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 思慕 2






 小さい頃から、セイオウはとても優しかった。

 リーズイがこの王都に住むことになったのは、まだ幼い頃。馬車の事故で両親を失い、自身の足も思うように動かなくなってからだ。同郷の親戚には働き手になりそうにないリーズイは迷惑がられて、会ったこともなかった遠い親戚のリーゴウに引き取られた。

 独り身のリーゴウは、武術の道場主だった。彼は道場を開けている時間は、リーズイを道場に居させた。暗い表情のリーズイから目を離さないようにしていたのかもしれない。
「……っ」
 けれどリーズイは、飛び交う大きな音と声に怯えて小さくなるばかりだ。
「ほら、体を動かした方が楽しいぞ」
 リーゴウは子ども用の木の棒を渡し、子どもの門弟たちが集まっている中へ放りこんだ。戸惑うリーズイが縋るような視線でリーゴウの姿を追う。だが彼はもう離れて、巨体の高弟たちに囲まれていた。
(……武芸のおうちなんだから、頑張らないと……)
 いつか引き取ってくれたリーゴウの役に立ちたい。自分の足の状態をまだ理解していなかったリーズイは、必死に頑張った。
 ……だが、他の子と同じように棒術の型を真似しても、できない動きがいくつもあって、すぐに皆の動きから遅れてしまう。
(もう歩けるのに……。体ってこんなに動かないものだっけ……)
 リーゴウは腕の良い大人たちの相手をしている。子どもの指導を担当している兄弟子は、全員に目を配る余裕はない。
 泣きそうになっていると、ぼんやりとした視界に、青い色が映った。じっとこちらを見ている、少し年上の男の子がいる。綺麗な顔立ちと艶やかな黒髪。彼の青い目がくりっとこちらを見ていた。
(あのお兄ちゃん……セイオウくん)

 初めて道場に連れてこられた日。
 その時もセイオウの容姿に目が釘付けになった。リーゴウが道場に足を踏み入れるなり、親しげに話しかけてきたセイオウ。けれどリーゴウから、
「養子をとった。リーズイだ」
 と紹介されると、セイオウは口を固く結んでぷいっと顔を背けた。
 それから話しかけられることはなく、リーズイの方も不機嫌な彼に話しかけづらくて関わらなかった。

 そのセイオウが今、じっとリーズイの様子を見ている。他の子どもと違い高弟から指導を受けている彼は、休憩中のようだ。
(あ、あれ……)
 彼に気を取られて、リーズイはさらに型が分からなくなった。戸惑っていると、セイオウが口を結んだまま近づいてくる。そして、リーズイの目の前に立った。
「…………」
 何か考えている様子で立ちつくしている。やがてその結んだ口が、仕方がないな、というように柔らかくほころんだ。
「大丈夫だよ。後で一緒に復習しようね。今は少し止まって、大兄の動きをよく見てみよう」
 初めて側で聞いた優しい声と綺麗な笑顔に、リーズイは見蕩れた。
 型の通しの稽古が終わった後、セイオウはリーズイを連れて道場の隅に移動し、もう一度型を見てくれた。
「よく覚えているね。しっかり大兄の動きを見ていたんだね」
 セイオウに一対一で見てもらうと、できなかった動きができた。
「足を痛めてからの体重移動に慣れていないのだろう。反復していれば、そのうちきっと速くできるようになるよ」
 優しくて柔らかい手が、リーズイの頭を撫でる。
―……っ」
 封じていた甘えた気持ちが、一気に膨れ上がった。甘える相手を失って、渇望しながらも手放した気持ち。セイオウは周りに見られないように、そっとリーズイの顔を隠してくれた。我慢していた涙が、ぽろぽろと流れた。
「……先生は大雑把だから、小さい子の世話をするには、ちょっと気が利かないかもね」
 リーズイを撫でながら、セイオウは困ったように言った。
「でも失敗しても気を悪くする方じゃないから、安心していい。できることから少しずつしてみよう。他の皆も優しい人ばかりだ」
「……はい」
 ゆっくりと掛けられる声が優しくて、リーズイは段々と落ち着いていった。

(できることから少しずつ……)
 道場では、子どもは体術と棒術を習い、武芸の基礎や護身術を身に着ける。大人は武官志望が多く、最も一般的な武具である長槍を中心に教わる。リーゴウは幅広い武具の扱いを会得しているため、他に剣や長刀も教えている。
 セイオウは子どもでありながら、短槍を習っている。
「本当は長槍がいいんだけど、それはあの石灯篭より背が高くなってからと言われた」
 中庭の隅にある石灯篭は、セイオウより拳二つ分ほど背が高い。セイオウは少しばかり不本意そうだった。
(槍……)
 短槍と長槍の差がよく分からないリーズイには、それだけですでに大人っぽく見えた。
「おじ様。僕、短槍を習ってもいいですか」
 道場が終わって中庭に出てきたリーゴウに頼んでみる。
「リーズイが使っている棒は、短槍と同じ長さだから同じ動きができるよ」
「けど、先っぽがセイオウさんと違います」
 木製とはいえ、セイオウの柄の先は槍の形になっている。
「それはリーズイがあの高欄まで背が伸びたらな」
 道場前の短い階段の欄干。その端の高欄に、リーズイは走り寄って精一杯背伸びする。リーゴウに振り返ったが、彼は無慈悲に首を横に振った。

 今日は医者が訪れる日だ。
「お父上に武芸を習っているのかい。適度に体を動かすことはとても良いことだ。ただし一度にする時間は抑えるんだよ」
「はい」
「……では師範」
「はい。リーズイ、父さんはお医者さんと話があるから、外で遊んでいなさい」
 リーゴウに促されて部屋を出た。体を動かすことは良いことと言われたので、中庭で棒術の練習でもしようかと、一旦は外に向かおうとした。だが足を止めて、台所に向かうことにする。今、リーズイは台所仕事を覚えている途中なのだ。
(お客様にお茶を出そう)
 少しでも役に立とうと、懸命に湯を沸かして、慎重にお茶を淹れて、二人が話している部屋へと戻る。部屋の前に立った時、
「あの子の足はもう治りません……」
 医者の本当の診断を聞いてしまった。

 庭の長椅子に座っていると、道場の方から活発な掛け声と、激しい足運びの音が聞こえる。現実味のない、遠い音。
(治らない……)
 聞いてしまったこと、リーゴウには知られていない。急に道場に来なくなったリーズイを見てリーゴウは、
「あまり面白くなかったか……」
 そう残念そうに呟いていた。
(武芸の家なのに……)
 自分を引き取ってくれたリーゴウに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 無気力なまま日々を過ごす。
 リーゴウの屋敷は中央に中庭があり、四方を建物と塀が囲んでいる。中庭の北には道場。東の房はリーゴウが生活する邸宅。西の房には広間や客室があり、大人数での食事ではここを使う。南には門があり、屋敷から出るにはここを通る。
 四角い中庭で、雀がつんつんと歩いている。
(僕と同じ……、違うや)
 鳥は空を飛べるから、足は頼りなくていいのだ。

「先生いるかい」
 東房の庭の長椅子で本を読んでいたら、セイオウが垣根の向こう、竹の格子戸から覗いて声を掛けてきた。リーズイは雲でも掛かったのようにぼんやりとした頭が、セイオウを見て少し軽くなったのを感じた。
「おじ様は朝からお城に行きました」
 リーゴウはいつもより早起きして、あくびをしながらリーズイの髪を結んで出掛けた。
「日が暮れる前には帰ってくるそうです」
「ありがとう。先生が帰ってくるまで道場で待っていようかな」
「今日は誰もいないので、鍵が掛かっています……」
 リーズイの声が小さくなる。
(鍵、どこにしまってあるんだろう。知っていたら開けてあげられるのに)
 伝言しかできない自分に落ち込む。
「そうか。じゃあ出直すよ」
「あの、待つならここに座っていてください」
 庭の戸を開けて、セイオウの手を引っ張る。
「先生がいないのに勝手に入っていいのかい」
「あ……」
 いいのだろうか。分からないけれど、リーズイが引っ張ってしまったせいで、もうセイオウは庭の中に入っている。リーズイが泣きそうな顔をすると、
「いや、つい疑問に思っただけだ。先生はおおらかだから気にしないな」
 セイオウは明るい声を出して、リーズイの手を引いた。元いた長椅子に座らせて、自身もその隣に座る。
(……よかった。おじ様、気にしないんだ)
 リーズイはほっとした。
 セイオウと話題がなくて、読んでいた本の内容をぽつぽつと話した。会話が途切れると、リーズイは正面の庭を見るしかない。豊かに茂る草木。リーズイが名前を知っているのは、足元に咲いているたんぽぽくらいで、ずっとそれを見て顔を伏せていた。
「この椅子に座ると垣根で道場が見えなくなるんだな。空と高い木だけが見える。都にいることを忘れそうだ」
「……外は木以外に何かあるのですか」
「ここは都だから、たくさんの人がいる。家が連なって、もう少し中央へ行けば商店もある」
 商店。聞いたことがある。行商ではなく、がっしりとした建物の中に商品がたくさんあるらしい。
「先生と出掛けたりしないのかい」
「はい。おじ様はお忙しいし、僕は足が遅いから……」
「……そっか」
 セイオウは眉根を寄せた。
「先生が一人で子育ては無謀だ」
 そしてじっとリーズイを見つめている。しばらくして、何か気になったのか、長椅子に手をついてリーズイの後ろを覗きこんだ。
「髪、あまり適当に結うと変な癖がつくぞ」
 髪紐が解かれる。ぎゅうぎゅうに縛られていた感覚がなくなって楽になった。
「おじ様が結ってくれたんです。いままで母様にしてもらっていたから」
「結び方を教えるよ。先生よりは上手くできるから」
 セイオウは自分の髪を高い位置で留めている。道場で長く艶やかな黒髪が揺れる様子はとても華やかで、あんな風になれるのかと、ほんのり胸に期待が湧いた。セイオウに頼まれて、リーズイは家の中から櫛を持ってくる。
「ここに座って」
 セイオウは深く椅子に腰掛けて、自分の足の間にリーズイを座らせた。温もりを感じるとても近い距離。戸惑っているうちに、髪に櫛があてられる。リーゴウがする時のように無理に引っ張られることはない。引っ掛かっても、ゆっくり何度も優しく梳くだけで、するっと櫛が通るようになる。
「梳かすとさらさらした髪だな」
 近くで響くセイオウの声が心地良くて、なんだか体がぽかぽかする。
「ほら、今度からこのくらいになるまで梳かすんだぞ」
 自分の髪に触らされる。環境が変わってから気にしていなかったけれど、以前はこのくらい素直な髪だった覚えがある。
「じゃあ、結んでごらん」
 こくんと頷いて、紐と髪を手に挑戦してみる。後ろ手って難しい。間違っていたら、セイオウの指が正しく直してくれる。ただしセイオウの手伝いがあった時は、また一からやり直しさせられる。結構厳しい人だ。ようやく一人でできて、特訓は終わった。
「上出来だ。今度会った時ひどい結び方に戻っていたら、また特訓だよ」
 リーズイの一つ結びを指で弾いて遊んでいる。
(くすぐったい)
 それでもセイオウが構ってくれるのが嬉しくて、大人しく黙っていた。
 しばらくすると飽きてきたのか、弾く感覚が長くなっていく。
「先生遅いね」
(……そうだった)
 セイオウはリーゴウを待っていて、リーズイはたまたまいたから話し相手になっているだけだった。急に、沈黙が気になる。
(特訓でいっぱい時間経ったのに、おじ様帰ってこない……)
 もしかして手持無沙汰だったから厳しくしたのだろうか。
 リーズイはもともと大人しい方だったのに加えて、最近はさらに話すことが苦手になっている。つまらないと思われていないだろうか。後ろから抱きしめられているから、セイオウの表情は見えない。
「リーズイは……」
 彼が口を開き、リーズイはびくっと身を竦めた。
「収まりが良いなあ」
―っ」
 より深く抱きしめられて、ぽふっと頭に重みが載った。セイオウがリーズイの頭の上に頬を置いている。
「黙々と練習して、とても可愛い。私の話をよく聞いてくれて、教えやすいし抱っこもしやすい」
 結んだ髪が、ゆっくりと揺らされる。
「ぽかぽかしていて、眠くなる」
 日差しだろうか。それとも、この……くっつきあった体だろうか。
「どうした」
 温かさが心地良くて、涙がぽろぽろと零れる。覗きこんでくるセイオウが、心配げに顔を曇らせた。
「僕……」
 しゃくりあげながら、不安だった心が、零れ出てきた。
「……ここにいて、いいの……?」
―……」
 セイオウは痛ましげに顔を歪めた後、
「ああ」
 優しい声でそう言った。彼は後ろから覗きこむのをやめて、リーズイを横向きに膝に座らせて、胸に引き寄せた。セイオウの着物の襟に涙が吸いこまれる。リーズイが泣き止むまで、彼は抱きしめていてくれた。

 空が赤くなった頃、リーゴウが帰ってきた。庭で二人、うつらうつらしていたところを見つかる。
「先生、申し訳ありません。勝手に庭に入ってしまって」
「リーズイが招いたんだろう。もちろん構わないぞ。リーズイ、セイオウと楽しく話していたのか」
 あまり上手に話せなかったけれど、
「……楽しかったです」
 リーズイは静かながらも、目をきらきらさせて答えた。
「私も楽しかったよ。先生を待つ時は、また話し相手になってくれるかい」
「っ……、はいっ」
 これからも来てくれるんだ。期待に満ちた目をセイオウに向けていると、リーゴウが呟いた。
「ずっと塞ぎこんでいたのに……」
 リーゴウは目を細めて、とても嬉しそうにした。
「……そうか。私もこの家で一人は寂しかったからリーズイを引き取ったのだが、よく考えれば、私は留守にしがちだから、リーズイに寂しい思いをさせてしまうな」
 リーゴウも寂しかったと聞いて、リーズイは目を瞬かせた。
「セイオウ、気が向いた時でいいから構ってやってくれ。庭だけでなく家の中……屋敷中を好きに入っていい」
「よろしいのですか」
「いいのですか」
 セイオウとリーズイ、二人の声が重なって顔を見合わせた。
「ああ、セイオウなら安心だ。それにここはリーズイの家でもあるんだ。一緒に遊びたい子を招いていいんだぞ」
(……僕の家……)
 セイオウが言っていた通り、リーゴウは優しい人なのだ。
「それにしても、二人はすっかり兄弟のようだな」
「……兄弟」
 セイオウが呟いた。リーズイが見上げると、セイオウがふわっと柔らかく微笑んだ。綺麗な笑顔に引き込まれる。
「セイオウ、良かったら夕食をどうだ。まあ、ほとんどは買ってきたものだがな」
「はい、ぜひ」
 庭から家へ入るリーゴウに続こうとした時、セイオウにこっそり話しかけられる。
「リーズイみたいな弟がいたら可愛いだろうな」
「……! 僕、セイオウさんみたいな兄様……兄上、欲しいですっ」
 勢いでつい出てしまった幼い言葉使いを直す。
「兄上、か……」
 セイオウの顔色が、少し蔭った気がしたが、すぐに微笑みが返ってきた。
「兄様でいいよ。可愛い呼び方がリーズイには似合う」
「可愛い……」
 セイオウと話していると、リーズイは急に頬が熱くなることがある。不思議だ。
「……兄様って、呼んでもいいのですか」
 真っ赤になりながら、期待を込めて訊くと、
「ああ。嬉しいよ、リーズイ」
 快く受け入れてくれた。

 翌朝、セイオウに習ったやり方を思い出しながら髪を結う。
(道場に行けば、セイオウさんがいる……)
 リーゴウと並んで朝食を用意しながら、
「おじ様……」
 恐る恐る話しかける。
「なんだ、リーズイ」
 リーゴウはリーズイが身支度を一つ覚えただけで、上機嫌な声になっている。
「僕、もう一度……、武術を習いたいです」
 そう告げると、リーゴウはより一層喜んでくれた。


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