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 8. 亜空 2






 草深い原っぱを歩き、茶室のような、数寄屋造りの庵に招かれた。一室だけと思われる居室は板敷きで、畳が二畳置かれていた。縁側の戸は夜なのに開け放たれている。
 男は部屋の中央付近に行灯を置き、その場にあった琴を端に移動した。

「これ、弾いていたの?」
 祈の質問に、男はこくんと頷く。男は一度も声を出さないけれど、反応はしてくれる。

「綺麗な音だった」
 そう言うと、男は祈の方を向いて、じっと止まった。作面の向こうで祈を見つめているようだ。だが何も言葉を発さない。

 男は手で祈と理に畳を勧めて、自身ももう一畳の上で胡坐《あぐら》した。祈も真似しようとしたが、分からなかったのでぺたんと座る。理は距離を取って壁際に立ったままだ。庵に入るのも渋っていたが、行灯のない外が思いのほか暗かったのと、遠くから聞こえるシーカの唸り声に怯えて入ってきたのだ。

「警戒しなくても平気だよ。いい人だもん。この人がなんかしたら、気を失ってた理が気づいたの」
「なんかって?」
「……なんか」
 真似をして宙で指を動かすが、伝わらないようだ。
 男は紙人形を一枚、ゆっくりとこちらに飛ばした。それは祈の目の前で宙に止まる。

「星?」
 毛筆の線で一筆描きの星が書かれていた。そして男が自身の胸を叩く。
 祈は意図が分からず首を傾げた。理が口を開く。

「もしかして、君は陰陽師なの?」
 男は頷いて肯定した。

「陰陽師っ。よく知らないけど、かっこいいね!」
 祈の嗜む娯楽は、エイとビビのお下がりだった。フィクションのほとんどは流行りもの好きのビビから流されてくる。残念ながらその中に陰陽師の詳細はなかったが、不思議な術を使う人というのは朧げに知っている。
 祈がきらきらと尊敬の目を向けると、星の描かれた紙人形がひらひらと踊った。

「話さないのは何で?」
 陰陽師はもう一つ紙人形を飛ばす。祈には読めない字が書かれていた。行灯の灯りだけで暗いので、理は渋々畳の上へあがった。

『咒』
「呪いね……。文章は書けないの?」
『一』
「一文字だけってこと?」
 陰陽師の男は頷く。

「顔のお面は外せない?」
『咒』
「同じ呪い? 口の動きを見せられないのかな」
 陰陽師は頷く。
 理が次々質問していき、陰陽師が答える。少ないヒントから正解を導くやり取り。祈はただただ聞くだけだ。たまに読めない字を理に訊いたり、理が陰陽師に別の字で書けないか頼んだりした。

「ここはどこ?」
『異』
「異界かな……、あの世ってこと?」
 陰陽師は今度は首を傾げた。彼も分かっていないようだ。

「シーカが……、妖が見えるのは?」
 これも分からないらしい。

「この子に憑いている妖、分かるかい?」
 陰陽師は小さい紙人形を無数に出して、祈を囲んだ。紙人形がぼんやりと光って結界を作ると、その中に女の姿が浮かんでくる。祈と重なっていて、肝心の顔は見えない。祈は居心地悪くてぎゅっと縮こまる。陰陽師はすぐに結界を解いた。

「この妖は、何が違うんだろうな?」
 陰陽師は少し悩んで、紙人形を飛ばす。

『隠』
「妖が隠れようとすると見えないってこと? ……そっか。暴れ回ろうとする妖だけじゃないからね。祈にひっつきぱなしなのは、よほど波長があったのかな。何の妖か分かる?」
『境』
「境界を越える力……だよね。操れたりする?」
 それは首を振って否定した。

「同じことできる?」
 それも否定。

「そう。……祈はなつかれているし、できたりしない?」
「できない」
「だめかー」
 脱力した理は、外に目をやる。時折、シーカを置いてきた辺りで雷が光った。

 陰陽師が立ちあがり、壁の方へ向かう。襖らしきものを開けると、押し入れになっているようで、布団があった。陰陽師はそれをポンと叩いて示す。どうやら泊めてくれるらしい。

「お泊まりっ」
「朝って来るのかい。……それなら、朝を待つよ。まずは辺りを確認したいし」
「ありがとう、陰陽師さん。名前何ていうの? 僕は祈だよ」
 陰陽師は紙人形を出そうとして、少し考えてから、その手を下げた。

「訳ありかな」
 理の言葉に、陰陽師は曖昧に反応する。

「言いたくないなら言わなくっていいよ。陰陽師さん。ん……、あだ名で呼んでもいいかな?」
 それにははっきり頷いた。

「じゃあ、何にしよう。どんなのがいいとか、ある?」
 祈が訊くと、仕草で祈に任せると伝えてきた。

「理は?」
「そっちで決めて」
「よし、任せて」
 祈は気合を入れて陰陽師を見つめる。

「そうだなー。素敵な琴の演奏をするから……、シャンシャン!」
 祈が自信満々に告げると、陰陽師は動揺した。目をきらきらさせて前のめりで陰陽師の返答を待っていると、理が手で制した。

「待って。可愛すぎないかい。私もそれを呼ぶんだろう。やっぱり一緒に考える」
「ん、いいけど、真剣に考えてね」
「しばらく世話になるかもしれないし、変なのにはしないよ。とっかかりは音楽? 詳しくないんだよねー。……マイクは?」
「いいよ。覚えやすいし」
 決まりかけているのをみて、陰陽師は慌てて紙人形に『奏』と書いた。

「かなで? それがいいのかい」
「綺麗な響きだね。似合ってる。……決まりっ!」
「本人の希望だしな。よろしく、奏」
 陰陽師は二人を交互に見て戸惑っていたが、やがて肩を落として頷いた。

 その夜は三人で夏と冬用の二組の布団を並べて、川の字になって眠った。





 朝、祈は一番に庵を飛び出して、草むらを掻きわけて走った。少し高くなった段差に登り、辺りを見渡す。

「わあ……」
 切り立った山々に囲まれた草原は、果ての見えない湖に囲まれていた。淡水の匂いなので、海ではないようだが、全貌が分からない。まさに仙境といった雰囲気だ。

「桂林だ」
 祈は写真で見たことがある外国の景色を思い浮かべた。

「そうだったらいいなあ。時間を掛ければ帰れるし。しかし……、ここ本当にあの世かもしれないね」
 湖は濃い霧で覆われて、草原を離れるほど雲のように厚くなっている。その色は朝焼けでもないのに淡いラベンダー色をしていた。

「太陽は……、もしかしてあれなのか?」
 空を見上げると、天体というより、光る岩があった。黒曜石のナイフのように荒く削られた岩が発光している。目測だが距離は一キロ程度だ。目映いが、直視が難しい光量ではない。

「不思議ー」
「なんてところに来たんだ……。あの子供さえ祈を連れ出すなんて余計なことしなければ、今頃いつも通り研究室にいたのに」
 祈がむっとすると、その横を紙人形が通り過ぎ、理の口と鼻に張りついた。

「んっ! んん―!」
 理は息ができず焦った。剥がそうとしても剥がれない。

「奏、おはようー」
 庵の裏から出てきた奏。祈の挨拶に会釈を返した。昨夜、奏にはざっくりと経緯を伝えている。紙人形はしばらく理を苦しめた後、すっと消えていった。

「ぷはっ……、ッ……」
「シーカが見当たらないけど、どこか分かる?」
 祈の質問に、奏は山の方を指差す。どうやら移動したようだ。あちらには行かないように心に留めておく。
 逆方向を探索しようかと歩き出して、祈の歩調はすぐに鈍くなる。

「おなか空いた……」
 昨日の夜から何も食べていなかった。


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