10. もしかしたら
翌日の道程は、全て下り坂。オーラリオ側の白い雪原と違って、セブ側は、枯草の中にくすんだ常緑樹が点在する。
リューはぼんやりと遠くを見ながら、足を動かした。何度もアージュのことを思い出し、自分の手の甲を見つめて悶える。
そんなリューを、ロッダは横目で見る。
「昨日もやったのか。一般兵よりマシとはいえ、床硬そう……。陛下、結構鬼畜だなあ」
ぼんやりして聞いていないリューは否定しない。周りの兵がひそひそ何か噂しだした。
数日後、軍は大きな街に着く。
セブの都……、今も、そういっていいのだろうか。ガグルエ国のものとなった元セブの都へと入る。ここで一息、兵士たちに休暇が与えられることが伝達された。
リューは隊列の中から、通りを見回した。
(何だか、商品が溢れている)
この街を出たのは二か月ほど前。その頃より活気があるような気がする。春はもう少し先なのに。
夕飯を作る匂いがそこここからして、ロッダの腹の音が聞こえた。
街に入った部隊は、大きな館を収用し、隊毎に分かれて泊まる。
リューと、アージュの近侍であるロッダたちは城に入った。
護衛や近侍しかいないので、アージュとの距離が近い。
フィルドと会話しているのが聞こえた。
「滞在は何日になる」
「政務官殿は、四日を希望しております」
「長いな……。まあいい。了承する」
「ええ、地味豊かでありながら、国政が荒れていたこの国を、政務官殿は二か月でここまで回復させました。その彼に、王の手を借りたいと頼まれれば断れませんね」
フィルドはくすくすと笑う。
「……それさえ終われば、さっさとこの国を出る」
アージュはセブにあまりいたくなさそうだ。
「駐在館にあった、陛下の体格に合うベッドは先に運び入れてあります」
「向こうの館の方が落ちつくのだが」
「セブ王室が終わったことを示すのに、陛下にこの城を我がもののように使っていただいた方がいいのです」
(セブ王室……)
ちくっとした胸の痛み。
「ねえ、ロッダ。……セブの王女様って、どうなったか知っている?」
「王女様? そんなの俺が知るわけないだろう」
「そう……」
(アージュ様なら知っているだろうけど……)
――たかが前の主家の一人だろう……。何故かばう……。
アージュの目が真っ赤に染まった時のことを思い出す。
リューが王女の話をすると、また怒らせるかもしれない。
(フィルド様なら知っていそう)
どうすればアージュのいないところでフィルドに会えるか悩むが、
(うーん。いつもフィルド様の方からひょっこり来てくれるんだよね。薬草探しの時は依頼されていたから、薬草を届けにいったけど。僕の用で、偉い方に会いにいっていいのかな)
考えがまとまらず、ロッダの荷解きを手伝いながら考えることにした。
けれどロッダに声を掛けると、断られた。
「あの人たちが呼んでいるぞ」
ロッダが指差した先には、軍装ではない異種族たちがいた。宮仕えの使用人のような服装をしている。リューがぼーっとしている間、リューのことを呼んでいたらしい。
「オーラリオの都からいままで休みがなかったと聞いております。数日のご滞在の間、陛下にごゆるりと過ごしていただけるよう、努めさせていただきます。もちろんリュー様にも」
(アージュ様に休んでもらうため。それなら僕も手伝わないと!)
使用人たちの後について、広々とした湯殿に向かう。セブで使用人をしていた頃、足を踏み入れたことがある。
「分かりました! 掃除すればいいですか。それともお湯を沸かせばいいですか」
アージュに疲れを癒してもらうために頑張ろう。
「え、いえ、すでに沸いております。どうぞお入りください」
「入る? ……あ」
「お背中を流しましょうか」
「……自分でできます。ありがとうございます」
勘違いが恥ずかしくて、リューは頬を染めた。
湯に浸かると、体が解れ、ぽかぽかとする。
(石鹸、良い匂いだった。アージュ様も同じのを使うのかな)
行軍中も抱いてくれたけど、身綺麗にできるとやはり嬉しい。
部屋を見回し、お茶の入ったポットに近づく。ポットをどけて、磨かれたお盆を覗く。
(よし、髪跳ねていない)
安心してアージュの巨大なベッドに乗りあげ、愛しいひとを待つ。
(初めてしたベッド……だよね)
アージュの笑顔と、とても仲良く、まるで恋人のように過ごした時間を思い出し、ぐっと胸が苦しくなった。
(また……どうかアージュ様の笑顔が見られますように)
お腹のポケットに手をのせて祈る。
夜も更けた頃、アージュが部屋の扉を開けた。
リューは薬の名前の書かれたメモを開き、フィルドの文字をなぞっていた。
「薬草、今日は特に多く集めたそうだな。助かっている」
毎日フィルドや衛生兵に薬草を渡していたこと、アージュにも伝わっていたようだ。
褒められて嬉しい。
「はい! セブの草花は詳しいですから」
リューは満面の笑みで答えた。
図鑑は読めないし、他の国にはつい先日まで行ったことがなかった。そのためこの城に生える植物しか知らない。今ならいっぱい役に立てる。
「明日もここにいるのですよね! 僕、庭園でいっぱい採れる場所に……」
ふと気づき、言葉を途切れさす。アージュは、あまり面白くなさそうだ。
「必要ない。もう足りている。あとはガグルエに帰るだけだからな」
ついさっきは、褒めてくれたのに。
(僕、また何か言ったかな)
不安になると、アージュの手がリューを引き寄せ、口付けを受けた。
「お前は、ガグルエのことだけ学べばいい」
アージュはリューの大切なメモを、ベッド脇の棚に避けた。
「んっ……あ……」
アージュが動くたび、リューは快楽によっておかしくなりそうだった。
「もう私無しでは生きられないだろう。……私の”これ”無しでは……」
「……
――!」
アージュを包むリューのそこが、擦りあげられながら広がる。
「こんなに広がったここを塞げるのは、これだけだ」
「ひぁあッ……
――」
「永遠に、私だけ……」
アージュの声と吐息が、すぐ側にある。
(永遠……)
彼と隙間なく触れ合うこの距離を、永遠に
――。
「アージュ様だけです……」
嬉しくて、リューは微笑んだ。こんなにもまっすぐ、彼を見たのは、いつ以来だろう。
彼の赤い目に宿る情熱。それは情欲からくるものだろうか。それとも、リューに、幾晩も共に過ごした相手に、愛情のようなものが、宿っていてくれたのなら……。
愛しい人と、何度も夜を共にしたのに、この灯に気づくのが遅くなった。
「リュー、やはりお前は……」
リューはアージュに抱きつき、その唇に口を寄せる。アージュは薄く口を開け、リューを受け入れてくれる。
体のどこもかしこも、アージュに触れるたびに快感が押し寄せる。抱き寄せられ、腰を揺さぶられ、何も考えられなくなる。心が、アージュの存在が、信じられないくらい膨れ上がる。
「アージュ様ぁ
――……!」
彼にしがみついて悲鳴を上げるだけの獣になって、理性なんて失ってしまった。
朝の光と、頭を撫でられる感覚。
すでに服を着込んだアージュが、ベッドに腰掛けている。
「おはようございます……」
寝ぼけ眼で、体を起こそうとする。
「……っ」
昨日の余韻に、まだ体が震えて、起き上がるのに少し時間がかかった。
「起きるのを、待っていた……」
「? 何かご用でしょうか」
わざわざ起きるのを待ってくれているのは珍しい。アージュと過ごしたいリューは、朝の挨拶は欠かしたくないけれど、自分で起きないとアージュは起こしてくれない。
「訊きたいことがある」
アージュは緊張した面持ち。なんだろう。
「僕に答えられることなら何でも……」
そう答えようとした時、扉の外からノックが聞こえた。
「陛下、城下へ向かう準備が整いました。いつでも出発できます」
兵士の誰かであろう声が掛かった。
「分かった。今行く」
アージュはリューの手を握り、口を開きかけて、また閉じる。
それほど、訊くのを躊躇してしまうようなことなのだろうか。
アージュはやがて溜息をついた。
「……昼、一緒に食べるぞ。その時に訊く」
質問内容を知るのは昼食の時になるらしい。忙しいアージュと日中会えることに、リューは喜んだ。
「はい!」
ベッドから離れて仕事に向かうアージュを、笑顔で送り出した。
今日のリューの服は、ふんわりと柔らかい生地でできている。温かさはいつもアージュが気にしてくれるけど、歩くたびに揺れる美しさは、いままでに着たことないものだ。
(奥向きの使用人さんってすごいな)
昨日初めて会ったばかりのリューの体格に、ぴったりと合ったローブ。鏡に映った自分が、貴族の坊ちゃんに見える。
(早くお昼にならないかな)
人族サイズの机に紙を広げ、アージュの大きなペンで文字の練習をしていたが、紙の空白がすぐに無くなってしまった。
まだ太陽は東にある。
リューは待ちきれず、部屋の外に出ることにした。
兵士にロッダの居所を訊き、厩舎に向かう。
「あ、ヴィーもいる」
ロッダはちょうど、ヴィーを洗っているところだった。水の入った重そうなバケツが並んでいる。
「ロッダ、ヴィーの世話もするんだ」
「まあね。専任はいるけど、交代で休暇を取っているんだ。そういう時は俺が面倒見ることが多い」
「そうなんだ! 弟のヴィーがいつもお世話になっております」
深々と頭を下げる。
「何言ってんだ」
「ふふふ。手伝うよ」
ブラシに手を伸ばそうとするが、
「待て」
と止められた。
「どう見ても馬小屋にいていい服装じゃないだろ。汚して怒られたら嫌だ」
しっしと追い払われた。
しょんぼりして城内を歩く。
庭園へ向かい、薬草を探すことにした。アージュには必要ないと言われたけど、他にやることがない。一人で本を読めるようになれば、学ぶこともできるだろうけど、まだそこまで文字を習得していない。
宮殿正面の庭に出て見渡す。
(少し、荒れた感じ)
手入れはされている。だが、冬越えの疲労が、例年よりも濃く出ている。
(政務官の人、大変だったって言っていたもんね)
庭園に対しては、今は力を割かなかったのだろう。
ちらりと覗いた温室は、セブに自生しない植物が多いせいか、案の定枯れ果てていた。
(ベルニルの木、大丈夫かな……)
不安になったリューは、だんだんと早足になって、それでももどかしくて駆け出した。
(様子を見て、萎れていたらどうしよう。……お昼までに戻らないと、忙しいアージュ様との時間が……)
頭の中がぐるぐるする。焦った様子のリューを見て、見回りの兵士が声を掛けてきたが、
「なんでもないです」
と答えてまた走る。
宮殿からあまり離れていない、けれど見つかりにくい場所。
花壇が組まれた宮殿正面の庭を離れ、木々生い茂る自然庭園の方へ足を向ける。
「…………」
庭師に知られると、勝手に植えたベルニルの木は間引かれてしまう。誰にも見られないように、辺りを見回す。
ちょうど日傘を差した婦人が一人。見るものの少ない庭園を眺めている。
「え……」
その人の方へ、リューはゆっくりと近づいた。
向こうもリューに気づいたようで、振り返った。
彼女の手から日傘が落ちる。お互いに驚きの表情。
「まさか……」
「……王女様……」
真上から照る太陽が、冬の冷気を忘れさせた。