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◇◆ Impossible! 3 ◇◆
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意外にも、秘密基地から妙に近かった、七和のアパート。
靴擦れで痛む足でも、走って行けちゃう余裕加減が凄い。否、余裕はなかったか。 亮は、克っちゃんに連絡すると、アパート前で携帯を開き、待っていられない私は、階段を上る。 今時のインターフォンではなく、昔ながらのチャイムという代物を、グレースさんの愛車磨き並みに連打して、苛立ちを表現する。 グレースさんとは、お気に入りゲームのキャラクターで、はっきり言って、キリンだ。 気鋭のファッションデザイナーらしいけれど、偉そうな態度が、何やら腹立たしい。 それでも、レアな洋服と称号欲しさに、愛車を磨いちゃうんだけどさ。Aボタン連打で。 漸く開かれた扉から、恐ろしく顔を歪めた七和の登場。 「松本さん、あんた一体、今が何時だと」 既に、開ける前から、来訪者が私だと解っていた節は気になるが、七和の戯言は放っておこう。今、最も重要なのは、我が妹、萩乃ちゃんの安否だ。 「は、萩乃ちゃんっ?」 無駄にデカイ七和の身体を押し退けて、玄関先から部屋を覗き込み、萩乃ちゃんの名を叫ぶ。 すると、明らかに泣き腫らした瞳で、萩乃ちゃんが部屋から顔を出した。 「お、お姉ちゃん……」 無事だと解り、張り詰めていた緊張は解けるものの、真っ赤になった目の周りが許せない。 「な、なんで萩乃ちゃんが泣いてるのっ!」 自分も貰い泣きしそうになりながら靴を脱ぎ、泣かせたであろう犯人を、形相で見上げた。 「な、なんか、酷い誤解を受けている気が……」 犯人が、そうです。私が泣かせました。などと言うはずがない。変なおじさんじゃあるまいし。 大体、こういう時に限って犯人は、誤解三段活用を挙り言う。誤解だ、誤解だよ、誤解だって、とね。 だから、手にしたヒールを七和に突きつけ、祖父が好きだった時代劇の、名台詞を叫ぶ。 「七和よ、断じて許しがたし。天に代わって鬼退治致すっ!」 「どこぞの侍じゃないんですから…てか、鬼言うな鬼っ」 流石はビデオ屋の店員だ。今時の学生さんが、この台詞を知っているとは御見それする。 けれど、知っているなら話は早い。姉として、妹の仇を討つと誓う。ヒールだけど。 克っちゃんの剣道姿を思い出し、右足ヒールを両手で握って、物申す。 「ひと〜つ、我が妹の純血を啜り……」 「よ、よく見て下さいよっ! 服着てるでしょ、服っ」 確かに服は着ている。これで、妹の純潔は守られたと悟るが、部屋に招いたことが既に罪。 「ふた〜つ、不埒な出来心」 「いや、それは確かにちょっと…って、何言わせんだ、あんたっ」 やっぱりだ。あわよくば、妹を食おうとしたな。本間は持ち帰らなかったくせに。 克っちゃんを真似て目を細め、じりじりと七和を壁際に追い詰める。 「み〜っつ、でもナナワの莫迦を……」 「それは、四つでもゴマ塩の、ノリじゃないですかっ」 絶体絶命間近なくせに、ツッコミだけは忘れない七和に向けて、勢いよく腕を振り上げた。 「退治てくれよう、この美也さ」 「お、お姉ちゃん、違うんです。ナナワの所為では、ないんですっ」 もうちょっと空気を読もうよ。ここ、一番のキメ処なのに。まぁ、可愛いから許すけど。 眉毛をひくつかせ、戸惑い勝ちに、萩乃ちゃんを見下げる。 すると、痛々しいほど赤く腫れた瞼で、萩乃ちゃんが懸命に七和を庇う。 「ほ、本当に、ナナワの所為じゃないんですっ」 この懇願瞳に嘘は無い。だから仕方なく、ゆっくりと腕を下ろせば、途端に七和のツッコミが入る。 「いやだからさ、こんなときまで、ナナワ言うな?」 そこで、ぎろりと鋭く七和を見据えてから、萩乃ちゃんに向けて、遣る瀬無い疑問を吐き出した。 「じゃ、何で、こんな、こんな、ツッコミキングの部屋になんて居るのっ」 「こんなこんな言うなっ。二度はやめろ、二度は」 私と七和の違いは歴然だ。私は心で唱えるが、七和は確実に思想を口に出す。 こう言ってはなんだが、七和は未だ未だだ。思想を心に留めてこそ、大人。多分。 ところがそこで、目の周りだけではなく、頬まで赤く染め始めた萩乃ちゃんが、照れと恥じらいの入り乱れた表情で、私の問いに答え始めた。 「だ、だって、お姉ちゃんの邪魔をしちゃいけないと…その、あれ、きっと……」 何故、その名をずばりと言わない指示代名詞だけで、こういったことは、伝わるのでしょう。 そうです。その通りです。数十分前まで、私は裸でした。決して邪魔ではないけれど。 「だから松本さんっ、赤くなるなっつうのっ」 けれど今回は、顔色でお察しくださらないで、ください。限りなく恥ずかしい。 小さなテーブルを囲んで全員が座り、落ち着いたところでの、仕切り直し。 何となく、否、かなりコーヒーが飲みたいけれど、言い出し辛い状況だから我慢する。 これが克っちゃんならば、きっと飲み物を持ってきてくれるはずだ。やはり七和は、未だ未だだな。 そうこうしながらも、萩乃ちゃんが打ち萎れながら、悲しみを語り続ける。 「それで、皆さんと別れてから、宗ちゃんの携帯に電話をしたら……」 厭な予感がする。まさか、電話の向こうから、スミコ声が聴こえてきたなどと言う展開を、彷彿させるのは何故でしょう。 けれどそれは、半分当たりで、半分外れました。ある意味良かったけど。 「アキブァヵが、応答したんですっ!」 痛烈な発音ですね。しかも最後に、小さくカまで付けるところに、最大な怒りを感じます。 けれど、人は失敗して成長するものなので、お名前の勘違いは、二度としない所存のため、念には念を入れて、お相手の確認をしなければなりません。 「アキブァヵって、あの、薔薇のようなミヤさんだよ、ね?」 すると萩乃ちゃんは、啜り上げながら、肯定を表す肯きを見せた。 全くもって厄介だ。自宅が、ネズミの街から一番近い萩乃ちゃんは、私たちよりも先に電車を降りた。 そこで、自宅に居るはずの石岡さんへ電話を掛けると、何故かミヤさんが応答したと言う筋書きだ。 そのとき、ミヤさんと萩乃ちゃんの間で、どのような会話が成されたのかは知らないが、この怒り方からして、激しいものが予想される。色々。 そして、傷ついた萩乃ちゃんは、自宅に帰ることをせず、私に連絡を取ろうとして思い留まり、七和に連絡を取ったらしいが、それでも疑問は残る。 何故七和なんだ。しかも、何故七和の連絡先を知っているんだ。秀和連絡網か? 「わ、私が…居ない隙に、二人はそうやって、い、いつも…いつもっ」 此処へ来て数時間が経過しても、萩乃ちゃんの苛立ちと悲しみは、治まることがないらしい。 七和の表情と指の数を見れば、この台詞が吐き出されたのは、六回目だと言うことが解る。 「い、いつも? 石岡さんとミヤさんが?」 けれど、それは絶対に有り得ない。あの石岡さんが、そんなことをするはずがない。 さらにミヤさんは、初めて会った日、石岡さんを見て瞬く間に逃げた。チーターっぽく。 そんな二人が、お付き合いをしているとは思えない。 「萩乃ちゃん、それはきっと、何かの勘違」 「勘違いなんかじゃないですっ! ずっと、ずっと前から、あの二人……」 そこでふと、ネズミーの国で、七和が口にした言葉を思い出す。 七和が何故、石岡さんを知っていたのか。それが今回のこれと、何やら関連がありそうだ。 「七和お前、何か知って……」 ところがそのとき、丁度悪い具合に、来訪者を告げるチャイムが鳴った。 きっと亮だ。随分と長話だったけれど、克っちゃんとの電話を終えたのだろう。 けれど、七和が扉を開けたと同時に響く、亮ではない、聴き慣れた声。 「夜分に押しかけて、申し訳ない」 「あ、いえ。気にしないでください」 これは紛れもなく兄だ。兄と言っても石岡兄ではなく、松本兄の方だけど。 予想通り、克っちゃんが姿を現して、ちろと私を見てから、何やら深い溜息を吐く。 相変わらず、感じの悪い登場だ。大概克っちゃんは、私を見つけると溜息を零す。 それでも今回は、完全に私が悪い。今振り返っても、あれは相当拙かった。 だから視線を逸らして、言い逃れる術を、ぐるぐると考える。 けれどそんな心配は無用だったらしい。テーブル脇まで進み歩いた克っちゃんは、つと腰を屈め、穏やかな口調で、萩乃ちゃんへ語り始めた。 「石岡が、心配しているよ」 「し、心配なんかするわけないですっ」 「心配しないわけがないだろ? それは、君が一番知っているはずだ」 今の台詞は、相当効いたに違いない。克っちゃんが言うと、妙に説得力があるから尚怖い。 さらに、克っちゃんの纏う空気がそうさせるのか、無性に縋りつきたくなるんだ。 頼っても平気だと、縋り泣いても大丈夫だと、本能がそれを嗅ぎ取るのかも知れない。 幼い頃から、こういった場面を、幾度となく眼の当たりにしてきた。 克っちゃんは、いつでも平等で、誰かを特別扱いしたりしない。弱きを助ける正義の味方だからこそ、いつも誰かの騎士役だ。 「おいで。帰ろう。君が納得できるまで、ずっと俺が傍に居るから」 現にこうして今日は、萩乃ちゃんの騎士となり、何事にも躊躇い勝ちな萩乃ちゃんでさえ、戸惑うことなく、克っちゃんの胸に縋りつく。 姉としての不甲斐無さを痛感するけれど、後は、克っちゃんに任せておけば安心だ。 そこで、萩乃ちゃんの背中を摩る克っちゃんを見て、同じく、不甲斐無さを感じた七和が呟く。 「な、なんか、松本兄って、めちゃくちゃカッコイイよね……」 「そうなんだよ。克っちゃんはカッコイイんだよ……」 七和が数時間掛けても、成し遂げられなかったことを、数分で片付ける男。 それでも、七和の土台があったからこそ、萩乃ちゃんは此処で折れたのだと思う。 けれどそれを、おくびにも出さず、同性を褒めることのできる七和もまた、格好良い。多分。 だからこれを機に、七和を格上げしようと思う。未だ未だではなく、七和は、未だだ。 遅刻魔みたいな響きだが、二度はやめろと七和が言ったのだから、これで良し。 ここでまた、再びチャイムが鳴り響く。けれど七和は立ち上がらず、ぼそと私に囁いた。 「亮だと思うんで、松本さん、お願いできますか?」 七和の伊達眼鏡がそう告げるのだから、多分ではなく、確実に亮だろう。 小刻みに肯いてから立ち上がり、場の空気を乱さぬよう、玄関まで忍び歩く。 辿り着いた先の扉をそっと開ければ、七和の断言通り、ビニル袋を手にした亮が居た。 「タイミング悪かった? 美也、コーヒー飲みたいだろうと思って」 辺りの空気を嗅ぎ取りながら、亮が小さな声で告げ、袋の中からプラカップを取り出す。 「美也のはコレ」 差し出された容器を受け取ることなく、無言のまま、亮に抱きついた。 どうしようもなく胸が苦しくて、涙が溢れて止まらない。 「美也? どうしたの」 容器片手に私を抱きとめ、髪に口づけながら亮が問う。けれどその問いに、答えたくない。 だから鼻水を啜り上げて抱擁を解き、真実とは違う答えを、笑顔で放つ。 「もう、めちゃくちゃコーヒーが飲みたかったから、感動して嬉し泣きしちゃった」 この言葉に嘘は無い。コーヒーが飲みたかったのも、感動したのも本当だ。 明らかに、納得などしていない表情ではあるものの、亮は問質すことを避けてくれた。 皆の居る部屋に向かって、歩き出す亮の背中を見やりながら、そっと息を吐き出す。 「ごめん。何が好きか解らなかったから、適当に買ってきた」 「おぉ! サンキュー。気が効くじゃないの亮くん」 亮と七和の声を遠くに聴きながら、玄関扉に凭れ掛かって、想い馳せる。 女心は複雑だ。こんなにも溺愛している妹なのに、萩乃ちゃんが克っちゃんへ抱きついたとき、心が嫉妬で小さく燻った。小さくて済んだのは、これが多分、萩乃ちゃんだからだ。 昔から、克っちゃんが誰かの騎士役を担う度、これと同じ感情が芽生えたと思う。 生まれたての妹や弟に、お母さんを取られたと思い込む、子どもに似たものだ。 けれど久しぶりに、こういった場面へ遭遇し、改めて気がついた。 克っちゃんは平等過ぎて、亮は不公平過ぎる。そして私は、依怙贔屓が好きらしい。 だけど、私に限らず、女性は特別扱いに弱い生き物だと思う。これ絶対。 さらに、私は卑怯者だから、亮が恋しかったなんて真実も言わない。それ無理。 「あんな兄貴が欲しいな、俺……」 多分、いつまでも場に戻らない私を怪訝して、七和がやってきたのだと思う。 それでも、直球で言わないところが、未だ。な、七和らしい。 だから、飲みたくて堪らなかったコーヒーに、漸く口をつけてから切り出した。 「いいよ。今なら、月会費五千円でレンタルするよ?」 「安っ。いや、なんで松本さんに、会費を払わなきゃならないんですかっ」 「莫迦だね? もれなく、克っちゃん生い立ちブロマイドが付いてるのに」 「うっわやべ。なんかそれ、魅力的……」 やはり、萩乃ちゃんが心配で、秘密基地には戻らず、自宅に帰って克っちゃんを待つ。 けれど、時間も時間だし、体力的にも色々と疲れていたため、眠り込んでいたらしい。 「……美也?」 克っちゃんの呼ぶ声とともに、肩を揺すられ、夢から覚めた。 此処は何処だなどと、一瞬考えたけれど、何てことはない。克っちゃんの部屋だ。 「あ、ご、ごめん…克っちゃん待ってたら、つい寝ちゃった」 ベッドに寄り掛かっていた身体を起こし、克っちゃんを見上げる。 すると、克っちゃんはまた、溜息交じりに小言を呟く。 「風邪を引くだろうに。今日はもう寝ろ」 それでは、こんな場所で寝ていた意味がない。否、意味も何も、勝手な言い草なんだけど。 しかも、無断で部屋に押し入り、涎染みまでつけちゃって、ごめんなさい。 「は、萩乃ちゃん、どうだった?」 ティッシュを数枚戴き、涎を拭き取りながら、克っちゃんへ問う。 けれど、克っちゃんが答え始めたとき、運悪く、身体がぶるっと大きく震えた。 「誤解は解けたけど…ほらみろ、寒いんだろ?」 おっしゃる通り、とても寒いです。ですが此処は、嘘で通そうと思います。 「さ、寒くないよ。大丈夫。で、誤解は解けたけど?」 寒さを堪えて、話の続きを催促すれば、ベッドに腰を下ろした克っちゃんが、意味不明な言葉を、酷く抽象的に吐き出した。 「本間さんが必要だって感じかな」 「はっ? 何故本間。どうして本間。なんでだ本間っ」 見事な本間三変化を活用し、克っちゃんへ畳み掛ける。 けれど言い終えた後、その勢いからまた、堪えられずに身体が震えた。 「やっぱり寒いんじゃないか。もう話は明日にして寝ろ」 何時ごろからだろう。克っちゃんは、互いの部屋を行き来することに、極端な嫌悪感を示す。 秘密主義だけに、自室という領域へ足を踏み入れられることが、厭なのだと思う。 自分が遣られて厭なことは、相手にも遣らない性格だからこそ、私の部屋にも先ず来ない。 だからこうやって、なんだかんだと理由をつけては、私を追い出しに掛かる。 そんな克っちゃんの嫌がることを、正々堂々と遣った私は、ある意味凄い。 けれど、敢えて言おう。いつの世も、やったもん勝ちだ。 さらに、悪びれず、謝らず、飽く迄も強気で押し通せ。序に、はったりも利かせよう。 「寒くないってばっ。だから、何故本間っ!」 此処で、完全に克っちゃんが折れた。 ベッド上に畳まれた、ハーフケットを私へ投げつけ、大きな溜息を吐く。 これは正しく、此処へ私が居着くことを、許可した行為に違いない。否、諦めたが近いかも。 そしてその考えを肯定するかの如く、克っちゃんが話を再開する。 「今回のことは、本間さんの会社の子が絡んでるだろ?」 「あ、あぁ、ミヤさんね? 薔薇のように美しい娘さんなんだよ」 「薔薇はどうでもいいけど、まぁそうだね。お前と同名だ」 亮もそうだけど、何故、一番重要だと思われる箇所を、悉くどうでも良いと言い切るのかね。 男性の会話には、形容詞が足りないから、華やかさに欠けるんだな。薔薇は名詞だけど。 「どうでもよくないよ。薔薇が大切なの。薔薇が」 「どう大切なんだよ?」 そう切り返されると、何かとても困ります。なのでここは、切り返し返しで乗り切ります。 「や、や、それよりもさ? なんでミヤさんが絡むと本間が必要なの?」 けれど克っちゃんは、又もや、意味不明な言葉を吐き出した。 「それがさ、俺にも石岡にも、よく解らないんだ」 「はぁ? 解らないのに、本間が必要って、なんだそれ?」 「全く、ミヤと言う名に、碌な女は居ないね」 「失敬なっ。全国のミヤさんに謝れっ」 克っちゃんの顔に、皮肉めいた薄笑いが浮かび、それから、くつくつと笑い出す。 なんて厭な感じの笑い方だ。全国のミヤさんで、打倒克也連合を創ってやりたいね。 けれどそこで、思い出したように上着のポケットを弄り、コーヒー缶を取り出した克っちゃんは、プルトップを開けることなく、私にそれを差し出した。 「まだ、少し温かいだろ?」 考えも無く受け取り、缶の温かさに溜息が零れた。だから、缶を頬に当てながら思う。 打倒克也連合、此処に解散。結成する前で良かった。熟々。 克っちゃんが、解らないと言ったのは、ミヤさんの行動や思考のことらしい。 突然、何の前触れもなく、ミヤさんが石岡家を訪れたとのことだが、それは何か嘘臭い。 あの逃げっぷりから考えても変だ。石岡さんが、嘘を吐いているとまでは言わないが、何らかの因果が無い限り、女はそんな行動を起こさないと思う。 況してミヤさんは美しい。黙っていても相手側から寄ってくるのに、そこまでするか、普通。 あ、自ら普通という言葉を使っちゃったよ。まぁ、己には優しく、他人には厳しいと言うことで。 私でさえ、こう思うのだから、私より数倍鋭い克っちゃんが、訝しがるのも無理はない。 だから、本間に調査を依頼しようと目論んでいるらしいが、その目論見なら期待外れだ。 「あ、無理だよそれ。だってミヤさんは、本間がうぇっだから」 「うぇってお前…なんでそうやって、お前はいつも……」 自分だって、抽象的な台詞を散々語ったくせに、私が言うと窘めるのは、納得がいかない。 けれど、楯突くと後々が面倒なので、眠過ぎて、思考回路が可笑しくなったと言うことにします。 「だって、本間はうぇって、ミヤさんが…言って、たから」 というか、本当に眠いので、これは、言い逃れではないとも思います。 現に、演技ではなく、頭がカクンカクンと揺れて止まりません。 「解った。解ったから、寝るなら自分の部屋で寝ろ」 「うぃ。じゃ、明日本間ね……」 瞼が酷く重い。こうなると、意識のあるうちに、自室へ辿り着けるのかすら心配だ。 けれど、覚束無い足取りで歩き始めたとき、珍しく、克っちゃんが私を引き止めた。 「美也、俺が電話したとき、お前は何処に居た?」 こういった状況下では、白を切るどころか、嘘や、はったりも思い浮かばない。 「ん? 何処って、秘密基地?」 だから、克っちゃんの問うがままに、ぺらぺらと口が語り出す。 「男と一緒だっただろ。新しい彼氏ができたのか?」 「違うよ。彼氏じゃなくて、私が好きなだけ……」 ここからは、少しだけ言葉を変えて、克っちゃんが同じ質問を何度も繰り返す。 「お前が? 相手がじゃなくて?」 「うん…私が好きなの……」 何やらどうしても、相手が私を好きなのだと、克っちゃんは言って欲しいらしい。 けれど、何度問われても答えは変わらない。情けないけれど、私が亮を好きなんだ。 「参ったな…それは想定外だ……」 けれど、暗闇の中で点滅する水色の光が、鬱陶しくて眠れない。 これは携帯のメール受信を知らせる光だ。しかも、この色に設定しているのは亮だ。 携帯を、枕元に置いた記憶がない。拠って、置いたのは亮に違いない。 全く、亮と克っちゃんは、実に対照的だと思う。 亮は昔から、互いの部屋を行き来することに、躊躇いも嫌悪も示さない。 だから部屋に置かれた差入れは、亮からだと直ぐに解る。ちょっとしたサプライズを企てて、私を驚かせることが、何よりも楽しいらしい。 今度は何だと呟きながら携帯を開き、亮から届いたメールを読む。 けれど、件名も本文も一切無し。そこで、戸惑いながらも、添付ファイルを開いた。 現れた画像を見て、その依怙贔屓加減に、思わず頬が緩んだ。 隣に居るはずのネズミーが、全く写っていない。 その代わり、私の顔に落書きをして、私がネズミーに成っている。しかも、絵が妙に可愛い。 テーマパークでの携帯コソコソは、これだったのかと悟り、堪らず立ち上がって、携帯を握り締めたまま、亮の部屋へ向かった。 「ようやく来た。こなかったら、迎えに行こうと思ってた……」 部屋に入った途端、切な顔でこんな台詞を吐かれるから、訳が解らず聞き返す。 「な、なんで?」 「美也の部屋に行ったら居なかったから、兄貴のところだと」 克っちゃんの部屋に居たのは確かだけれど、話していたより、寝ていた時間の方が長いと思う。 そのことを、亮は知っていそうな気もするが、とりあえず此処は、本題で押し通そう。 「あぁ、うん。萩乃ちゃんが心配だったから……」 ところが亮は、その理由を認めながらも、切なそうに笑って呟いた。 「そうだね。でも俺は、美也が心配」 家の中に居るのに、心配などする必要はないと思う。 さらに、何故かは解らなくても、私を心配をして、そんな顔をさせたのかと思うと、忍びない。 だから、問題の核心だけを口にすれば、反対に、痛いところを突かれて言葉に詰まった。 「私の心配は、しなくていいの」 「何で? 美也以外の、誰を心配すればいいの?」 微妙に厭な台詞だ。他の人を心配する亮の姿が、浮かび上がって胸が痛い。 克っちゃんのように、亮が平等を貫いたら、私はきっと煩悶する。 我ながら、けちな了見だ。いつからこんなに、心が狭くなっちゃったんだろう。 ここのところ、富に自分が醜く思える。悋気に塗れ、直ぐに苛立ちが顔に出てしまう。 こんな自分が酷く厭だ。誰かを好きになると、心が澱み濁り、歪んでしまうのならば、誰も好きにならない方が、増しだとさえ思う。 それでも心惹きつけられる想いは、暴走を繰り返し、制御することが難しい。 面倒だし、迷惑だし、厄介極まりない感情なのに、捨て去ることができなから、尚苦しい。 特に、酸いも甘いもの、極上甘を経験してしまうと、もう無理だ。 ほら、こうやって包み込まれる感覚に、いつまでも浸っていたいと、心が強請る。 業を煮やした亮に腕を引かれ、両膝を立てて座る亮の、脚の間にすっぽりと納まった。 亮の胸に凭れ掛かり、頭を肩に置いて、上を向く。 「石岡さん、大丈夫だったって?」 不自然な沈黙を破り、亮が本題について問い掛けるから、副題の件を思い出して、逆に問う。 「あ、うん。誤解は解けたって。でも、本間が必要なんだとか?」 すると、何故か忍び笑いを漏らしながら、亮が自己完結をさらりと述べる。 「ん? 本間さん? あぁ、相手が秋葉さんだからか。なんか納得」 本間のことは知っているが、ミヤさんのことは、顔と名前ほどしか知り得ない。 けれど、それだけの情報でも、二人の共通点は意外と多い。 だから私も亮を真似て、自己完結を告げるけれど、亮はしれっと毒を放つ。 「ミス学園のガチンコ対決って感じかね? どっちも綺麗だからな」 「そう? 俺には、コブラとマングースに見えるけどね?」 何か物凄く、ヘビーなイメージなんですが。蛇だけに。しかも猛毒保有だし。 それでも、亮の言う意味は理解できる。どちらがコブラで、どちらがマングースなのかは解らないけれど、互いが互いの天敵なのだろう。こう、食物連鎖っぽく。 背中が温かいと、不思議なほど眠くなるのは、どうしてだろう。 まぁ、今日に限っては、背中が温かいから、眠いわけではないけれど。 「美也、眠いんでしょ」 私の髪に唇を押し当てながら、訳知り声で亮が囁く。 この囁き声もまた、睡眠を促す成分を、含んでいるに違いない。 だから、目を閉じたまま無言で肯けば、できれば問われたくなかった問いを、亮が投げた。 「自分の部屋に帰る?」 帰りたくない。何事もなければ今頃は、この胸の中で、深い眠りに落ちていたはずだ。 それでも、そんな我が侭は言っちゃいけない。だから、ゆっくりと立ち上がり、扉へ向かう。 「亮ちゃん、おやすみ」 ドアノブに手を掛けて、最後に振り返れば、既にベッドの中へ潜り込んでいる亮が、上掛けを捲る。 「ランニングに行くとき、起こすよ。だからそれまで……」 唇を噛んでも、悦びが堪え切れない。躊躇うことなく引き返し、亮の胸に飛び込んだ。 亮の温もりは、和三盆よりも高級で、極上の甘味だ。裸だと、カラメル並みに濃厚さを増すけれど。 甘党ではなくても、これって、絶対癖になる。否、癖じゃなくて、中毒って感じかも。 けれど今日は、何かが違う。その違いが気になって、安眠の邪魔をする。 苛立ち紛れに、亮の胸に顔を埋めて、大きく息を吸い込んだ。 そこで漸く、いつもとの違いに気がついた。 「あれ? 亮ちゃんの匂いが……」 亮は、香水の中でも濃度の低いオーデコロンを、アルコールでさらに稀釈して使う。 だから、ただ擦れ違っただけでは、亮の匂いは解らない。 こうやって、くっつかなければ、まず無理だ。 諸外国の方々からは、お叱りを受けそうな使い方だけれど、それくらい自然で、仄かで、邪魔にならない香り具合だと思う。 亮が嬉しそうに、何度も私の額へ口づけを繰り返す。 これではまるで、犯人を嗅ぎ当て、主人から褒美を貰う、警察犬の気分だ。 けれどそこで、亮と萩乃ちゃんが、ネズミーの国で消えた理由が判明する。 「あぁ、石岡さんと一緒に、香水の店に行ったから」 「あ、ネズミーの?」 「そう。そこの店、オリジナルブレンドを作ってくれるんだよ」 「オリジナルブレンド?」 何やらとても、コーヒーが飲みたくなる響きだ。というか、オリジナルって言葉は、依怙贔屓よりも輝いて聴こえる気がするのは、私だけ? 大体、昔から私は、限定とか、特別仕様とか、セールって言葉に弱い。 セールはちょっと指向が違うけど、それはそれだ。弱いんだから、仕方が無い。 「世界に一つだけの、香り。だからこれからは、これが俺の匂いね」 自慢気に亮が語るから、不貞腐れ気味に、羨ましさを言葉にする。 「いいなぁ。私も欲しかったな。誘ってくれれば良かったのに……」 けれど亮は、巧笑を湛えて、意味深な言葉を吐いた。 「それは、石岡さんに聞いてごらん」 「え? 萩乃ちゃんに? なんで?」 だから、全ての語尾を上げて亮へ問うけれど、どうやら、これ以上は内緒らしい。 私の首もとを、さわさわと撫でながら、おどけた口調で話を摩り替えられた。 「目が見えなくても、これで俺だって解るでしょ?」 そう言われれば、そうかも知れない。日本人の体臭は少ないと聴くからか、同じ香水は、誰が使っても、同じ匂いを放っている気がする。 けれどブレンドが、世界に一つしかないものならば、この香りは亮だけが放つものだ。 益々、羨ましくなってきた。特にこの香りが、心地良いから尚更だ。 「亮ちゃんだけ、狡いよ。私だって、私だけの香りが欲しかったっ」 こうなったら、暇を見つけて、直ぐにでも買いに行ってやる。もう、超弩級に凄いやつ。 あ、超弩級で思い出した。七和と一緒に行こう。絶対にあやつも、この手の話に弱いはず。 ところがそこで、聞き捨てならない台詞を、亮が呟いた。 「こんなの無くても、俺には美也が解るけどね」 私はいつも、そういった香りの類をつけていない。よくて制汗剤くらいなものだ。 だから、こうやって断言されると、自分では気づかない臭さがあるのかと、不安になる。 けれど亮の呟きは、嗅覚に限定したものではなかったらしい。 身体全体でくるむように私を抱き、含みを持たせながら、耳元で甘く囁く。 「五感全部で、美也を探す」 その言葉は、鮮やかなほど見事に命中した。なんと言うか、その、クリーンヒットだ。 どきどきが治まらなくて、物凄く悔しい。探して欲しいと言いたくなる、自分の口も腹立たしい。 「じゃ、私は六感で探すっ」 だから負けずと言い返す。これは石岡兄のお墨付きだ。本能だけで嗅ぎ分けてやる。 それなのに、亮には全く命中しなかったらしい。逆に、漠とした不安を吐かれて、遣る瀬無い。 「……誰を?」 何故伝わらないのだろう。確かに誰とは言わなかったけれど、不安がられるのは心外だ。 それでもその問いに答えることが、ちょっと恥ずかしい。否、かなり恥ずかしい。 堪らなくキスがしたい。言葉で伝えられなくても、同じ唇が伝えてくれるかも。 亮の頬に手を添えて、胸に埋めていた顔を上げる。けれど寸でのところで、亮が止めた。 「美也だめ。キスは無し」 驚きに目を瞠って亮を見つめるけれど、拒絶の意が解らず、そのまま目が泳ぐ。 そこで亮が、微苦笑を浮かべて、拒絶の真意をそっと唱えた。 「止められなくなってもいいなら、キスして」 此処でのそれは無理です。でも、キスがしたいんです。しなければ、死んじゃうかも知れません。 「亮ちゃんが、我慢すればいいんだよ」 キスしたさに、正当な文句を吐けば、それは正当な主張ではないと、切り返された。 「え? じゃ、美也は我慢できるんだ? なら、我慢してね」 反論する間もなく、横向きだった身体を仰向きに倒され、亮が上に圧し掛かる。 両手で頬を包まれ、亮がくる。 「りょ亮ちゃ…はむぅっ、…んぅっ」 唇が重ねられた途端、しがみつきたくなるほど攻撃的に、欲望を流し込まれて身体が疼く。 「美也、声出すとバレるよ……」 ごめんなさい。やっぱり無理です。本当にもう、無理っ! |
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