角と秘薬 5
宮中の空気は緊張に包まれている。謁見の間の前の廊下でボロウェはカナーを待つ。ようやく会議が終わり出てきたカナーは機嫌が悪かった。得体の知れない敵から受けた大打撃に腑が煮え返っている。ボロウェに声をかけられ、ついキッと睨んだ。パンパンになった鞄を抱えたボロウェは一瞬臆したがすぐに気をとり直す。
「故郷に帰るのか。悪いが見送りはできない」
「いえ、兵達を治療するために私を戦場に送ってほしいのです」
「
――有角は帝国兵を嫌っていると聞くが」
「掃討軍に、死んでほしくない人がいます」
カナーは暫しボロウェをみつめる。そしてちょうど廊下に出てきた頬の垂れた貴族を呼び止めた。
「ルガオロ、彼が有角人の医者だ。使え」
カナーはそう言って場を離れた。ルガオロと呼ばれた男はボロウェを一瞥してから、控えていた部下に指示して行ってしまった。部下の男が話しかけてくる。
「日没前に軍を出す。医者はそのうちの後軍に従い医療具は馬車に乗せればいい」
「かしこまりました。あの、ルガオロ様はどういった方なのでしょう」
男は異形の民の質問に嫌な顔をせず淡々と答えた。
「掃討軍の新たな総大将だ。交戦中の我が軍の総大将は戦死し、今は仮にアネス様がその座に収まっている。彼と交代して閣下が指揮を執る」
「総大将が戦死……」
想像以上の被害が出ているようだ。アネスの無事を願った。
「持ち堪えろ! 援軍を受け入れるまでこの砦を通すな!」
アネスは声を張り上げて兵を鼓舞していた。都を出た時の半数以下に兵は減っていたが、どうにか拮抗していた。だがアネスの憂色は濃い。
「このままでは、あいつが出てくればまた総崩れになる」
数日前までのカナー軍の優勢を、たった一つの影がひっくり返した。その影を近くで目撃した者が一人も生き残っておらず、正体が明らかになっていない。兵士達の間で魔族ではないかという憶測が飛び交っていた。
魔族が気まぐれで人間の戦場を混乱させたのならば二度と現れないかもしれないが、あの影は確実にカナー軍を狙っていた。追いつめられた皇太子軍が魔族と契約を交わした可能性もある。
魔族は契約者に代償を求める。皇太子の為に魔族と契約までする人間
――。アネスにはバシェルアの顔しか思い浮かばない。
「来ました! 援軍です!」
山影から大軍が姿を見せた。皇太子軍もそれに気づき撤退を始める。アネスは少しでも敵勢を減らそうと、“影”に備えて温存していた手勢も繰り出して追撃した。
深追いはせずアネスは引き揚げを命じた。兵士達もどこかホッとした様子だった。アネスは直属の部下と馬を並べながら砦に戻る。
「何故今回は出て来なかったのだろうな」
「不気味ですね。すでに敵軍を立ち去ってしまったのだと思いたいですが。"影"のこと、新しくいらした総大将にも聞かれるでしょうね。どう答えます」
「分かっていることだけでも報告する。一体で五千の兵に相当する敵がいた、とな」
「そしてその敵は種族不明、具体的な目撃情報無し、現在敵軍にいるのかも不明。はあ、また叩かれますね。ルガオロ閣下ではなく皇帝陛下がいらっしゃれば少しは理解してくださったかも」
「陛下はまず都での立場を盤石にすることを優先すべきだ。後ろが揺らいでいては兵は力を発揮できない」
部下は溜息をついた。そして何かを思い出したようで、アネスに近づき耳打ちした。
「総大将をルガオロ閣下が代わってくだされば将軍にも時間ができるでしょう。その怪我治してきてくださいね」
アネスの普段より厚ぼったいマントを掛けた肩を指して言った。
薄暗いテントの中で数人の医者が薬の調合や道具の消毒をしている。医者になりたてなのか若い者ばかりで、ボロウェもその中に入っていた。怪我人は表で他の医者達が懸命に治療にあたっている。こちらもこちらで次々と必要になる雑用を少数でこなさなければならない。
一度ボロウェも治療に加わろうとしたが、気が立っている兵達は異形に触られることを嫌がった。それで裏の仕事に回されたのだが、こういった雑務でもボロウェの手際の良さは役に立っていた。
テントの中に二人の男が入ってきた。一人は医療隊を指揮する軍医でもう一人は騎士のようだった。騎士の顔はアネスの側で見たことがある。二人は小声で会話を交わしてから、軍医が中にいた数人の医者に声をかけた。
「誰か。上官が怪我をなさったので、直接彼の元に行って治療してほしいのだが」
ボロウェはすぐさま「自分が参ります」と名乗り出た。
砦の中心に三層の建物があり、指揮官達はそこで起居する。重厚な石造りながら窓を大きくとってあり、眺望が利くようにできている。そこの一室に通された。
「ボロウェ、どうしてここに!」
予想通り怪我した上官はアネスだった。ボロウェは質問に答える前にアネスのマントを剥いで傷を確認した。肩に数日前にできたと思われる傷がある。またこりずに怪我を放っておいたようだが、身体に致命的な影響はなさそうで安堵した。
「従軍するよう命じられたのか……」
「私が自ら陛下に懇願した」
「どうして」
「お前がまたこんな無茶をしているからだろう」
ボロウェは膿んだ傷を軽く拭くと、ヤスリのような葉身をした薬草を塗り込むように擦りつけた。
「相変わらず……、痛い」
「我慢しろ。私の故郷の子供達はこのくらい耐えるぞ」
「偉いな」
アネスは笑って、治療されている肩と反対の腕でボロウェの腰を抱いた。側でいた部下はアネスの心情を推し量り、二人きりにするよう部屋を出ていった。はたと気づいたボロウェはアネスの手をはたく。
「馬鹿! お前は無駄に触ってくる。恥ずかしいからやめろ」
ボロウェは耳まで真っ赤にして言ったが、アネスは腕を離さなかった。アネスの体温にボロウェの胸が熱くなる。それと同時に彼から血と火薬の匂いがして悲しくなった。
手当が終わるとアネスはルガオロとの軍議に出る為に多少整った服に着替えた。ボロウェはその間彼の逞しい体をぼんやりと見ていた。会議室に向かおうとするアネスに「ここで待っているか」と聞かれてやっと仕事があることを思い出し、アネスと共に部屋を出た。
階段を降りようとするとルガオロも下の階へ向かうところだった。アネスが彼に道を譲ったのでボロウェも脇に避けた。
「お前はアネス殿のお抱え医師だったかな」
ふいに掛けられたルガオロの言葉が嫌味だと一瞬分からなかった。アネスと私的な理由で会っていると思われたらしい。ボロウェには多少下心があったがアネスは偶然軍医に医者をよこすよう依頼しただけだ。ボロウェは反論しようとしたが、アネスが前に出てその言葉を遮った。
「軍医に治療の依頼をしたところちょうど彼が派遣されてきたのです。彼には都で何度か診てもらい腕を信用しているので幸運でした」
ルガオロは帝国でも屈指の大家の当主だ。波風を立たせたくない。ボロウェはアネスの気持ちを悟って俯いた。
「いやはや、都で"アネス殿が異形の男を可愛がっている。医者という話だが男妾じゃないか"という噂を耳にしたことがあってな」
ボロウェは冷めた頭にまた血が上りそうになった。有角人を差別する帝国人は少なくないが、同じ帝国人のことも貴族か平民かで見るのか。ボロウェはアネスの自分に対する優しさを、男色などという邪な見方をされることが許せなかった。
「魔族を相手にしなくてはならないというときに気楽なものだなと思い、つい口に出してしまった」
「魔族? いえ、敵は魔族ではないと存じます」
ルガオロが敵が魔族だと思い込んでいると気づいたボロウェは訂正する。アネスは敵を見てもいないボロウェが魔族でないと確信していることに疑問を覚えた。
「では魔族と契約した人間なのか」
「アネス、
――様も敵の正体が分かっていないのですか。都に帰された兵の傷あとを見たところ、拳で殴られたようなのですが、魔力特有の黒く染み付いたような痕がありません。上級魔族なら魔力の痕を残さないこともできるのですが、上級魔族が過去に人間同士の戦に介入した話など聞きませんし被害もこの程度では済まなかったでしょう」
帝国に連れて来られてからの月日に蓄えた知識だ。
「敵は一体何者なんだ」
「恐らく
――……鬼人族などの物理的な力が強い種族です。もしくは……」
そこまで言うとボロウェは黙った。
「鬼人族がいくら強くとも一体を相手に万を超す我が軍が歯が立たないわけがあるまい。異形の民などそんなものだ」
「そう……ですね。やはり魔族なのかもしれません」
ボロウェは急に歯切れが悪くなった。ルガオロは興味を無くして階下の会議室に向かってしまった。
「もしくは、なんだ」
アネスの質問にボロウェはビクッと震えた。
「ボロウェ、何か心当たりがあるのか」
ボロウェは怯えたような目でアネスを見上げた。
「アネス……、何があっても私達を信じ……
――いや、なんでもない。仕事に戻る。またルガオロ様に文句を言われる前にな」
「そうか」
何かを隠していそうだがそれ以上聞かなかった。異形の民の間には独自の交流がある。友好的な種族のことを告げ口することは避けたいだろう。だが……、
「ボロウェ、不確かなことは言わなくてもいい。だが、敵の正体を確信した時には教えてくれないか。俺も仲間を守る為の情報は欲しい」
ボロウェはこくと頷いた。
「ありがとう。そういえば閣下のことは悪かった。俺の身分では彼に強いことを言えないから嫌な思いをさせた。ただ軍中では総大将の権限で斬ることもできるから目をつけられないようにしてくれ」
「ではアネスも?」
ボロウェの不安気な視線にアネスは首をひねった。
「ああ、そうか。俺のことは心配いらない。皇帝に任命された将を斬る度胸は閣下にない。都に帰還した後は俺の失策を色々と報告されるだろうが」
「私は来るべきではなかったか」
アネスの帰りを離れた都で待っていることに耐えられなかった。それは我が侭でしかない。
「嬉しかった」
眉間に皺のよったボロウェと反対に、アネスは幸せそうに微笑んで言った。
ドンッと床が揺れた。アネスは咄嗟にボロウェを支えてから、窓から顔を出し砦の様子を確認した。
「敵襲! うわっ!」
砦の囲いの上で見張りをしている兵士が、黒い影に襲われて高所から落ちた。アネスは目を凝らした。
黒い鎧を身に着けた人間のように見える。遠くて確認できない。
「ボロウェ! 厨房の横に地下への避難路がある。そこに行け!」
アネスは外に飛び出していった。ボロウェもその後を追いかける。
男の拳が振るわれる度、石造りの城壁が、薪の山かのようにガラガラと崩れていく。その下に兵士の血が飛び、死体が重なった。男は死んだ兵士の剣を拾い上げた。兵達を胴から真っ二つにしていく。剣を壁に当てて折ってしまうと、また拳で戦い始めた。
「やめろ!」
アネスは男の真横から剣を突いた。だが男の手が刀身を握り、そして粉砕した。
「バシェルア……か」
アネスは目の前で起こったことが信じられなかった。男は、見間違えようが無い、バシェルアだった。だが体中に黒い痣が覆い、拳は艶やかに黒く光っている。
「魔族と契約したのか」
「……さあな。よく分からん」
低く唸るような声。バシェルアの声にも聞こえるし全く別のものにも思える。
「だが嬉しいよ……。この力で、殿下の即位をこの手で
――俺がこの力で!」
バシェルアは折れた剣ごとアネスを吹き飛ばした。城壁に背を強打する。
「アネス!」
ボロウェが息を切らして追いついた。鞄から瓶を出しバシェルアに殴り掛かった。バシェルアは片手でボロウェの細い体を払いのける。瓶が割れて中の液体が飛散する。地面に倒れたボロウェの腕と顔にガラス片が刺さった。
「ボロウェ、逃げろ! 手を出すな。逃げてくれ!」
アネスは悲痛な声で叫んだ。
「なんの……薬だ」
バシェルアは体にかかった液体を見た。黒い痣に掛かった透明の液体が青みを帯びる。
「
――ある増強剤に反応する試験薬だ。やはり魔力ではなく薬の効果か。薬を渡した奴は誰だ」
「薬……何のことだ。薬……
――グッ……!」
突然バシェルアが膝を折ってうめきだした。バシェルアの体から湯気が立ち薬品が蒸発していく。黒く光る拳に亀裂が入り血が噴き出した。
「う、
――アッ!」
バシェルアは腕を抱えて脱兎のごとく駆け出した。砦の兵達が矢を射ったが、当たっても怯みもせず去っていった。
「あーあ。また失敗かな。パワーは合格点だけど、こう副作用が大きいんじゃなあ」
崩れた城壁に少女が座っているのに気づいた。
「ダークエルフ!」
「有角がどうして人間の軍にいるのかしら。あ、思い出した。貴方薬の共同研究を断った医者ね。ほんと、有角は腰抜けばっかりなんだから。人間様の下で媚売ってるの?」
「黙れ! この惨状はお前らの作った薬のせいだろう! だから関わりたくないと言ったんだ。自衛の為と言っておきながら人間の戦場を荒らして!」
「あら、ダークエルフは自衛だけのつもりは最初からなかったわよ。散々人間に虚仮にされてきたんだから、今度は人間を玩具にしてやるの。何が悪いのよ、裏切り者さん」
ダークエルフの少女イテアは冷たい目で言い放った。
「馬鹿な。師匠や先輩は有角を守る為に作るのだと、"決して人間を滅ぼす目的ではない"と言っていた」
「そうねー。そんな優しいこと言ってたわ、角のお爺さん。有角も少しは役に立ってくれたけど、あの腰抜け達『自衛以外の目的で使うな』なんて言ってくるし、研究からは抜けてもらったわ」
「抜けた? だが全員、村には帰っていないはず」
「そうね。帰れない体にしちゃったから」
イテアは懐から何かを取り出した。三本の角だった。
「まさか……、彼らの……」
「そうだ。貴方のも貰ってあげる。有角の角は万能薬だから多ければ多いほどいいわ」
イテアが座っていた場所から忽然と消えた。
「ボロウェ、後ろだ!」
イテアがボロウェの後ろに立って片方の角を握っていた。
アネスは痛む体を起こし、剣を握ってボロウェの方に走った。
イテアは素早くボロウェの肩に乗って足でボロウェの首を固定した。ボロウェは急に掛かった重さに耐えられず倒れる。イテアは細い紐をボロウェの角の根元に巻き付けると、それを一気に引き抜いた。紐に付着していた特殊な火薬が爆発する。角がポロリと落ちた。
アネスがイテア目掛けて剣を振ったとき、彼女はすでに角を拾って城壁の上へ登っていた。
「残念。もう一本は預けておくわ」
「貴様、殺してやる!」
憤怒したアネスをイテアは空を仰いで笑った。
「ははは、
――人間! もう大人しく殺される私達じゃない。魔族の次に人間が君臨していた時代は終わり。人間が最下層で喘ぐ時代がもう、すぐそこにあるわ」
イテアは城壁の向こう側に飛び降りた。
「逃がすな! あのダークエルフは敵の情報を握っている。捕らえろ!」
アネスは倒れて動かないボロウェを抱き起こした。心音、呼吸はある。
しばらくしてダークエルフを捕り逃がしたという報告が入った。バシェルアの力について訊くのはボロウェが目覚めてからということになる。
日が落ち真っ暗になったテントの中で、黒い影が蠢いていた。
「くッ……鎮まれ……。まだ玉座に届いていない……
――!」
バシェルアの黒い腕は、先程倒した兵の血と自分の血で赤く染まっていた。誰かが戸を開け、燭台でもってテントの中を照らした。
「バシェルア。医者を……」
「要りません! 殿下、大丈夫です。そのうち、治まりますから」
皇太子は燭台を手にバシェルアに近づいた。腕の様子を見てゾッとする。バシェルアはサッと布で隠した。
「やはりそれは、人間が使ってはいけない力だったんだよ」
皇太子は頼りなげな眉を寄せて、バシェルアの背を撫でた。
「分かっているんだ。まともに戦っても私がカナーに勝てるはずが無いと。ただ悔しくて……、父上が弟を選んだことが」
「いいえ、あの遺言は……」
「遺言だけじゃない。父上はカナーが王冠を手に入れる為に徒党を組んでいることを知っても、私の為に何もしてくれなかった。やっぱり、カナーの方が優秀だから……」
「殿下! 今のトネロワスン皇帝に相応しいのは貴方です。隣国や異民族が力を付けてきている。それを抑えるのは、力を信ずるカナー様では駄目なのです。貴方の優しさが必要なのです」
「バシェルア……」
「必ずや私が、殿下を都に
――玉座までお連れいたします」
バシェルアは皇太子のマントの裾に誓いの口付けをした。