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 切り裂いた爪 二章 3






 墓地の門の前で、スイルの足は止まった。
「外で、待ってる……」
 木陰に入り、俯いてしまった。
「うん……」
 ベシル家から乗せてきてくれた馬丁にスイルのことを頼み、エリオン一人で墓地に入る。

「桶お借りします」
 水場に放ってあった桶を持って、誰もいないけれど声をかける。昨日はジャックに会って掃除もせずに帰ってしまったから、
「ごめんね。父さん……、父様?」
 そういえば幼い頃は父様という呼び方で、それっきりだったな、と思ってどちらの呼び方がいいか迷った。
(どちらでもいいか)
 何だかおかしくて、少しだけ、笑うことができた。

 昨日ジャックと二人で供えた花をわきに避け、墓標に水をかけようとした。
「わ……!」
 急に腕をとられ、桶をひっくりかえした。
「やめ……、っ!」
 口を押さえられた。背後に誰かいる。暴れるが二人がかりで手足を取られ、どうすることもできない。
「早くお連れしろ」
 低い声で指示が出されている。エリオンを引きずって、墓地の端の方につれていく。低い柵を乗り越え、そこには馬車が用意してあった。





「エリオン……?」
 叫び声が聞こえた気がした。スイルは墓地の方をうかがう。
「エリオン!」
 外から大きな声で呼びかけても、何の反応もない。スイルは青い顔で墓地に入っていった。
「……!」
 誰もいない。どこにも、彼の姿が見えない。桶だけが転がり、水浸しになっている。
 震える足で立ちつくす。
「しまった」
 声が聞こえて振り返ると、知らない男が足を引きずるように近付いてきた。彼の身は斬りつけられたような痕があった。
 スイルは知らないが、ジャックの命令で動いていた密偵である。
「私は……警官のようなものです。エリオンさんは」
「わ、分からない。悲鳴が聞こえた気がして、でもいなくて……」
 男は崩れ落ち膝をついた。
「馬車で来ていましたね。城にいるミシオ将軍に連絡を願いたい。裏切り者が出て、彼を連れ去られ、見失ったと」
 スイルは男に駆け寄ろうとするが、
「私のことはいい。早く!」
 と鬼気迫った表情で言われる。
(エリオンは、何に巻き込まれているの)
 踵を返し、馬車へと走った。
 将軍が警官に命じ、エリオンを見張っていたようだ。エーリシスの死から十年以上。まだ権力者たちの思惑に踊らされるのか。
(何の力もない、ただの男の子なのに)
 馬丁に言って、すぐさま馬車を城に走らせる。

 王城が近付いてくる。その威圧感に、スイルは唇を噛んだ。
 ミシオ将軍はジャック派であることを明らかにしている将軍だ。彼を頼りにすることが悔しかった。
(それでも、エリオンを助けるには)
 何が起こっているのかも分からない状態では駄目だ。ジャック達の知っていることを全て話させ、その後は……、
(ベシルお兄様なら、力になってくれる)
 馬車の椅子をぐっと掴み、さらに馬車を急がせた。



 馬車の扉が開く。エリオンは腕をとられて外に出された。
「ここは……」
 見上げると青い旗が風に揺れている。そこに描かれている紋章を確認する前に、男達に連れていかれる。
 通用口から通されたらしく、目の前にはすぐに建物がそびえたっている。裏手でありながら繊細かつ洗練された意匠。
(異国? そんな時間は決して経っていないけど)
 敷地内には水路が巡っている。小さな橋を渡って、屋内に入った。


 扉が開いた先は、外よりも光で溢れていた。ドーム状の硝子に覆われた空間。窓の外、水と緑の美しい庭を背景に、貴族と思われる男性が立っていた。
「ほう」
 体格のいいその人が近付いてくると、窓から差す光を遮り、エリオンは彼の影の中になった。
「新たな王にしては、冴えない格好だな」
(……王?)
 その言葉に、エリオンはこの誘拐の真意を悟った。
(この人達……、政権を転覆し、私を王に立てる気か)
 センユタムでハデリ王の影武者にされたことはあったが、今度はそうでない。
 本物の、王に。
 エリオンの表情の変化に、男は気付いた。
「だが、中身は聡明そうだ。顔立ちも悪くない」
 男は不敵に笑い、背を向けた。
「良かろう。貴殿らの計画、陰ながら助力しよう」
「あ、ありがとうございます! 大使」
「待ってください!」
 とんでもない計画が進められている。エリオンは焦って声を上げた。
「私は王になる気はありません!」
 大使と呼ばれた男は鼻で笑った。
「あとはそちらで話をつけるといい」


 別室に通される。エリオンを誘拐してきた男達は、エリオンの前に跪いた。
「強引な手段におよび、申し訳ありません」
「どうしてこんな……」
「ジャックがあなたの周囲を張っていた。あの場で説明することはできませんでした」
 最初にジャックといたのは偶然だが、男達にはそうは見えなかったようだ。
 むろんエリオンはジャックが陰ながら警護をつけていたことは知らない。
「トネロワスン帝国の宰相がジャックと面会しました。彼らが手を組む前に、あなたには大使に会って、話をつけていただきたかった」
(帝国……)
「大使とは、どちらの……」
「キシトラーム王国大使、ニズス卿です」
「なっ」
 トネロワスン帝国は大陸東の盟主、キシトラーム王国は西の盟主。大陸を分かつ二国が、それぞれジャック派と反ジャック派についているということか。
 エリオンは息を飲んだ。
(いままではメザはキシトラームと密接だった。トネロワスンは遠いこともあり、商人達の行き来があっただけ。それが―)
 ジャックがトネロワスンと接近しているのだったら、この国のパワーバランスが変わる。すなわち、キシトラームとの関係が緊張するということだ。
 西へ西へと拡大を続ける帝国。彼らに追われた幾人もの貴族が、かつてエーリシスを頼り逃げてきた。それを見て幼心にエリオンは思っていた。山脈の向こうには恐ろしい世界が広がっていると。
 メザはあの帝国を山脈のこちら側に呼び寄せる役となるのか。
(ジャック……)
 彼を信じていいのか分からない。あの若さで後ろ盾もなくここまできた男だ。政治力も交渉術も長け、エリオンには分からない遠謀深慮を持っているのだろうけど。
(……っ)
 エーリシスの死の場面が瞼に浮かぶ。……彼が、また血を見る道を選んだら……。
「ジャックに……、会わせてください」

 男達は驚いた顔をした。
「何を仰います。会ったら何をされるか」
「彼は私を無理矢理攫ったりはしませんでした。貴方達のように」
 父の墓を見舞う気持ちのある今の彼なら、きっと話すことができる。
「それは……。ジャックはまだあなたの貴い血に気づいていないから」
(血筋だけで何ができると)
「あなた達に協力はできない」
「エリオン様、何をおっしゃいます。これは、ジャックに奪われた先祖代々の名誉と財を取り戻すための……!」
 男達の後ろの方にいた男が叫んだのを、エリオンはキッと睨んだ。穏やかな空気の青年が鋭い表情と変わり、男は怯んで口を噤んだ。
「やめてください……。そうやって争ったこと自体が…あんなこと、招き寄せた……」
 視線を下げ、悲しげに俯いた。
「彼を許せません。でも彼は……、国を統率できる力を持っている」
 感情としてはジャックは嫌いだ。だが同時に、異種族の待遇については彼に頑張ってほしい。
(誰にでもできることではない)
「それに、どのみち私は王になる資質はないと思います」
 エリオンはただ好きな人のためになるから、ジャックの政治を喜んだ。ただの民だ。
「いいえっそんなこと!」
 男達は口々に否定する。エリオンは彼らに囲まれ戸惑った。
「暫し」
 収集がつかない状態を、リーダーと思われる男が止めた。
「二人で話しをさせていただいてよろしいですか」
 エリオンは頷いた。

「私はオレニオと申します」
 跪く男、オレニオを立たせて、二人で椅子に座る。
「私を覚えていらっしゃいますか」
(知り合いだっただろうか)
 オレニオの言葉を受けて、彼の顔をじっと見る。
「すみません。えっと……」
「いえ、無理もありません。何しろ十年以上前のことですから」
「では父が生きていた時に」
「はい。ただの護衛でしたが」
 護衛……ならばよく屋敷にいたはずで、顔を合わせたこともあるだろう。
「エーリシス様は素晴らしい方でした。あの頃は、彼に仕えていることが何よりの誇りだった。エリオン様も、私達に丁寧に挨拶なさる可愛らしい子でした」
 オレニオの方はエリオンのことを覚えているようだ。
「いまでも変わっていらっしゃらない」
 懐かしげにオレニオは言った。だがその声色に影が落ちる。
「あなたは憎くないのですか。あれほどエーリシス様を慕っていらしたではありませんか。それなのになぜジャックを庇いだてするのです」
 この男は、エーリシスを殺したジャックへの恨みでこのような事を起こしたのか。
「私もジャックが憎くないわけではありません。ですが、今は今ここに住む国民のことを考えるべきでしょう。良い暮らしのためなら、たとえジャックであろうとも受け入れます」
 望むのは、大切な人が酷い扱いを受けることのない国。
「ジャックを受け入れるなど! あなたはエーリシス様の最期を知らないから言えるのです!」
 エリオンは驚いた。オレニオが声を荒げ、憎しみに顔を歪める。
「あの日何があったかを……」
「あなたは、父が殺された時側にいたのですか」
「……。ええ、あの日も彼を警護していました。そして、お護りできなかったっ……」


---


 エーリシスがジャックと初めて出会ったのは、宮中の回廊でだった。
 煌びやかな絨毯の中央を行くエーリシス。メザで一番の名家という後ろ盾、宰相という地位に加え、本人もルベル王国攻略などの戦果をあげている。まだ若いというのに、その行く先を遮るものは何もなかった。
 視界には、頭を下げて会釈する貴族や官人達。その中の一人に、エーリシスは目を止めた。
「……貴殿は?」
 見惚れるような金髪が揺れる。これほど目立つ容姿であるが、エーリシスは見覚えがなかった。
「……西方軍団長デニエの息子、ジャックにございます」
 その声は、若干強張っていた。
「デニエ殿に息子……」
 いただろうか。
「月の初めに、養子に入りました」
「ああ、そんな話も聞いたな。その格好だと、軍属か。ぜひ立派な軍人になってくれ」
 ジャックは頭を下げ、エーリシスが去るのを見送った。その瞳には、暗い炎が燃えていた。

 ジャックの活躍はすぐに話題に上った。国内や近隣諸国の暴動を電光石火で沈めていき、すでに養父の名声は越えようとしていた。

 王宮の重厚な回廊を渡っていると、外から威勢のいい声が響いた。窓から前庭を見下ろすと、兵士達が槍を振るって訓練している。
 彼らの間を移動する青いマントの男に目を引かれる。兵士らはジャックの指示を真剣に聞いていた。
「若い頃の宰相を見るようです」
「私はまだそれほど歳ではありませんよ。いまだってご命令があればあのくらいの活躍すぐにでも」
 友人に言われ、エーリシスは笑いながら訂正した。何年か前までは戦地から戦地へと赴いていたが、今はよほど大きな戦でなければ都を出ない。働き盛りではあるが、名の重さゆえ滅多には動けないのだ。
「しかし……、彼は悪い噂が……」
「ああ、養父の頃からそうだったな」
 エーリシスはジャックを見つめ、眉を顰めながら溜息をついた。
「キシトラーム王国と関係を切ってくれれば……、これほど頼もしい若者はいないのだが」
 ジャックの家は、大国キシトラームと密に交流しており、メザ貴族でありながら彼の国に益する動きをすることがある。
「メザとキシトラームを両天秤に掛ける者に、国の大事は任せられない」

 重くなった空気、それを弾くようなパタパタと軽い足音がした。
「父上っ」
 後ろから幼い声がかかった。
「エリオン」
 振り向きながら、エーリシスの頬が緩んでいく。小さい背丈の、可愛い一人息子がいた。
「あのね、レーニさんに資料を頼んだでしょう。僕が持ってきたの」
 レーニとは家の執事の名だ。エリオンが手に持つには少し大きい箱を差し出され、頭を撫でてやりながら受け取った。
 もう城までお使いをできるほど大きくなったみたいだ。まあ、護衛は付いているのだが。
「気をつけて帰るんだよ」
「うんっ」
 エリオンがまた城の中を走りだそうとした時、ちょうど外からの声が大きくなった。エリオンは窓に近づいて、背伸びをして外を覗いた。
「兵隊さんがいっぱい……」
「ああ、あの軍はジャックという軍団長が束ねている」
「わあ! ジャックさんって格好いいんでしょ」
 声を弾ませ窓から乗り出すのを、エーリシスが掴み戻した。
「そんな話どこで聞いた」
「メイドさんが教えてくれたの」
 どうやら女性の間でも彼は話題のようだ。
「僕、顔の事あまり分からないけど」
 美形の父母の顔を毎日見ているので、少し基準が狂っている。
「父上の若い時に似てるって聞いて、会ってみたいの」
 そう言って頬を染める。エーリシスは思わずエリオンを抱きしめた。
「可愛い、可愛いぞ、エリオン」
「父上、苦しいっ」
 手を緩めて視線を合わす。
「ただ一つだけ間違っていることがあるぞ」
 エリオンはこれまた可愛らしく首を傾げた。
「私は今もまだ若い」
 その言葉に、後ろで見ていた知人達が大笑いをした。



 暖炉の火とランプの灯がゆったりと揺れる。パチパチと薪が鳴り、低い音を立てて崩れていく。
「う……ん……」
 エリオンはソファの上で丸まっている。先程までしきりにエーリシスに遊んでとねだっていた子が、すっかり静かになっていた。エーリシスは膝掛けを肩まで掛けてやる。すべすべとした彼の頬の感触を楽しんでいると、ノックが聞こえ、執事が部屋に入ってきた。
「デニエ様がお越しですが、……いかが致しましょう」
「何。約束はなかったよな」
「ございません。無礼を承知の上で、お伝えしたいことがあると」
「……。まあいいだろう。通せ」
「は」
「それとエリオンを寝室へ」
「かしまりました」

 エーリシスが応接間へ入ると、デニエは音を立てて椅子から立ち上がった。
「どうぞ、そのまま」
「は、はあ。夜分すみませぬ」
 腰は下ろしたが、その表情は焦りを帯びてエーリシスを見つめている。エーリシスも傍の椅子に座る。そして何も言わず、デニエを観察した。
(ひどい服装だ)
 緊迫した表情と裏腹に家でくつろぐ時のような……、人の家を訪ねる服装ではない。特に親交もなく、身分も上のエーリシスが相手なら尚更だ。
 その理由は、デニエの話で明らかになる。
「実は、養子のジャックに殺されそうになったのです」
「……なんですと」
「お願いします! すぐに貴殿の手勢でジャックを捕えてください! 早くしないと」
 デニエは声をはり上げていく。
「お待ちを。何の由でそのようなことに」
「や、それは、そのようなことは後で。今はジャックを」
 デニエの言い様に腹が立つのを抑え、エーリシスはじっと黙る。
「お願いです! 殺されてしまいます、息子が!」
「息子?」
 はっと、デニエは言葉を止め、青ざめた。
「あなたと奥方の間に子はなかったと存じますが」
 デニエが目を泳がせはじめる。エーリシスは悟った。愛人にでも子ができたのだろう。実子に継がせたいがため、養子が邪魔になったと。庶子よりも正式に縁を結んだ養子の方が強いから。
(ジャックに殺されるなど……、『ジャックを殺したい』の裏返しだ)
 デニエが実子を立てようとしても、評定所に出ればジャックの方が断然有利だ。ジャックには養父や子を殺害する必然性がない。
「私はジャック殿の言い分を聞いてから判断します。今日のところはお引き取りください」
「そんな……っ」
 まだ引き下がろうとしないデニエ。ならば、
「殺そうとしたのは、あなたの方ではないか?」
 デニエならばジャックを排除したい動機がある。それを突いた。
「……っ!」
 予想通り、デニエは言葉につまった。
「それに失敗し、事が露見してジャック殿の報復を受けることを恐れた」
「あ、あ」
「……大人しくジャック殿に平身低頭なさるか、国外へ逃げることをお勧めしますよ」

「いいえ、いいえ! 私が彼を除こうとしたのは私心ではない! あの男がメザの臣にふさわしくないから」
「…………」
 何を言っているのか。ジャックの活躍は、もうはっきりとデニエを超えている。
「それに、私が彼を養子にしたのは、養子にせざるを得なかったのは、頼まれたからです」
「頼まれた?」
 エーリシスは反応する。何か、嫌な予感がした。
「キシトラームの大臣が強引に」
「……!」

 キシトラーム王国は西にある大国だ。周辺国への影響が強い。メザとは一部国境で小競り合いが何度か起こっている。
 ……強引に頼まれたというのは半分は嘘だろう。実子が生まれる前はこの男のことだ。キシトラームに取り入る為なら喜んだだろう。それよりも、
「ジャックはどういう者なのです」
「私も彼の話をかの大臣から聞いてひそかに調べましたが、何の情報も得られませんでした」
「本当に何もご存じない?」
 エーリシスにじっと睨まれ、デニエは身じろぎしながらも、
「ええ、何も」
 と答えた。
(……ジャック)
 デニエなどもうどうでもいい。エーリシスはメザ宰相として、すでに胸の内でこの男の処分を決めていた。
 だが、数少ない、いや、唯一といってもいいほどの期待を寄せている若者が、キシトラームから送り込まれていたとは。
(いや、それでも)
 キシトラームと言えば権力闘争の絶えない国。昨日は白の旗を持っていた者が、今日は赤の旗を持つことなど日常茶飯事だ。かの国を捨て、こちらに引き込める可能性は十分ある。



 夜空に浮かぶ月は、煌々と明るい。家人にデニエを引かせ、エーリシスは城へ向かうつもりだった。
「おや」
 門の外にはジャックが立っていた。配下は数人のみで、ものものしくはないが、毅然と立っていた。その姿を見て、エーリシスは自分の予測が正しかったことを確認した。
「彼の処罰は私が預かろう。許しがたきを犯したといえ養父。あなたが評定に差し出すのは、聞こえが悪い」
「……、お心遣い有り難く」
 ジャックは礼をして、引き返していった。

 馬を操りながら、エーリシスは呟く。
「キシトラームから来た男か……」


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