思慕 1
暮れゆく空に心が沈む。
寺の境内の石垣の前で、幼いリーズイはすすり泣いていた。せり出した竹林が濃い影を落としている。
――どうしたの
優しい声がした。
少し年上の彼が、しゃがんで視線を合わせてくれている。綺麗な青い目にじっと見つめられて、悲しい気持ちが吸い取られていく。珍しい青い目は、彼の祖母が遠い地の騎馬民族から嫁いできたからだそうだ。
見つめられると、なんだか頬が熱くなる。
――そうか、足が痛いんだね。私も道場へ行くところだ。おぶうよ
彼が背を向けて、乗るように言ってくれた。
(いいのかな)
躊躇いながらも彼の肩に触れると、ぐっと手が伸びてきて、リーズイは彼に密着した。ずきずきしていた足から己の体重が抜けていく。
温かい背中に頬を寄せて、道場までの帰り道を揺られた。
***
柔らかい日差しを湛えた青空。
(今日の色、とても綺麗)
細身の青年リーズイは、箒を握ったまま見上げていた。
その後方で、道場のむしろ屋根を震わすような声が響く。
「終わりの挨拶かな」
集めた埃をちりとりにすくい、掃き掃除を終える。
ばたばたとした足音が聞こえて、道場から子どもたちが出てきた。中庭の石畳を駆け抜けて、門をくぐっていく。
「大兄、さようならー」
可愛らしい声に挨拶を返して、その後ろ姿を見送る。じゃれあって元気に駆け回る姿を微笑ましく感じつつも、ほんのりと羨ましさを覚えてしまう。軽やかには駆けられない自分の足を見下ろした。
(……いけない)
首を振った。
(ここは自分の部屋ではない。門弟たちの前に出ているのだから)
師範の息子でありながら跡継ぎにはなれそうもない身だとしても、少年たちにとっては兄弟子の一人。暗い顔をしていてはいけない。
塵を捨てて道具を片付けた。
(まだ大人が出てこない)
今日は同じ頃の終了予定だったはず。別々に鍛錬しているとはいえ、それほど時間がずれるものではないのだが。
門から中庭を抜けて、北面にある道場の階段を上る。軒下から中を覗くと、門弟たちが中央に集まっていた。
「あ……」
その中心に立っていたのは、すっと伸びた背に、均整のとれた逞しい体躯の男。結んだ黒髪が美しい後ろ姿。
(いらしていたんだ……、セイオウさん)
皆が残っているのも納得した。彼に指導を願る、数少ない時間だからだ。リーズイも彼の背を見るだけで心が沸きたつ。
彼の名を呼ぼうとしたが、はっと口を閉じた。
(あんなに指導を望む人がいるのに、私などが邪魔しない方がいい)
人波の向こうのセイオウの姿を名残惜しく目に焼き付けながら、リーズイはそっと道場から離れた。
中庭で短槍を振っていると、足元に長い影が降りた。誰だろう、と振り返る前に、
「リーズイ」
低く穏やかな声を聞いて、胸が高鳴る。
(話しかけてくれた……)
心の準備をして振り返り、背の高い彼を見上げる。先程は背中しか見えなかった彼の美しい顔立ちを間近に見て、リーズイは喜びを抑えて、大人らしい歓迎の表情で応えた。
「セイオウさん、ご指導お疲れさまです」
「ありがとう」
優しい微笑みをくれる。
「道場を覗いていたが、誰かに用があったのではないか」
「いえ、終わったのに帰る人が少ないから、どうしたのかなと思っただけです」
気づいてくれたんだ。ほんの小さなことが嬉しくて、とくとくと胸が鳴る。
セイオウは、この道場一の腕を持つ高弟だ。師範代としても認められていて、師範の代わりに門弟たちを指導することもある。
「二日続けていらっしゃるなんて、最近は珍しいから嬉しいです」
セイオウは王太子付きの近衛という職務についている。それが貴族としての務めであり、この道場はそれに必要な技術の一つを学ぶ場でしかない。
数年前、貴族の子息たちに対して、近衛の募集があり、それが王太子付きだと知らされた噂が立った時は、貴族たちが色めきたった。この道場にも志望資格のある者が何人かいて、試験に向けて厳しい指南を求めた。
セイオウはその募集よりずっと前から、王太子の学友として親しくしていた。早めの試験日程に呼ばれて、そこで優秀な姿を見せると、すぐに近衛になった。王太子からの信頼は近衛の中で最も厚いと評判だ。リーズイにとっても穏やかで頼りがいがある兄弟子だから、王太子が信頼するのもよく分かる。
(道場に来ない日、殿下はずっとセイオウさんと一緒にいるんだ。いいなあ)
今の王太子は非常に優れた方だと噂に聞く。セイオウの将来のために、この上なく良い縁とは知っている。それでも淋しい気持ちが胸に降り積もっていた。
今だって、ほんの少し話しかけられただけで、頬が紅潮してしまうのが自分でも分かる。
(気付かれていないといいけれど)
それとなく顔を背けようとしたが、その前にセイオウがリーズイの手を取った。目を瞬かせて見つめてしまう。
「リーズイに、話したいことがある」
「え……」
道場から、身支度を終えた大人たちが出てきた。街路へ出るには、この中庭を通って南の門を出ていく。
「こちらへ」
セイオウはリーズイの手を引いて、東面にある、この道場の主の私邸へ向かった。リーズイは持っていた槍をすぐ側の石灯篭に立てかけて、引かれるままについていく。
時折、セイオウはリーズイの足元を見て、その運びに問題がないか確かめてくれる。
「大丈夫ですよ」
そう答えると、彼は微笑みを返してくれた。
石畳の先、門弟たちに開放している敷地と、師の家を分けている垣根がある。竹で組まれた戸が付いていて、セイオウはその戸を開けることを許されている。この家の息子であるリーズイもそれに続いた。
庭では雀が落ちた実を啄ばんでいた。もう一人ここに住んでいる師は、道場で居残り稽古を望む門弟たちに付き合っている頃だろう。今はセイオウとリーズイの二人だけだ。
陽向の温かさ以上に、繋いだセイオウの手を熱く感じる。
「お茶でも淹れましょうか」
照れているのを誤魔化すように話しかけた。ゆっくりしてもらって、少しでも一緒にいたいという気持ちもある。
軒下の長椅子を勧める。昔は何度も並んで座った場所。子どもの頃の二人の声が聞こえるような気がした。
「いえ、すぐに済みますので」
セイオウの返答は素っ気ないもので気落ちしたが、顔には出さないようにする。
(……すぐに済むなら、どうして場所を替えたのだろう)
不思議に思って彼を見つめると、彼の澄んだ目が閉じられた。
「あなたが好きです」
低くも澄んだ声が心地いい。もっと彼の声を聞きたい。そう思いながら、
「……え……」
信じられない言葉をもらったことに気づいた。白昼夢でも、見ているのだろうか……。
「好きです」
もう一度告げられる。握られた手が、高く引き寄せられて、彼の唇に触れた。
(セイオウさんが……僕を……)
ずっとセイオウに憧れていたリーズイは、体中を駆けのぼってきた熱りにあてられて、隠しきれないくらい真っ赤になった。