【第1章 再会】 1. 外へ
橋は天へと延びていた。
雷《いかづち》がそれを襲い、不夜の光海は闇に沈んだ。
*****
明かりが落とされた広く無機質な部屋に、三つの台座があった。
台座のうち二つの上には、淡く発光する人型が立っていた。
一つは短い髪の少年。一つは長い髪を束ねた少女の……単純化された光のシルエット。
どちらも立体映像だった。
台座はもう一つある。そこには男の子が立っていた。
映像ではない。人間だ。
暗い部屋に浮かぶその印象は、白く細い。服は上下とも白い無地。光の少年よりも少し背が低く、小学校に入ったばかりくらいの齢にみえる。
『ミサキは人の世界、データの世界で大きく版図を広げた』
光の少年の名はエイ。声は落ち着いた大人の声を模している。
『でもここにきて他の企業と拮抗してきちゃった。ブッチャ、潮《うしお》グループ……国内だけでもライバルを引き離せないしー』
少女の方はビビ。明るくコミカルに話す。
二体はミサキ
――岬技研株式会社の二人社長であり、そしてAIだった。
滑らかではあるが無機質な少年と少女の声。人間の男の子は黙って聴いている。
『企業は常に成長し続けなければいけない』
『そんでラッキーな私達は、新しいフロンティアを見つけちゃった』
『それが妖《あやかし》の世界』
二体は声を揃えて言った。
『妖の世界へのキーとなるのは、祈《いのり》、君だよー』
『あの”双子”には劣るが、祈の力の再現はミサキの力をもってしても未だ成せない』
祈と呼ばれた人間の少年は表情を動かさない。心そこにあらずといった様子だ。
エイが窓の方を向く。それと同時に部屋を闇に閉ざしていた電子カーテンが開いていった。巨大なカーブを描く全面窓から、青白い夜の光が差し込んでくる。月光だけではない。眼下には東京湾の果てなきネオンが輝いていた。
『別世界を制圧し、そこに新たなビジネスチャンスを生み出してみせる』
『すべては成長のために』
二体は声を揃えて言うと、台座から消えた。
光源であった二体がいなくなり、部屋は少し暗くなる。祈は窓に近づいて東京湾を見下ろした。
「別世界を……」
祈はぽつりと呟いた。齢相応の幼い声。
「僕はこの世界のことも知らないのに」
ここはミサキ本社最上階。
ミサキは二体のAIを社長としたIT総合企業だ。前社長が自社開発のAI
――エイとビビに代表役を譲り、それからミサキの業績躍進は凄まじかった。日本トップクラスから、世界トップクラスへ。精密機器・ロボットなどのハイテク部門も伸びて、ソフトとハード両面で進化を遂げた。
そしてその間に社員の大半がAIへと入れ替えられた。オフィスにはコンピュータの廃熱音だけが響き、その間を管理維持に当たるロボットが移動する。ビルのほとんどの階は必要なくなり、それを見せつけるように、エイとビビは命じた。
『壁を撤去せよ』
オフィス同士を仕切る壁ではない。外壁のことだった。
日に日に骨を露出していく建造物。人々は気味悪がったが、それでもミサキのソフトウェア、ネットサービスには誰もが触れていて、欠けてはならない存在だった。
――異様なものに、日常を支配されている。
その思いがこの時代の人々に漂った。
ビルの一面のみは『MISAKI』と巨大なロゴが設置されていたため壁を保持した。あとは必要なケーブル、エレベーターを通しただけ。骨が露出し、一面だけ壁がある。ちょうど橋を九十度回転させたような形だ。本来は横へと延びるはずの橋が、理《ことわり》に逆らうように天に延びている。その異様な姿を人々はこう呼んだ。
『天地橋《てんちばし》』と
――。
そして最上階は、エイとビビの”秘密の研究”を知る人間にこう呼ばれている。
『天牢《てんろう》』と
――。
「祈はすごいよ。祈に誘引された妖をバンバン捕獲しているけど、牢が足りなくなるくらいだ」
当番の研究員、平坂理《ひらさかさとる》が言った。身なりに気を使わず、痩せた体にいつも白衣を羽織っている男で、鼻筋はすっきりと通っているのに、くたびれた印象だ。大学院を出たばかりのはずだが、もっと年上に見える。
「あー、しかしこの前逃がした妖は惜しかったな。あんな大物が東京にいるなんて。計測器が振り切っていた。あの時は牢が脆弱すぎて逃したけど、また会えるかな」
『この高度まで来たということは、鳥の妖だろうか』
今のエイとビビはポータブルの立体投影機に映っているため、サイズが小さい。机の上に立った二体は、椅子に座った祈の頭と同じくらいの高さだった。
「さあ。僕にも君達のセンサーでも見えないからね。計測器の残したデータから推測すると四つ足の可能性がやや高いかな」
『鉄骨を木登りしてきたのかなー。お猿さん?』
『平坂、今度の牢は大丈夫なんだろうな。二度も逃せば、あちらも学習するぞ』
祈はこくんと水を飲む。三人の話に興味がないようだ。
「大丈夫! 君達こそ、こっちのプロジェクトばかりにかまけていないで基幹事業の方に顔を出してきたら。商品はともかく、研究面では最近ブッチャに遅れを取っていないか」
『むー、理のいじわる』
『だが一理ある。いくぞ、ビビ』
『はーい』
二体の映像と音声は途切れた。
「あー、やっと静かに……」
理が投影機をデスクの端に寄せようとすると、
『一つ言い忘れていたことがある』
「うおっ」
エイが投影機に戻ってきた。
『例の大妖。シーカと呼ぶことにする』
「ん、まあ呼称はあった方が便利だけど。シーカ……。君らと名前が似ているな。そんなに気に入ったの?」
『話は以上だ』
理を無視してエイは映像を切った。
「へーへー、社長様」
理はデスクから離れて、生体認証でキーラックを開けた。そこに入っていた鍵束を手に取って、エレベーター前のエントランスでスリッパから靴に履き替えた。屋上デッキへの階段を登る。ふと、彼は祈に振り向いた。
「扉を開けるから、歌わないでくれよ」
「命令されていない」
「そうそう。命令がないなら歌わない方がいい。歌はつまらないからね」
理は口の端で笑って、デッキへと出ていった。
祈は部屋に一人になり、電子ペーパーで漫画を読んだ。しばらくすると掃除ロボットが巡回してきたので、フィットネスルームに移動する。運動器具の上でごろごろしながら、窓の外を眺めた。
「天気良いな」
空と海が広がっている。そして陸を埋め尽くす灰色の建物。祈の知らないフロンティア。
メインルームに戻ると掃除ロボットはいなくなっていた。
「……?」
びゅーっと、どこかから風の音がした。
「ドアが開いている」
ミサキ本社……特にこの最上階はエイとビビによってオート化されたが、一部には手動部分が残っている。鍵を閉め忘れたなら、そこの鍵はもちろん開いたままだ。
階段の先、祈が開けられないデッキへの扉が開いていた。
「理がいるはず」
そう言いながら、祈の目にふつふつと期待が込みあげる。
「どうしよう」
別に外に出たからといって何ができるわけでもない。空しかない袋小路だ。
「何回か出たことあるし」
自分に言い聞かす祈。ワクワクした表情は抑えられていない。ガラス越しではなく、今日の青空が見たい。ただそれだけの想いで、
「…………っ」
祈はデッキへと踏み出した。
理の姿はなかった。
「研究室にでも行ったのかな」
屋上を見渡していった。大きな機械が配置されているが、置かれているのは屋上の四隅なため、物陰はない。
祈は前へと進む。
裸足に触れる冷ややかな床。幼い体を拒むような風。
それでも進んで、デッキを囲む手すりへと触れた。屋上は作業者の出入りしか想定していないために、手すりは細く少ない。その分、空に近く感じた。
「きれい……」
青い空。遠く小さな雲。鳥の鳴き声と汽笛の音がかすかに聞こえる。
水平線が見える絶好の視界。真下には輝く海。手すりを掴む小さな黒いグローブ
――。
……手?
「えっ」
手すりの根元を、祈でない子供の手が掴んでいる。
「よっ
――」
そこを視点にして、何かの影が軽快に飛び上がってきた。
「やった! 頂上。天地橋、踏破!」
デッキに着地した少年が拳を上げた。
「えっ、う……っ」
少年が祈の方へ振り返った。
祈と同じくらいの齢の男の子だ。袖口を絞った動きやすそうな服装で、小さなリュックを胴にしっかり固定している。綺麗な顔に浮かぶ丸い汗。風がさらさらの黒髪をはためかせている。
「子供がいる。この屋上、誰でも入れるの?」
祈は首を振って否定した。
「じゃあ会社の人の家族?」
祈は首を傾げる。要領を得ない祈の返答に、少年も首を傾げた。
「まあ、いいや。はじめまして。俺、水無川晶《みながわあきら》。高いところに登るのが好きで、挑戦したんだ」
「ビルって登れるんだ……。えっと、僕は祈。苗字は分かんない」
「祈。俺のことは晶って呼んでね」
「晶」
祈が名前を呼ぶと晶が微笑んだ。
「……!」
優しい反応が返ってきて、祈は晶をじっと見返した。
「じゃあ、降りよっかな」
クルっと空の方へ振り向く晶。
「えっ」
「? 何」
「降りられるの?」
「うん。登れたんだから降りられるよ」
祈は手すりを掴んで下を見た。鉄骨は直立しているはずなのだが、内側にえぐれているように錯覚してしまう。そして地面は霞むくらい遠かった。
「本当に?」
「本当だよ。ちょっと見ていて」
そう言った晶は助走して、屋上にある機械に駆け寄った。ちょっとした凸凹をとっかかりに身長の三倍はあるそれに一瞬で登ってしまった。祈は驚く。
「忍者だ!」
漫画で読んだ。
「違うよ。忍者なんているわけない。ただの小学生だよ」
「そ、そうなんだ。小学生ってすごい」
祈は小学校に行ったことがないのでよく分からない。
戻ってきた晶の手を取って祈ははしゃぐ。
「すごいね。登ってきたの本当だったんだ」
「えへへ、そうだよ」
「動物みたい。猫とか猿……、猿?」
祈は先程のビビの言葉を思い出す。
「もしかして、五日前にもここに登った?」
「ううん。おととい新幹線で来たばかり」
話題になっていた妖かと思ったが、そうではないようだ。
「他にも登った人がいるんだ。登りたくなるもんな」
「あ、違う。人じゃなくて妖って言ってた」
「妖かー。じゃあ登るの得意なのいそう。俺より早かったかな」
「晶はどのくらい掛かったの?」
「十五分くらい」
「それなら妖の方が早かったと思う。最初に周りの確認して、それから大人が騒ぎ出したのに、十五分は掛かっていなかった」
「む、悔しい。どんな妖か分かる?」
「分かんない」
「そっかー」
「でもいいな。僕も練習すれば、エレベーター使えなくても外に行けるのかな」
「エレベーター使えないの?」
「僕はロック外せないから、外に出たことないの」
「……一度も? 大人と一緒に出たこともないの?」
「うん」
「…………」
「行ってみたいなー」
晶が表情を硬くした。じっと祈を見ている。
そして、しばらくして口を開いた。
「じゃあこっちから行こう」
晶はデッキの端を指差した。手を離したら真っ逆さまの外のルート。
「い、行けないよ」
「祈のことは俺がおんぶで連れていくよ」
「
――……! いいの?」
「いいよ。来る?」
「行く!」
晶の提案に、祈は飛びついた。
「じゃあ行こう。えっと……」
晶は祈の服装を確認する。
「できれば裸足じゃない方がいいかな。靴はある?」
「あるよ」
祈が一度中に戻ろうとすると、晶が先に中を確認する。
「誰かがいる音はしないけど、静かにね」
「分かった」
ドアの側の物入れを開ける。いつも大人が開けていたから知らなかったけれど、この物入れは元々鍵は掛けていないようだ。そこにあった靴を取り出し、ついでにウィンドブレーカーにも袖を通した。
屋上に戻り、晶はリュックからベルト状のものを取り出した。リュックを前に背負い、祈に背を向けて屈む。おぶさった祈を、晶はベルトで固定して立ちあがった。
「重くない?」
「うん。平気。妹の着物みたいに、ひらひらしていないし」
祈の体重がないかのように、晶はスタスタと進む。手すりを乗りこえて、デッキの端に立った。
「行くよ」
「お願い……!」
ぎゅっと晶にしがみつくと、ふわりと体が軽くなる。空中を落下している。下には地面まで何もない。
「……!!」
晶はロープをビルの方へ放った。ロープの先が鉄骨に巻きつく。晶はロープを引いて、鉄骨の上へと着地した。
「び、びっくりした……」
心臓がドクドクしている。
「天牢の下……」
一階分だけど、見たことのない場所。
「わっ」
また晶が飛び降りた。その手には、いつの間にか鉄骨と繋いだロープが握られている。一気に下へと滑り落ちていく。
視線の先では、ビルの中央辺りにあるエレベーターがちょうど昇っていくところだった。すごい速さで遠く離れていく。
「――……っ!」
また鉄骨に着地する。晶がくいっと操作すると落ちてくるロープ。それを受けとめては巻き直し、同じように降りていく。何度か繰り返すと、祈も楽しくなってきた。
「あとちょっと!」
「うん!」
オフィスのある階の上まで降りてきた。ここから下はちゃんと壁がある。二人は端に向かった。
「あ……」
見下ろした壁面は鏡面のようにツルンとしていた。小さな凸凹はあるが、あれだけで二人分の体重を支えられるのだろうか。ここからロープを張ろうにも、長さが足りない気がする。
「よし」
晶はロープをしまってしまう。そしてリュックの一部をべりッと剥がした。ペコペコと音を立てて組み立てると、それは釣鐘型になった。材質は伸縮性があるようだ。
「ボール? 変な形」
晶は得意げに口角を上げて、
「見ててね。行くよ」
手首をスナップさせてボールを投げる。それを追って、そのまま壁面を下へと走った。
「なっ、なっ! 落ちる!」
何もない壁面にボールがぶつかると、そこに吸いついて止まった。晶はそれを蹴ることで落下スピードを抑えて、同時に姿勢を調整する。蹴られたボールはまた壁面へと吸いつき、それを走ってきた晶が再び蹴る。
真っ逆さまに進むサッカーをしながら、晶は地上まで降りきってしまった。
「到着っ! さっき言っていた妖より早かった?」
祈と晶を繋いでいたベルトを外し、きらきらした表情で振り向いた晶。茫然としていた祈ははっと気を取り直し、
「早かった!」
と答えた。