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 血と剣 前奏曲 7






 お互い服装を整えて、北の庭園で落ち合った。
 レンガのアーチの先に進むと、タリサ領主の代々の墓地がある。城の北辺は人家が少なく、雄大な平原を見下ろす丘の上で、コスモスやオキザリスが可憐な白い花を揺らしている。
「子どもの頃から気になっているものがあるんです。父は教えてくれなかったのですが」
 少し奥まった場所に、小さめの墓があった。名前部分が欠けていて読めないが、彫られた享年はおよそ二百年前だった。
「ダステーゼ大陸消失の年です」
 タリサ公の縁者で、名無し。条件は揃っている。
 イアンが腰を屈めて、
「それでは調べてみましょう」
 ひょいっと石を持ち上げて横に避けた。
「うう……」
 祈りを捧げてから、ロンは用意してきたスコップで掘りおこす。
 埋まっていたのは、年月は経っているが普通の棺桶だった。イアンが躊躇なく手を掛けると、釘が抵抗もなく崩れて簡単に開く。そこには人骨も、その痕跡もなかった。
 ただ一つそこにあったものを、イアンが手にする。
「それは……石版ですか」
「はい。千年ほど前の古語が彫られています。そこまで古い代物には見えないので、二百年前に暗号代わりに作られたのでしょう」
 ロンには書いてある内容がさっぱり分からない。
「イアン様は読めますか」
「私にもすぐには。外部の学者には依頼できませんね。吸血鬼の血脈や魔族に言及していたら困る。自分で解析するしかないか」
 助けたいが、ロンの教養ではどうしようもない。
 イアンはとても憂鬱そうな顔をしていた。解析が大変なのは分かるが、それ以上に深刻そうに見える。
(……?)
 もしかしたら今、ある程度は読めたのかもしれない。タリサ公の当主に伝えられた秘密の石版の、その内容を。
「イアン様……」
 心配して声を掛ける。イアンは表情の憂いをひっこめて、微笑んだ。
「ありがとう。これは私の方で預かるので、ロンは忘れてしまっていいですよ」
「ですが……」
 イアンのあんな表情は初めて見たのだ。できることが何も思いつかないけれど、放っておくのは苦しい。
 先程のイアン以上に困った顔をしたロンを見て、イアンは息をついた。
「また困ったら声を掛けるので、今日のところは本当に忘れてしまってください」
「はい……」
 これ以上言ってもイアンを困らせるだけだろう。素直に頷く。
 無力さに気落ちしていると、
「ロン」
 穏やかな声で名を呼ばれた。
「貴方が色々気づいてくれたから、これを見つけられました」
 イアンが一歩近づいた。綺麗な顔がすぐ側にある距離。
「尽くしてくれる可愛い家来にご褒美です」
 柔らかい唇と硬い歯が、ロンの頬を甘くかじった。



 墓を元の状態に戻した。
「戻りましょうか」
 イアンは石版を布で包み、ロンはスコップを手に、枯れ色に染まり始めた芝の上を歩く。
 彼の背を見つめる。頬にはご褒美の感触が残っている。
(イアン様……)
 風の冷たさが冬の訪れを予見しているのに、体から温かさが湧きあがってくる。
(好きです……)
 熱りで涙腺が緩むのが、一番困った。
 前を歩くイアンに気づかれないよう、そっと手で抑える。
「北側でも音楽が奏でられていますね。明るい曲調ですが、何の曲だったでしょうか」
 イアンが振り返った。そしてロンの顔をじっと見る。
「あ、あの、何か」
 気付かれたかと内心慌てていると、イアンが表情を和らげる。
「土埃がついた手で、顔に触らない方がいいですよ」
 笑いながら手袋を取り、色白な手でロンの顔を拭ってくれた。



 収穫祭へは馬車で向かった。
 イアンと向かい合わせで座り、窓から華やかになった街の様子を眺める。領主の馬車と気づいた住民が手を振ってくる。イアンはそれににこやかに応えていた。

 中央広場の近く、役場の敷地に馬車を止める。
「まだ少し早いので、準備が整うまでお待ちください。役場の中でご休憩なさいますか」
「いえ、馬車の中で構いません」
 街の様子について話していると、外の警備に声を掛けられた。ロンが扉を開けると、両手いっぱいの花束を渡される。
「あはは、道行く人にいっぱいもらったみたいです」
 イアンの人気に、ロンは鼻高々で顔を綻ばせる。車内には花の香りが広がった。
「……ロン」
「はい」
 イアンが自分の後頭部に手をやる。長髪を結ぶ真っ赤なリボンを解いた。滑らかに光を揺らして、背に流れ落ちる髪。
「お祭りですから、お洒落しましょうか」
 手を引かれて、隣に座らされる。花束は元の椅子に置いた。
「あの……?」
 イアンはロンの襟にリボンを回して、タイとして結んだ。
「似合っていますよ」
 襟を正し、ベストに付いた花粉を払って彼が言った。
(そうかな)
 イアンのような美形ならしっくりくるが、ロンのような普通の男には華やかすぎる色合いだ。
(けど、ご褒美みたいで嬉しい)
 照れながらお礼を言った。
「では、ロン」
「はい」
 イアンが馬車の外、広場を指差す。
「昨夜、粗相した回数分、知り合い三人に挨拶してきなさい」
 ―違う。お仕置きだ。


 馬車から一人降りた。イアンが周りに適当に説明しているのを尻目に、正面門に向かい、脇の小門に手を掛ける。
(た、ただのリボンだ)
 イアンのものとすぐ分かるような特徴はない。だが触り心地も艶も上等品で、勘が良い人にはもしかしたら分かるのかもしれない。
 どきどきする。イアンとロンが特別な関係だと、他の人に見せつけているようだ。
(本当のところは、俺だけが勝手に……だけど)
 ロンは昨日ようやく自分の心に気づいた。そして、それが一方的なものだということにも。
(リボンに気づかれたら、イアン様のお手付きだと思われるのかな。迷惑……かな。でも、イアン様のご命令だから……)
 覚悟を決めて、広場へと出た。

 相手は服飾に疎くて少数で来ている者が好ましい。だが慣れ親しんだ街とはいえ小さくはないので、都合良く見つけられない。
 後ろがざわめきだした。イアンが広場に移動してきたようだ。
 イアンが髪を下ろすのは珍しくて、すでに女性たちの嬉しそうな声がそこここから聞こえる。
(早く戻らないと)
 選ぶ余裕もなく、知り合いを見つけ次第話しかけた。

 幸い話題にされることはなかった。じっと首元を見てきた者はいたが、何も言われなかった。
「戻りました」
 イアンは壇上での挨拶を終えて、視察として広場を歩いていた。
 彼の側にそっと付き、命令をこなしたことを暗に報告する。
「お帰りなさい」
 祭りの賑やかさに掻き消されないよう、イアンが距離を縮めて返事した。
「屋台が並んでいるのは楽しいですね。ロンは食べ物の店が好きそうです」
 別の話題に移った。どうやらお仕置きは終わりのようだ。よかった。
「はい。よく食べるのはフィッシュサンドで、もう少し東の通りに美味しい店があるんですよ」
 今年も店を出しているだろうか。思いだしたら食べたくなったから、後で買いにいこう。
「お腹が空いていそうですね」
「はっ、顔に、出ていましたか」
「はい」
 街の人の前なのに恥ずかしい。他の近侍の涼しい顔を真似たいのだが、どうすればいいのだろう。
「申し訳ございません……」
「素敵なことだと思いますよ。誰も食は断てないのですから、楽しんだ方がいいでしょう」
「……休憩中に楽しみます」
 今は優しいイアンに甘えていい時間ではない。
「ふふ、ロンは補給隊の仕事でも、兵の志気が落ちないようできるかぎりの手を打ってくれるので、安心して任せられています」
 追い打ちで仕事を褒められた。やっぱり嬉しい。
 照れていると、イアンがロンの耳に口を近づけて、こそっと囁いた。
「ロンは私が食べた血の中で、一等美味しいですから。ずっとそのままの貴方でいてください」
(一等……)

 彼の秘密を知ったあの日、たまたま側にいただけの存在。
 けれど、誰でもというのとは、少しだけ違うのかもしれない。
 そうだと嬉しい。

 頬がほのかに温かくなる。赤くなっていないといいけど。
「…………」
 ふと、周りのざわめきの雰囲気が変わった気がした。
 街の人たちの視線の中心にいたことを思い出す。皆、今のイアンとお付きの親しげな様子を見て、目を瞬かせている。
「う……あ」
 ロンはあからさまに真っ赤になり、それがさらにヒソヒソ話の種になってしまう。
 イアンは注目されることに慣れているためか気にした様子なく、いつもの貴公子らしい穏やかな微笑みを浮かべている。

 仕事中のため逃げ出すこともできない。
 イアンは予定よりも長くゆっくりと歩く。
 ロンはひたすら彼の側についていくしかない。


 収穫祭の残りの期間、ロンは一度も祭りに足を運ぶことはなかった。

〈終〉