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◇◆ Nandasore! 2 ◇◆
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「はじめまして。秀和高校三年の石岡です」
「秀和? あ、後輩? ごめん俺全然……」 「いいんです。知らなくて当然です。その、先輩有名でしたから」 そこで、萩乃ちゃんが、少しおどおどしながら私を見た。 これはもう、レモンというよりイチゴの香りが満載だ。 第二の姉は、妹獲得のためならば、どこまでも緑色に光って応援すると誓う。 「妖しく、キャッツアイっ」 握り拳を揺らしながら、萩乃ちゃんへ小声でエールを送れば、隣に座る兄の微妙な突っ込み。 「美也、そのミステリアスガール発言は何?」 先日借りたDVDアニメ。色々な事情から、泥棒家業に精を出す三姉妹の物語だ。 やっぱりレオタード姿には馴染めないけれど、物語自体は最高に痛快、爽快、傑作だった。 兄の突っ込みは、その主題歌を捩った言葉であり、確実に兄はこのアニメを知っていると断定できる。 「お? 兄さん、あんたもイケル口だね?」 肘で兄を突きながら親父臭い台詞を吐き出せば、何故か照れ始める変な克っちゃん。 「いや、う、うん。結構好きだった……」 さてはお前、ユサユサ目当てで観ていたな…… 週半ばを越えた平日の今日、珍しく定時で上がれた窓口業務。 一円でも狂えば、その理由が判明するまで帰してもらえないのが、信用ある金庫のお約束なのだけれど、本日は一度でぴったり収支一致。 このATM時代、窓口業務のノルマは半減しているものの、だからこそ、窓口まで来る客は曲者が多い気がしてならない。 とにかく一言で申し上げて、皆さん粘る。 通帳登録印が違うと申し上げても、添付書類が足りないのだと申し上げても、答えは同じ。 「そこを、何とか為らない?」 ならないよ。なるわけないだろ。こちとら、信用モットーな金庫だぞ。 ビル内の裏方に回りたいと、何度移動を希望しても、悉く却下され続けて早六年。 新人の可愛らしい女の子たちが、この窓口登竜門を抜け、新たな道に進む背中を何度も見送り、既にお局と化した自分が、何やら惨めで仕方がない。 それでも、二番の窓口へと、機械音声が告げているにも関わらず、常連のお婆ちゃんがそれを拒み、私じゃなければ、このお金は渡さないなどと 言ってくれたりすると、ちょっと嬉しい。 さらにそのお婆ちゃんが、にこにこ顔で黒飴をくれたりすると、もっと嬉しい。 やっぱり私は、保育士ではなく、介護士を目指せば良かったかも知れない。今更だけど。 そんなこんなで、職員通用口を出た途端、萩乃ちゃんが立っていたから驚いた。 「お、お姉ちゃん、突然ごめんなさい…でも、宗ちゃんがいると話せないから……」 その気持ちは痛いほど解る。克っちゃんと石岡さんは、妙に似ていると思う。 あの眼で見据えられたら、大半のことはぺらぺらと喋ってしまうだろう。隠し事をすることが、犯罪のような気分になるんだ。 けれど、言えないこともある。特に、に、に、肉体関係のこととかさ…… 「全然平気だよ。寒いのに、待たせなくて済んで、逆によかった」 ハグっと萩乃ちゃんを抱きしめれば、満面の笑顔を放出する萩乃ちゃん。やはり妹が欲しいと再実感しながら、腕を組んで歩き出す。 石岡さんに連絡を入れて、偶然出逢ったということを強調しながら、萩乃ちゃんを我が家へ連れ帰ると申告する。 ご迷惑という言葉を何度か放ったものの、石岡さんは、ようやく了承してくれた。 帰り際にお菓子を買って、玄関の扉を開ける。 するとそこには、嬉しさではち切れんばかりの母が、手薬煉引いて待っていた。 「美也、あんたデカしたっ!」 出来したとは何事だ。それでも、生みの親より育ての親という文句は本当だ。 たぷんと揺れる二の腕が、硬直する萩乃ちゃんを雁字搦めに縛り上げていた。 「か、母さん、萩乃ちゃんが死んじゃうっ!」 母を交え、女三人でお茶をしてから、萩乃ちゃんを自室に招いて、着せ替えごっこに興じる。 オークションで競り落としたはいいけれど、全く似合わず捨てられず、クローゼットの住人と化していた洋服をベッドに押し広げ、ほぼ強引に萩乃ちゃんへ着せた。 甲高い猿声笑いを二人で吐き出しながら、当然色々な情報も交わす。 「その人を追いかけて、秀和に入ったんです。だけど、それすら気づいてもらえなくて……」 追いかけて行けただけ、偉いと思う。どうせ私は無理でした。 しかし、幾ら学年が違うとはいえど、こんな可愛い子を見落とし気づかないなんて、完全に我が弟の目は節穴だ。それでもこの萩乃ちゃんのことだ。樹の影から見ていただけかも知れない。 「告白とかさ、自分をアピールするようなことは、しなかったの?」 「た、沢山しました。でも全部、笑顔で流されちゃうんです」 我が弟ながら、何て鈍感なんだと苛立たずにはいられない。 「亮ちゃん酷っ……あの莫迦弟めっ」 「え? あ、松本先輩は、とにかく有名人でしたよ」 何故かそこで、途端に笑顔へ戻る萩乃ちゃんは、頬を赤らめ楽しげに語る。 「色々な伝説があるんですけど、特に有名なのがミヤコンで」 何だそれ。しかも微妙に、自分の名っぽい伝説が腹立たしい。 言っては悪いが、コンには碌な物がない。合コン、マザコン、咳コンコンと。 「でも、お姉ちゃんに逢って解りました。私もミヤコンになりそうです!」 何だか解らないけれど、可愛いから全て良し。とりあえず、話を合わせて抱きつこう。 「私もミヤコンになっちゃう!」 「え? それは無理ですよ、だって……」 「ただいま」 玄関の扉が閉まり、兄の帰宅を告げる音が部屋にも届く。 話の途中ではあるけれど、兄には先に話を通さないと後が怖い。 だから萩乃ちゃんの手を取り、階下へ降り立つことを強要した。 「あ、克っちゃんだ! 萩乃ちゃん、下に行こう?」 「あ、はい。私もご挨拶しなければ」 なんて良い子だ。君を松本家に迎え入れると約束しよう。もちろん同居前提で。 「はじめまして。石岡萩乃です。兄ともども、皆さんにはいつも……」 「松本欣也です。キンちゃんって呼んでね〜!」 「あ、はい。キンちゃんですね?」 克っちゃんに続き、父さんも帰宅。テンション高く舞い上がる父とは対照的に、私の企みに感づいている兄は、相変わらず目を細めて私のことを凝視中。 「俺は石岡に、何て言えばいいわけ?」 「だからぁ、何度も言うけど、他人様の妹だろうが……」 「キャッツアイ?」 最後まで言わせてよ。くしゃみを催した瞬間、話し掛けられたような気分だよ。 肝心な、弟抜きでの夕飯開始。まず平日は、弟が夕飯を家族と共に食べることはない。 毎日、仕事帰りにジムへ寄っているからなのだが、ジムと言っても、普通のスポーツジムではなく、ボクシングのジムだ。 小学生の頃、格闘技を習い始めた弟は、高校に入学してからボクシングへ鞍替えした。 格闘技を始めたきっかけが、それはもう泣かせる話で、そんな弟を抱きしめたのは言うまでもない。 『美也、これからは俺が、美也を守ってやるからな!』 けれど薄情な私は、弟の試合を一度しか見にいっていない。否、正確には一度で懲りた。 私の可愛い弟を、蹴るやつなど許せない。私がぶっ飛ばしてやりたくなるからだ。 だから当然、ボクシングの試合に、私が顔を出すはずなどない。 偶に、弟の眉毛下辺りが、スパンと切れているときがある。そういう姿を眼にすることが堪らなく嫌で、絆創膏片手に弟の部屋を訪ねるけれど、弟はお節介だと怒り出す。 別段、弟はボクサーを目指しているわけではないが、とにかくここ数年、練習を怠ったことがない。 学生ではなくなった今も、毎朝、十キロ程度のランニングを終えてから出勤し、仕事が終わればジムに寄るといった具合だ。 まあ何と言うか、若いって素晴らしいよね。 ちなみに兄は、中学から大学まで、ずっと剣道をやっていた。 だから、克っちゃんに棒を持たせると、異様に怖い。指揮者のタクトでも殺されそうだ。 萩乃ちゃん情報で知ったことだけれど、石岡さんも同じく剣道部だったらしい。 そう考えてみると、あの隙の無さは、剣道の精神から生まれ出たものだと思わずにはいられない。 剣道は、目を細める訓練もするんだな。多分。 そうこうしている間に、ようやく弟が帰ってきた。 そこで感動のご対面と相成ったわけだが、やはり弟は鈍感ニブチン男だったらしい。 それでも兄と私が泥棒話で盛り上がっている合間に、話は大きく展開した。 突然弟が笑い出し、萩乃ちゃんも唇を噛み締め、はにかんでいる。 さらに、興奮剤よりも強力な台詞を、弟が笑顔とともに萩乃ちゃんへ投げかけた。 「なるほど。気が合いそうだね」 「克っちゃん聞いた? 気が合うだって。姪っ子を抱ける日が近いかも」 兄の袖を摘み振りながら、身体も揺らして喜びを告げるけれど、兄は依然とした顰め面。 「俺は、一波乱起きる気がしてならないけど」 「何でそういう縁起でもないことを言うかね?」 眉間に皺を寄せ、文句を垂れても効果なし。逆に酸っぱそうな唾を飲み込みながら、兄はゆっくりと席を立ち、嫌味を吐き捨てその場を去った。 「あぁ。胃がキリキリする」 弟が車で送っていけば、夜景も眺められるし、お互いを知り得るしと、最高の状況だったはずなのに、若いお二人に任せられない両親は、兄をその役に任命した。 ならば、私も一緒に送っていくと名乗り上げたけれど、そうこうしている間に、石岡さんが我が家を訪れ、きっちりしっかり、萩乃ちゃんを連れ帰った。 妹が居なくなり、抜け殻のようになりながら、風呂に入るため脱衣所を訪れる。 すると、脱衣所の一角にある洗面台で歯を磨く、弟と出会した。 濯いだ後の口をタオルで拭いながら、ミント臭い息の弟が当たり前のことを私に問う。 「美也? もしかして、石岡さんと俺をくっつけようとしてる?」 「えぇ。もしかしなくてもガッツリと?」 間髪入れずに即答すれば、見る見るうちに弟の表情が険しくなる。 兄ほど怖くはないが、此処は言い訳をしておかなければ拙い。かなり。 「だ、だって、萩乃ちゃんみたいな妹が欲しいんだもん!」 すると弟は、タオルを洗濯機上に放り投げ、際どい啖呵を放って脱衣所を後にした。 「後で、絶対に覚えてろよ?」 復讐を誓うマフィアの如く、凄みを帯びたその台詞に、慌てて弟の背中へ叫ぶ。 「んまっ! なんて厭な感じの捨て台詞でしょう。そんな子に育てた覚えはありません!」 そこで、ひたと歩みを止めた弟は、突然振り返り、驚く私を余所に、つかつかと舞い戻ってきた。 さらに息がかかるほど間近に顔を寄せ、本当に最後の捨て台詞を吐く。 「育てられた覚えはありません。チュッ」 最後のチュと言うのは、別段ネズミの鳴き真似をしたわけではなく、私の唇に音を立ててキスをしたまでであり、出し抜けでそんなことをされて、少々驚いたわけであり、って何だそれ! 【本文】 何でみゃあは、制服女子高生をスーの会社によこすわけ? 何かの勝負? 嫌がらせ? 家に帰った途端、送りつけられてきたこのメール。 何で毎週末、本間と居酒屋巡りに繰り出さねばならないのだと思いつつ、弟の会社に妹が現れたと言われたら、姉として聞き捨てならない。 とか何とか言いつつも、ちゃっかり勝負下着を着込んできた私。 認めたくはないが、どうやら私は、本間と勝負をしたかったらしい。 というか、この下着の威力は凄い。透明な服を着ているわけではないのだから、誰にも下着を見られてなどいないのに、何かこう、勇気が満ち溢れてくる。 これならば、本間がレオタード姿で現れようとも、負ける気がしない。多分。 けれどやはり、見た瞬間負けた。何故この女は、予想外の方向から責めてくるのだろう。 紺色のブレザーに臙脂のリボン。さらに、薄茶タータンチェックのプリーツミニ。 締め括りは、ルーズソックスで、どうでしょう。 「お、お前、それは高校の……」 「えへ。スー、まだ着れるんだぞぉ」 着れる着れないの問題ではなく、普通は卒業したら着ないだろ。 いやだ。もう帰りたい。何故にこんなオバンギャルドと、街を闊歩しなければならないんだ! お花のクリップで前髪を止めた本間が、ブラウスはち切れ加減で言い出した。 「あたし、誰にも負けたくないの。たとえそれが現役だろうとね」 自尊心は大いに結構だが、そんな格好で、渋く語られても困る。 「勝ってるよ。ある意味、全てに勝ってるだろ……」 「やっだぁ! だからスーは、みゃあが好きぃ」 「好かれても、嬉しくないのは初めてだよ……」 制服で酒屋に入れるわけがないと思っていたが、顔パスにて余裕のご入店。 創作沖縄料理と副題の描かれた看板と、店先に流れる沖縄民謡。しっくりとした大人の雰囲気な店だろうと思っていたら、入った途端にこちらも裏切られた。 全面ブラックライトにDJ付き。勿論、店員さんは黒服だ。 「な、なんだ此処……」 「食べ物が美味しいんだよ。つべこべ言わずに、座れ」 私でも知っている名曲たちが、次々とソウルフルなアレンジに変えられていく。 オーイェイ、アーイェイと、変な相槌も足されるけれど。 それでも、ここ一週間のマイテーマ曲が流れ始めたときには、身体が左右に揺れ始める。 「ウインクしてるエブリナァ〜イ オォイェ〜」 「みゃあ? 恥ずかしいから止めて?」 「お前に言われたくないよ……」 でも、ちょっと恥ずかしかった。止めてくれて有難う。 隣の席に運ばれてきた、和傘の突き刺さるカクテルを盗み見て、一瞬退いた。 メニューを覗き込み、あれだけは頼むまいと決意するものの、メニューの意味が解らない。 多分、沖縄の方言なのだろう。まーくまーく、ゆくしだろー、ってメニューはどうよ。 それでも、妙にツボに入ったこれに決めた。 「私は、あんまん肉まんで」 「やだみゃあ、あまにんくまにん、だってば!」 「じゃ、それで!」 運ばれてきた、あんまん肉まんは、とてもお洒落なカクテルだった。 色取り取りの小さなゼリーが、発砲する薄紫色の液体中を漂っている。 やっぱりカクテルは、色がいいよね。色が。 「さて、飲み物も来たことだし本題に。何であんたは、あの荻乃とか言う女狐を送り込んだわけ?」 女狐はお前だと言ってやりたいが、もっと言いたいことがあるから仕方がない。 「いやさ、荻じゃなく萩ね? ハギノちゃん。漢字は似てるけど」 「どっちでも同じでしょ? どっかの漫才師みたいな名前して」 「え? 荻や萩の漫才師って、何だそれ?」 「あんた今、コンビ名をフルネームで言ったじゃん」 何か、目の前に沢山の眼鏡が押し寄せてきたが、それは脇に押しやろう。 大体、私は萩乃ちゃんを、本間の会社へ送り込んだりしていない。 それをそのまま本間へ告げれば、そんなことは最初から知っていると、逆に切り返される。 「じゃ、何で女狐だとか、送り込んだとか言うんだよ」 ふて腐れ加減で文句を連ねると、本間が珍しく嬉しいことを言い出した。 「ほんとあの女、あんたそっくり。美味しいとこ皆持っていきやがって」 途端に笑顔へ戻り、両手を握り締めて誇らしげに語る。 「え、嘘? ほんとに似てる? いやさ、私、萩乃ちゃんみたいな妹が欲しいの」 「そういう意味じゃないけど、もういいわ。面倒」 そーきそばと野菜を生春巻きで包んだ一品を、シークワーサのタレでいただく。 本間の言う通り、この店の食べ物は本当に美味しい。 「だけどあの後、弟くんったら不機嫌極まりなくなっちゃってさ」 「え、何で亮ちゃんが不機嫌になるの?」 「あんたの企みが、弟くんに伝わったからじゃないの?」 「伝わったら、喜べばいいじゃん。素直じゃないよね」 とは言うものの、昨日の脱衣所で、既にその企みは弟にバレているはずだ。 これ以上、弟が不機嫌になる理由など皆目見当もつかない。 料理が美味しいと、お酒のピッチが遅くなる。 これは良い傾向だと思いつつ、本日二杯目のカクテルを注文。 「あんたさ、あの女狐が、弟くんを好きだとか思ってない?」 「あ、うん。レモンの味なの。韓国の」 「な、なんだか、もどかしそうな感じね……」 「そうなのよ。互いの気持ちが擦れ違っちゃっててさぁ」 流石本間だ。話が解る。通じるとは思わなかっただけに、少しびっくりしたけれど。 「そりゃ擦れ違うわな。相手が違うんだから」 訳知り顔の本間に腹が立ち、覚えたての沖縄方言を使って文句を放つ。 「何? 本間、ちょっとシッタカーだよ?」 けれど、あっさり略語で返された。 「シッタカはあんたでしょ。そんなに可愛い妹なら、ちゃんと話を聞いてやりなよ」 本間の言葉が胸に突き刺さる。私は妹の話を、ちゃんと聞いてあげていなかったのだろうか。 それでも思う。本間は昔からこうだ。輪の中では莫迦を演じるが、二人きりになると、いつもこうやって私より先を進み、姉御肌を発揮する。 「本間って、長女っぽいよね。レオタード似合いそうだし……」 「な、何をまた、突然言い出すかしら、この女」 私も本間のようになりたい。否、制服は着たくないが、誰かに頼りにされたいんだ。 けれどいつも空回り、こうして本間や克っちゃんに窘められる。 「何でもやってあげたいの。本間みたいに頼られたいの。なのにうまくいかないの……」 「そうかね、あたしはあんたが羨ましいけどね。息してるだけで楽しそうで」 「失敬な」 「頼られたいと思うから空回りするんじゃないの? 頼りたいと思えば、勝手に向こうから来るっしょ」 そう言われれば、そうかも知れない。私はいつも、自ら動いて墓穴を掘る。 でも待っていたら、相手は私のところになんて、来てくれない気がするんだ。 本間みたいに頼れる人の下へ、相手は行ってしまう気がするんだ。 だけど昨日、萩乃ちゃんは、自ら私のところへやってきてくれた。 それなのに、私はその想いを、踏みにじってしまったのだろうか。 「ねぇ本間、何で萩乃ちゃんは、亮ちゃんの会社に行ったの?」 訳もなく、マドラーでカクテルを掻き混ぜながら、ぼそぼそと切り出した。 すると、本間の音調が和らぎ、優しく言い聞かせるように響き始める。 「弟くんに相談があったからでしょ」 「相談って…何で亮ちゃんに相談するの? 私が頼りないから?」 「歳の離れた兄弟を持ち、さらに、同じ悩みを抱えているから」 「同じ悩みって…萩乃ちゃんには解るのに、私には解らない悩みが亮ちゃんにあるってこと?」 「みゃあさ、よ〜く考えてごらんよ。何で亮くんが大学行かずに専学行ったとか」 それは、大学に進むよりも、専学で学びたいことがあったからだ。 どうしても、その道に進みたいのだと、真剣に進路を考えた結果とも言える。 私はその年齢で、自分の未来など思い描けなかった。そういう意味では尊敬する。 それでも、この本間の言い方だと、本当は大学へ進みたかったのに、何かの理由で断念したように聴こえてならない。そんな理由が、弟にあったのだろうか。 「ボクシングを、ずっと続けている理由とか」 ボクシングを始めた理由も、続けている理由も、私には解らない。 ただ単に、体力強化とか筋肉保持だとか、健康面での理由が大きいのだと思っていた。 後は、格闘技そのものが好きなのだと思う。弟は昔から、ヒーローものの番組が好きだったから。 それとも他に、理由があるのだろうか。 「あのアパートを、借りたこともそうだし」 そう言われれば、あの秘密基地を、何故弟は借りたのだろう。 最初は、本間との新居にするためだと思っていた。けれどそれは有り得ないと判明している。 それでも私は、その理由を弟から聞き逸っている。これにも何か意図があるのだろうか。 「行き着くところは、全て一緒だと思うけどね」 行き着くところが一緒。つまりその理由は、全て同じだと言うことだ。 一体、弟は何のために、どんな理由で、この全てを遣り遂げているのだろう。 克っちゃんなら解るだろうか。否、克っちゃんは秘密基地の存在を知らない。 ならば姉として、私がちゃんと弟の話を聞くべきなのではないか。 それよりも何よりも、弟の悩みを知りたい。萩乃ちゃんの悩みも、ちゃんと聞いてあげたい…… 「あっ、やぁだぁ、水沢さんからメールぅ」 深く物思いに耽っていれば、突然の甲高いスミコ声。 「誰だそれ?」 何となく聞き覚えのある名前だが、心当たりはまるでない。 「先週、一緒に飲んだじゃん。克っちゃんの後輩」 あ、解った。水さんだ。水差し上手の水さんだ。 「お、お前、また食ったのか……」 けれど本間は、ユサユサできない制服のくせに、ユサユサしながら厭な言葉を吐き出した。 「だって、克っちゃんが落ちないんだもん。手強いよ克っちゃん」 「き、貴様、克っちゃんに手を出したら」 胸倉を掴もうと手を伸ばしたけれど、いきなり本間が立ち上がり、それは不発に終わる。 「いやん。呼び出されちゃったん。スー困っちゃう」 「お、お前に、二度目があるとは知らなかったよ……」 「無礼者っ」 既に帰る気満々の本間は、ブラックライトの下でグロスを塗り始めた。 さらに食み出したグロスを指で拭いながら、不敵な笑みを浮かべて言い放つ。 「そう言えばみゃあも、当分の週末、亮くんにお酒を奢るんじゃなかった?」 「あっ! い、いや、何でそれを知ってるかね?」 「亮くんが、楽しそうに話してたから?」 弟が楽しみにしていた。そんなことをすっかり忘れていた自分が情けない。 本間に勘定払いを頼み、その間に弟へメールを送信した。 【件名】 ごめん! 【本文】 本間と飲んでた! 今からダッシュで帰るから! 割り勘分を、本間に支払ったところで、弟からの返信が届く。 【件名】 知ってる。 【本文】 車で迎えに行くよ。今、ジム上がったとこだから。 知ってるって何だそれ? どこまで弟は、本間とツーカーなんだ! |
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