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◇◆  TIFA? 3 ◇◆
 亮と仲良く手を繋ぎ、駐車場へ向けて歩き出したものの、擦れ違う制服姿の方々を垣間見て、肝心なことを思い出した。
「あ、しまった! 制服を部屋に忘れたっ!」
「制服って、会社の?」
「うん。直接ここに来たから、着替えた部屋に置きっぱなしだよ」
 あれを忘れると、当然ですが仕事になりません。代替の制服も有るには有るのですが、パートの小母様用だったりするので、胸周りがカポっと緩いんです。悲しいけど。

 けれど亮は、こんなにも大切な制服より、それが置かれた場所の方が気になるらしい。
「美也が、着替えた部屋?」
 不思議そうな顔で亮が問うから、親切丁寧をモットーに語ったけれど、いつもの如く、やんわりと一言で片付けられました。
「そうそう。もう、すっごい豪華な部屋でさ、苺とシャンパンが似合うって感じで、支配人くさい方に止められちゃって、松本様とか言われ」
「つまり、兄貴が借りた部屋ね」
 頼むよ、最後まで聞こうよ。言いたくて堪らないんだからさ。

 それでも、それ以上の下世話な噂が舞い込んできたのだから、それに乗らない手はありません。
 ゴミ集積所に屯する小母様方に、混ざれそうな勢いでスナップを振り、ひそと囁く。
「そうなんだよ、そうなの。あれはきっと克っちゃん、貯金全額叩いたわよ」
 けれど亮は、何に対してか解らない、否定の言葉を瞬時に返す。
「そんなこと、あるわけないじゃん」
「え? なんで? ナナワの実家じゃあるまいし、克っちゃんにそんな」
 だから負けじと問うけれど、そんな私の言葉を遮り、又もや忘れかけていた事実を亮が告げる。
「そんなことより、制服を取りに行くんでしょ?」
「あ、そうだ、そうだった」

 二階のフロントに足を運び、部屋のカードキーを受け取った。
 てっきり亮も一緒に、部屋まで来ると思っていたのだけれど、エレベーターに向かう途中で、亮の足がひたと止まる。
 そして、フロント向かいにあるカフェを指差し、肩を竦めて言い出した。
「俺さ、あそこで待ってるよ」
 どうして来ないのかと言い掛けて、その言葉を飲み込んだ。
 此処のところ、富に、克っちゃんと亮の関係が、ギクシャクしている気がしてならない。
 多分、何かしらの行き違いが遭ったのだと思う。でなければ、克っちゃんの方が、亮を避ける真似などするはずがない。

「んじゃ、パパッと着替えてきちゃうから、待ってて」
「制限時間は、十分ね? それ以上待たせたら……」
 妖しいよ。妖しいだろ。なんだその瞳の輝きは。
 十分過ぎたら、どうなるんだろうなどと考えて、微妙に遅れてみようかと、思うのは私だけですね。
「では、今からスタート。はい!」
「ひぃっ」
 でもやっぱり、遅れないことにします。週明け早々のアレはハード過ぎます。アレだよ、アレ。

 エレベーターを降り、ロゴ入りの立派な皮製ケースからカードキーを抜き、ロックを解く。
 部屋に繋がる中扉を開けた途端、トリプルソファーにどっかりと座る、克っちゃんが目に入った。
「あれ、克っちゃん? 何、こんなとこに居て平気なの?」
「帰ったんじゃなかったのか……」
「あ、うん。亮ちゃんが迎えに来てくれて。でも、制服忘れちゃってさ」
 喋りながらも歩みを止めず、制服の置かれているクローゼットへ向かう。
「このドレスさ、クリーニングに出しても平気かね? 本間がさ、本物のダイヤだなんてヌカスから、心配になっちゃったよ」

 ハンガーに掛かった制服を見つけ、リビングに居るはずの克っちゃんへ大声で告げる。
「汚しちゃうと大変だから、着替えていっちゃうね!」
 けれど、添えつけられた大きな鏡に向き直った途端、背後に佇む黒い影が目に映る。
「うぉっ?」
 遠くに居ると思っていたから、一瞬ビビった。そういえば、この男はすり足の名人でしたね。
「驚かさないでよ。不審者かと思ったじゃんか」
 振り返ることなく文句を垂れたけれど、克っちゃんは何一つ言い返さない。
 それどころか、鏡越しでも解る。克っちゃんの様子が完全に変だ。

「克っちゃん? どうしたの?」
 堪らず振り返ろうとするけれど、克っちゃんがそれを阻み、さらにドレスのファスナーへ手を掛ける。
「あぁ、なんだ。ありがとう」
 克っちゃんの仏頂面の原因はこれだ。親切が売りのスーパーヒーローでも、流石に妹の着替えを手伝うのは億劫なのだろう。頼んではいないけど。
 そうこうしているうちに、ファスナーを最後まで下ろすことなく、克っちゃんの動きが止まった。
 ここまで下ろしてもらえれば、後は簡単に下ろせるはずだ。だから、最大の感謝を朗らかに述べる。
「助かったよ。スーパーヒーローくん!」

 ところが、克っちゃんはこの場を去らず、反対に、ファスナーの開かれたドレスを背中から肌蹴さす。
 チューブトップは肩布が無い。さらに、パッド付きのドレスだから下着など着けていない。
 だから、そんなことをされて、一瞬のうちに胸が露になった。
「……か、克っちゃん?」
 思わず、手で胸を隠したけれど、何故か、克っちゃんの手の上に、自分の手を添える羽目になる。
 訳が解らぬまま目を正面に向ければ、大きな鏡に互いの姿が映し出されていた。
 克っちゃんの両手が、露になった胸の膨らみを包み込み、唇が首筋を這っている姿をだ。

 慌てて鏡から目を逸らしたものの、驚き過ぎて、思考が五感についていけない。
 鏡に映る姿も、皮膚が感じ取る艶かしい唇の感触も、何もかもが現実なのに、身体は硬直したまま動かない。
 それでも、首筋に音を立ててキスを施され、その音が、理性のスイッチを押してくれた。
「ちょっ、かっ、克っちゃん? 酔っ払ってんでしょっ」
 威勢よく文句を放っても、言葉とは裏腹に、心は震えて止まない。
 何かが可笑しい。何かが変だ。それなのに、その何かが解らない。

「ま、まって…ねぇ、美也だよ? 克っちゃん、私美也だよ?」
 手で頭を押し退け、克っちゃんの抱擁から逃れようと試みる。
 そこで、私の身体を反転させながら、漸く克っちゃんが言葉を発した。
「言われなくても解ってる」
「だ、だったら、何やって…ふくっ」
 胸を包んでいた温もりが去り、代わりに片手が私の腰を引き寄せ、片手は顎を押さえつける。
 さらに、煩いとばかりに唇を塞がれて、目は見開いたまま、高い天井を見続けた。

 このキスは、夢の中の夢と全く同じだ。
 妄想通りなキスをされ続け、その優しいキスに、思考回路が曖昧なものへ変化する。
 初めてなのに、慣れ親しんだ唇と、舌を絡ませることのない、癒しの甘味。
 もしかして、いつの間にか私は眠ってしまって、またいつもの夢を見ているのかも知れない。
 夢の中ならば、抵抗しなくてもいいか。もうちょっと、このままでいても……
 否、違う。これは夢じゃない。何処からか、携帯の着信音が流れてくるのだから。

 そこで漸く我に返り、両手で克っちゃんの胸を押しながら、うわ言のように呟いた。
「克っちゃん、亮ちゃんが待ってるから」
 けれど克っちゃんは、胸の膨らみに唇を滑らせながら、いつもより数倍きつい口調で命令を下す。
「喋るな」
 さらに、その言葉が吐き出されると同時に、胸に抓られたときのような痛みが走る。
「痛っ……」
 克っちゃんが噛んだ。しかも私の胸をだ。そしてこの痛みは、紛れも無く現実だ。

「ねぇ克っちゃん、ほんとに、ほんとに…んんっ」
 一瞬のうちに、腰高棚の上に半身を倒され、克っちゃんが上から覆い被さってくる。
 闇雲に手を動かして拒むけれど、そんな私の両手を拘束し、何処までも冷静に克っちゃんが告げた。
「抗うな…受け入れてくれ……」
「そんなの無理に…ま、…っ」
 胸の隆起を口に含まれ、息が詰まる。
 さらに、片手がドレスの裾から滑り込み、太腿を這い撫で始めた。
「克っちゃ…やめて、やめっ…くっ」
 熱い舌が胸の隆起を転がす。途端に高圧な電流が全身に走り、何もかもが痺れて動かない。

 けれどそこで、部屋のチャイムが響き渡った。
 さらに、こちらの応答を待つことなく、扉の開錠を告げる音が耳に届く。
 言うまでもなく、来訪者は、この部屋のカードキー保有者だ。
 家族ではなく、ホテルの鍵を渡される者。それは即ち、克っちゃんの彼女に決まっている。
 当然そこで、克っちゃんの動きが止まり、何故か訝しげに眉間へ皺を寄せ、玄関の方を向く。
 そして、来訪者を見定めると、ビデオを巻き戻すかの如く、瞬時に腕を引いて私を反転させ、ファスナーを持ち上げるために手を掛けた。
「克也くん、そろそろ戻ってくれな……」

 余りの早業に仰天するものの、間一髪で、最悪な状況を免れたのだから感謝するべきか。
 否、そうじゃなくて、こうじゃなくて、彼女に感謝するべきか?
 そんなことは後で考えろ、私。とりあえず今は、弁解と謝罪と脱出だ。多分。
「ご、誤解ですっ! 誤解しないで下さいね? 私は着替えようと、克っちゃんは酔っ払って」
「だ、大丈夫です。ご兄妹でいらっしゃるし、その……」
「はい。兄妹なので安心してください。克っちゃん、酔っ払ってますが、授賞式は大丈夫でしょうか?」
「わ、私がちゃんと傍にいますから、安心してください」
「で、で、では、兄をよろしくお願いします。本当に、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ、すみません」

 なんとなく、そうだとは思っていたが、やっぱりこの人が、克っちゃんの彼女だったのか。
 名前どころか、苗字も忘れちゃったけど、エスカルゴだけは覚えている。ドレスを見ればだけど。
 それよりも何よりも、この人が怖い。否、正確には、この人の匂いが怖い。
 だから、制服を鷲づかみ、着替えることなく、部屋からの脱出に精を出す。
「克っちゃん、じゃ、帰るから、迷惑掛けちゃ駄目だよ?」
 その場から、一歩も動かない克っちゃんへ言葉を投げ、ドレスには似合わないパンプスを履く。
「じゃ、どうも、また、その」
「あ、はい。どうぞお気をつけてください」
 私を見送りにきた彼女へ声を掛け、逃げるように回廊へ飛び出した。

 オートロックの扉がパタンを閉まり、閉ざされた向こう側を想って、胃が痛い。
 びっくりした。というか、焦った。結局克っちゃんは、私とあの方を間違えただけだ。
「なにが、言われなくても解ってるだよ……」
 無性に腹立たしいこと、この上ない。何が抗うなだ。受け入れろだ。
 本気にした自分が間抜けだとはいえ、あの男は酔っ払うと、ああなるんだな。以後気をつけよう。

 何故、時間が掛かったにも関わらず、着替えていないのかと問われたけれど、どうにかその場を遣り過ごし、秘密基地へ直行した。
 それでも、亮がそう簡単に騙されるはずもなく、一息着いたところで、尋問される。
「で、何を想って泣いてたの?」
「泣いてなんかいないよ?」
 瞬時にそう言い返すけれど、苦笑いをする亮の親指が、私の頬をなぞる。
「涙の筋が残ってるよ」
 泣いた理由を言いたくない。でも、誤魔化せないし、嘘も吐き通せない。
 だから、違う本当の理由を、ぼそと呟いた。
「じ、自分がね? ちょっと情けなくなっちゃっただけ」

 巨大ベッドに凭れ掛かることを止め、膝を抱えて床を見つめれば、そのままの形で引き寄せられて、いつもの如く、すっぽりと亮の中へ納まった。
 何度体験しても、この心地良さは最高だ。背中を預けるって、いやに安心感が芽生えるよね。
 特に、髪やこめかみへキスをされちゃうと、もう、何もかもどうでも良くなるのも、私だけですね。
「また、誰かと、莫迦な比べごとをしたんでしょ」
 私の顔を覗き込み、こめかみに唇を当てながら、亮が核心を明言する。
 だけど一言余計だ。だから、その箇所を否定しながら返答した。
「莫迦じゃないよ。本間も石岡兄も克っちゃんも、皆みんな、輝いて見えたの」

 すると亮は、ふっと笑い、私の思考をそっくりそのまま言葉に表す。
「でも自分だけは、くすんでるし、取り柄が無くて…って、勝手に自己判断して凹んだ?」
 今日の亮は、一言多い。そういうキャラは、七和だけで充分だ。
「勝手な判断じゃなくて、本当のことでしょ」
 さらに、今日の自分も、珍しくネガティブだと思う。
 いつもは、ここまで落ち込んだりしないのだけれど、凹みっぱなしで、凸ることができないままだ。
 というよりも、色々有り過ぎたんだよ。頭がパンクしちゃうくらい、抽象的に色々。

 多分、始まりはエスカルゴな彼女だ。
 あの方の放つ匂いを嗅いでから、可笑しな方向に思考が彷徨った。
 そもそもあの香水は、日改くんが付けていたものと同じで、ちょっと独特な、スパイシー柑橘系だ。
 アップルパイなのに、蜜柑なの。まぁ、何と言うか、シナモン配合のポンジュース?
 本間は昔からシナモンの匂いが大嫌いで、だからこそ、あんな嫌味を吐いたわけであり、私の場合は、恐怖とともに、その匂いを間近で嗅いでしまったため、忘れることが出来ずにいる。

 もう、何年も前の出来事だ。本間だって、躊躇うことなくその名を口にする。
 日改くん本人に、会ってしまったら話は別だけれど、一般に総称されるそれとは違い、特殊な事情だったから故、余程のことがない限り、恐怖が甦ることもない。
 それでもあの時、日改くんは言った。
 世の中は不公平で、私は狡い。自分は何の魅力もないくせに、兄弟のお蔭で得をするのだと。
 全くもってその通りだ。凄い洞察力だよね。言い返す言葉が見つからないよ。
 だけどその時は、心の中で違うと反論していた。
 私だって、ちょっとくらい魅力があるはずだ。付属品の無い私を、好いてくれる人がいるはずだと。

 けれど今日、改めて、そんなものは絵空事だと痛感した。
 どんなに着飾ったところで、克っちゃんという付属品の無い私は、何の魅力もない。
 七和が現れてくれなければ、きっとあのまま、壁紙と同化していたな。多分。
 そして、その事実を、克っちゃん本人に、突きつけられたんだ。
 私じゃ役不足で、彼女が現れてくれたのなら、もう私に用はないと……

「美也? 自分を蔑むのはやめて。自分を変えようとするのもやめて」
 抱きかかえた膝ごと抱き締められて、振り子のように私を揺らしながら、亮が優しく囁き続ける。
「俺は、有りの儘の美也がいい。誰の何と比べても、俺の中では美也が全て一番」
 何時の間に、亮はこんなにも、お世辞が上手くなったのだろう。
「亮ちゃん、それ贔屓しすぎ」
 だから、苦笑いを零しながら、嗜め口調で言い返せば、揺れることを止めた亮が、真顔で切り返す。
「なんで? 長所も短所も、何か一つでも欠けたら、それは美也じゃないよ」

 その言葉を聴き、はたと考える。
 これは、お世辞どころか、褒め言葉ですらない気がするのは、何故でしょう。
 それはきっと、多大なる短所を知り尽くしていると、宣言されたようなものだからでしょうか。
 けれどこの言葉は、何よりも心に響き、胸が苦しいです。
 しかも、もっと苦しくなるような台詞を、朗らかに告げられました。
「俺は、全部ひっくるめた美也がいい。美也じゃなきゃ厭だ。ね、単純でしょ?」
 堪らない。こうやって、真っ直ぐな真っ直ぐな亮に、私はいつも救われる。

「亮ちゃん…亮ちゃん、あり、がと……」
 亮の首に腕を巻きつけ、力の限りで抱き締めた。
 だから私は亮が好きなんだ。
 大事なものを、何もかも私から奪って行くくせに、私が欲しいものを、いつだって解ってくれていて、何よりもそれを欲しているときに、プレゼントしてくれるんだ。
 本当に、日改くんは洞察力が鋭いよ。私は狡い。そして、私は幸せだ。

 大好きな香りを放つ首筋に、幾度も唇を這わせながら、自らの体重を懸け、自ら亮を押し倒す。
 抱かれたいんじゃなくて、抱きたいの。亮の感じる顔を見て、自分が感じたいの。
 息継ぎの合間に、亮が囁く。流れ落ちる私の髪を、指で押さえ梳きながら、何度も私の名を囁く。
「美也、…美也……」
 言葉に籠められた呪力で、頭の中も身体も、とろとろと蕩けてしまいそうだ。
 この声が好き。長い指も、色素の薄い髪も瞳も、柔らかい唇も、亮の全てを独占したい。
「亮ちゃん…好き……」
 亮のシャツのボタンを外しながら、無意識に吐き出した想いが、言葉と為って宙を舞う。
 私の言葉にも、呪力が宿っているといい。亮を虜にしてしまう言霊を、どうか教えて欲しい……

 けれどそこで、ひたと動きを止めた亮が、肌蹴た私の胸を見つめながら、確信を込めて問う。
「美也…ホテルの部屋で何が遭った?」
「…え?」
 咄嗟に亮の視線の先を追い、自分の胸を見下げれば、膨らみに小さく残る赤い痣。
 克っちゃんだ。あの抓られるような痛みは、噛みながら吸い付かれた痛みだったんだ。
「あ、こ、これは、酔っ払った克っちゃんが、ちょっと勘違いをし」
「やっぱりいい。聞きたくない」

 私の言葉を退け、寝返りを打った亮が背中を向ける。
「亮ちゃん違う。亮ちゃんの思っているようなことじゃ……痛っ」
 だから慌てて腕に縋りつき、思い違いを訂正するけれど、不意に振り返った亮が、反対側の胸の膨らみを、きつく噛んでから断言した。
「俺の思っていること? 美也が兄貴に、こうされたってこと?」
 噛まれた箇所に掌を当て、その同じ痛みに煩悶する。
 そんな口篭る私を見た亮は、眉間に深い皺を寄せながら吐き捨てた。
「図星かよ……」

 確かに、克っちゃんは噛んだ。それは事実だけれど、亮が思い描いているような経緯じゃない。
「ちが…克っちゃん、酔っ払って、私と彼女を勘違いしただけで」
「勘違い? そんなわけな」
「あるよっ! あるの。だからちゃんと聞いてっ」
 私だって認めたくないし、忘れたい。
 克っちゃんだって、こんな恥ずかしい失態を、なかったことにして欲しいと思っているはずだ。
 だからこそ、亮の否定を遮り、声を荒げて経緯を述べる。
「鍵を持った彼女が、部屋に現れて、そこで克っちゃん、漸く目が覚めて」

 けれど、私を見つめているはずなのに、私ではない何かを見ながら、呆然と亮が呟いた。
「遂に、奪い返しに来た……」
「亮ちゃ…ん?」
 その不自然な視線に戸惑い、亮の瞳を覗き込むけれど、依然として私を見つめたまま固まる亮は、さらに可笑しなことを口走る。
「昔から俺は、何一つ兄貴に勝てないけど」
 そんなことは決してない。どんな基準で比べているのか知らないが、二人に甲乙などつけられない。
 強いて、亮が克っちゃんに負けていると言えば、歳の数くらいなものだろう。
「亮ちゃん、なんでそんな」
 だから、亮の思い込みを正そうとしたけれど、痛いほど抱き締められて、その先の言葉を失った。

「でも俺は、絶対に渡さない。譲れないんだと言われても、絶対に返さない……」
 息が苦しい。それでも、豹変した亮の言動が不安にさせる。
「亮ちゃん…亮ちゃ、何が」
 抱擁を解こうと、亮の胸の中でもがき、淡々と吐き出される言葉の真意を求めた。
 けれど亮は、抱く腕の力を弱めることなく、微かに震えながら、独り言のように呟き続ける。
「美也、ごめんね…美也が苦しむね……」
「亮ちゃん? ねぇ、亮ちゃん、一体何の話を」
「きっと、美也は帰りたくなる」
 そこで漸く抱擁を解いた亮は、私の髪を指に絡ませ握り締め、額に額を重ね合わせた。
「だけど…もう、返せない……」

 意地悪もない。焦らすこともない。何処までも優しく、強く、亮が私を抱く。
「美也…、美也、…美也……」
 亮の放つ言霊が、身体の中に沁み広がり、愛しさで張り裂けそうなほど心が痛い。
 私には、何一つ解らない。亮の変化も言動も、言葉の真意も何もかも。
 だけど、伝えたい。
 私は此処に居る。だから、どうか安心して欲しい。
 帰りたくなんかない。返さなくていい。ずっと亮の傍に居たいんだ。
「亮ちゃん…放さないで……」
「放さない。放さないよ美也……」  

「痛っ、亮ちゃん痛いってばっ」
 ちうちうと、身体中を啄まれるような痛みに、堪らず悲鳴を上げて起き上がった。
 そこで、ふと自分の身体を見下ろせば、世にも恐ろしい光景が広がっている。
「うおっ! なんだごりゃっ!」
 病気か。病気なのか私。何かこう、物凄く厄介な皮膚病っぽいやつ。
 けれど亮は、くっきり、さっぱり、しっかり、はっきり、言いました。
「ザ、屈辱返し?」
 そんなものに、冠詞を付けるのは止めてくれ。しかもその、楠田さん的な手の按配も止めろ。

「りょ亮ちゃん、これは一体……」
「だぁ、かぁ、ら、目には目を。屈辱には屈辱を?」
 全く意味が解らないのですが、この場合、どのような反応を示せば良いのでしょう。
 とりあえず、笑っておけば、間違いないですよね。笑う門には福来たると申しますし。
「もう、やだ亮ちゃん、あははっ」
「……何、笑ってんの?」
 何か、大きな間違いを犯しましたか、私。
 この状況は、もはや、笑う世間に鬼ばかりです。そんな諺はないけれど、ラーメン屋っぽい感じで。

 そこで亮は、一番大きな赤い発疹を、態と指で突きながら文句を垂れる。
「美也は拒めなかった」
 その言葉は酷く心外だ。驚きの余り、よくは覚えていないけれど、私はちゃんと拒んだ。はず。
「こ、拒んだよ? やめてって言っ」
「それって、俺にも毎回言ってるよね?」
 それは、ちょっと、その、意味が違うと思うのですが。どうでしょう。
 しかも、久しぶりに拝見しましたよ。その、復讐を誓う感じの狡猾マフィア顔を。
「亮ちゃん、も、もしかして、こちらの発疹は……」
「え? ザ、キスマークのこと?」
 否、だからさ、冠詞は止めろ。冠詞は。いやいや、そうじゃなくて……やっぱりかっ。

「こ、こんなの困るよっ」
「何で困るの?」
「ひ、退いちゃうじゃんっ!」
「誰が退くの?」
「ぜ、全世界の人間がだよ」
「へぇ。そんな大勢に見せたいんだ」

 見せるもんか。見せるわけがないだろ。ものごっつい顰め面をされること請け合いだ。見せないけど。
 だけど、物の弾みで見られちゃったらどうするんだ。本間じゃないから弾まないけど。
 大体、物には限度ってものがあるだろ。何故に、二の腕や脇腹まで付けるんだ。
 滅多にないことだけれど、脱衣中に、母さんか誰かと遭遇したら、何て言い訳すれば良いのだよ。
「そうじゃなくて、どうしてこんなに沢山……」
 憤慨しながらも、諭すように語りだしたけれど、ふと見つめた先には、久方ぶりの懇願顔。
「美也…俺のことを拒まないで……」
 
 拙い。かなり拙い。この調子と展開から察するに、また私はきっと、無理な約束をさせられるであろうわけで、憎らしい懇願顔なのに、胸がきゅんとかしちゃって、おろおろしてしまうわけで。
「こ、拒まないよ。拒んだりしない。絶対に拒んだり」
「じゃ、やめてって言ったら、新たなマークが増やしてもいい?」
「え? や、ちょっとそれは……あ、や、い、いいよ……」
 やっぱり言っちゃった……

「りょ、りょ、亮ちゃん? ちょっと待っ…や、やめっ」
 きな臭いのに、天使の笑顔としか見えない顔で私を見下ろしながら、既に聳り起つ先端を、秘裂に埋め込み、ぬるっと撫で付ける。
「やめっ?」
 アスファルトに水が染み込むように、じわじわと侵食を始める高まりを、どうにか追い出そうと、身体を捻って無駄な抵抗を試みた。
 けれど当然、身を翻され、先週末の悪夢が再来する。
「あぁぁっ、無理っ、やだ、やめっやめてっ!」

「やめて? 美也は今、やめてって言った?」
「言ってないっ、言ってない、言ってない」
 結局こうだ。いっつもこうだ。亮はやっぱり生粋の、ドエス…どすえ?

「痛っ! …くぅ」
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