切り裂いた爪 二章 1
暗闇の中で、金色の毛並みが揺れる。
――男を思うなど、一時の気の迷いだったんだ。
話すことができないはずの彼の口から出た言葉に、エリオンは叫びたいくらいの痛みを覚えた。
聞いたことのある言葉。彼の声。
「そんな……」
彼はエリオンに背を向け走り出した。
「待ってっ」
必死でついていくが、クーシー族の脚に追いつけるはずがない。しなやかに走る獣。美しくたなびく金色の波は、暗闇に霞んでいく。
見失って、慟哭した。どれだけ腹の底から叫んでも、胸を押さえつける痛みは薄れることなく、涙も止まらず。
「……なさい。起きなさいー!」
目を覚ますと、明るい光の中だった。目を瞬かせて、だんだんと天井と光射す窓の形がはっきりしてくる。
「良い天気よー。私外で洗濯しているから。朝ごはんできているわ」
扉の外から母スイルの声がする。
「うん。おはよう」
おはよう、と返事して、扉から離れていく足音がした。
エリオンは自分の頬に流れる涙に気づいて拭いた。
海のように青く広がる空。町の人がときたま、空を仰いでいる。
食堂の窓から、エリオンは白い小鳥を眺めていた。
「おいで」
ちぎったパンを差し出すと、バサバサと音を立てて近づいてくる。パクッとエリオンの手から奪うと、天に向かって離れていく。白い羽が陽の光に黄色くきらめいて、離れていく様を、ぼんやりと目で追った。
「……どうして」
最近時間が空くと、窓の側にいる。
「どうして、来てくれないの……」
それなのに、あれから彼に一度も会えていない。
エリオンより多分ずっと大人の男性。そして、違う種族。
結ばれた翌日から、金色の毛並みを思い浮かべては、いつ来てくれるかと胸ときめかせていた。
今は、苦しくて……、それでも待ってしまう。彼の居所を、名前さえも知らないエリオンには、待つことしかできない。
もう二年になる。
酷い夢を見ては魘される。彼がエリオンを嫌う夢。他の人を好きになる夢。二年前の城攻めで彼が死んでしまう夢も見た。
何故来なくなったか、エリオンには分からないのだ。不安だけが大きくなり、エリオンを苦しめる。
食糧や生活用品の買物はエリオンの仕事だ。前はスイルの役目だった。彼女は買い物が好きで、そのうえ財布の紐もしっかりと硬い。エリオンは料理や洗濯を担当していたが、ふさぎこんだエリオンが少しでも外に出るようにと交代したのだ。
「大変だー!」
市場に出て、食料の売っている通りを往復していたエリオンの耳に、ざわめきが届いた。
「国王が、国王が……」
国王とは、メザ国王のことだ。センユタム王室は、ハデリ王を最後に廃された。二年もすれば、メザ国王の存在が元センユタム国民にも馴染んできていた。
「国王がジャック将軍に廃されたーっ!!」
「……!」
またもや時代が、変わった。
「ゴブリンもオークも友好異種族に加わるんだと」
「いやねえ、あんなのが我が物顔で街を歩けるってこと?」
市場は人が込み合っていて、話し声が絶えない。
「あっちのお屋敷の奴隷、ほとんど非友好異種族だったよな。どうするんだろう」
「真面目な働きぶりの子もいてね。ちょっとは報われるようになるかな」
エリオンは胸を弾ませながら、人溜まりに割って入っていく。皆背伸びして、中心の張り紙を見ようとしている。
公布された条文……。
「あった……!」
『以下の種族を友好異種族として認める』
その下に羅列された種族名。その中に、クーシー族の記載があった。
「やった! よかった……」
将軍ジャックが開いた新議会で真っ先に決められた法律だった。
センユタムを攻略したことで、ジャックの権力は増大した。
貴族ではないジャックは領土や後ろ盾がなかったため、類する者無き戦績のわりに、昇位に限界があり歯噛みしていた。
だがついに二年前、メザはセンユタム領を得、その戦を成功させた将軍に、広大な領土を褒称せざるをえなかった。
終戦直後の民への配慮の手際の良さから、センユタム民の支持も得た。
ジャックをはばかる者はあと一人のみ。王だった。
ジャックは何故かさほど出世に関係のない異種族保護という政策に固執していた。それを改革を嫌う王に何度もはばまれてきたが……、ついに王まで追放したのだ。
過去にメザの大貴族エーリシスを処断した時も激震が走ったが、それでもエーリシスは人臣。此度は王だ。それも次の王を立てる気配はないとあれば、人々の不安はいや増した。
あまりの恐ろしさに、貴族達は逆に口を閉じている。
「ええと、鬼人族に有翼族に……、クーシー族ってなんだい」
「金色の毛を持った大型の狼みたいな奴らさ。随分狩られたはずだけど、今でもいるのかな」
エリオンは心を痛めた。あれから方々にクーシー族を見かけなかったか訊ねてみたけど、彼を探すどころか、同種の一人にも辿り着くことができなかった。
「メザやセンユタムでは元々あまりおらんよ。あれはルベル王国の種だ」
(……!)
はじめて聞く話に、エリオンは耳をそばだてた。張り紙から少し離れた腰程度の高さの塀に、老人と子供が座っている。良い身なりで、老人は学者か医者を思わせた。
「ルベル王国? おじいちゃん、それはどこ」
「お前が知らないのも無理ない。三十年も前に滅びた王国だからね。戦争でメザに負けて統合されたのさ」
「そこにしか金色の狼さんはいなかったの?」
「そこでしか狼さんを人間の友達として認めておらんかったのだよ。ルベルはいろんな種族を大切にしたから、いろんな仲間がいたんだよ」
「いいなー。どうして滅んじゃったんだろう」
「メザが強いからだよ。センユタムもメザに負けただろう」
「じゃあ、ルベルもジャックしょーぐんが倒したの」
「いや……」
老人は、はて、と首をひねった。
「そうそう、エーリシス将軍じゃ。あの頃の彼もジャック将軍のように若く、一躍話題になったものだ」
「……!」
エリオンは息を飲んだ。
(父が……)
「その人がいなければ狼さんいなくならなかったのにー」
子供が不満声を上げている。老人は笑いながらそれをなだめ、共に市場を後にした。
エリオンは立ち尽くしている。
クーシー族は、故国を倒した父を、どう思っているのだろう。
「いい感情が……あるわけがない」
あの人もそうだろうか。エリオンは胸を抑えた。痛い……。
「おかえり、エリオン。ねえ聞いて……」
出迎えたスイルは話しかけようとして言葉を切った。
「どうしたの」
エリオンの顔色は真っ青だった。
「ん、大丈夫。……あの、疲れたからもう寝るね」
「……そうね。休むといいわ。よくならないようならすぐ言うのよ」
スイルが買ってきたものを受け取ってくれて、部屋の方へそっと背を押された。
扉を閉めて寝台に崩れる。
「……あ…」
窓を縋るように見上げるが、いつもと同じ、青い空がつながっているだけ。顔を伏せた。頬から伝った水がシーツを濡らす。
「嫌わないで……」
目覚めた時は、真っ暗闇だった。扉の隙間から洩れる光で、スイルが起きていることに気づいた。まだ胸に重しがあるようだが、スイルに心配をかける姿を見せたことも気になって、エリオンは立ち上がって扉を開けた。
「食べられる?」
台所に立っていたスイルに聞かれて、
「ごめん」
と首を振った。
「なら水は飲んで。少しは気分が変わるから」
「うん。大丈夫だよ、もう。随分良くなった」
コップを受け取りながら微笑みを返す。
「無理しないの……」
「……。ところで、さっき聞いてほしいことがあるみたいだったけど」
「後でいいわ」
「ううん。今聞きたいな」
頭がぐるぐる同じところを回って、辛いのだ。
「そう。……あのね、ベシル様から手紙の返事が来たの」
ベシルはスイルの従兄で、彼女の実家の宗主である。エーリシスの死後、スイルの実家は、エーリシスの嫡男エリオンを隠していないかの探索を受けた。その後は特に始末は受けず、現在もメザで代々の土地を領している。
「宮廷の人にそれとなく聞いてくれたそうよ。お墓参りのこと」
メザにはエーリシスの墓がある。親戚が立ててくれたもので、まだエリオンもスイルも行ったことがない。
「それがジャックの耳に入って、ジャックの筆で許可の旨が書かれた手紙を受け取ったわ」
一応手配を解かれたとはいえ、やはりメザに足を踏み入れるのは勇気がいる。だが最大の権力者の手書きの認可があれば大丈夫だろう。
「メザの、王都か……」
(行きたい……)
ずっとここで来ない彼を待っているのは辛すぎる。いつ行こうかと話を進めようとしたが、
「別に行かなくてもいいのよ。ベシル様には聞いてみただけで……、こんなによくしてくれるとは思わなかったけど」
スイルがあまり乗り気ではない。
「私なら大丈夫だよ。たまには遠出しようかなと思うし」
「そう……」
スイルは俯き加減だ。
「……そうね。また情勢が変わって行けなくなったら困るものね」
微笑んではいるが、下手な笑顔だった。
(あ……)
スイルは立ち上がって、エリオンの飲み終わったコップを片しに背を向けた。コップを掴んだ手が、少し震えているのに気がついた。
(父さんのお墓か……)
あの日いきなり奪われた、大切な人。エリオンの目には、彼の血にまみれた首が焼きついている。
(母さんはあの時……)
エリオンを抱きしめながら、きつく目を閉じていた。
エーリシスの奥方として、ジャックとの政争やその後の情報を、人よりはしっかりと把握していただろう。
でも多分、夫の決定的な死を見てはいない。あの時必死で目を瞑っていたように。
(お墓に向かうの、怖いのかな)
エーリシスはスイルとエリオンをとても大切にしてくれた。
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高い高い天井に、シャンデリアが灯る下。
「寝てしまったのか」
エーリシスが、丸い頬っぺたの幼いエリオンの顔を覗いた。
「父様」
エリオンの目はぱっちり開いている。眠っているのは、エリオンを膝に抱いたままソファに背を預けるスイルだ。
「仕方ないな」
とエーリシスは嬉しそうに微笑む。エリオンはその優しげな微笑みに、頬を赤くした。父は世界一の美丈夫と、スイルに教え込まれているせいかもしれない。とても格好良い、憧れの男なのだ。
「エリオン、ほうら」
エーリシスはエリオンを軽々と抱き上げると、すぐにすとんと床に下ろした。もっと、とねだろうとすると、
「少し待っていろ」
と頭を撫でながら、口の前に人差し指を立てて、静かに、の合図をした。そしてスイルをふわりと抱き上げた。エリオンを抱っこすることができるスイルを、まるで羽毛のように軽々と抱き上げるエーリシス。エリオンはきらきらと尊敬の目を向けた。
そのまま階段を上っていく彼の後を追いかける。エーリシスの腕の中で、女物のフワフワとした服が揺れる。
「扉を開ける役目は任せたぞ」
エーリシスに任されたのを喜んで、エリオンはぱたぱたと走ってエーリシスを追い越した。エリオンには少し重い主寝室の扉。取っ手に両手をかけ、全身で引っ張って開けた。あまりの重さに手が痺れてしまったけれど、
「いい子だ」
そう声をかけられて頬が緩む。エーリシスは中に入っていく。エリオンも手の痺れが収まると、中を覗いた。エーリシスがゆっくりと、宝物を扱うようにスイルを寝台に下ろしていた。彼女を見つめるエーリシスの優しい眼差し。
(綺麗……)
スイルに上掛けをしたエーリシスが戻ってきてエリオンを抱き上げてくれるまで、夢見心地で見蕩れていた。
数日のうちにメザに向かう用意をした。もうすぐ乗合馬車の時間だ。
『しばらく出かけます。暖かくなる頃には帰ります』
外から取れるよう、窓に手紙を挟んだ。この家を彼が知っているかは分からないけど。
「…………」
一度挟んだ手紙を、引き抜いた。いくつかに破って、空っぽに片付けたばかりの屑カゴに入れた。
エリオンは鞄を持って外に出た。
(私は、父さんに沢山の幸せをもらった。関係ないなどと言えない)
乗り込んだ馬車が動き出す。
(彼が、父さんを……私のことも、許せないというなら……)
抱えた膝に額をつけて俯いた。
(……でも……)
にじんだ涙が見えないように、足を強く抱える。
(もう一度だけ、会いたい……)
メザ宮廷。宰相執務室。
もともと重厚な部屋に、部屋の主となった男の武具、鎧が立て掛けられていて、物々しい雰囲気を醸し出している。
「トネロワスン帝国宰相オルフィネ様が到着なさいました」
側近イオニスの報告に、ジャックは緊張を孕みながら息を吐いた。
王族ではないとはいえ相手は帝国宰相だ。敬意を示すために、しばらく使っていなかった謁見の間を整え迎える。王のいない玉座は、その前に美麗な旗を吊るして隠してある。
「はじめまして、閣下。お会いできて光栄です」
「こちらこそ、遠いところをよく来てくださった」
帝国は遠い。東にそびえるレッゼ山脈の細き道を抜けなくてはいけない。身分の高い者が通るには、あまりに険しい道だ。
(来なくてよかった)
それだけ帝国は本腰を入れてメザに干渉してくる気だ。
挨拶を済ませると、応接間へと促した。移動中の回廊にてオルフィネはふいに止まり、窓辺に向かう。
「美しい山容ですな……」
イバス大陸を東西に分かつ山脈が、青霞む地平線に連なっている。
「帰ってきたよ、こちら側に……」
オルフィネはじっと目を離さない。その表情は、どこか苦しげだ。
「オルフィネ様?」
「ああ、失礼しました。行きましょう」
掴めぬ微笑みに戻り、ジャックの方へ歩を進めた。
賑やかな市内。都の中心となる市場から通りを二つ離れた場所に、大きな馬車の溜まり場がある。国内国外の各所に馬車を送り出し、また集まってくる場所だ。
「わぁ……」
エリオンは乗ってきた馬車を降り、近くの高台に駆け登った。
懐かしきメザ王都。建物が広がる草原と、その向こうに横たわるレッゼ山脈。この高台はそれを一望できる。昔は旅の者達が必ず寄る場所だったが、今日はあまりいない。そういえば乗合馬車も空いていたから、政権の不安定さに物見遊山の旅は控えているのかもしれない。
エリオンは振り返った。その目には、王城が映る。
あの頃は父が登城するのを毎朝見送った。エリオンも幾度か畏まらない宴には出たことがある。
だが今は、
「ジャック……」
あの男が支配する城。そして国……。
視線を外し、エリオンは高台の階段を降りた。スイルと荷物を置いてきてしまっている。彼女に笑いかけると、荷物を持って、一度母の実家へと向かった。
「オルフィネ様はお部屋にご案内いたしました。気に入っていただけたようです」
「分かった。後は頼む」
官吏は報告すると部屋を出て扉を閉めた。室内には、ジャック、イオニス、ミシオが残った。
「帝国が、山脈を開発したいと……」
ついに、帝国が侵略の魔手を、山脈を越えてのばす気か。
「キシトラーム王国を刺激はしたくない。できれば止めさせたいですが」
山脈の東側の盟主がトネロワスン帝国ならば、西側の大国はキシトラーム王国だ。帝国兵が西に侵入すれば、王国も軍を起こす。その通り道となるのがメザだ。
「開発が必要な谷は、すでに帝国傘下国のものです。こちらにできることは……」
「帝国に付くか、キシトラームに付くか決めることだけだ」
「どちらにも付かないということはできないのでしょうか」
困り顔で言うイオニスに、ジャックは首を振った。
「開発を黙殺しようにも、キシトラームが抗議してくる。開発を阻止する軍も起こすだろう。かの国からレッゼ山脈に行くにはメザを通るしかない。つまり、キシトラーム軍に協力するかしないかの決断を迫られる。必ずな」
「帝国の方も、今回は挨拶だけですが、必ず協力要請をしてくる日が来ます。あの国はレッゼ山脈が欲しいわけではない。メザの先の、キシトラームを狙っているのです。メザがどちらの旗につくかは、明らかにしなければならない問題です」
「帝国が開発計画自体を止めることはできないでしょうか。帝国国内、または東側諸国の事情が変わって、他国侵略に手を出せない状況をつくれば」
「無理でしょうね。現皇帝は政敵も排除し尽くしています。一時は陰りを見せていた帝国軍も、実力のある将軍を迎えて威光を取り戻したようですし。宰相も一丸となっての計画です。簡単な政策転換はありえないと思います」
イオニスもミシオも唇を噛んで俯いた。
「メザに採れる策が少ないことを見極めた上での、今回の会談なんだよ」
ジャックが重い口調で言った。
「本来伏せて進めることもできた計画を、早い段階で我々に打ち明けたのは、あちらなりの“好意”なのだろう」
キシトラームに協力し帝国を打ち破るため兵を募るか。帝国に協力しキシトラームからの圧力に抗うために軍備するか。その期間を与えてやろうと。
オルフィネの優しげな紳士の物腰。だが振り向ける意思は、底知れぬ帝国の野望を秘めている。
「私は……」
ジャックの言葉に、イオニスとミシオは顔をあげた。
「私は、五年はこの地位に留まる」
大国に挟まれた苦しい道。だがここに留まらねばならない理由がある。
「その後はどう失脚してもいい。だが、最低でもそれだけの期間がいる」
異種族の存在が受け入れられるまでは。
「……はい。我々も、そう望んでおります」
ミシオが応え、イオニスが頷いた。ジャックが進めている政策は異種族対策だけでない。
ミシオは貴族であり高級官僚だったが、同僚の目の当てられぬ堕落に憤り、軍属に転換してジャックに出会った。
イオニスは悪徳な官僚と領主に搾取される村に生まれ、貧しい家で自分を養わずにすむよう、大柄な体を活かし年齢を隠して軍に入隊した。今の地位を手に入れてから、力ない者のために何かしたいという願いが持つようになった。
「オルフィネ様はカシュ湖をご覧になりたいと」
レッゼ山脈を水鏡に映し出すカシュ湖は、メザ一番の景観だ。
「往復で二日の距離だな。心憎い」
その間に態度を決めろということか。
「将軍、我々は貴方の決定に従います」
「この身に何も残せずとも、民に何かを残せればという気持ちは同じです。どんな苦境だって、どんと受け止めますよ!」
ジャックは笑った。冷静なミシオと、豪快なイオニス。だが瞳に宿る炎の熱さは同じだ。……人間である彼らの存在を、これほどありがたいと感じる日が来るとは思わなかった。
「情報収集を頼む」
少しでも安定する舵を取れるように。
「はっ」
国内とキシトラームの軍備状況は常に気を配っているから西側はいいにしても、東側に対して、軍が山越えする状況を想定しての情報収集はしていなかった。開発により集団の移動が可能になれば、地の理が一変する。
それに、東と西では兵法が大きく異なる。ジャックは諜報部隊や旅の者に東の戦闘の采配を聞くたびに、その多彩さと変幻自在さ、そして物量に寒気がした。
トネロワスン帝国か、キシトラーム王国か。恐らくメザの最大の選択となるだろう。
「…………」
眉間を抑える。
昇りつめた地位。手に入れた最高権力。メザにこだわりがあったわけではない。たまたま入り込む隙があった国がここだっただけのこと。
だが、ジャックの舵取りにかかったメザの幾千万人の命運を、決して疎かにすることはできない。
(重いな……)
金の毛をたなびかせ、森を自由に駆けるはずのクーシー族が……、その自由を奪われ、奪い返すために今、しがらみの中にいる。
(……エーリシス、あの男がいたなら)
生まれながらの貴族。その重さに慣れ、空気のように受け止める男だった。
……彼は、ジャックが殺した。己が望みのために突き進んできた、血塗られた道。その血の池に、どれだけの光を沈めてきたのだろう。
帝国軍備に関する書類を読みふけっていた。手元が暗く見にくく感じ、窓の外に目をやれば、陽が落ちていた。ジャックは立ち上がりランプをつけようとして手を止めた。
部屋の前の警備兵に声をかけた。
「一時間ほど出掛けてくる。ミシオ達が来たら部屋に入れておけ」