血と剣 前奏曲 1
湯気がほのかに香る。
ローブを羽織り、藤椅子に座ったイアン。風呂上がりの素足がゆったりとした動きで、跪いたロンへと伸ばされる。
「粗相はもうしないと言っていませんでしたか。ロン」
「はい……、ッ
――」
ズボンの上から股間が踏みつけられた。
***
廊下に連続した細窓から、夕陽が差しこむ。
外を覗けば、城門が見下ろせる。赤く染まったブナの木の向こうに見えるのは、街へと帰っていく勤め人たち。その足取りは常より浮かれている。
今夜から秋の収穫祭が始まるのだ。
一年で最も華やかな数日。
――それにも関わらず、ロンの思考は他の気掛かりが占めていた。
「……どうしよう。あと一回しかない」
首のスカーフを直そうと手をやって、今日は着けていなかったことに気づく。
主との約束ばかりが、頭の中を巡っていた。
夏の終わりに、城主であるタリサ公イアンの秘密を知った。
吸血鬼として人の血を必要とする彼に、ロンは体を差しだした。
主の体調を心配して、偽りない真心から。
だがあろうことか、ロンはその行為に興奮してしまったのだ。
あの日
――。
主のベッドに欲を放った愚かなロンを、優しいイアンは許してくれた。
シンプルな寝衣と無造作にまとめた長い髪が、朝陽に輝いている。いつもの陰りが消えて、ただ美しくロンの目に映った。
「ですがやはり……、食事するところをおかしな目で見られるのは抵抗があります」
「う……」
困ったように言われた。当然だ。
「心苦しいですが慣れていただかないと。血で興奮した私がどんな仕打ちをするか分かりません」
前に剣を向けられた時を思い出す。……怖い。
「ですから」
イアンはロンと正面で向き合い、真剣な表情をした。
「早めにお仕置きして、駄目なことと覚えてもらいます」
「はい」
ロンも神妙に承服する。
「どうして興奮してしまったのか、どういう悪いことをしてしまったのか、ちゃんと口にして反省できますか」
「もちろんです」
答えてから、ロンはふと思い至る。
(……優しい状態のイアン様の前で、お仕置き……?)
うずくものが胸に広がる。考えている途中で、イアンの手がロンの頬に触れた。
「いい子ですね。昨夜のことはもういいですよ。男だから仕方のないことです。次から我慢しましょうね」
「はい」
悪いことをしても、こんなに優しく許してくれる……。期待するように吐息が熱くなった。
「駄犬の可愛さとは、こういうところか」
「え?」
己の鼓動がうるさくて、呟いたイアンの声がうまく聞き取れなかった。
「いいえ。もしかしてロンの堪え方が足りないのではなくて、私の吸血の仕方がいけないのかと思いまして」
「イアン様は何も悪くありません」
どうすれば我慢できるかロンにはまだ分からないが、主を悩ませたくない。
「ありがとう。ふふ、それではロンが我慢できるようになるまで、私なりに厳しくいきます」
「どのようにでもお叱りください」
「ああ、ですがそれも可哀想です」
体温の低いイアンの手に、頬と頭を一緒に撫でられて、ロンはすぐにでも悪いことをしてしまいそうになった。
――そして、二か月ほど経った。
ロンはイアンの吸血の際、毎回悪いことをしていた。
(あんなに気を使ってもらったのに、情けない……)
イアンもさすがに業を煮やしたのだろう。
――何度してもすぐ出してしまいますねえ。十回目にはいつもより厳しめのお仕置きをしますよ。
と言い渡されてしまった。
「あと一回……」
収穫祭の間、ロンはイアンの身の回りの世話を担当する。
前回の吸血から時間が経っている。イアンがお腹を減らしていることは想像に難くない。
夜が、待ち遠しい。
今夜始まった収穫祭は、四日間続く。この街の多くの者が仕事を休む。
ロンは全日仕事だ。去年より興味が薄まっていたので、他の者に休みを譲ったのだ。
(イアン様は城にいるわけだし)
彼は領主として明日の昼に顔を出して、それで終わりだ。ロンもついていくので祭りの様子は見られる。そこで気になるものを見掛けたならば、勤務時間外に行けばいい。
(近侍の役目、本当に増えた)
近侍の仕事は、主の望みや他からの用を取り次ぐことや、予定管理に警備や荷物持ちと多岐に渡る。ただしそもそもイアンが自分でこなしてしまう人だから、一人で足りるし交代も容易だ。人手が足りていないとは思えない。
(仕事が回ってくるのは、家宰の方のご指示かな)
ロンの本来の仕事は軍の補給や備蓄管理だ。この城では兼任や融通はよくあることだが、四日連続で別部署になるのは珍しい。
(補給の仕事ぶりが悪いせいで追いやられて……いや、それはないか。近侍はイアン様直属みたいなものだから、どちらかというと出世のチャンスだし。……それとも、誤解されて気づかわれている?)
近侍は主と馬が合うに越したことはない。そして城の人々は、ロンとイアンが良い仲だと思っている節がある。
確かにロンは、イアンの寝室に泊まったことが何度かある。しかしあれは食事であって、一度もそういうことはない。……ロンが勝手に感じて、そのまま眠くなってしまうだけだ。
(俺が勝手に……)
時を告げる鐘の音。ロンは主の元に向かった。
城主家族の居住区。現在、このタリサ本城に住んでいる親族はいないため、イアン個人の場所となっている。
「美味しい。さすがタリサ西湖の鱒です」
今日も今日とて自領自慢をする純心な主の姿に、ロンの邪まな心は洗われた。
ロンもタリサが世界一良い邦と思っているが、出征という非常時にしか他の邦に行ったことがないので、本当のところは知らない。
「喜んでいらしたと料理長に伝えておきます。イアン様の食欲不振を一番心配している方ですから」
「子ども扱いしていませんか」
「皆さん、イアン様が大好きなんですよ」
近侍につくと、こんな歓談の機会が増える。イアンは近付き難い空気を醸し出すことはあるが、基本的には気さくだ。
「ロンは食欲が落ちることが少なそうですね」
「はい、風邪の時でも滅多に落ちないです」
「良いことですね。いつも健康な人間の味がします」
胸が高鳴った。二人きりだと吸血の話も何気なく出てくる。
「健康な方が、美味しいですか」
「ええ、もちろん」
「それは……、良かったです」
期待心が膨らんでくるのを押し隠す。
目をテーブルに移し、色とりどりの料理を眺めた。香ばしいほのかな焦げ目に、ソースが照りを加えていて、食欲をそそる。
祝祭ということで、先程の食事休憩中、ロンにも同じご馳走が出された。大満足で食べきったが、また少しばかりお腹に空きができたようだ。
イアンと目が合って、微笑みかけられたので近づく。
「ご用でしょうか」
「一口どうぞ、ロン」
イアンがフォークに魚をのせて差しだす。
「あ、あの」
「欲しそうにしているので」
表情に出てしまっていたようだ。
「私はもういただきました」
「食べ盛りでしょう。もっとどうですか」
「子ども扱いは……」
口のすぐ前に寄せられたので、観念して口を開けた。
「むぐ……、美味しいです」
イアンの皿は料理長自ら手間暇かけたものだ。一味違う。
「そうでしょう」
ふふん、とイアンは得意げに頷いた。
「ありがとうございます。でもイアン様の分が減ってしまいますよ」
「量を食べる方ではないので構いません。それに私の一番のご馳走はロンなので、たっぷり食べて栄養にしてください」
そう言われて赤くなる。
イアンは血以外の食に興味が薄いと、最近少し理解してきた。普通の食事も楽しめて、それだけでも生きていけるようだが、吸血の翌日は動作や機嫌の良さが違う。
それでも自領の名産を愛し、シェフの頑張りも褒める。民を等しく大事に思う自慢の主だ。
けれど……。
(初めて噛まれたあの日、話しかけたのが俺じゃなかったら)
イアンが心から美味しいと思うものを、永遠に知ることができなかったかもしれない。
彼を知ることができた幸運。それと同時に、もしその偶然に巡り合わなかったらという空恐ろしさも感じた。
「アップルパイは好きですか」
「はい、大好きです」
素直に口を開けると、優しい甘さが舌に広がった。