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 アリエル






 本格的な冬になった。
 陽が昇るのが遅く、朝霧が中々晴れない。

「アリエル様、お外見よう」
「うん、見よう」
 アッシュの定番の遊びに誘ってもらえた。
「今日も霧が濃いね」
「ねー」

「んん。アリエル様、あれなあに?」
 アッシュが指し示す方向を見た。

 霧の中に、大きな影がある。
 宙に浮かんでいるのか、それは二階であるこの部屋と同じ高さにある。
 だんだん近づいて大きくなった。

「は……わ……」
 連なる窓を覆いつくす巨大な光る鱗の体。
 二人の身長ほどもあろうかという目が、ギョロリと二人の姿をとらえた。

「わあ、聖魚様だ」
「ひゃうぅ……」
 部屋に浸透してくる聖魚の魔力。
 アッシュはアリエルの腕にしがみついて震えている。
 ぞわぞわと鳥肌さえ立てている。
「ま、まもの……」
「違うよ。聖獣様だよ。歴史や神学の授業では……、習っていないっけ?」
 アリエルはすごく昔に家庭教師に教えられたが、昔すぎてアッシュには教えていないかも。
「この街を護ってくれる神様なんだよ。僕、そうかなっていう影しか見たことなかったから、会ったの初めて!」
 聖魚は横顔を見せながら、大きな目でじーっと二人を見つめている。
「きっと可愛い子がいるから覗きにきたんだね」
 アリエルはでれっと頬を緩めた。
 アッシュの可愛さは聖魚様も虜にしたに違いない。
―!」
 アッシュが声にならない声をあげて涙目になる。
「わあっ、ごめん!」
 怯えているアッシュに向かって、アッシュが目当てだなんて言ってしまった。

 だがアッシュはアリエルの前に飛び出した。
 キッと聖魚を睨んで、その目に水色を映す。
「アリエル様に近づくなあッ!!」
「え?」
 アリエルを背にかばって、アッシュは聖魚と対峙する。
(なんで……あ)

『可愛い子がいるから覗きにきたんだね』

(もしかして、可愛い子って僕のことだと思って……?)
 きゅんっと愛しさが爆発する。
「可愛いのはアッシュだよぉ!」
「うわあ!」
 アリエルはアッシュに抱きついて、思う存分に頬擦りした。

 気がついたら聖魚はいなくなっていた。



 満足した後はちゃんと、聖魚、そして聖獣について教える。

 はるか昔。
 人間は魔物から逃げ隠れして生活していた。
 そんな危険な世界において、魔物が避けて通る存在。
 それが聖獣だった。
 聖獣の棲み処の周りには、人が集まり村を造った。
 それはやがて都市になり国家となった。

「だから古い街には聖獣様がいるんだよ」
 とはいえ、アリエルは王都から離れたことはない。
 他の街のことは聞いただけの話だ。
「魔物は魔素から生まれる。攻撃的でなければ魔物ではなく精霊と呼ばれる。これは習ったよね」
「うん」
「精霊の中でも大きな力を持つのが聖獣様。だから聖獣様は攻撃してこないよ」
「でも、でも魔物には攻撃するんじゃないの?」
「ううん。魔物にも滅多に攻撃しないみたいだよ。聖魚様、この街で段違いに濃い種類の魔素を纏っていたから、魔物も睨まれたくなくて避けるているんじゃないかな。聖魚様はいるだけで周りを安全にしてくれるんだよ」
 アッシュの眉間はまだ険しかったが、渋々納得してくれた。
(アッシュって結構怖がりだな)
 アリエル一押しの絵本『霧の精の物語』を読むのはまだ早いかもしれない。





 寒い冬は備え付けの暖炉の中に発熱の魔法道具を置いて、その近くでぬくぬくと過ごす。
 今日の遊びはお絵描きだ。

「アリエル様、見て」
「わあっ、可愛い」
 アッシュが紙を立てて絵を見せてくれる。
 書かれていたのは、茶色い肌の子。髪は灰色を、目は紫色を薄く塗っている。
 アッシュ自身の姿だろう。
 この家に来て初めて触ったという色固筆を、見事に使いこなしている。

「あるところに、アッシュという男の子がいました」
 アッシュが語りだした。
(紙芝居! アッシュが主人公の)
 アリエルはわくわくと続きを待つ。

「そこへ天使アリエル様が現れましたっ!」
「!?」
 二枚目には、背に羽を生やした焦げ茶色の髪の子が描かれていた。
 周りにはきらきらと色とりどりの星や花が散っている。
 一枚目より格段に豪華だ。
(天使……? 僕こんなにきらきらしていないけど……)
 戸惑っているうちに、また紙がめくられて三枚目へ。

「アッシュとアリエル様は仲良くなって、ずっと一緒に暮らしました」
「!」
 描かれていたのは、手を繋いだ笑顔の二人だった。

 話を終えたアッシュは、ほんのり得意げな顔をしている。
「すごーい! 面白ーい!」
 アリエルは満面の笑みで拍手した。
 こんなにも心震わせる物語を描けるなんて、アッシュは希代の芸術家になるかもしれない。
(アッシュ、僕と仲良くなって、ずっと一緒に暮らしたいんだあ)
 緩んだ頬がぽかぽかする。
「仲良しだね」
「うん」
 絵に描かれた二人を眺めながら、アッシュとぴったり寄り添った。





「魔法……できない」
 夜、風呂を終えて髪を拭いていると、アッシュが拗ねたように言った。
「魔力生成や魔力操作は上手だよ!」
「それ分かんない」
「……そっか」
 魔法使いは珍しいから、比べる相手といえばアリエルとセーネしかいない。
 自分の力が分からなくても仕方ない。
 街を歩いていれば魔力持ちは見掛ける。
 けれど魔法を使っている時といない時では、魔力の扱い方や量が変わってくるので、比べられないのだろう。

(何か達成感がほしいよね。魔法の授業も楽しく過ごせたらいいな)
 どうにかできないだろうか。

(魔法なしで魔力を利用する方法……)
 魔法道具は魔法が使えなくとも魔力を流すことができれば使える。
 だが魔力量が少なくてすむものしか家にはないので、アッシュの魔力量の恩恵にはあずかれない。

「とっても魔力を使う魔法道具でも買いにいこうかな。そういえばアッシュの魔力量の限界ってどのくらいなんだろう」
 それによってどの魔法道具を選ぶかが変わってくる。
「さあ……」
「測ってみようか」

 二人はソファに乗りあげて、向かい合って座る。
「魔法使おうとしてみて」
「うん」
 アッシュが集中すると、吹き出た魔力が部屋を覆い尽くす。
「アッシュは体の外側でも魔力を作れて珍しいね」
「珍しい?」
「うん。僕もセーネさんもおじい様も体の内側……魔力回路ってところでしか作れないけど、アッシュは魔法を使うとき、内側の他に外側でも魔力を作っているよ」
「何が違うの?」
「すごいパワーを使えそうなの。魔力回路の許容量よりいっぱいの魔力を使えるから」
「パワー!」
「そう!」
「むむむむ」
「あ、そんなに力入れちゃだめ。急に魔力が増えると、僕が止められなくなるから危ないよ」
「むうぅ……」
「そう。いい感じ」
 アリエルの指示にうまく従っている。
(すごい。お話ししていても魔力回路の流れが安定している)
 魔法習得前に、これだけの魔力操作ができるなんて天才だ。

 部屋の魔力がじわじわと濃くなっていく。
(そろそろ限界にならないのかな。僕ならとっくになんだけど)
 本来これほどの魔力を生成すれば、体内の魔力回路がヒートして体が重くなったり不調をきたす。
 だがアッシュはこれだけ魔力生成しても表情に辛さはない。ぽやんとした顔が可愛い。

 しかし……。
「アッシュ、ごめん。一旦止めて」
 アッシュは魔力生成を止めた。
「これ以上周りの魔力を濃くしたら、何が起こるか分からないから」
 アリエルの想定外のことが起こって、アッシュに怪我させては困る。
 辺りにはまだ魔力が漂っている。
 だがそのうち魔素へと還り安定するだろう。

「アッシュがすごいってことは分かったけど、限界は分からなかったよ……」
「分かったっ」
「?」
 アッシュの機嫌が良くなっている。
 ちゃんと限界を測れなかったのに。
「アリエル様と手、繋ぐの好き。アリエル様と一緒ならもっと修行する」
「!」
 そうか。
 セーネの授業では能力に合わせて別の修行をしている。
 今はアリエルがずっとアッシュのことを見ていたから。
「じゃあ他にも色々試してみる?」
「うん!」

 後日行った魔法道具屋にはいいものがなかった。
 その代わり、家でのアッシュとの魔法研究は続くこととなった。





 春がきて、公園に花々が咲きはじめた。
 原っぱの一画、シロツメクサの群生地で花環を作る。
「どうぞ、アッシュ」
 白銀の髪に、白い花の冠をのせる。
「似合うよ」
 可愛らしくてぽーっと見惚れていると、
「僕も作った」
「わあぁ」
 アッシュは指輪を作ってくれた。
「えっと、冠は時間が掛かって……」
 アリエルに渡しながら、もじもじと言い添える。
「アッシュ、丁寧に作っていたもんね。すごく上手っ」
「……ありがと」
「見てー」
 さっそく指に嵌めてみる。
―……」
 アッシュがアリエルの顔と指を交互に見て、しばらくじっと動かなくなった。
 肌色が濃いから分かりにくいけど、耳がちょっと赤くなっている気がする。
 褒められて嬉しかったのかな。
「ありがとう、アッシュ」
「……うん」
 はにかんだ微笑みが可愛らしくて、アリエルの頬も火照った。





 春の盛り。
 アッシュと過ごす初めての誕生日がきた。

 使用人のメグは帰ってしまったが、イチゴタルトを買ってきてくれていた。
 夕食の後、ソファに座って食べる。
「アリエル様、誕生日おめでとう」
「ありがとう。アッシュもおめでとう」
「えへへ」
 今日で二人とも六歳になる。
 アッシュが誕生日を覚えていないというので、アリエルと同じ日にしたのだ。

 去年はメグが結婚で忙しくなった頃だった。
 夜はくまのぬいぐるみのメイプルと一人と一匹。
 明日公園で何をしようか。
 今度買う本はどんなものがいいか。
 いっぱい話した。

 今日はアッシュと肩を並べてのお祝いだ。

「美味しいね。アリエル様」
「ん……」
 甘酸っぱくて美味しい。なんだか胸がいっぱいで、飲み込むのが辛い。
「……アリエル様?」
 いつも笑顔のアリエルは、とても悲しそうな顔をしていた。
「どうしたの? 悲しいの?」
 アッシュが心配そうに覗き込んでくる。
 近い距離。まっすぐ見る瞳……。
「んーん……。嬉しいのに、……なんか……」
 休み休みタルトを食べた。
 どうしたのだろう。
 嬉しい日なのに。
「アッシュが温かくてね……安心するの……」
「うん」
「そしたらなんかね。胸がいっぱいなの……」


 公園ですれ違う家族連れや友人達。
 笑顔を交わすのが羨ましくて、にこにこ顔の真似をしてみた。
 アリエルには相手がいないけれど、真似をしてみた。
 そしたら誰かが気づいて、笑顔を分けてくれた。
 分けられる分を、少しだけ。
 いい子でいれば、少しだけ分けてもらえる。

 ……いい子じゃなくなったら、もらえる笑顔は、また途絶えるのだろうか……。


「じゃあゆっくり食べよう。遅くなっても、ずっと隣にいるからね」
「……―っ」
 アッシュがアリエルを抱き寄せる。アッシュの胸に頭を抱き込まれて、とても温かい。
「今日のアリエル様、あまえんぼ」
 声も温かい。
 アッシュはそれ以上何も訊かずに、たまに歌なんて歌って、ずっと体温を分け与えてくれていた。
 ずっとずっと、全身をくっつけて。


 ベッドに入り、眠る直前にお願いした。
「アッシュ……」
「なあに?」
「……ずっと一緒にいてね」
「うん!」
 抱きしめる手にぎゅっと力が込められて嬉しかった。
 アッシュの声が、体温が……、ずっと僕のものであればいい。
(霧の精になりたいな)
 霧の迷宮の主に。
 そうしたら……。
「アッシュ……」

 いつもよりさらにくっついて、二人は眠りに落ちた。





「アリエル様、これ着てっ」
 夏も近いのでクローゼットの整理だ。
 去年の服を手に、アッシュはアリエルに迫る。
「ちょっと小さいんじゃないかな」
「着てーっ」
「わ、分かった」
 きついけどどうにか着られた。
「可愛い!」
「もうっ。次はアッシュの番だよ!」

 半年前はアリエルの笑い声だけが響いていた家。
 だがもう、それは二人分の声になった。


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