2. 外へ 2
天地橋
――ミサキの本社社屋の裏手から移動する。敷地は通りと開放的に接続していた。この辺りはスーツやジャケット姿の人が多いが、少し歩けばショッピングセンターもあるため、子供が二人、手を繋いで歩いていても気にされない。
「地面だ」
ミサキのお洒落な外構を前に、祈は植栽の土に興味を持っている。
「地面から草が生えてる。木が大きい! あ、あっちは車っ、車だ」
興奮した祈の動きを、晶は観察している。
「どこかにぶつけたとか、痛いところはない?」
「平気。晶は?」
高所から着地したり、ロープで滑り降りたりしていた。
「全然問題ないよ」
晶は擦り切れたグローブを外しながら言った。
まっすぐに駅へ向かい、そこで晶は足を止める。
「どうしよう。まだ門限じゃないけど、剣《つるぎ》おじさんの所に帰った方がいいのかな」
晶は悩む。
「…………」
その隣で、祈は頭上を見上げている。高架をはみ出した電車が、駅から出発していった。祈はそれをじっと見送っている。晶がひょこっと顔を覗いた。
「乗りたい?」
「うん!」
「じゃあ乗ろう」
切符売り場で運賃表を見上げて行先を決める。晶は子供用携帯を取り出してメッセージを送った。
『友だちとお台場へ行ってきます』
「友達……」
「友達!」
「えへへっ」
晶に切符を買ってもらい、改札を通ってホームへ出た。平日の昼なので人が少ない。進行方向の最前席に座り、わくわくと出発を待つ。祈はドアが閉まる音にもびっくりしている。
「う、動いた」
無人運転の大きな視界。座っているだけで景色が飛び込んでくる。
「道路も、建物も近い。すごい」
「そうだね」
祈に相槌を打つ余裕があった晶も、東京の重機や倉庫がひしめき、その後方に高層ビルが連なる巨大な湾岸が広がると、興奮してべったりと窓に貼りついた。
「返事きた」
携帯のランプが小さく光っていた。
『友達と会ったんだ。どんな子?』
桜剣《さくらつるぎ》と表示された相手からは、そう質問がきた。
「祈、写真撮っていい?」
「いいよ」
晶はタイマーを設定して、シートの背もたれにカメラを置く。
「笑ってー」
電車はちょうど海上に差し掛かる。その景色を背に二人で写った。
「うう。笑ったら、目、つぶっちゃった」
「良い笑顔だよ。好き」
「……そう?」
「そうっ」
晶が褒めてくれたので、祈はまた目を細めて微笑んだ。
『分かった。二人とも気をつけて。写真ありがとう』
剣からの返事を確認して、晶は携帯をしまった。
「あっ、平等院鳳凰堂」
向こう岸を覆う、大きな日本建築を見つけた。天地橋から見下ろした時、東京湾の島丸々一つを、朱塗りの塀が囲んでいた。ここがそうか。
「それは京都。あれは潮御殿《うしおごてん》だよ」
「潮御殿?」
「そう。大富豪の家」
「家なんだっ。広ーい」
「広いよねー」
降りる駅では晶のカードと切符を交換して、祈はタッチして改札を出た。何もかもを新鮮そうに祈は反応する。
「いただきます」
ハンバーガーを買って湾岸の公園で食べた。晶は祈が食べきれなかった分もぺろりと食べてしまう。
「晶って何歳?」
「八」
「同じだ。でも晶の方が運動ができて背も高い……」
祈は複雑な面持ちだ。
「僕も修行したいな」
「! しようっ。一緒に修行する仲間いると嬉しい!」
「どんなことするの?」
「渓谷をさかのぼって、山の頂上まで行って帰ってきたり。全部教えるから一緒にしよう! あ……、でも一番の難関は祈にはまだ早いかな」
「難関?」
「クナイ投げてくる奴がいるから危ないんだ」
「忍者だ」
「え」
「やっぱり忍者いるんでしょ」
そんな面白いことを隠すのは許さないという目で、祈は詰め寄った。
「……そうなのかなぁ? 俺もまだ突破できていないから、よく分からない」
「晶でも勝てないの?」
「うん」
「晶すごいのに。世界って広いね」
「そいつ、昔からうちの屋敷の地下道に潜んでいるみたいなんだ」
「……世界って狭いんだね。僕も近場にフィットネスルーム以外もあれば……」
「天地橋の鉄骨は?」
「無理ムリ無理! あんなの自分では無理!」
晶にはアスレチックに見えているようだが、祈は全力で拒否した。
「……僕、晶と違ってまだまだなので、修行は簡単なのからお願い」
「俺もまだできないことたくさんあるよ」
きょとんとした表情。
「でも、祈を外に出すことはできてよかった……」
晶はじんわりと噛みしめるように言った。閉じ込められていた祈以上に嬉しそうに。
「外……」
外の世界にはしゃぐのに忙しかった祈は、自分が自由になったことにようやく思いを巡らせる。
「ありがとうっ」
祈がまっすぐにお礼を言うと、晶は目を見開いて、そしてはにかんだ。可愛らしいその笑顔を見て、祈の頬も緩んだ。
「出られたんだ」
移動しながら祈は言った。木々が途切れた見晴らしの良い場所からは、天地橋が見える。あの歪な摩天楼を、今は外側から眺めている。
「変なビル」
「そうだね」
晶も同意した。
「晶が登りたくなったのってどうして」
「新幹線からあれが見えて、変な形だから登りたくてうずうずしたんだ」
「そんなに惹かれる形かなぁ」
…………。
ふと、祈は少し歩きづらい気がして地面を見た。少し坂になっている。
橋だ。
二人は大きな橋の上にいて、坂は緩いアーチの一部だった。橋幅が広くて下の川に気づかなかった。
「あと今日遊ぶ予定だった友達が熱出して、予定が空いちゃったから」
「
――遊ぶ予定だった友達」
祈はきゅっと、胸元の服を掴む。小川のせせらぎが、なんだかうるさい。
「うん。東京に来たとき泊っている家の子。いい子だよ」
「……そっか。晶はずっと外に住んでいたんだもんね。友達がいるんだ」
祈の声のトーンは落ちていた。
「どうかした?」
晶は少しいぶかしむ。
「晶、僕……」
「なぁに」
晶は優しく訊く。
「友達いないんだ」
「……祈」
「外に出たことない。だから、淋しくて……」
「大丈夫!」
晶は祈の手をぎゅっと握る。
「俺がずっと側にいる!」
「…………!」
晶がそう言うと、祈の顔が紅潮していく。
「晶……、その……、ありがとう」
嬉しそうに照れている。
「俺も祈と友達になれてすごく嬉しいんだよ」
祈の表情に明るさが戻って、晶も嬉しそうだ。
「もっと遊ぼう! あっちっ」
「うん!」
晶に手を引かれて走る。ぱたぱたと鳴る足音。
「僕はその子の代わりじゃないよね……?」
呟かれた声は、晶には聞こえなかったようだ。
「坊や達、正解ー! 賞品どれがいいかな」
「グミ!」
公園のイベントで、カラフルなエプロンの女性が植物クイズを出していた。晶はすぐに答えてグミの袋を受け取る。祈は机に置かれた商品を見て悩み、やがて一つを手に取った。色とりどりの花の写真がプリントされた袋だ。
「花の種だね。今の時期に撒ける種の詰め合わせだよ。何が咲くかはお楽しみ」
「祈、それにするの?」
「…………」
土に植えると育つもの。祈は興味津々だ。
「これにするっ」
お姉さんにお礼を言って、海に臨むベンチへと移動した。
「一緒に食べよう」
「いいの? 初めて食べる」
袋を開けると、中には十粒ほどのグミが入っていた。祈は水色のグミを取る。
「ありがとう。ムグ……、……美味しい!」
「よかった」
晶もオレンジ色の一粒を口に入れた。
「ぐにぐにする。へんなの。そうだ。こっちも分けるね」
「わーい」
祈は花の種の袋をピリッと破く。
「あ……、入れ物どうしよう」
「ちょっと待って」
晶はグミの袋を置いて、リュックから取り出したツヤツヤした紙を折って封筒を作った。その封筒に種をちょうど半分くらいに分ける。
「晶はなんでもできるね。それも修行したの?」
「そうだよ」
「かっこいい」
「えへへ。俺は越えないといけない奴がいるからね。いろんな道具に精通しないと」
「さっき言ってた忍者?」
「そう」
祈は晶が作ってくれた封筒の方をもらい、ウィンドブレーカーのポケットに大事にしまった。
グミを食べながら、水面を眺める。護岸ブロックに波が当たって、ちゃぷちゃぷと音を立てている。近くで見る海は思ったよりも輝いていないけれど、絶え間なく動いていて面白い。
「僕もなんか得意なことあるといいな」
「祈はね、笑顔が得意!」
「え、ええ……」
堂々と言い切った晶のきらきらした目から、祈は恥ずかしげに顔を隠す。
「それは晶の方が得意だよっ」
「ええっ。愛想がないって言われたことしかないよ」
「そんなわけない。僕、晶が笑ってくれるの好き」
「っ……! ……うぅ、祈が恥ずかしいこと言う」
「晶が言い出したんだよ!」
とりとめもない話はとても楽しかった。得意でなくてもいいから、よくすることを教え合う。
たくさん話して、日が傾いてきた。
「祭りが近くなると唄の練習させられる。上手く唄えないと、いっぱい直されるんだ。苦手」
「歌っ。僕も歌うように言われるよ。でも直されたことはないかな」
「上手なんだ。聴きたい!」
晶がまたきらきらした目を向けてくる。
「え、えっと……」
頼まれたときにしか歌ってはいけないと言い付けられている。……けれどもうミサキから出たから関係ないのかもしれない。
それに、今日は晶の良いところをいっぱい見せてもらったが、祈は一つも良いところがなかった。晶より得意なことがあるなら、少し良い格好をしたいのだ。
「分かった」
祈は膝に手を置いて、その可愛らしい歌声を海に向かって響かせた。
――♪
――♪
――……
有名な童謡。聴いていた晶はやがて、うずうずして一緒に歌い出した。
――♪
――♪♪
――――
晶の声が合わさると、心地良いハーモニーが生まれた。潮風に包まれた歌声が、暮れていく空を彩った。
「どうかなっ」
歌い終わった祈は、期待を込めて晶に訊く。
「祈、あまり上手ではないかも」
「!!」
衝撃の事実だ。良いところを見せられなくて、祈は肩を落とす。
「でも祈の声を聴いていると楽しい気分になって、一緒に歌いたくなっちゃった」
その言葉に胸が温かくなって、祈の落胆はふっとんだ。
「晶は忍者かと思っていたけど、本当は天使なんだね……」
「? どっちも違うよ」
東の空はもう夜の色だ。灯が点いていく街が美しい。
「暗くなった。帰ろう」
「帰る……」
祈はぎゅっと上着を掴む。
「祈も一緒に来て。俺が泊っている家」
「いいの?」
「いいよ。剣おじさんなら、きっとどうにかしてくれる。あの場所には帰らなくていい」
ベンチから立ち上がった晶が手を差しだす。
「晶」
祈も手を伸ばそうとした。
――その時、
「祈、……やっと見つけた」
「
――――!」
白衣の男
――理がいた。