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 血と剣 前奏曲 6






 ほど良く沈み込むベッドの感触。
(また泊まってしまった)
 吸血鬼らしくない日当たりの良い寝室。目が冴えてしまい、夢の中に逃げられない。
 それに何より、
(服……、服……!)
 シーツの滑らかな肌触りを、全身で感じている。
 そして大きなベッドには、もう一つ膨らみがあった。
「ロン、起きましたか」
「はっ、はい!」
 イアンは寝台の背にもたれ掛り、本を読んでいる。
「そこに着替えを届けてもらいましたから」
「あの、俺……私、どうして裸……」
 記憶にないが、まさかついに情をもらって―。
「埃っぽかったので脱がせました」
「…………」
 それはそうだ。倉庫に座ったり、建物の裏手に寄りかかったりしたから。
 こっそりと落胆した。
 もそもそとテーブルに置いてある着替えに手を伸ばす。
「お心遣いはありがたいですが、叩き起こして追いだしてもらって構いません。それか、せめて居間のソファにでも放っておいてくれれば」
「ちゃんとしたベッドで寝てほしいですから。良き食事、良き睡眠は美味しい血の基本です」
 これは心遣いというより、グルメというものだろうか。


 居間で二人して朝食を取り、食後のお茶をもらう。
「収穫祭での挨拶まで、することがありませんね」
 昨日は休みの者が多く各部署の動きが鈍かったため、イアンまで上がってきた仕事も少ないようだ。
「馬を走らせるには……中途半端な時間ですし、本でも読みましょうか」
「先程の本、持ってきますね」
「ありがとう」
 ロンは寝室から本を持ってきて、ソファに座ったイアンに渡す。
「あれ」
 ソファの後ろに、何か紙が落ちていた。三つ折り……、手紙だろうか。
 イアンに訊くと、
「ああ、父の遺書です」
 と言って受け取った。
「へっ」
 先代の。
 イアンは立ち上がって本棚に近づき、薄めの箱を取り出した。
「ここに入れていたのですが、昨日のゲームの終わりに落としてしまって。拾ったつもりでしたが、まだ一枚あったんですね」
 その場所は、昨日ロンが本棚から本を落とした場所だった。つまり落としたのはロンで、先代の遺書に無礼を働いてしまったということだ。
「申し訳ございません……」
 青くなったロンを見て、イアンは少し首を傾げて、すぐに察した。
「気にしなくて大丈夫ですよ。この部屋もゲームの範囲に含めたのは私です。それに折れたり破れたりはしていませんから」
「でも」
 謝罪を重ねようとしたロンの頬を、イアンが両手で挟み込む。
「すでに読まれて役目を終えたただの手紙です。ロンは父と話したこともないのでしょう。あなたが気に掛けるのは、私の言葉だけにしなさい」
「ひゃ、ひゃい……」
「よろしい」
 頬が解放された。圧迫されたせいか、ちょっと熱い。
「物分かりのいい子なので、特別に読んでみますか」
「よろしいのですか」
「はい。とはいえ面白いものでもありませんが。実は、少し意味を取りかねている部分があるんです」
「意味……?」
「吸血鬼について書いてあるものなので、いままで他人に見せられなくて。相談にのってもらえませんか」
「それは私でお役に立てるとは思えないのですが」
 教養がまるで違う。
 ロンも士の家柄なので、年は違うが同じ学校に通った。だが、それ以外の家庭教育で大きな差がついているはずだ。
 イアンが王都で遊学していた頃、ロンは森で狩りばかりしていた。
「まあまあ。さあ、座って」
 ソファを勧められて、並んで座る。

 先代のことはよく知らない。遠くから見掛けたり、同じく城に勤める父に聞くことしかなかった。
(ふっくらした綺麗な字)
 穏やかな人柄を感じる文章だった。その最後に、切実な厳しさを込めた一文があった。

 ―ダステーゼ大陸を滅ぼした二頭の魔族から、このタリサを、大陸を守れ。古き種としての誇りに懸けて。

「どういう意味だと思います」
「どうって……アグラムとデデ……えっと、魔族と消えた大陸のおとぎ話ですよね。何かの例えですか」
「おとぎ話ではありませんよ。二百年前、実際にあった歴史です。魔王アグラムと鏡の王デディアメレジュートの戦いと、彼らの戦いに巻き込まれて消失した大陸は」
「イアン様、そんな化け物と戦えるのですか」
 驚いた。
「無茶言わないでください」
「あ、そうですよね。すみません」
「私では、あの塔を吹き飛ばすくらいがやっとです」
 イアンの指の先、窓の外に視線を送る。中庭を挟んで、城の南方に設置された石造りの塔。街とその先の平野を見渡せる……。
「そんなことできるんですか!」
「でも剣の方が感触が好き……、いえ、人でないことがばれてしまっては困りますからしませんよ」
 内緒にしてくださいね、とイアンは唇に指を当てて、可愛らしく微笑んだ。
「魔王は無茶でも、並の魔族はイアン様なら追い払えるのでしょうか」
 タリサ軍は辺境民との戦いが多く、ロンが物心ついてから魔族との交戦はない。ただキシトラーム王国は、この大陸において最も魔族が出没しやすい場所だ。魔族から身を守る術があるなら、心配が和らぐ。
 イアンは少し考えて、
「いいえ」
 と答えた。
「並の魔族相手でも、私が抑えるのは難しいと思います。遭遇はしたくないですね」
「そう……なのでしょうか」
「私の血筋は何代も人間と交わってきたわけですから、ほとんど人間ですよ。人の血を啜らないと体調を崩すなんていう欠陥は残っていますが。魔族ならきっとそういうこともないでしょう」
 ロンにとっては欠陥ではないけれど、イアンはそう思うほど苦労してきたのかもしれない。
「体調を崩される前に、いつでも吸ってくださいね」
「ありがとう」
 イアンの手がロンの首に触れて、昨日の傷跡の近くを撫でた。優しい感触と温度が心地良い。
「そういえば、イアン様。吸血鬼の伝承にある、噛まれた者を吸血鬼にする力はないですよね」
「ないと思いますよ。遺書には書いていないでしょう」
(……曖昧だなあ)
 生き証人はロンしかいないから、これからロンがどうなるかで証明されるわけか。
(俺一人)
 頬がだらしなく緩んだ。
「ところで」
 頬を軽くつねられた。
「この”古き種”という言葉、聞いたことありますか」
 慌てて真剣な表情を作り、じっくりと遺書を観察する。
「いいえ。でも……、古き種って滅びた種族という印象の言葉ですね。実際に血を受け継いでいらした先代がおっしゃるのには、少し違和感があります」
「ロンもそう思いますか」
「はい。反対に”新しい種”に当たるのはダステーゼからきた魔族ということでしょうか」
「そう考えるのが妥当でしょうが、その先に何があるわけでもなく、行き詰ってしまっています」
「うーん」
 考えてみてもこれ以上浮かばない。ロンはおとぎ話と思っていたくらいだから。
「キシトラーム王都の学者は魔族に詳しいですから、遺書のことを伏せて調べて周りましたが、新しい情報は得られませんでした。王族専用の書庫に入りたいのですが、今は話の通じそうな相手がいなくて弱っています」
 イアンは溜息をついた。
 彼がタリサ領を継いだ直後は、頻繁に王都とこの街を行き来していたが、ここ数年は足が遠のいている。調べ物をしていたのか。
 人の栄華の最上と謳われるキシトラームの都。以前は先代やイアンに随行した友人に話を聞いて、ロンも想像を膨らましたものだ。
(あれ?)
 伝聞ではあるが、何度か名前が出てきた王族がいたような。
「たしか親しい方がいらっしゃいませんでしたか」
「親しい……、バアト殿下のことでしょうか。昔は懇意にさせていただきましたが、今は」
 その名を思い出してロンは察した。今は話が通じそうな相手ではないのだろう。

 キシトラーム王家で最も病んだ者。王弟バアト。男の姿の人形を恋人のように扱い、公の場にも連れ歩くという。王国を二十年以上にも渡り操っていた奸臣を、断固たる姿勢で投獄したが、その恨みにより呪われて狂った。
 ……そんなろくでもない噂だ。
 噂だと思っていたが、イアンの様子を見ると、その一部は真実なのかもしれない。
「役目を疎かにして、恋愛などに……」
 イアンが呟く。
(恋愛……)
 ロンとは縁のない王族の話。それなのに、ロンの胸はちくりと痛んだ。

 視線を落として、なんとなく遺書を目でなぞる。
「……?」
 違和感があり、顔に近づけてよく観察する。
「何か気になることでもありましたか」
「このサインですが」
 ロンは指で示す。
「うちでは小さい頃から、親がいただいた先代の手紙を見返しているんです」
「忠に厚いご家庭ですね」
 頭を撫でられた。嬉しい。
 緩む頬を引き締めた。先代の遺書に物言いするのは、緊張する。
「先代のサインと違うものに見えます」
「え……」
 イアンはじっと見る。
「ただの擦れ……いえ、確かによく見ると、わざと手を止めているように見える。遺書でこんなミスをするとは考えにくい。偽書というのも違う。作成者の手癖としては不自然すぎます」
 先代が何か意図を持って書いたように感じる。
「間違っている文字はこれ……、続けて読むと”名無し”……?」
 言葉が一つ浮かびあがったが、
「これだけではなんとも」
 と首を捻るしかなかった。
 他に不自然な部分がないか確かめたが見つからない。
「サインということ自体に何か関係がないでしょうか」
「そうですね。サイン……、当主の名前……あ」
 思い当たるものがあったのか、イアンが顔を上げてこちらを見た。
「すごいですね、ロン」
 褒められた。嬉しい。
「今日はなにか変なものでも食べましたか」
「起きてからずっとイアン様と一緒でしょう!」
 膨れながら、彼が気づいたことを教えてもらった。


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