切り裂いた爪 二章 7
明くる日、帝国の一行は立った。オレニオの監視を兼ねて、国境まではメザの護衛が付く。
「あの黒髪の武人に名乗っていただけませんでしたね」
城の廊下を歩きながら、イオニスは残念そうに言う。
「恐らく……、帝国の大将軍だ」
ジャックの言葉を聞いて、イオニスとミシオは目を丸くした。
「オレニオを一撃でいなす剣の腕。それに他国の政治犯を連れ帰るなど、皇帝のお気に入りでなくばできない」
はああ、と二人は驚きまじりに溜息をついた。
議場に入り、各々の席に着く。
全員が席についた後、厳かに王が現れる。
(
――これは)
青を基調にした美しい衣装が、エリオンの足取りと共に揺れる。
エリオンと目が合い、ジャックは咄嗟に視線を逸らした。心音が大きくなっている。
(落ち着け……、俺がエリオンを支えなければいけないんだぞ)
ジャックは下を向いて頭を冷やす。
(可愛い……すごく……。ではない。まずはトネロワスンとの盟約について……)
その姿を、エリオンは悲しそうに見つめていた。
(目を、逸らされた……)
王の私室に戻り、人を下げると、エリオンは椅子に力なく座った。
(別にいい。生きていてくれた、それだけでいい)
胸の前で、手をぐっと組む。
(毎日、声が聞ける。彼の望む国造りを助けていく。彼に……王として……守ってもらえる)
エリオンは無理矢理笑おうとして、眉間が歪んだ。
国務は宰相のもとに集まってくる。新王が立っても同じ。特に今の王は協力的で、極めて円滑に回っていた。
「宰相。では、これで進めます」
「……ああ」
有能な宰相の歯切れの悪さに、ミシオが訊ねる。
「何か問題でも?」
「宰相ではなく、お互い呼び捨てにしないか」
「は?」
「そしたら陛下も気兼ねなく、ジャックと呼んでくださるかも」
たしか騒乱の時は王はジャックと呼んでいたが、今は宰相と呼んでいる。
「それは直接申し出たほうが話が早いのでは」
正論だが、
(話しかけにくい……)
殺したいほど憎まれていても仕方ないのだ。
エーリシスのことについては、憎しみを忘れようとしてくれていた。
だがそれに、エリオンを抱いた事実が加わればどうだろう。正体を知らないまま、ジャックに体を預けたのだ。
(何度も、あの子を傷つけた)
その男のいうままに玉座に着き、王令を発する。この先、何年も。
「すまない。馬鹿なことを言った」
今さら親しくなどなれない。
(見つめるだけは……許してほしい)
王と宰相として側にいるだけで、幸福だ。
半月経つと、国務や法、外交作法について、エリオンはようやく覚えた。
「熱心に習得していただいて、助かります」
ジャックに褒められ、
「いえ……、必要なことですから」
頬を赤らめて目を伏せる。
意地悪されたり、抱かれたりしたのが嘘のように、ジャックは淡々としている。だが、こうやってエリオンを気にしてくれている。
(もっと頑張ろう)
弾むような気持ちで、エリオンは政務に向かうのだ。
「来週に祭がございます」
どんな祭かと、ミシオの説明を聞く。
毎年秋の収穫が終わる頃、王が主催する華やかな祭を行う。
「王宮前で、その年に功があった者を賞する段があるのですが、どなたにしましょう」
エリオンはメザに来て一月足らずなので分からず、ジャックに視線を投げかける。
「必ず出さないといけないわけではない。今年はいいだろう」
「分かりました。そうですね。頭に王の手を置いてもらうだけの儀礼ですから」
(頭……)
エリオンはばっとジャックを見た。その勢いにジャックは首を傾げ、美しい金髪が揺れた。
「あの、宰相ではいかがですか」
「私、ですか」
戸惑うジャックにかわり、
「ああ、いいかもしれませんね。戦功がありますし、陛下と宰相が和解したことを示すのに」
ミシオが同意する。
「陛下がいいのでしたら、異論はありませんが」
(撫でられる!)
エリオンは気合いを入れて、残りの執務に取り組んだ。
ジャックを見るたびに口が緩むのを堪える。
「もうすぐ……」
私室で一人の時は、クーシーのふわふわの毛を思い出しては恍惚としてしまっていた。
遠くの木々が色づいている。
窓から見下ろすと、王宮前広場にはたくさんの人が集まっている。
「陛下、あとは冠を」
近侍が恭しく、台に載せた冠を差しだす。エリオンはそれを受けとって自分の頭にのせた。鏡には正装した自身が映っている。
(偽物っぽい)
センユタム国王に化けていた頃と、大して変わらない。
(認められないとしても、本物はジャックだ)
側で過ごして、日々尊敬の気持ちが高まっている。ジャックのためならば、誇りを持って演じられる。
「高台へご案内いたします」
「はい、お願いします」
今日は二階の見張り場から橋が架けられ、王宮前広場の高台へ繋がっている。
王が姿を現し、民衆が注目する。先日の広場での闘争で、王の姿をじっくり見られた者は少ない。今初めて新王を目にするのだ。集まった視線に緊張しながら、エリオンは橋を渡っていった。
(わあ……)
すでにそこにはジャックが待っていた。秋風が、彼の青いマントと金髪を揺らしている。
胸がとくとく鳴る。
ジャックはまっすぐエリオンを見ている。見つめあったまま、距離が近づいていく。エリオンが橋を渡りきると、ジャックが跪いて、視線が合わなくなった。残念に感じながら、彼の前に立ちどまる。
一緒に渡ってきた典礼官が口上を述べる。
その間エリオンは、じっとジャックの頭を見ていた。背の高いジャックが、つむじを見せてくれることなんて滅多にない。
(早く触りたい……、けど、もっと長く続けばいいのに)
そう思ったとき、典礼官の口上が終わり、王が祝福を与える段になった。
一歩近づいた。このまま黙って撫でてもいいのだが、少し、考えてきた言葉を掛ける。
「ジャック、あなたの役目への熱意と能力を信頼しています」
新王の声が聞こえると思っていなかった民衆は、さっと静かになって耳を澄ました。
「メザを、どうぞよろしくお願いします」
「ありがたきお言葉……。全力で努めます」
エリオンはようやくジャックの頭に触れた。
(ふ…わ……!)
とても柔らかい。思った以上にクーシーの毛に近かった。
ゆっくりと撫でる。指先の触感に集中する。
(気持ちいい)
幸せで、自然と微笑んでいた。
(大好きだ……)
愛したひと
――。エリオンの正体を知らなかったとはいえ、愛してくれたひと。今でも好きでたまらない
――。
全身で触れてもらったのに、今はこれだけしか……。それに、これで最後……。
どれだけ撫でても、手が離せない。
「陛下……?」
ジャックが顔を少し上げて、こちらを見ていた。
「え……う」
思わず手を離す。
「陛下、それではお戻りいただいて大丈夫です」
典礼官に促され、早足に橋を渡った。
「陛下!」
遅れて城内に戻ってきたジャックに呼ばれる。すごく頬が熱っている。
(見られた! 今、会うのは無理だ……!)
早歩きで、そのうち走るように私室に向かう。後ろの足音が離れる気配がしない。
私室の扉に触れ、急いで入った。だが閉めようとした扉が、ジャックに押さえられた。
「……失礼します」
少し息を乱したジャックが内側に入り、扉を閉めた。
二人きりになってしまった。
エリオンは肩で息をして、胸がばくばく鳴っている。広い城内を走ったからだけではない。
ジャックの手が、エリオンの手を取った。
「どうして、あんな表情を……」
「表情……」
すごく、締まりのない顔をしていた気がする。
「……二年前、俺の正体を知らない時と変わらない……その、幸せそうに見えた」
(ッ……それは)
今でも、触れられるだけで幸せだなんて言えない。
想い合えないなら、理想的な関係の王と宰相になりたい。
これは、隠さなければいけない心だ。エリオンはうつむいたまま動かない。
「どうして……」
ジャックの声は擦れて、とても苦しそうだった。
(……?)
気になって、ゆっくりと顔を上げる。
彼はこくりと苦しそうに息を飲んだ。雫にはならないが、きらきらと濡れた瞳。
(あ……)
呆然と、彼の表情を真正面から見上げる。
(もしかして……)
苦しそうにしながら、ジャックは真っ直ぐエリオンを見つめる。
(もしかして……)
ジャックも同じだったのでは……。
「ジャックに触れられるのが……、幸せだから」
震える声でそう言ったとたん、強く引き寄せられ、抱きしめられた。
「……!」
きつく胸板に押しつけられ、髪は彼の大きな手が絡み、ぐしゃぐしゃにしている。
嬉しくて、心がどうにかなってしまいそうなくらい嬉しくて、ぼろぼろ零れる涙が、ジャックの服の胸元に吸いこまれた。
色づいていた木々は、次々に葉を落とし、王宮の庭園さえ寒々しい姿になっていた。
すっかり硬い芝生の上、
「寒い……」
エリオンはもぞもぞと動き、枕にしていた柔らかい金色の毛にさらに埋まって、昼休憩を続ける。
金の狼はその寝顔に頬ずりした。
「くすぐったい」
緩んだ口元に、今度は口付けされた。
〈終〉