小説目次へ



 角と秘薬 4






 バシェルアの問いに、アネスは返事に詰った。
「皇帝陛下が生前に正式な跡継ぎに立てられていたのは皇太子殿下だ。カナー王子ではない」
「いや、亡くなる直前にカナー殿下を指名なさったらしい。数人の高官がその場に立ち会っている」
「そいつら皆カナー派に決まっている! 遺言を作り替えたんだ」
「バシェルア……、どちらにしろ玉座の近くはカナー殿下に与する者で固められているということだ。皇太子の入り込む隙はない。―お前が皇太子を大事に思っているなら、国外に逃げるように勧めろ」
「殿下は亡命など考える方ではない。必ず帝都に王冠を取り戻すために軍を率いてくる」
 アネスはバシェルアの肩に手を置いて諭す。
「だからお前が止めるんだ。戦ってもカナー殿下が手中に収めている戦力に勝てるはずがないだろう。皇太子が都から離れた砦にいる今なら、カナー殿下の追討から逃れられる」
「お前は殿下の味方ではないのか」
 アネスは首を振った。
「俺はどちらが皇帝になっても構わない。ただカナー殿下がこのまま帝位に着き、皇太子が去るのが、きっと争いが少なくて済む」
「カナーの大勢に怖じ気づけというのか」
「お前は兵に、負けると分かっている戦をさせるつもりか!」
 バシェルアは血走った目で答える。
―殿下は負けない」
 親友の、底冷えする声にアネスは息を飲んだ。
「アネス、一緒に殿下のもとに行こう。今夜コルヌスの大樹の下で待っている」



 その夜は満月で、蝋燭の灯りが切れても薄らと室内は明るかった。アネスは窓辺で椅子に寄りかかり外を眺めた。
 コルヌスの木は一般的に二階建ての屋根くらいの高さだが、バシェルアが言っていた大樹はその五倍程ある。遠くからでも天辺が見えた。豊穣の木と親しまれ、春の農耕前には淡紅色の花が溢れかえる中、祭りが開かれる。アネスも軍で出世する前は準備に駆り出されていた。
「バシェルア……、王子達が争えばこの地が焼ける。お前はそれでいいのか」
 アネスは立ち上がりマントを身に着ける。約束の場所には行かないつもりだったが、もう一度バシェルアを説得してみよう。
 表に出るとマントをしていても風が冷たかった。軍施設も寝静まる時間だが、新皇帝の正式な戴冠がまだの今の時期にはいつもより警戒の人員が多い。施設内を歩き厩舎に行く途中で、バシェルアの職場にそれとなく顔を出したが、彼は随分前に出かけたという話だった。はらはらと雨が降り出したのに気づき、アネスは急いで大樹に向かおうとした。


「アネス」
 暗闇から名を呼ばれた。声と明るい髪の色ですぐにボロウェだと分かった。その隣に顔見知りの兵士がいる。
「警備の兵が、門の所でウロウロしていた医師を不審がっていたんですよ。私が声をかけてみたらアネス様を訪ねてきたようだったのでお連れしました」
「そうか。お前はあの時ボロウェの治療を受けていたな。ありがとう」
 兵士は仕事を抜けてきたからと言ってすぐに引き返していった。アネスはボロウェに声をかける。
「どうしたんだ」
 ボロウェは俯いたまま黙っていた。無視をされるのはいつものことだが、今のボロウェはそういう雰囲気ではない。沈んだ表情は絶望にも近い。
「薄着だな。寒いだろ」
 アネスは自分のマントを脱ぎ、ボロウェに掛けようと彼の体に手を伸ばした。その途端にボロウェがアネスの胸の中に飛び込んできた。
「! ……ボロウェ?」
「私は、人を……患者を見殺しにした」
 嗚咽を抑えながら言う声は苦しげな響きだった。
「せめて……息子と今際の際―、会いたがって、……生きられたはず……。私は医者……ではない……!」
 雨粒が少しずつ大きくなって、ボロウェの髪がしっとりと濡れた。アネスはボロウェの体が冷えないよう肩を抱いて屋内へ入らせた。

 二人が入ったのは士官用の休憩室で、いくつもソファが並んでいたが深夜の今は誰もいない。アネスは暖炉の前のソファにボロウェを座らせた。ティーセットの傍らにあったナプキンで、ぐしゃぐしゃになったボロウェの鼻をかんでやる。
「あ、ごめん」
 ずっとぼんやりしていたボロウェがはっとした。自分の子供じみた行為に気づいて頬に朱が差した。
「構わない」
 アネスは優しく頭を撫でてくる。撫でられているうちに恥ずかしさよりも甘えたい気持ちが膨らみ、ボロウェはアネスの肩に寄り添う。アネスはマントでボロウェを包み込み、深く抱き寄せた。



「来ないようだな」
 大樹の下に座り込んでいたバシェルアは立ち上がり、雨避けにコートのフードを被った。繋いでいた馬の綱を持ち、雨が激しくならないうちに出発しようとした。
 その時、頭上から子供の声が聞こえた。
「どうしてそんな酷い顔をしているの」
 バシェルアは驚いて上を見た。所々紅葉した枝の間に、白い服を来た少女らしい姿があった。
「酷い顔、憎しみの目。カナー新皇帝の門出の時期だというのに、そちらの騎士様はどうしたのかしら」
「新皇帝はカナーではない! すぐに皇太子殿下が兵を率いてやってくる。そして首都を落とす!」
 少女の口からは笑い声が漏れている。
「あはは、カナーと皇太子ではまるっきり戦力が違うじゃない」
「黙れ! ―君は何者だ」
 遠目からは少女の姿に見えるが、人間の少女があんなに高くに登れるだろうか。バシェルアは剣を構えた。
「君? イテアのこと? イテアはイテアよ」
 その一瞬のうちに少女イテアはバシェルアのもとに飛び降りてきた。バシェルアは咄嗟に身を引いたが、イテアの手が素早く彼の腕に絡み付く。鋭い痛みが走った。途端にバシェルアの腕の筋肉が沸騰しそうなぐらい熱くなった。
「やめろ!」
 恐怖で剣を振った。手応えはあった。
「ふふ、すごい……」
 目の前のイテアは無傷のままだった。
 だがその後ろで、コルヌスの巨大な樹がメキメキと音を立てて倒れていく。
「何だ、これは……痛ッ」
 轟音を立てて大樹が地面に倒れた。バシェルアの腕の痛みは全身に駆け上ってくる。
「嬉しいでしょう。それでカナーにも勝てるんじゃない。イテアは遠くからイテアの作った薬の力を見物してるわ」
 イテアは苦しむバシェルアの顔を覗き込んで言った。尖った耳を持つ美しい少女は笑い声とともに去っていった。
「ダークエルフ……、異形の民か。―く、畜生……!」
 冷たい雨がのたうちまわる熱い体に当たって蒸発する。このままここにいて大樹が倒れたことに気づいた者が来てはまずい。バシェルアの異常な状態を嫌がる馬によじ登り、街道へ向かった。



 ボロウェはアネスの腕の中で眠ってしまった。アネスはその姿を愛おしげに見つめ、起こさないようにそっと額に口づけた。暖炉の暖かさでふんわりと乾いた髪が鼻をくすぐる。

 眠る前にボロウェは皇帝の死の床であった出来事を話した。震える彼の背を擦りながら、アネスは静かに聞いていた。
 帝国を憎しんでいたはずのボロウェだが皇帝に治療を施さなかったことを悔いていた。アネスは皇帝の死を知ってから、彼を悼むことよりも次期皇帝を見定めることしか頭になかった。そんな自分がボロウェへかけてやる言葉は無く、ただ背中を擦っていた。
 幾人もの部下を預かる身として、今日カナーの命令に従って軍を掌握するために奔走したのは正しいと思っている。ボロウェが皇帝を治療しなかったのも仲間の有角人達の立場を考えての行動だろう。だが冷めた自分の心と罪悪感に苦しむボロウェの姿を比べると、胸が痛んだ。
 ボロウェの話が終わった時、アネスが苦い顔をしているのをボロウェが不安げに見上げた。それに気づいてアネスは安心させるように頭を撫でる。それでもボロウェの表情は晴れなかった。
「私が嫌いになったか」
「いや、……好きだ」
「嘘だ。私はお前らの頭領を見殺しにしたんだぞ。私は帝国が嫌いだから、だから死んでもいいと思ったんだ! もしあれがエトラの誰かだったら、あんな状況でも絶対に助けようとした」
 信じてもらえないのが切なくて、アネスはボロウェを抱きしめて押さえつけた。
「好きだ。変わらない。お前を好きなままだ」
「アネス、だけど……」
「すまない。俺にはお前がしたことを責めることも肯定することもできない。皇帝の―人の死をなんとも思わないのは帝国人の、俺もそうだったから」

 アネスは、自分が帝国軍にいて今までのことを語りだした。
「俺が軍に入ったのは徴兵されて嫌々だった。だから国や軍への忠誠心はあまりない」
 ボロウェは意外そうな顔をした。
「ただこの職は合っていたようで、気がついたら周りで一番の戦績をあげていた。同僚に頼ってもらえるようになってからは、そいつら仲間を守ることが大切になって、敵を殺すことは仕方ないと思うようになった。―今は、お前と会って、帝国を嫌っている奴の話を聞いて、バシェルアが皇太子側に行って。敵だからといって仕方ないと割り切れる自信はないが」
 ふとバシェルアのことを思い出した。もう約束の場所を出発し砦への街道を走っている頃だろう。朝になったらアネスはその街道に皇太子勢掃討の軍を進めなくてはいけない。
「あの男が皇太子側へ……?」
 アネスは頷いた。
「バシェルアは下級貴族だが、昔皇太子の身辺警護をしていた頃から個人的に付き合うようになったらしい。あの二人の信頼関係は傍目に見ても分かったから、バシェルアが皇太子の旗色が悪くても助けにいった心情は理解できる。行ってほしくはなかったが……」
「アネスは、カナー殿下につくのか」
「ああ」
 ボロウェはアネスの沈鬱な表情に気づき、その手をギュッと握った。
「すまない……。今はお前だって苦しいだろうに、私に付き合わせて……」
「謝らなくていい。俺も、側にいてほしかった」
 ボロウェの頬は暖炉の火に照らされてほんのりと赤くなっている。
「朝まで、一緒にいよう」



 アネスが軍を率いて都を出発して五日後、ボロウェは研究室の荷物をまとめていた。昨日カナー新皇帝の許しでエトラに帰れることになったのだ。必要な薬に二重に蓋をして鞄に入れていく。
 黙々と作業をしていると考え事をしてしまう。久しぶりの故郷のことより、アネスの無事ばかり考えてしまい溜息が出た。
「有能な将軍を抱え、兵力も大きいこちらが勝つに決まっている」
 とカナーは言うのだが、実際どうなるか分からない。
「戦には勝っても怪我をして戻ってくるかもしれない。いや、怪我ならどれだけ重傷だろうと治してみせるが、死んでしまったら……」
 作業は遅々として進まなかった。エトラに帰るのにあまり気が乗らないこともある。アネスと離れたくない。
 だが帝国にはアネスしか信用できる人間がいない。このままここにいたら自分はアネスに頼りきりになり、何かある度アネスに泣きついて迷惑をかけるばかりだろう。
 エトラなら、仲間がいて自分は医者として皆の助けになって忙しくも楽しい生活が想像できる。
「それでも……」
 バタンッと大きな音を立て扉が開いた。
「医師様! 軍で怪我した者が帰って参りました。怪我人の治療をお願いします!」
 一瞬背筋が凍った。しかしすぐに平静を取り戻して向き直る。
「分かりました。重傷者の数は」
「把握しきれません……。大勢です」
「大勢? こちらが圧勝したのでは……」
「いえ、初戦は我が軍の退却になったようです。その後の経過は知りませんが」
「退却……、負けたのですか。何故……!」
「帰ってきた者たちは、『魔族がいた』と噂しています」


目次