切り裂いた爪 二章 2
「良かった。結構綺麗に整っている」
エリオンは墓所の門を開いた。少しきしんだ音がしたので、あとで油を点そうと考えながら、奥へと向かう。エーリシスだけでなく大貴族であった一門の墓がずらりと並んでいるので、相当な広さになる。だが宗主であるエーリシスを失って後、ほとんどの者が失脚したはずだ。花が生けられている墓標は、ほんの僅かだった。
「萎れちゃって……」
道行きの萎れた花を取り除き、持ってきた花を少し分ける。
明日はスイルと来る予定だ。彼女が少し気落ちしているようだから、寂れた墓の様子を見るのはあまり良くないだろう。今日のうちに簡単に片づけにきたのだ。
「真っ白い墓標を右に曲がって、二つ目……」
角を曲がった時、前方に人がいることに気づいた。
「え……」
手に持った花をぽとっと落とし、呆然とその人物が、墓前に佇む姿を見ていた。
「今更お前に頼りたいなど……」
彼は呟くと、踵を返して一歩踏み出した。しかしそこで、彼もまた立ち止まる。
「エリオン……」
軍略装に青いマントを身に着けた金髪の男。ジャックだった。
(なぜこの男が父さんの墓に、それに)
「なぜ私の名を……?」
ジャックは一瞬息を飲んだ。
「……手配書の処理をしていたときに気づいた」
そうか。子供の頃のものだから分からないと思っていたけど。だがそれはいい。エリオンと知った上で失効したのなら、本当にもう遺恨はないのだろう。
それよりも、聞きたいことがあった。
「……私に興味を失ったのは、そのせいか」
以前センユタムにて、ジャックはエリオンを傍に置こうとしていた。だが急に態度が変わり、エリオンを伴わずにメザに帰国したのだ。
ジャックは息を飲み、何か考えているようだった。
「……ああ。お前を懐に入れて、寝首を掻かれるわけにはいかないからな」
にやっと笑って言った。
「…………」
参考にならない。エーリシスへの怨恨からエリオンを遠ざけることがあるのか、それを知りたかったのだが、ジャックの場合はエリオン側の怨恨を警戒しているのだから。
エリオンが黙っていると、
「じゃあな」
とジャックはエリオンとすれ違い、出口の方へ歩き出した。
(なんで、ここに来たんだろう)
ジャックが見つめていた墓標を確認する。やっぱり、エーリシスの墓だ。
(この男も、少しは悪いと思っているのかな)
そう思いながら墓前に立つと、ジャックが供えたらしき物があった。
(生魚……?)
「嫌がらせかっ!」
魚を持って走り、去ろうとしていたジャックの前を遮った。
「いや……エーリシスは魚が好きだっただろう?」
確かにエーリシスは釣りが好きで、魚料理を自分で作ることもあったが、
「常識の範疇にしろっ」
「こ、これは駄目なのか」
ジャックが手に持っていた空の包みを奪い取り、それに魚を戻した。
「持って帰れ」
「……分かった」
頭を掻いて、本当に戸惑っているような様子だ。それをみて、エリオンは少し心が痛んだ。
(せっかく持ってきたのに、悪かったかな……。でもあれを置くわけにはいかないし)
「じゃあ……」
ジャックは振り向いて、墓前を後にしようとした。
「待って」
「……なんだ」
エリオンは残っていた花を半分、ジャックに差し出した。
「供えて」
ジャックは目を見開いて、仏頂面のエリオンと花を見比べていたが、
「あ、ああ……」
と素直に手を差し出した。ジャックの手の影がエリオンの手を包む。だが触れ合うことはなく、すっと白い花が抜かれていった。
背の高いジャックが深く腰を折り、花を供えた。エリオンがしゃがんでもう半分を供える。エリオンは黙祷し目を瞑った。しばらくして目を開けると、ジャックがじっとエリオンを見つめていることに気づいた。目が合うと、ジャックは反らす。
「花、ありがとう……」
エリオンはぽつりと呟いて、ジャックに背を向ける。
「いや、こっちこそちゃんとしたものを用意できなくて……」
「それじゃあ」
ジャックの言葉を聞き終える前に、足早に出口へと向かった。エリオンの背中を見送りながら、ジャックの顔が泣きそうに歪んだ。
「いい子だな……、お前の子は」
嫌う相手さえも、憎いはずの相手さえも、気遣う心。
(ああいうところに惚れたのだ)
彼は相手が何者であろうとも、まっすぐな心根で対する。異形の種クーシー族の姿を見て、綺麗な毛並みだと、かっこいいと、純粋な頬笑みをくれた。メザ兵がクーシーを侮る言葉を発すれば、すぐさま抗議した。それがジャックの目にどれだけ魅力的に映ったか。
(それに……)
エリオンは出口の階段を下りていくところだ。足元を見てうつむく横顔。
「綺麗になった……」
痩せた体つきは変わらず、服装も王の影武者をしていた時よりずっと質素なものだが、憂いを帯びた大人っぽい表情をするようになった。
センユタム国情の不安は取り除いたはずなのに、いまだ明るい気配がないのは気になるが。
彼の背が遠ざかっていく。
一度は最も近くに引き寄せたのに。
(この腕に……)
この腕の中に抱き締め、柔らかい唇を寄せ、そして……、ひとつになった。この仮初の体ではなく、真の姿のジャックを、あの子は最も深くに受け入れてくれた。
あの子の背が、遠ざかっていくのを今はもう、見つめることしかできない。
……
――!
「何だ」
大きな声が上がり、エリオンの姿が急に建物の影に引き込まれた。
ジャックは駈け出した。
「何するんですかっ」
路地に入ろうとしたとたん、急にでてきた腕に引きずられ、エリオンは声を上げた。知らない男達がさっと周りを囲む。
「静かに」
「離せ!」
「大人しくついて来てください!」
手を振り払おうとするが、後ろから二人の男に腕を抑えられる。
「待て!」
衝撃とともに、抑えられていた体が自由になった。
「後ろに」
ジャックがエリオンを背にかばい、男達に剣を向けた。
男達はジャックの出現に驚いたようだが、すぐに腰の剣を抜き襲いかかってきた。
ジャックの剣が右から来た男を斬りつけ、左から来た男の剣を避けつつその腹に強烈な肘を入れた。あまりに素早い動きに、他の男達は何があったか分からない。そのまま、ジャックから間合いを詰め、もう二人斬りつけた。
そしてすぐさまエリオンを背にする位置に戻り、構えなおす。
ジャックの攻撃を受けた男達が、苦しげに起きあがる。一人は絶命したようだ。
「くっ、退け!」
その声で、男達は慌てて駈け出した。捕まえたかったが、ジャックはエリオンを守る体勢から動かないまま、見送るしかなかった。
ジャックは緊張を解き、腰の鞘に剣を収めた。
「大丈夫か」
眉を寄せて心配げに聞いてきた。エリオンの手をそっと取って、袖口から覗く手首が少し赤く痣になっている様を、悔しそうに見つめている。
「痛くないから、大丈夫だ。助かった」
「あいつらは何者だ」
「いや、分からない。人攫いだと思う。『ついてこい』と言われたから」
実際は『ついてこい』ではなく、『ついてきてください』と男達は言ったのだが、その違いをエリオンは認識していなかった。
「そうか」
寂れた場所とはいえ、ジャックとしては治安は十分保たれているという認識だったが。
(不安定な政局だ。もう一度締めなおした方がいいか。なにより……)
もう少しで、一番大切な人に凶牙が襲いかかるところだったのだ。
騒ぎに気づき、墓地周辺の修道士達が寄ってきた。
「役人を呼んで、この死体を城に運び、将軍ミシオに預けるよう言ってくれ」
懐に入れていた宰相印と大将軍印を無造作に取り出して見せた。修道士達は恐縮して受諾する。
ジャックは繋いでいた馬をエリオンの前までつれてきた。
「エリオン、泊まっているところまで送る」
「いい。一人で……」
「いいから乗れ、ほら」
「……っ」
問答無用にエリオンを抱え上げ、馬の背に乗せてしまう。
「キュール、少し寄り道をするぞ」
ジャックは馬の頬をひと撫でしてそう言いながら、さっとエリオンの後ろ側に乗った。
「何処に泊まっている」
「……」
「言わないのなら私の屋敷に連れて帰るが」
後ろから抱きかかえられるように、エリオンの腰にジャックの腕が回った。
「! 参議ベシルの屋敷だっ」
エリオンが払うと、その手はすぐに外れた。
「ベシル卿……、ああ、お前達の入国に対して訊いてきた。親戚だったな」
ジャックは納得して馬の歩を進めた。
教会通りと貴族の邸宅群を結ぶ閑静な道のりに、蹄の音が響く。
「少しは肉付きが良くなったな」
先程腰に手を回されたのを思い出し、不愉快に感じて、睨みつけた。
「食べられているのか」
「お前には関係ない」
「あの辺りは私の領地だ。聞いておきたい」
(そういえば)
エリオンが住んでいる元センユタム領は、ジャックの物になっていた。着任以来一度もあの地をジャックが訪れたことはないため、あまり意識はしていなかったが。
「……悪くはないよ」
ぽつりと呟いた。
本当は大分良くなっている。だから今回の旅費も、自分達の蓄えから捻出できたのだ。
メザの代官は、ハデリ王の後のセンユタムを、着実に立て直していった。ジャックが統治者として、優れていることを実感した。
(もし違う関係だったら、尊敬できたのだろうな)
だが、ジャックが統治者になる途上でエーリシスを殺した事実は、ずっと重かった。
小振りな前庭に、大輪の花々が咲いている。ちょうど開いていた門の前で、ジャックは馬を下りた。続いて下りようとするエリオンの手を取り、ふわりと地面に下ろす。女性のような扱いに、エリオンの頬がかっと赤くなった。
「……っお送りいただきありがとうございます!」
ぷいっと顔を背け、敷地内に小走りに入っていく。ジャックは彼を見つめて笑い、馬首を返して乗ろうとした。
「……エリオン殿っ!?」
邸内から男の声が聞こえ、その焦りを帯びた色に、ジャックは立ち止まった。
「ただいま戻りました、ベシル様」
お世話になっている母の従兄も、帰宅したところのようだ。彼はメザの宮廷に出仕している。
「……な、ぜ……」
「どうしました」
ベシルの顔色が青ざめていく。
「いや、何でもない」
そう言った彼の顔に、また驚愕の表情が浮かんだ。
「大将軍……」
振り返ると、エリオンの後ろにジャックが立っていた。帰ったものと思っていたので若干驚いたが、
「出かけた先でちょうど大将軍にお会いして、ここまで送っていただいたのです」
とさらっと説明した。
「そうですか。よろしければディナーでも」
ベシルも落ち着きを取り戻す。スイルに似た顔立ちで、男にしてはだいぶ優しげな美男だ。
「いえ、すぐ城に戻る予定なので。失礼いたします。エリオン殿、また機会があればお話しいたしましょう」
「はあ」
気のない返事をする。その肩にジャックの手が乗せられ、体が強張った。耳元にジャックの声がかかる。
「狙われているのかもしれない。できるだけスイル殿の側から離れるな」
ごく小さな声だが、鋭く言葉が耳に入った。ベシルには聞こえず、耳に口付けたかのように見えた。
ジャックは続けて、今度はベシルに聞こえるように話した。
「少しは甘い言葉をもらえないか。冷たいところも魅力的だが、数日会わなければ顔も忘れられそうで不安だ」
「は?」
「近いうちにまた会いに来ます」
颯爽とマントを翻して、ジャックは出ていった。
馬を歩かせながら、ジャックは思案していた。
(ベシル卿、あれは……)
彼の様子はおかしかった。眉をしかめながら、先程つっかえされた生魚を小腹に入れた。
「ジャックに会った!? それで、何かされなかった」
スイルが貸してもらった部屋で、外出中にジャックに会ったことを告げた。心配をさせそうだったので誘拐されたことは伏せたが、ジャックに会ったのはベシルにすでに知られているため、話してしまった。
「……口説かれた、のかな?」
それを聞いて、スイルは怒りの言葉を喚き散らした。
「だ、大丈夫だよ。からかっているだけに決まってる」
「エリオン! 私から離れちゃだめよ。絶対あの男なんかに触らせないから!」
「う、うん……」
ジャックの言葉を思い出した。
『狙われているのかもしれない。できるだけスイル殿の側から離れるな』
あの墓地の弔問客が狙われているから、スイルを一人にするな、という意味だろうか。
(そうだね。危ないところみたいだし)
明日墓地を訪ねるときは、よく気をつけてスイルを守ろうと、エリオンは自分に喝を入れた。
再び宰相室。
「なんですか。先程運びこまれてきた死体は」
墓地で斬った凶賊の死骸は、すでにミシオのもとに届いていたようだ。ジャックはマントを脱ぎ、イオニスとミシオに向かい合って座った。
「身元を調べてくれ」
「もう始めていますよ。あの男と何があったんです」
ジャックは事の顛末を話した。あの後、一度自邸に寄り、配下にベシル邸の見張りを命じてきたことも。
「ベシル卿は誘拐が行われることを知っていた。だからエリオンが無事戻ってきて驚いたのではないか」
「彼が誘拐に絡んでいると。しかし……もし私が彼だとしたら、邪魔の入らない屋敷で誘拐を行いますが」
「それを外でやったということは、私は、スイル殿に知られたくなかったのではと考える」
それで気休めだろうが、スイルと一緒にいるようエリオンに言ったのだ。
「何故エリオンを」
今この都にはびこる計略といえば、十中八九ジャックにも関係するものだ。それに巻き込んだのか。全ての民、貴族が、固唾を飲んでジャックの動向を注視している。
「ベシル卿の見張りをその道の者に交代してくれ。それと貴族への監視の強化を」
(エリオンに手出しさせるものか……!)
ジャックは拳を握りしめた。
「どうだ」
ミシオ達と打ち合わせた後、ジャックはまたベシル邸の辺りを訪れた。
愛馬のキュールはそう離れていない自邸に帰し、服も目立つ色合いのものは置いてきた。ジャックの耳に、どこからともなく囁きが聞こえてくる。
「先程妙な男が一人、裏から入って行きました。それからしばらく経ちますが、何も」
相手がどこから話しているかも分からない。よほどの手練なのだろう。
「一人か。連絡を取りにきただけだろうな」
「私もそう思います。見張りは続けますが、恐らく今宵は何も起こらないでしょう」
お帰りになって休んでください、と言われ、素直にその場を離れた。
と、しばらく歩いたところの茂みに、ジャックの姿が隠れた。
そして、金色の毛並みが、草むらの中を動いた。
(三人)
人の姿では掴めなかった見張りの位置を、獣の五感が掴む。
彼らに覚られぬよう、屋敷の塀を乗り越えた。
エリオンの様子を少し見ておきたい。
彼の気配をたどり、敷地を移動する。
(いた……)
さっと建物に近付く。間違いない。この壁の向こうに。
(……っ)
石造りの床を打つ水音。風呂場だ。
窓につけられた木戸は全開になっていて、湯気を逃がしている。音は鮮明に聞こえる。エリオンの肌を伝った水が、ポトポトと滴り落ちる音に、ジャックの下半身が熱くなった。
(無防備すぎだ……っ)
恋人だったら堂々と覗いたのに。いや、むしろ風呂に侵入して、裸体の彼を激しく犯していただろう。だが、エリオンへの慕情を抑えている今は、忍耐を強いられるばかりだ。
やっとエリオンは風呂場から出ていった。しばらく様子をうかがっていると、一階の別の部屋の灯りが点いた。移動して確かめると、やはりエリオンが泊まっている寝室のようだ。
(変わった様子はないな)
カタッと、その窓が開いた。エリオンはまた窓を大きく開いている。
(あの子は……、もう少し警戒しないか)
エリオンは窓枠に肘をつき、外を眺めている。ジャックは気付かれないよう隠れ、その姿を見つめていた。
(何故)
風が、エリオンの髪を乾かしていく。さらりと髪が揺れ、湯で火照った頬を露わにする。
(あんなに悲しそうなのだろう)
切なげに何かを待つように、彼の視線は夜の庭に向けられている。
随分と時間が経ち、やがてエリオンは窓を閉めて、明かりも消された。
ジャックはエリオンの表情が目に焼きついたまま、その場を離れた。
屋敷の主の部屋。ランプの灯が、紳士の姿とその前にひざまずく男の姿を怪しく照らす。ベシルと、先程エリオンを襲った一人だった。
「ジャックがエリオンを助けただと」
ベシルは眉間を抑えた。
「あまりに簡単に入国を許したから、何も気づいていないと思ったが、まさか奴もエリオンを利用する気か」
苦々しい顔で、ランプを机の上に置いた。
机には何かが描かれた紙が置いてある。王家の系図だ。中心部のほとんどの名が線で消されている。亡くなった者、ジャックに追放された者達だ。その中で、ごく新しい墨で書き足された部分があった。先王の姉の下にエーリシス、その下にエリオンの名が書かれている。
ベシルは男に向き直った。
「とにかく、私の知ったことではない。エリオンを必要としているのは其方の主だろう。こちらはエリオンの動きをお伝えするだけだ」
冷たい声で言い放つ。
「忌々しい。エーリシスの子など……」
周りが寝静まった中、ベシルは執務室で一人、まだ書き物をしていた。
「ベシルお兄様、いらっしゃいますか」
すでに夜着になったスイルが顔を出す。
「どうした」
ベシルは手を止めて、スイルにソファをすすめ、自身もその隣に座った。
「ジャックがエリオンに近づいたって聞いて……」
聞きたくない二つの名前だ。だが沈んだ表情の従妹の髪を撫でながら、
「大丈夫。数日のうちだ。気にすることはないよ」
スイルはメザから帰る日のことだと思い、不安げながら頷いた。
「もうおやすみ」
その瞼に口付けを落とす。
机の上には、書きかけの手紙。宛先は、キシトラーム大使。