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 アリエル 2






 次の年の春。
 もうすぐ七歳になる二人は、初等学校に入学した。
 ミスティア王都の二大名門校の一つだ。
 もう片方は貴族しか入れないので、アッシュといたいアリエルは必然的にこちらを選んだ。

 お揃いの制服で、毎日手を繋いで登校する。
 漆黒の外套がふわりと柔らかく揺れた。

 アッシュはもう、無気力な顔を見せていた頃の名残はない。
 アリエルと二人して、他の子のフォローもできる優等生で人気者になった。





 休日。
 居間のソファで二人で読書して、今は本を置いて休憩中だ。
「……学校でね、アリエル様が皆のもので、ちょっと淋しい」
 視線を落として足をぶらつかせながらアッシュが言う。
 二人は名門校においても優秀で、グループを作る際は分けられることが多い。
「どんな時だって、アッシュは僕の特別だよ」
「ん……」
 その言葉だけでは不満らしいアッシュは、じっとこちらを見ている。
 恨めしそうな顔も可愛いけれど、大事なアッシュには笑っていてほしい。
(どうすれば大好きな気持ちが伝わるかな)
 アッシュの指先をいじりながら考えていると、ふいに頬に温かいものが触れた。
 アッシュの綺麗な薄紫色の目が、とても近くにある。

「……キス?」
「うん」
 アリエルを窺うような視線。それはふいっと逸らされた。
(これがキス……)
 頬に残った温かさ。
 アッシュのさくらんぼ色の唇。
 初めての感覚を、一つずつ理解していく。

 そしてアリエルは笑顔になって、アッシュの頬にお返しをした。
「!」
 難しい顔をしていたアッシュの口角が少しだけ緩んだ。
 拗ねと照れが混じった控えめな笑顔がとても可愛い。
「アリエル様。キスは……僕とだけ?」
「うん。アッシュとしかしない」
 約束すると、さらに可愛く笑ってくれた。



「じゃあ今日も特訓頑張ろうっ」
「うん!」
 気持ちが上向きになったところで、魔法の特訓だ。

 アッシュはいまだ魔法を発動できない。
 最近はセーネの魔法修行は受けないで、セネクの体術修行に集中している。
 特技を伸ばした方がアリエルの役に立ちそうだから、と言っていた。
 セネクは嬉しそうだった。

 その代わり家で特訓している。
 先生はアリエル。生徒はアッシュのつきっきりだ。


 アッシュと手のひらを合わせる。
「今日集める魔素は……風の魔素だよ」
 アリエルは手に魔素を集めだした。
 できるだけ純度が高くなるように。

 大気には数十種の魔素が漂っている。
 魔法を使った後や、霧が出た後、川や森の側など場所によって構成は変わる。
 アリエルの知る限り、どの魔法を使うにしても、必要な魔素の量は保たれていた。

 今行っているのは、目的の魔素を集める修行。

 アッシュは魔力生成をする時、周りにあるがままの雑多な魔素を使ってしまっている。
 使う魔法に合った魔素だけで魔力を作った方が、効率が良く発動する。
 合わない魔力は、作っても使われず拡散を待つだけになるからだ。
 これが魔法が発動しない原因かは分からないが、とりあえず直そうと試みているのだ。



 この教育方針を決める時、アリエルは悩んだ。
(どうして魔法が発動しないんだろう?)
 魔法は才能の世界と云われる。
 できる、できない理由はほとんどが未解明だそうだ。
 アリエル自身、どうやって魔法を使っているのか、改めて訊かれると答えられない。

(発動……)
 アリエルが魔法を発動したのは三歳頃。
 赤ん坊の頃にハニアスタが訪ねてきたので、その時点で魔力持ちということは判明していた。
 そして三歳頃、与えられていた魔法道具の真似事をして、自分の力で魔法を使っていることに、メグが気づいたそうだ。
 その時すでに少なくとも風の魔法、熱の魔法が使えたそうだが、アリエルは覚えていない。
 初めての発動を覚えていないのだ。

 今は新しい魔法や魔法に挑戦する時は、純度の高い魔力を作り、ああなれ、こうなれと思いつくままに片っ端から念じていれば、そのうち発動する。

(やっぱり魔力の純度が鍵かなあ? でもおじい様は魔力生成する時、気にしていないんだよね……)
 ハニアスタはその場の魔素をそのまま魔力にして、大半の魔力を無駄にしている。
 セーネや母もそういうところはあるが、ハニアスタに比べればかなり魔素を選んでいる。
(おじい様は天才って呼ばれているから、きっと特別なんだろうな。アッシュは発動が苦手みたいだから、まずは丁寧に魔力を生成することから初めてみよう)
 平凡なやり方をコツコツと。
(発動さえできるようになれば、アッシュの独壇場だ)
 あの魔力量に皆驚くだろう。
 アリエルはアッシュが希代の魔法使いとして名を馳せる姿を夢想した。



「……これが風の魔素だよ」
 充分な純度と量になった魔素を、アッシュに見てもらう。
 いままでアリエルは魔素を引き寄せた後は、すぐに体内に取り込むことしかしていなかった。
 アッシュに修行をつけるにあたって練習したら、取り込まずその場に留めることができるようになった。

「じゃあ、手から取り込んだ魔素だけで魔力を作ってみて」
 アッシュは器用に手の周囲の魔素だけ取り込んでいく。
「…………」
 アッシュは一筋の魔力回路を作り出し、そこで風の魔素を風の魔力に生成していく。
 これで純度の高い風の魔力の完成だ。
 アッシュの魔力操作のレベルが高いからこそできる方法だ。
「いいよ。魔力になった。発動の前にじっくり風の魔素と魔力を感じてみよう」
「うん」
 目をつぶって集中するアッシュ。
 アリエルもアッシュのために風の魔素を集め続ける。

「じゃあ次は、自分で風の魔素を集めて、その魔素で魔力を作ってみよう」
「……やってみる」

 アッシュが魔素を集める。
 だがやはり全ての魔素を集めてしまう。
「もう一回お手本見せるね」
 その繰り返しだ。
 一時間ほど頑張ったが、うまく魔素を集められなかった。

「んー、次は違うことしてみる?」
 もう十種類の魔素で試しているが上手くいかない。
「平気っ。この修行好き」
「そう?」
「うん。アリエル様の手ー」
 触れ合っていた手を握られる。
「そっか。僕もアッシュの手、好き」
 そう言うと頬をふにっと挟まれた。





 同じ歳の友人ができると、様々な情報が入ってくるようになった。
「アイスクリーム」
「そう。冷たくって口に入れるととろけるんだぜ」
「おお……」
 アッシュがとても興味を持っていた。アリエルも食べてみたい。

 早速、町役場に通行手形を申請し、友人に聞いた高級レストランに向かう。
 お金はたっぷり持ったし、ドレスコードもばっちりだ。
 フォーマルなアッシュ、かわいい。

 だが、
「申し訳ございません。お子様だけではご案内いたしかねます」
「!」
 やんわりと門前払いされてしまった。

 とぼとぼと家に帰り、使用人に付き添いを頼んでみる。
 メグが出産で辞めたので、新しく雇った人だ。
「大人というだけでなく、高級店でのマナーを身につけているとか、お子様を諭せる方という意味だと思うので、私では……」
 困った様子で断られた。

 別日、家庭教師にも聞いたが、
「高級店などろくに行ったことがありません」
 とばっさり断られた。

「アリエル様のお父様、お母様に頼もう」
 アッシュは通信の魔法道具に伝言を入力していく。
「ええっ。でも甘味のことなんかで呼び出しなんて」
「えい」
「わあっ」
 止める間もなく送ってしまった。

 翌日、返信が届いていた。
『行くことはできない』と何の理由もなく断られた。



「もうっ! なんなの! アリエル様の頼みなのに!」
 今日はセーネ、セネクとの修行の日。
 アッシュは怒りをセネクとの剣の打ち合いにぶつけている。
「アリエル様に誘われたら何をおいてでも行きたくなるでしょ!」
 たあああ! と叫びながら渾身の力での連撃だ。

「アッシュー。僕は気にしていないよー」
 アリエルは離れた場所から声を掛ける。
 良い返事があるとはまるで思っていなかったので、予想通りである。
 昔ならば悲しく感じたかもしれないが、今はアッシュがいてくれるので、特に何も思わない。
 アッシュにアイスクリームを食べさせてあげられないのは残念だけど。

「二人は国王陛下と王妃殿下のお付きだ。外せぬ用があるのだろう」
 剣を交えながらセネクが言う。
「そんなことない! ミスティア王、何するもの! アリエル様は世界の王だよ!」
(世界の……王?)
 なんだろう、それ。アリエルには初耳だ。

「あ゛?」
 セネクの声が一段低くなる。
 アリエルはハッとした。
「ア」
「アッシュ。聞き捨てならないわね」
 アリエルの隣にいるセーネも静かに怒りを滲ませている。
「あ、え……?」
 二人の雰囲気が変わって怯むアッシュ。
「だ、だめだよ! 国王様を悪く言っちゃ!」

 ミスティアにおいて、王は絶対の存在で、神にも近い。
 特に高位貴族ほど忠誠心が篤い。
 そして、王に逆らう者に容赦しない。

 豹変した二人に威圧されて、
「ごめんなさいー……!」
 アッシュは涙目で謝った。


「僕を大事にしてくれているのはありがとう。けど他の人を悪く言うのは良くないよね」
「うん……」
 アッシュは見たこともないくらい萎れていた。
「あらあら。よぉく反省して、二度と言わない、ならいいのよ。ふふふ。ご両親忙しくて大変ね。レストランは私達と行きましょうか?」
 セーネは笑顔に戻っていたが、『二度と言わない』の部分に、今にも噛み砕かれそうな力が込められていた。
「えっと……あの……」
 美味しいものの話なのに、アッシュが消極的だ。
 だが逃せないチャンスなので、
「行きたいです!」
 アリエルはお礼を言って、連れていってもらうことにした。

 その後アッシュが元気になるまで撫でて慰めていたら、見学しにきたセーネの幼い長男に、
「アシュくん、あかちゃん?」
 と訊かれてしまった。



 帰り道。
「ミスティアの王様を悪く言ったのはごめんなさい」
「うん」
「でも、来ないって決めたお父様とお母様は……悪い」
「…………。アイスクリームは食べられるよ」
「食べさせてくれるのはセーネさんじゃん」
「ただの贅沢品に時間は取れないよ」

 アッシュと二人で不自由なく暮らせるお金をもらっている。
(別に、帰ってこなくていいな)
 あの人達が帰ってきて、何を言ってくるか考えるのは憂鬱だ。
 アッシュの言葉を待つのは楽しいのに。
(アッシュと二人きりが、一番幸せ)

「僕がアリエル様に美味しいもの食べさせてあげられるようになりたい」
「アッシュ……」
「僕が―」
 涙の跡。
 だがその目には、まっすぐとした意志がある。

 アリエルは言葉が出ない。
 ただ、その目に引き込まれていた。



 アッシュは使用人の料理を手伝うようになった。
 元々その時間にはキッチンを覗いたり、少し料理させてもらったりしていた。
 それがいままでより、ずっと熱心になった。





 活動的なアッシュだが、セーネとセネクに対してビクビクするようになった。
(もうすぐ約束のレストランの日なのに)
 何か対処すべきだろうか。
 そう悩んでいると、
「アリエル様見てー」
 とアッシュがご機嫌な声で呼んだ。
 なんとセネクに肩車してもらっている。
 可愛い笑顔を振りまいていて、授業前のしぼんだ表情は見る影もない。
「アッシュ、いいなー」
 アリエルが近づくと、セネクが片手を差し出した。
「わあっ」
 セネクは二人を片方ずつの肩に乗せてくれた。
「高ーい」
「ねー」
 ご満悦のアッシュを見られて嬉しい。
 だが、
「師匠かっこいい!」
 ちくっと何かがひっかかった。
 アッシュがセネクに向ける笑顔。
『師匠』という学校の友達から習った格好いい呼び方。
 アッシュがはしゃいでいて可愛い。
 可愛いけど……。
「…………」





「わあああ」
 王都郊外。
 アリエルの浮遊魔法でアッシュと二人、初夏の空へと舞い上がった。
「すごいねっ! 山より高い!」
「ふふ」
 セネクの肩車よりずっと高い。アリエルは心の中で得意になった。

 必死で浮遊魔法を特訓した甲斐があった。
 セーネの屋敷の庭でも見せたが、王都での浮遊魔法は敷地内でしかできないし、高さ制限もある。
 この高さを披露するのは初めてだ。

 アッシュの手をしっかりと握る。
 触れていなくても魔法の対象にできるが、何かの拍子に魔法が切れた時、手を繋いでいた方が焦った状態でも魔法を掛け直しやすい。

「世界って土と森ばっかりだね」
「そうだね」
 視界は大地と空でいっぱいだ。
 城壁に囲まれたいつも暮らしている街は、世界のほんの一部でしかない。
「アリエル様、あれ海かな!」
 王都から大河を北に下った方角に、陸のきわがある。その向こうの青い輝き。
「きっとそうだよ」
 そして霞んでいて見えはしないが、その先には魔族が棲む魔境大陸があるという。
「僕、海って初めて見た」
「僕も初めて」
「大きくなったら泳ぎにいこうね」
「いくー」

 家庭教師に習った地図はその通りで、でも想像よりずっとキラキラしていた。
「こんなすごい景色見せてくれてありがとう。アリエル様」
「うん。……そういえば、おじい様との旅では飛ばなかったの?」
 ハニアスタは浮遊魔法ができる。
 アッシュがアリエルの家に来る前には使わなかったのだろうか。
 それとも五歳だったから忘れてしまったのだろうか。

「…………。飛んだっ」
 アッシュは今思い出したようだ。
 驚きに目をぱっちり開いているのが可愛い。
「でも……その時は何も感じなかった」
「そうなの?」
 あの日の、アッシュの何も見ていないかのような目を思い出す。
 この美しい景色でさえ、アッシュの心に残らなかったのか。

 けれど、
「空飛ぶの楽しいね」
「うん!」
 今は笑ってくれていて、とても嬉しい。
 セネクや友達に笑いかけても、ちょっとだけ許すことにした。


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