貴族の閑話 1
トネロワスン帝国首都宮殿を囲む長大な城壁。本殿の屋根を前方の道から臨むことができる。見上げた先の荘厳な営造は、帝国の権力の大きさを垣間見せる。
本殿の東廊が午前の光に照らされている。ここは、帝国議会場だ。
「今挙がっている議題は以上です」
「ご苦労。解散だ」
皇帝カナーが言うと、トネロワスン帝国列侯や高官は席を立ち、宮吏が開けた議場の扉を出ていく。
「アネス、話がある」
カナーの呼びかけに、一人の将官が応えた。カナーから声をかけられることはいつものことで予測できたため、彼は出口に向かってはいなかった。
背が高く、軍礼服の凛々しさの似合う男だ。カナーよりは年上とはいえ、帝国の議会に席を持つ将とは思えないほどの若さだ。
カナーが額を近寄らせ、将軍アネスと会話しているのを、議場を出ようとしていた一人の貴族が振り返った。二人のどちらかに視線をやって睨みつける。
会議中は奥の方、皇帝に一番近い席に座っていた、最高祭祀官のルガオロだ。
(おのれ……、平民などに軍の要を任せるなど……)
帝国軍の最高司令官である総帥は、皇帝を挟んでルガオロの反対側に座っていた老齢の貴族ベフィーナリスアシキアだが、カナーは軍事の相談はまずアネスと行う。
「ルガオロ様、あまり睨むと陛下に気づかれますよ。また仕置きがあったらどうするんです」
後ろから笑いを含んだ声が聞こえた。振り向くとベフィーナリスアシキアの慈顔があった。彼に促されてようやく議場を出る。
「悔しくはないのですか! ベフィーナ殿は」
「ま、若い人がやってくれるなら楽ではないですか。私たち貴族も大して蔑ろにされているわけではないですしね」
ベフィーナは温厚な性格で、平民出身の将に対しても好意的だ。
戦歴は、若い頃一つ華々しい戦勝を飾ったそうだが、その後は地方の小競り合いを着実に勝利し続けるという、地味なものだった。現役将軍最高齢になって、やっとミスと敗北の少なさが注目され、総帥になった。だが老体のせいか休みがちで、誰もが名目上の総帥であると分かっている。
「のんきな方だ……」
「ふふ、ルガオロ様はおいくつになっても、はきとなさっている」
歩きながら話していると、腰を曲げてゆっくりと進むベフィーナとは差が開いてしまう。
「失礼」
ルガオロはそのまま宮廷内の自室に向かって行ってしまった。
あまり知った仲ではないが、昔はそれほど体格差がなかったと記憶している。だが、ルガオロは横幅が豊かになり、ベフィーナは骨と皮を残すように全体的に縮んだため、今では二倍以上の体積の差がある。
「ベフィーナ殿は頼りない。彼が侮られぬよう、私が軍事のことも気にかけなくては」
自室にて、誰とはなく言を吐いた。
「御指図をいただければ、いつでも用意はございます」
部下のアルが答える。冷静沈着で有能な男だ。
ルガオロは先の帝国軍最高司令官に任じられていた。その上代々の権門なのだから、トネロワスン帝国に様々な楔を持っている。
「私の代ではアネスの増長を抑えられていたんだ。うむ、やはり私がベフィーナ殿を助けてやるべきだろう。それにカナー様……、いや、皇帝陛下に一番信頼されているのは私なのだから」
(信頼……?)
アルは首を傾げそうになった。
(正直、皇帝陛下はルガオロ閣下の能力や人格を評価していらっしゃるようには見えない)
ただ、長年共に事を成してきたせいか、情は移っているようだ。
情などつまらないものにみえるが、意外と他の権臣達が持っていないルガオロの利点だ。これが為に、誰の部下になろうと通用するほど優秀なアルが、ルガオロの下に留まっているのである。
「アネスが陛下に嫌われるようにすればいいんだ。よし、アネスの手下に扮したごろつきが陛下を襲い、それを颯爽と私が倒そう」
アルが黙っているうちに、ルガオロはとんでもない策を思いついたようだ。果たしてカナーがそんな幼稚な策にひっかかるだろうか。
(はあ、どうしてこう……。……見限り時には十分気を配っておかねば)
「私は協力いたしませんよ。御冗談はそれくらいになさってください」
溜息まじりにたしなめる。
「アルの奴め。本当に協力しないとは」
主人より忙しそうなアルに追い出されて、ルガオロは宮中をうろうろしていた。宮廷はカナーの性格のせいか、公人には意外と開放されている。だがルガオロほど入り浸っている者は数えるほどだろう。
「しかしあいつがいないと不自由だ。誰か他に策を打ち明けられる者……」
「ルガオロ様。奇遇ですね」
積み上げて持った本に顔が隠れた者が、前から歩いてくる。
「あ、すみません。天気がいいので庭で本でも読もうと、書庫から選んできたんです。ちょっと、手がいっぱいになっちゃいました」
ベフィーナリスアシキアだ。顔は見えないが、穏やかに笑っているのを感じる。
「その本、誰かに持たせたらどうです」
骨が浮いたベフィーナの手が痛々しい。
「あ、いえ、大丈夫です。今日は休暇なので、部下を付き合わせるのは悪いし、かといって宮廷に使用人を入れるわけにもいきませんから」
「おい、君、総帥の荷物を持ちたまえ」
ルガオロはベフィーナの言葉も聞かずに近くにいた女官に声をかけた。
「えっと……、ありがとうございます。優しいのですね、ルガオロ様」
「ふん。礼を言われるほどのことではありません」
満更でもなさそうだ。
「では」
女官がベフィーナの本を持ったのを確認すると、立ち去ろうとした。
「ルガオロ様!」
珍しくベフィーナが大きな声を出したのに驚き、ルガオロは振り返った。ベフィーナも自分の声に、少し赤くなりながら、
「あの、庭に一緒に……、お茶にでもお誘いしたいのですが」
照れくさそうに言った。
「このような場所に素敵な庭池があったのですね」
本殿から離れた館にいた。池の縁を歩く彼らの足元に、ミズアオイの涼しげな青が連なる。
「陛下が王子だった頃の館です。今は館の主はいないが、そのうち皇族の誰かが住むと思うので、今のうちにね」
池の周縁にテラスがあり、使用人達が本とティーセットを置いて立ち去る。緑陰を屋根にして、ルガオロとベフィーナは椅子に座った。
「なつかしい。こうして本が積み上げられていると、幼いカナー様にここで勉強を教えたことを思い出す」
「陛下と? ああ、ルガオロ様は陛下の傅役でございましたね。手ずから教えていたのですか」
風が木の葉を揺らす涼しげな音。一瞬、木陰に光が差して、ベフィーナのにこやかな顔を照らし、また影になった。
「ルガオロさまはどうやってそれほど親しくなれたのでしょう。もちろんルガオロ様のお人柄が素晴らしいということもあるでしょうが、人の仲はそれだけでは分からない奇縁があふれていますから」
「よし、お聞かせしよう。私と陛下の出会いを」
「私と陛下の出会いは、そうだな。大物同士の運命が交錯したかのような、輝きに満ちたものだった」
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当時ルガオロには政敵がいた。
政敵が第一皇子の傅役をひきうけたので、ルガオロは、母妃の出自に遜色がなく、齢もあまり離れていない、第二皇子を立てるしかなかった。それがカナーだ。
皇子の勉強部屋で初めて対面した。子供などどれも同じだと思っていたが、ぱっちりした目と大きな口に綺麗に並んだ白い歯を見て、将来美男子になることが予測できた。
「何を教えてくれるんですかっ。私は東のデニッタ湾にあるというおーきな船のことと、海の向こうのことと、あと空を飛ぶ生き物のことが知りたいです! 魔族とかっ!」
「必ずカナー様の気に入る授業になりますよ」
ルガオロは笑顔で答えた。当然だ。代々の皇太子に与えられる教育に、帝国有数の貴族の宗主に与えられる教育を同時に与えようと計画しているのだから。教師も最高の者を用意している。
最初、ルガオロは教師たちに任せて、たまに様子を見に来るだけだった。
「申し訳ありません。私を、殿下の教師からはずしていただけませんか……」
だが、次々と教師たちがしょげた顔で辞めていった。
皆、幼い皇子に論破され自信を失くしたのだ。
「教師? 人の使い方を知らないものに王者の教育をできるか。ルガオロ。あの程度の教育で満足なのか。貴公もただの一貴族ということか」
(なんて、生意気な)
「ああ、そうですか。では私が直接、人の上に立つ者の真髄を教えましょう。ついていけないと、泣きつくことは許しませんぞ」
凄みをきかせたルガオロの言葉を、カナーは不遜な笑みで受け止めた。
ルガオロは勉強の時間毎、コテンパンにやられる。
「おのれー! 次こそは、『ルガオロ、さすがだ。私など足元にも及ばない……』と言わせてやるー!」
ルガオロは間違いなく手ずから教えていた。教えていたというか、手玉に取られていた。そこから何かカナーが学ぶものがあったかは定かではない。
だが二人が共に過ごす時間は長く、型通りの薄い関係の守役ではなかった。
「ルガオロ、討伐軍だが皇帝陛下が率いていくのか」
城門を出ていく煌びやかな一軍を、二階の窓からカナーは見つめた。
「はい。陛下から聞いていませんか。しばらくいなくなるという挨拶も?」
「……ああ。挨拶はいつも無いよ。しかし陛下の側役から一言くらい来るんだけどな。……教えてくれてありがとう」
カナーは室内へ視線を戻した。カナーがたまに見せる、冷たい眼をしていた。
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という過去を、ルガオロは都合の悪いことを伏せつつ話した。
「ルガオロ様、さすがです。わがままを言う幼き皇帝陛下を優しくたしなめ、今の名君にしたのは貴方なのですね」
ベフィーナは目を輝かせつつ讃えた。……ルガオロがベフィーナにした話には相当の脚色があったらしい。ルガオロは褒められてふんぞりかえっている。
「陛下とルガオロ様、仲がいいわけですね」
「ええ」
「父親と息子ぐらいの齢なのに……、いえ、逆にそのせいかもしれませんね」
「どういうことです」
「陛下は先帝と……、あ、ごめんなさい。なんでもありません」
ベフィーナは笑ってごまかした。
「話のついでに、陛下の母后のことも伺ってもよろしいでしょうか。噂はよく耳にしたのですが、あの方が宮廷にいた頃、私は地方にいましたので」
「いっ」
ルガオロは急にビクッとなり、怯えるように辺りを見回した。池は見通しが利き、誰もいない。ほっと息をついた。
「あの、駄目でしたら別に」
「いや、結構」
ルガオロは姿勢を正し、咳払いをした。
「彼女は、忘れようとしても忘れられない人だった」
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カナーの母は、……すごい人だった。当時はアニナ神国の皇女で、今は女皇である。
姉が五人いて、第六皇女であった彼女は、実家の神国で女皇の座を継ぐことは難しかった。そのためトネロワスン帝国に嫁し、トネロワスン皇帝妃の座で満足しようとした。
すでに后妃の椅子には、皇太子の母であるキシトラーム王女が座っていたが、彼女はその美貌と知力と旺盛な権力欲で、正妃を二人置くことを了承させた。
その日より、アニナ神女派、キシトラーム王女派の争いは激化した。
王女派の利。それは皇帝の長子を産んだことと、キシトラーム王国の国力。
キシトラーム王国は大陸でトネロワスンと並ぶ大国である。軍事力はトネロワスンに及ばないが、文化の成熟具合は上だ。王女は常に煌びやかなドレスを纏っていた。
神女派。次子、アニナ神国、いずれも王女に劣る。王女派にあぶれた者のはきだめ……かに見えた。
神女は圧倒的に民衆に人気があった。美しかった。
飾らないドレスの揺らめきは、清き水の流れのよう。その振る舞いは、『神の乙女』と名乗るに相応しい。
そして強かった。
民衆はやたら豪奢な王女を嫌い、可憐な神女を愛した。彼女はそれを自覚し、そこを攻めた。神女派を操り、民衆からのさらなる支持を獲得するのはもちろん、その噂を高くし、華やかな人気を演出した。すると王女陣営が揺らぎだした。
「この後継争い、勝者に味方せねば……どちらにもいい顔を……いや、すでに王女は孤立している……神女だ……カナー第二皇子殿下だ!」
群がりだした貴族達。
神の乙女はほくそえんだ。
その矢先、彼女は突然アニナ神国に帰ってしまった。次期女王に一番近かった長姉が不慮の死を遂げたと知り、他の姉には勝てると考えた彼女は、実家に帰ってアニナ神国神聖女皇の座の争奪戦に加わった。
トネロワスン帝国は帰郷を許したわけではない。神女は独断で、追手が来る前に帝国を脱出した。その腕の中に、神聖女皇の相続権がある女子、カナーの妹を抱き、わずかな供回りのみで。
トネロワスンの貴族達はあまりの驚きに呆然とした。神女の手腕に頼っていた第二皇子派の動揺はさらに強い。
報を受けたルガオロは神女と第二皇子の館に走り込んだ。神女はおらず、カナーのみが残されていた。
「カナー様! 母君は!?」
「……え、と」
カナーはゆっくりと首を回して、ルガオロの方を見た。視線が泳いでいたが、動顛しているルガオロは気づかえない。まだルガオロの腰の高さしかないカナーの肩を掴んだ。
「ど、どうしましょう、カナー様あぁ!」
喚くルガオロに対して、声に力のないカナー。
「どうする……って?」
「カナー様の母君がいない! カナー様を跡継ぎにする働きかけの主導者がいない! こちらの隙をついて皇太子派が盛り返してくるっ! ああ! そしたら殿下の存在を疎ましく思っていた皇太子派によって、カナー様が遠ざけられたり、もしかしたら殺されるかもー!」
子供の前で遠慮もなく不安を言い立てた。カナーは青くなった。その恐怖は真実で、まだ見えないが目前にある。
「どうすれば……!」
「落ち着け、ルガオロ!」
カナーはルガオロを叱りつけた。
(ルガオロに……誰かに任せていたら、私が喰われる。自分でどうにかしなくては)
「カナー様……」
「まず、母を追う」
「しかし、もう」
「連れ戻せなくていい。そして、追跡の指揮をさせるのは、あの男だ」
カナーが名指しした男は、ルガオロの政敵で、皇太子派の頭、ミンだった。
ルガオロは急いで皇帝に働きかけ、皇帝はミンに命令を出した。ミンは喜んでその命を受けた。
国境に兵を送るのを、ミンはわざとゆっくり行い、神女は逃げおおせた。
「ああ、神女様がこの国からいなくなるなんて、なんと悲しい」
巷はこの話題ばかりになった。
「ミン様、あの清き神女様を嫌っていたというよな。真剣に追わなかったんじゃないか」
「ねえ、もしかすると神女様が自分から逃げたって嘘で、ミン様が追い出したんじゃない?」
「まさか……、か弱き神女様に、剣を向けて怯えさせて」
噂は皇帝の耳にも届く。ミンと、彼が親しくしていた皇太子の母の心象は悪くなった。
皇帝は美しい神女を気に入っていた。『神の乙女を妻にした者は長生きする』という迷信のせいかもしれない。
「母の勝手、申し訳ございません」
謁見の間で、カナーは跪いていた。その始末はもうついたと思っている皇帝は、興味無さそうにカナーの下げた頭を見ていた。
「このままでは私の気がおさまりません。どうか私に母の分まで、いえ、それ以上に陛下のために尽力させていただきたい。近々出兵するルガオロ将軍の軍に私を従わせてください」
左右に並んでいた臣下達はざわめいた。
「臣下を総大将とする軍の下で、王族が従うですと?」
普通は形骸となったとしても王族を総大将とする。それにカナーはまだ初陣には、あまりに幼い。ルガオロもカナーから事前に相談があったわけではないので驚いた。
(今、皇帝の心象を悪くした皇太子派は、こちらを攻めあぐねている。時を空けてはいけない。母の後ろ盾がない私は、何か別の盾を持たなくては……)
そのためにカナーが考えた盾は、剣の力だった。
カナーの従軍は許可された。
その戦場は厳しいものだった。敵国が強力な異種族と同盟し、人間が見上げる体格の戦士が武器を振る。
歴戦の猛者さえ臆す戦場を、小さなカナーは駆けた。臆す心も忘れるほど必死に。母に似た綺麗な顔を、泥と汗と血で汚す。
権力闘争に巻き込まれた貴き少年の、あまりに果かなき剣が振られる度、帝国兵は胸の痛みを力に変えた。決して退かないカナーを、帝国兵は守り切った。
その時戦いは、トネロワスン帝国の勝利に終わっていた。
兄より早い初陣。その成功は、カナーの大きな財産になった。
動揺していたカナーの足場がようやく固まった時、アニナ神国から皇帝に親書があった。神女が跡継ぎに決定し、年内にも戴冠し神聖女皇になるそうだ。
ひとづてにカナーは耳にし、
「それはこちらの有利になるな。アニナの一皇女より女皇が母の方がね」
と、冷静な顔で述べた。