルドに王の政務を教わりはじめた。今も馬上で教育を受けているのだろう。夜、アージュのテントにフィルドが訪ねてくることもある。アージュと一緒の時間が多くて、羨ましい。
(僕も、あんなに頭が良かったらな……)
 リューは自分のお腹を撫でた。リューの着ている服は、お腹に隠しポケットがあり、そこにあの日のメモを忍ばせているのだ。アージュが絵を描いてくれたメモ。リューの宝物。
 リューは、よし、と顔を上げた。
「ねえ、ロッダは文字書ける?」
「当たり前だろ。あー、使わない言葉だと、たまに綴りを間違えるけど」
「教えてくれないかな」
 文字が書けたからといって、二人に追いつけるとは思えないけど、何もしないよりは近づけるかもしれない。
「んー……」
 ロッダは渋い返事だ。
「歩きながら書けないだろ」
「設営してからなら……」
「その時は陛下が側にいるだろう。俺は邪魔する気はないぞ。陛下に習えばいいじゃないか」
「そんなの、格好悪い……」
 ロッダが吹き出し、肩を揺らして笑いはじめた。リューはむくれる。
「なあに」
「悪い。ぷ……。お前、陛下の前で格好つけているつもりだったのかよ」
「ぼ、僕なりに大人っぽく、アージュ様に気に入られるように誘惑を……」
「気に入られているとは思うけど、ペットが甘えているようにしか見えない」
 ―ばかな。
 衝撃を受けて足が止まりかけた。ロッダに引っ張られ、慌てて気を引き締める。他の兵隊の足並みを乱してはいけない。
(ペットかあ……)
 愛玩奴隷だから、それでも正しいのかもしれない。けれどリューはそこを越えたいのだ。
(特別になるには……)
 頭を捻っても、良い案は浮かばない。



 夜中、ロッダたちに混ざって、初めてのカードゲームをした。メンバーは同じ年頃の青年たちで、それぞれ携帯している食料を賭けている。賭けるものを持っていないリューは狙われていないのだけど、ぶっちぎりの最下位だ。

「お待たせしました。陛下が寝所へお呼びですよ」
 フィルドが顔を出し、若い兵たちは慌てて居住まいを正す。
「気にしないで休んでくださいね」
 とフィルドは声を掛けた。
「今行きます!」
 リューは喜び勇んで返事をした。
 ロッダたちにお休みを言って、フィルドの側に駆け寄る。
(今日は簡易な設営だから呼ばれないかと思ったけど、嬉しい)
 ロッダたちと離れると、フィルドはリューに言った。
「君のおかげで助かっていますよ」
 リューは首を傾げる。
「僕、何かしましたか」
「陛下が王になるための教育を真面目に受けるなんて、感激しています」
「アージュ様とても頑張っていると思いますけど、それが、僕のおかげなのですか……?」
 何かした覚えはない。
(アージュ様が何か僕に影響されることがあったなら嬉しいけど)
 フィルドの勘違いではないだろうか。
 理解できない、という顔をしていると、
「二人とも、鈍いですねえ」
 溜息をつかれた。二人って、誰と誰だろう。
「本当に、感謝しているんですよ。陛下には、オーラリオとの終戦で終わりにならないでほしい。陛下ほど才能にあふれた方はいないのですから」
「はい! アージュ様はすごい方です。僕もロッダも、フィルド様も大好きです!」
(やっぱりフィルド様は良い方だ)
 嫉妬してしまうこともあるけど、アージュを大切に想ってくれるフィルドのことは、好きだ。
「君は本当に、素直ですね」
 フィルドは遠くを見た。
「陛下も……、ようやく欲しいものができたのですから、欲しいと言えばいいのです」

 ―アージュ様の欲しいもの。

「それは、なんですか」
 とても気になって、前のめりになって訊ねる。声が少し、震えてしまった。
 フィルドは答えるのに躊躇した。
「それは、貴方自身で見つけてください。陛下のために」
 そう、困ったように笑う。
「まあ、どうしようもなかったら口を出すかもしれませんが」
 掴みどころのない笑顔を添えて、結局教えてくれなかった。
(アージュ様への理解は、まだフィルド様には届かない……)
 暗い気持ちになりかけて、頭を振って切り替えた。

「陛下のテントはそこですよ。それでは、おやすみなさい」
 フィルドはアージュのテントを指差し、リューに教えてくれた。
 リューは挨拶を返して、フィルドが近くにある自分のテントへと入っていくのを見送った。


 雪の途切れた場所に設置されたテント。王とはいえ、今日の寝床は簡易なマットのようだ。床の硬さが若干伝わってくる。
 アージュはリューを抱き寄せ、上掛けを引いて一緒に包まった。
 アージュの匂いに包まれ、リューは胸がどきどきしている。落ちつかないくらい意識して、けれど待ち遠しく待っているが、アージュはなかなかリューに手を伸ばしてこない。
「自分で脱いだ方がいいですか」
 リューは不安になって訊いた。
「……今夜は必要ない。明日の行軍も骨が折れるからな」
(どうして……抱かないのに呼んだんだろう)
 分からないけど、今夜もアージュとくっついていられるなら、とても得をした。
(温かい)
 もしかしたら、暖を取るために呼んだのかもしれない。
 アージュの体温を感じていると、とても幸福な気分になる。

 寝床の横に、荷物が置かれていて、その上に文字が書かれた紙があった。手に取ってじっと見るが、リューにはほとんど読めない。
「フィルドに習ったことを書きとめただけだ」
「三、……二十、……百、……薬」
 読めるところだけ読んでみる。
「”薬”は読めるのか」
「はい。アージュ様の絵のおかげです」
 大切なメモを取り出し、見せる。
「まだ持っていたのか」
「いつも身に着けています」
「……まあ、役に立ったのなら良かった」
 そう言って、アージュは横になって目を瞑る。その様子を見て、リューも起こしている上体を、横たえようとした。けれどもう一度上体を起こして、意を決した。
「あの! アージュ様さえよろしければ、文字を教えてくれませんか」
 リューの声が大きくなり、アージュは目を丸くする。リューは慌てた。
「あ、えっと、お疲れですよね。ごめんなさい」
「いや……、構わん」
 大声を出したことを許してくれたのかと思えば、アージュはリューの肩を取って、うつ伏せにした。上体を少し起こし、二人の前に、今日アージュがメモした紙を置いた。一つの単語を指差す。
「この字がガグルエ」
(教えてくれるんだ!)
 リューは真剣にアージュの指先の文字を見る。
「ガグルエ」
「なぞってみろ」
 アージュの字の上からなぞる。何回もなぞると、今度は何も見ずに指で書くよう言われ、その通りにした。
「よし、できたな。では次の字は……」
 紙の上から選ぼうとするアージュに、リューは頼んだ。
「アージュ様って書きたいです」
「…………」
 アージュはちらりと荷物を見て、また紙に視線を落とす。指先を赤く光らせ、紙をなぞるとその跡が焦げていく。すごい。けどもしかして、ペンを取り出すのをものぐさしたのだろうか。
 リューはじっと見て、書き順まで追おうとする。魔力のペンは書きにくいのか、アージュはゆっくりと書いている。
「アージュ……だ。それと……」
 隣に、もう一つの単語。
「リューだ」
「リュー……」
 アージュの名前の隣に、リューの名前が書いてある。
 とても綺麗な字に見える。リューの見る目は養われていないけど、
(丁寧に書いてくれたのかな)
 と感じた。
 二つを何度もなぞり、紙を伏せて、見ないでも書いてみせる。
「そうだ」
(……覚えちゃった)
 嬉しくて、何かが胸にこみ上げる。喜びと、出てきそうな涙を噛みしめていると、その頬にアージュの手が触れた。優しい口付けを受ける。
「また教えるから、今日はこれだけで終わりにしよう」
「はい」
 リューも不思議と充足感に満たされている。
 優しく抱きしめられると、自然と睡魔がやってきた。

 眠る前に、頭の中でもう一度字を思い浮かべる。
(アージュ様は政治で、僕は文字)
 レベルの違う学習内容。けれど、アージュと一緒に新しいことを習い始めた。
(アージュ様と一緒)
 他の人には、ペットにしか見えなくとも。
 アージュのあとを追って、下手な真似をしているだけに見えたとしても。
(隣にいてくれる……)
 なんて幸せなことだろう。
 この新しい道が、この先もずっと続いていますように。

 山脈を降りれば雪は解け、セブへと入る。
 ―アージュの愛という至上の幸福をもらい、それが幻のように消えた場所へ。

 アージュの大きな手のひらを引き寄せ、もう一度二人の名前を書く。
 正しく書けた。そう思ったら、きゅっと指を握られた。
「おやすみ」
 リューの手が引き寄せられ、その甲に、アージュの口付けが落ちた。


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