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 月夜 4






「隣国からの殿の暗殺のために乗り込んできたようですね。はじめは間者として散り散りに領内に潜むつもりだったようですが、この嵐で殿を暗殺する絶好の機会だと、前からこの国に入り込んでいた他の間者も集めて襲撃に及んだようです」
「間者風情が派手なことをする。斬り合いなど慣れないことをするから失敗したのだ」
 崇信の言葉を、康一郎が聞き咎めた。
「実際危なかったでしょう、殿。妹御様のことで気に入らないのは分かりますが、“婿殿”からもっと護衛の人数を借りて帰ればよかったものを」
「……。そんなことより、手勢の者以外で、弓で援護してくれていた者がいる。あの林の中だ。連れてまいれ」
「援護を?」
「ああ。この風雨の中で、矢の威力が落ちても仕留められる、目や首を正確に狙っていた。かなりの手練だ」
 康一郎の配下一人が、林に近づき呼びかける。
「殿が褒称するとおっしゃっている。出てきなさい」
「はい」
 林の中の者は素直に返事をしてきた。その声に、康一郎と崇信は聞き覚えがあるような気がした。
 出てきたのは男だが、雨で濡れているだけでなく泥で酷く汚れていて、誰だか分からなかった。
「あ、これは……。大丈夫ですか」
 近づいた配下は彼が誰だか知っているようだ。男が木の枝を杖に足を引き摺っていたので、手を貸してやろうとする。
「いえ、貴方の服を汚してしまうので。歩けます」
 崇信と康一郎は、じっと彼が近づいてくるのを見ていた。康一郎は泥の下の顔が誰か分かると、ほっと肩を下ろした。
 崇信は食い入るように見つめていて、そして、目を見開いた。
「名乗れ!」
 崇信は素早く走り寄って、彦十郎の両肩をガシッと掴み言った。ものすごい剣幕で、皆驚いた。
 彦十郎は、一瞬驚いて、そして、顔も忘れられたのか、と思い、悲しげに俯いた。
「一枝彦十郎でございます……」
 確かに今はひどい格好をしているが。崇信にとって抱いた相手というのはそんなに軽いものなのだろうか。
「……一枝―」
 崇信は衝撃を受けた。
「あれの……、甥だったのか……」
「誰の甥です」
 康一郎が突っ込んだのに、崇信は反応せず、ただ彦十郎を穴が開くほど見つめていた。彦十郎は訳が分からず戸惑う。康一郎が声を掛ける。
「お前の帰りが遅いと聞いて、身内として探しに来たんだ。足を怪我したのか」
「あ……、申し訳ありません。あと、馬にも逃げられました」
「今回は結果的に殿を助けることになったからいいが、これは鍛え直し……」
「怪我をしたのか。大丈夫か」
 康一郎の言葉を遮って、崇信が心配そうに彦十郎の肩に優しく手を掛ける。
「殿、汚れてしまいます。私、泥だらけで……」
 一歩引こうとしたが、逆に崇信の腕にギュッと抱き寄せられた。
「え、―?」
「怪我もしているし、雨にずっと当たっていたようで寒いだろう。すぐに城に帰ろうか」
 そう言って、彦十郎に横を向かせ、彼の太腿の裏と背に腕を添え、抱き上げた。
「!?」
 彦十郎は目を丸くして、一拍置いて、真っ赤になった。
「連れて行ってやるから、楽にしていなさい」
 抱き上げた彦十郎を馬に座らせつつ、自分も飛び乗った。すぐに手綱を取って馬を走らせた。慌てて家臣たちもついてくる。

 馬上に横向きの姿勢で、崇信の腕の中という状況で、彦十郎は緊張に身を硬くしていた。
 崇信の立派な着物にべったりと泥がついてしまっている。申し訳なさそうに顔を伏せる。
「すまなかった」
 彦十郎が顔をあげた。主が家臣に何故謝罪の言葉を、と不思議だったのだ。崇信は真摯な目で見つめ返してきた。
「あの夜からずっと会えなくてな。いや、それどころか彦十郎を避けもした」
『あの夜』が、崇信に抱かれた日のことだとすぐに分かった。
「私には一晩抱いていただけただけで、身に余る光栄です。殿は、お月という方とお幸せになってくれれば……」
 悲しげに目を伏せる。
「違う。お月というのは、名を知らなかったため付けたもので、お前のことだ、彦十郎」
 彦十郎は目を丸くした。
「名を、知らない……?」
「お前が一枝の甥であることなど全く予想していなかったんだ。大男を想像していたから、こんな細腰だとは」
 崇信は彦十郎の腰を引き寄せた。鍛えているのでそれほど細いとは思わないのだが、抱き寄せられる感覚に彦十郎は赤くなった。
「あの夜は熱中しすぎて名を訊き忘れるし。小姓だからすぐにまた会う機会があると思っていたのだが、後で散々後悔したよ」
「役目を移ることは、能戸様が、殿と話がついている、とおっしゃっていましたが」
「話がついていたのはお前が小姓になる前からだ。能戸は始めからお前を普請役に据える気で、小姓はそれの繋ぎだったんだよ。お前が彦十郎だと知っていたら移させはしなかったんだが、そのまま異動の予定の日が来てしまった」
「殿に、遠ざけられたのではなかったのですか」
「誰がそんなことするか。いつ何時も側にいたいくらいなのに」
 彦十郎の目から涙が零れた。
「よかった……」
 涙を拭こうとするのだが次々と零れてきてしまう。
「殿に嫌われたのかと思って、辛くて……」
「泣くな。もう決して離さないから……」
 崇信は彦十郎を抱く腕に力をこめた。嬉しくて、彦十郎の涙は止まらなくなる。崇信は困ったように眉を寄せた。
「泣く顔も可愛いから困った。……もっと、泣かせたくなる」
 崇信は懐から布を取り出して、彦十郎のぐちゃぐちゃになった顔を拭いてやる。
「早く帰ろうか。私の部屋なら存分に泣いていいから」
 優しげに頭を撫でられて、彦十郎はコクンと素直に頷いた。
「しかし、弓があれほど得意とは思わなかったな。助かった」
「はい……、私もあそこまで強い風雨の中、射ったのは……初めてでした。はずさなくて、安心しました」
 そう言って胸を撫で下ろす。
「きっと、一枝家に憑いている戦神が、あの時の私に乗り移っていたのではないかと思います」
「ははは、なんだそれ」
 生真面目な顔でそんなことを言う彦十郎が面白くて、崇信は笑ってしまった。

 城に着き、家臣らは馬上の崇信の着物が汚れていて、襲撃のことを聞き驚いた。
 能戸は別のことに驚いた。崇信の腕の中で、申し訳なさそうに縮こまっている彦十郎の姿にだ。
「殿、どうしたのですか」
 崇信はゆっくりと能戸に顔を向けると、
「探していた者を見つけたよ」
 と誰もが見とれてしまいそうな晴れやかな笑顔で言う。能戸は訳が分からず口をあんぐり開けてしまった。
 崇信の胸の中にいて、しかも彼に惚れている彦十郎は、また恋に落ちるようにその笑顔に見蕩れた。



 彦十郎は崇信とともに風呂に入れられた。蒸し風呂だったが湯もたっぷり使って、きつく結わいた髪の間まで入り込んだ泥を落とす。崇信にそんな姿を見せるのは恥ずかしくてたまらないのに、崇信は一時たりとも彦十郎と離れようとしない。
 彦十郎の方も、もし一人で入っている間に、崇信の気が変わって、また遠ざけられるのが怖くて、一人で風呂に入りたいなど言えなかった。

 そしてその後、崇信の寝所に通される。

 丸一月で、前と同じ明るい月が出ていた。ただ今日は雲が嵐に払われたためさらに明るいだろう。
 薄く照らされた部屋の中、真ん中に置かれた布団の中で、彦十郎は崇信の下に組み敷かれていた。二人の間に布はなく、肌の上に肌が滑る感覚に、
「ん……」
 と彦十郎は甘い声をあげて、慌てて口を塞ぐ。
「塞ぐな。聞かせろ」
 優しい仕草で彦十郎の手を掴み、口の上からどける。だがそれだけで、彦十郎は辛そうな顔をした。
「どうした。前に抱いた時に言ったろう。声を聞かせてくれ。好きなんだ」
「あ…あ、……、……!」
 少し喘ぎを漏らしたが、すぐに唇を噛んで我慢してしまう。
「何故聞かせてくれない。気持ちよさが足りないわけではないだろう」
「……!」
 崇信の手が触れるところをまた変える。
「可愛い……、彦十郎」
「ん……っ」
 触れる手が同じところを撫でてくる。
「乱れてくれ。一月前のように」
「!」
 そう言った途端、とろけそうに揺れていた彦十郎の太腿がビクッと強張り、開きかけていた股を固く閉じてしまった。
「お許しを……」
「な、なんだ?」
 彦十郎は顔を敷布に押し当てて、拒絶するように崇信から顔を隠した。
「お前も、私と抱き合うことを待ち望んでいたのだろう」
 彦十郎の背を撫でて、崇信ははっとした。
(震えている)
 体から湧き上がる性欲のせいとも考えられるが、それにしても震えが大きい。
「何を怯えている。私が、お前が怖がるようなことをすると思うか?」
 優しい声音で言う。
「こっちを向いてくれ」
 崇信が頬を撫でると、彦十郎はそっと振り返った。だがまだ瞳から怯えは消えない。
「何が怖い」
 崇信は彦十郎の瞳を見ながら、ゆっくりと答えを待つ。
「……。……私は、殿が怖いです……」
(うっ……)
 少しばかりへこんだが、黙ってその先の言葉を促した。
「殿にまた遠ざけられたらと思うと、怖くてたまらないのです……」
「おい、待て。だから遠ざけたのではなく、誤解と偶然が重なった不幸だと言っただろう」
「ですが……、この一か月、……殿に嫌われたと思って過ごしていくのは辛かった……。何が悪かったのか、ずっと考えが堂々巡りして、あの時乱れなければと……」
「乱れるのが、怖くなったのか」
 彦十郎の考えていることが、おぼろげながら分かった。
「すまなかった……。随分淋しい思いをさせてしまったのだな」
 崇信はもう愛撫する手を止めて、優しく彦十郎の頭を撫でるだけにした。
「いえ……、謝らないでください。殿は何も悪くないのですから」
「彦十郎……」
 その名を切なげに呟いて、目の前の彼の体を深く抱き寄せた。
「もっと私に欲してくれ。そう大人しくしていられると、次にお前と離れた時は二度と会えないのではないかという気がしてしまう」
 抱きしめる力が強くなる。
「殿……」
「私はお前を嫌ったことも、離れたいと思ったことも一度もない。だから、お前も絶対に私から離れるな。近づいてきてくれ。臣としての謙遜もいらぬ。お前の言葉も、仕草も、笑顔も泣き顔も、全て私は受け入れる」
 崇信の目は、とても真摯なものだった。
「ずっと側にいてほしい。彦十郎……」
「……はい」
 崇信の言葉が胸に染みて、体の底から、嬉しさと涙があふれてくる。
 一筋、涙が頬を伝った。それを崇信の手が優しく拭いてくれる。
「います。ずっと、殿のお側に……」
 自分から触れることが怖かった崇信の腕を、そっと掴んだ。
 閉じようとしていた股を、そろそろと開いていく。体が熱く、心臓の鼓動が大きく聞こえるが、とても穏やかな気持ちで、不要な力が抜けていった。そして自然と言葉を紡ぐ。
「殿、………ください」
 崇信の目を見つめたまま、腰を揺らした。そこが崇信に触れて、吐息をしてしまう。さすがに恥ずかしくて、彦十郎は顔を逸らした。それでもか細い声で、
「抱いてください……」
 と言う。
「ああ、抱いてやる。ふふ、淫らなことを言うお前は、可愛くてたまらん」
 彦十郎は絶句して真っ赤になった。
「この手で、とことん乱れさせよう。そしてお前が乱れた分の十倍、情を注いで、幸福を感じさせてやる」
 崇信は遠慮がちに彦十郎が揺らすのでは足りないというように、腰をぐっと引き寄せた。


「そうだ、言い忘れるところだった。終わっても勝手に帰るなよ。朝まで共に寝ていろ」
 向かい合っての激しい愛撫の最中、崇信が言った。
「っ、何か……。―! ……」
 彦十郎は絶え間なく腰を揺すぶられ、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。聞き取れない。
「命令だ。逆らったら……、次にするとき苛めるぞ」
 今にも高まりに途切れそうな意識の中で、『いじめる』の言葉が聞き取れた。彦十郎の体がビクッと震えた。それと同時に崇信は自分の腹に何か熱いものを感じ、目をやって確かめた。
「あ……、申し訳、ありません……っ」
 崇信はフッと笑う。
「苛めてほしいようだな」
 そう言って、彦十郎の頬を撫でた。

 そして彦十郎は散々泣かされることになる。
「あの脅しじゃ聞かないようだからな、朝まで逃げられないよう縛っておくか」
 彦十郎の狂いそうなほど熱くなった頭では、崇信の言葉の意味を汲み取れない。だが崇信が楽しげな顔をしているのを見ると、
「はい……」
 と彦十郎は答えてしまっていた。



 翌日は晴れ。月が出ていようと夜とは全く違う、明るい光が城下に差す。
 城の奥向き、主の私住居の庭がある。日向になった板敷の上に座って庭を眺めている二人がいた。
 後ろに座った崇信は、彦十郎を抱くようにしている。彦十郎は肩の力を抜いて、崇信の胸に背を預けていた。崇信の大きな手、長い指が彦十郎の腹の辺りに添えられている。
 それを見下ろしていた彦十郎は、遠慮がちに手を添えて、そのうち指の先をつまんで引っ張ったり、節ばったところを撫で、その下の骨の堅さを感じたり、指を付け根まで絡ませたりした。
「私の指が好きなのか」
 彦十郎の後ろ頭に寄せられていた、崇信の唇が柔らかく動いた。
 今度は崇信が絡んだ指を解いて、彦十郎の手を上から握って、その甲を撫でる。もう一方の手は彦十郎の胸の辺りに添えて、もっとくっつくよう引き寄せた。
「はい……」
「それにしては昨日は、指だけでは足りないと、他のものをねだってきたが」
 彦十郎は思い出してカッと赤くなった。
「ふふ、冗談だ。……私もお前の指は好きだよ」
 握っていた彦十郎の手を、上に引く。己のものより幾分細い彦十郎の指に、口付けた。彦十郎は小さく声をあげて、振り向いた。
 そこには崇信の、優しく微笑む顔があった。

「な、な、なんだあれ」
 いつもより崇信が仕事のため表に出てくるのが遅いと、迎えにきた能戸は、いつも無表情の主が、腕の中の彦十郎に甘い顔をしているのを見た。
 能戸は声をひっくり返して、共に来た康一郎に答えを求めた。康一郎は首を振り、能戸の背を押してこの場を静かに離れていった。
「……う、今度は私が悩みで眠れなくなりそうだ……」
 と能戸は言う。
 後ろからは主の、聞いたことがないほど機嫌の良い声が聞こえた。

〈終〉