切り裂いた爪 二章 6
ちゃんと地面に足を着けると、彼が牙を離した。
エリオンは涙を浮かべて振り返ろうとした。
「ジャック宰相が獣人!?」
周りの声が、爆発した。
「だから異種族を!?」
「獣人が人間の王や貴族を追放していたのか!」
憂いた表情のエリオンの前で、ジャックは勇壮な獣の姿で佇んでいる。
エリオンを襲った異種族は混乱していたが、鬼人族が声を上げ、ジャックを守るように取り囲んだ。
それを、
「どけ!」
オレニオが斬りかかった。
エリオンがかばうように前に出ると、オレニオは剣先を空へ逸らし、エリオンの腕を掴んで、自身の背後に回るよう引っ張った。
オレニオが動けないように、エリオンは必死で彼の利き腕にしがみつく。はた目には恐怖ですがりついているように見える。オレニオはエリオンの腕力など微塵も問題とせず、異種族たちの向こうにいるジャックを、まっすぐに剣で指す。
「それが、ジャックの本性だ」
夕陽をうけ、金色の毛並みが炎のように輝いている。
「エリオン様が王になれば、また元のメザに戻る!」
ジャックの金の毛並みが薄れ、体が小さくなっていく。先程は急で目にすることができなかった者も、まざまざと見つめることとなった。狼に似た獣が、青色のマントを羽織ったこの国の宰相になるところを。
人の姿になったジャックは、オレニオを睨みつけた。
「それは、エリオンの意志か」
「ああ、そうだ。王家とエーリシス様の家の再興を志してくれた」
(それは……)
オレニオから情報を聞き出すためだ。エリオンは否定しようとする。
だが、それより先に、
「ならばいい」
ジャックは腰の剣を解き、地面に投げた。
「諦めがいいな」
ジャックは、悲しそうに笑う。
「もう無理だろう」
周りの反応を見れば分かる。
「何もかも……」
知られたら、終わりだった。
「……エリオン、頼みがある」
ジャックは周りの異形種たちを見回す。
「こいつらは逃がしてやってくれ。まあ、……首を絞められたことが許せないなら別だが……」
(こんな……)
やっと会えたのに。
(最後の言葉みたいに……)
「情けない顔をするな。王になるなら、もっと堂々としていろ」
「王…に……なる」
(何のため…に……?)
――三十年も前に滅びた王国……戦争でメザに負けて統合された
――その人がいなければ狼さんいなくならなかったのに
エーリシスが、ジャックの同族を、殺し、ジャックは、エーリシスを殺した。
(やっと、分かった……)
――なぜ私の名を……?
――手配書の処理をしていたときに気づいた
愛しい狼が、いなくなった理由が。
――……好きだ
あの言葉は、きっともう……。
もう、愛してもらえない。
エリオンは口を引き結ぶ。涙が溢れそうだが、泣いているわけにはいかない。
広場には武装した者たちが溢れている。
「オレニオさん、剣を貸してください」
「
――、はい」
オレニオは仲間から剣を受け取り、エリオンに渡した。
エリオンは剣を取り、ジャックまでの数歩を進む。
「ジャック宰相を処刑する気か!」
エリオンの父エーリシスを殺したものが誰か、皆知っていた。
「させない!」
異種族がエリオンを襲う。だが、オレニオによって近づけない。
跪いたジャックの目の前に、エリオンは立った。
ジャックはエリオンを見つめる。エリオンもまっすぐに見つめている。その目は濡れているように見えた。
彼に殺されることは苦しい。だが、
(最期に見るものが、エリオンなのは嬉しい)
剣先が肩に置かれるのを、静かに受け入れた。
ざわめいていた群衆は静まりかえっていた。
「ジャック」
涼やかな声が響き渡る。
「私はエーリシスと王家の血の流れるエリオンだ」
処刑の口上と、誰もが聞いていた。
「ジャック、お前を……」
異種族が雄たけびをあげる。人間も、ぎゅっと拳を握った。
「お前を、我が輔弼に任ずる!」
王を支える役目
――。誰もが見開いた。
「
――……」
呆然とするジャックの右肩に載っていた剣が離れ、左肩を平らな面で、ぽん、と叩き、そして下げられた。
「あ……」
処刑ではない。これは、
「忠誠の儀……?」
剣で両肩を軽く叩いた……君主が臣下の服従心を認める儀式だ。王家と宰相の権力が逆転して数十年、久しく行われていなかったものだ。
「なんてことを!」
オレニオが喰ってかかる。
「皆もうジャックによる政治など認めはしません!」
「いいえ!」
エリオンははっきりと言いきる。
「本当に昔に戻りたいですか」
周囲の者は言葉に詰まる。
「貴族の不当な命令を聞かずにすむ政治を皆経験しました。……貴血の国に戻りたいわけではない。欲しいのは、人間の王と、そして今の政治を続けられる手足ではありませんか!?」
惑っていた民衆は、エリオンの話に耳を傾けていた。
「大丈夫です。ジャックの政治は続きます」
最初に歓声を上げたのは、変哲もない人間の女だった。歓声は伝播して、広場中に響き渡った。
戸惑ったジャックに向かい、
「あなたを……」
エリオンは悲しげに笑った。
「絶対に死なせない」
「ちっ……、思った以上に頭が冴えていたか」
人ごみから離れた場所で、キシトラーム王国大使ニズスが呟いた。引き返して路地を抜け、待たせていた馬車に乗り込む。
「今日中に国境を越えろ。反乱扇動の首謀者にでもされたら敵わん」
慌ただしい蹄の音は、街の熱狂が掻き消した。
エリオンが促すと、ジャックは戸惑いながら立ち上がった。
「エ……」
ジャックが口を開きかけたのを、
「認めるか!」
オレニオの叫びが遮った。
「お前は死ぬべきなんだ! 王の父……エーリシス様を……エーリシス様の部下を……! 殺したのを忘れたかッ!!」
その言葉にジャックは怯む。オレニオの斬撃は素早く、
(受けられない!)
ガッと金属がぶつかり合う音。ジャックは素手だったのに、
(斬られて……いない)
「何だ……お前は……」
オレニオの前に、黒髪の男が立ちはだかっている。
「そこをど……ッ
――」
剣をいなされ、オレニオが地に受け身をつく。
(オレニオを軽くあしらうだと……!)
ジャックは目を見開いた。
「何をしているんです! 表立って剣を振るうのは……!」
広場を見下ろす建物の二階から、初老の男が声を上げている。スカーフで顔を隠しているが、
(トネロワスン帝国の……)
ジャックには見覚えがあった。
「……つい。すみません」
黒髪の男は剣を鞘に収めた。
「もう邪魔はしない」
警戒するオレニオに言う。
そして、ジャックを横目に、
「我が国としても、苛烈な宰相より、お坊ちゃんの新王の方が扱いやすい」
挑発するように言った。
ジャックはカッとなった。
(そうだ)
ジャックの政治手法は向こう見ずだった。敵も多い。さらに今は、キシトラームとトネロワスンの影響力争いまである。
この政局に誰が耐えられるか。
「俺が生き残らなければ……」
ジャックは投げ捨てた剣を再び拾い、構えた。
「誰がエリオンを守る……!」
オレニオの叫びにつられ、反乱集団は勢いを取り戻した。元々貴族側の兵だ。エリオンの演説には同意できまい。
それを、正規兵と異種族が抑えている。
(街中で……戦闘が拡がるのはまずい)
中心となる人物、オレニオを見据える。
(ここで討つ!)
お互い同時に地を蹴った。
「ぐっ……」
鋭く重い剣。受け止めなければ確実に急所を突かれていた。
(この剣筋は……)
第二撃は受けずにかわした。
(キブルそのものだ)
エーリシスの私兵としてジャックに追われた後、どれだけの修行をしたのか。
「だあアッ!」
一撃一撃が、まさに息の根をかすめてくる。
「…………」
オレニオの剣に真っ向からかち当てた。
ほんの少し細身のジャックの剣が折れた。オレニオの刃は欠けただけだ。オレニオは強く踏み込んだ。
「がっ!」
オレニオが倒れ、その上を獣の前足が押さえつけた。大きな動作の攻撃によって、ジャックが変身するための少しばかりの隙が生まれたのだ。
(こいつが激昂していなければ、勝てなかった……)
オレニオは恐らく、師のキブルさえも越えていた。
オレニオの敗北によって、反乱軍は逃亡しはじめた。
「……殺せ」
ジャックを睨みつけながらオレニオは言う。
「ジャック、命だけは……」
エリオンの言葉に後押され、殺さずに拘束しようとする。ジャック自身、オレニオの憎しみはジャックに原因があると理解している。
「殺せ! エーリシス様の息子とお前が手を取る姿など見たくない!」
「
――っ!」
エリオンの顔が青ざめる。
(エリオン……)
ジャックと和解することは、エーリシスを裏切ることでもある。それでも、エリオンはジャックの宰相としての腕を必要としてくれたのに……。
(こいつとは、和解できないだろう)
ならばエリオンを傷つける口を塞ぐべきか。
ジャックは爪に力を入れる。オレニオは抵抗しない。ただ、血走った眼をジャックから離さない。
「ジャック! 駄目だ!」
エリオンがジャックの前足を掴む。こんな時なのに、ジャックの心臓がどくんと跳ねる。
「駄目だ……やめてくれ……」
潤んだ瞳で見つめられる。これには、弱い。
(いまさら俺が悪人になることに抵抗はないが……)
ジャックはエリオンの手足として、メザ国民に受け入れられたのだ。大勢の前でエリオンの懇願を無視できない。
「誰か、オレニオさんを拘束してください」
周りに声を掛けるが、正規兵も誰も動かない。
「何で……」
「皆分かっているんですよ。この男がもう、メザでは生きられないことを」
トネロワスン人の黒髪の男が言った。
「そんな……」
たしかに、メザを追われた後、メザに戻り反乱軍を育てた男だ。どうすれば……。
「ですから、トネロワスンに預けてはいかがでしょうか」
「……え?」
目を丸くするエリオンの隣に男はしゃがみ、ジャックにどくよう手で伝えた。男がオレニオの上体を起こす。オレニオは身じろぎしたが、男に強く肩を掴まれ動けない。それを確認して、ジャックは再び人の姿になった。
「オレニオといったな。君の剣はキブル様に瓜二つだが……」
キブルの名にオレニオは反応する。
「やはり師弟か。十年以上前、帝国に来た彼に手合せをしてもらったことがある。新兵の俺に、真剣に相対してくれた……、亡くすには惜しい人だった」
オレニオは警戒しながらも、男の話に聞き入っている。
「君の力が欲しい。帝国は広い。キブル様に生き写しの剣と、軍をまとめる能力があれば助かるんだ」
男の声は、その場限りの説得ではない、真摯さがあった。
「キブル様の剣を、再び失くしたくはない」
「
――……はい……」
オレニオの答えを聞いて、エリオンは嬉しそうに破顔した。
その笑顔を見て、ジャックは安堵した。