INDEXMAINNOVELBROSIS フォントサイズ変更   L M D S
◇◆  Memories 3 ◇◆
 これは夢だ。そうじゃなきゃ、おかしい。
 私たちは兄妹で、分別ある大人で、それなのに、キスをして、布団に倒れこんで、縺れ合っている言い訳が浮かばない。
 だからこれは夢なんだ。きっと日改くんに、変な薬を飲まされちゃって、こんな夢を見ているに違いない。それなら全て納得が行く。
 克っちゃんが、こんな愛しげに私を見つめるはずが無い。克っちゃんが、こんな言葉を放つ訳も無い。
 夢なら何でも出来る。そして夢なら、私の願いを叶えてくれる……

 濡れた髪が束になって流れ、小さな雫が、雨のように克っちゃんの浴衣へ染み込んで行く。
 そんな私の髪を、下から撫で付ける克っちゃんは、ゆったりと微笑んでから、離れてしまった唇を取り戻そうと、私の頭を引き寄せる。
 夢なら遣りたい放題だ。夢の克っちゃんなら、怒ったりしない。
「この間のお返し……」
 だから浴衣の襟元を肌蹴させ、克っちゃんの胸元を小さく噛んだ。

 ほら、怒らない。口元を薄っすらと綻ばせ、克っちゃんがふと笑う。
 それどころか私の浴衣帯を解き、鎖骨を撫でながら、掛衿の中に手を滑り込ませた。
 はらと肩から浴衣が零れ、露になった私の胸を克っちゃんの両掌が包み込む。
 これは夢だ。それでも恥ずかしさが込み上げ、裸体を隠すように、克っちゃんの首筋へ顔を埋めた。
 途端に、クリームのような甘い香りが、私の鼻腔を仄かに擽る。
「克っちゃんの匂い……」

 アンバーと呼ばれるこの香りは、樹脂の香で、日本語に言い換えれば、宝石になる前の琥珀だ。
 克っちゃんはこれを、香水ではなく、アフターシェーブとして身に纏っている。
 日本では未だ売られていないこれを、買って来たのはこの私で、例の如く、英語が読めないだけに、何に使用するのかも解らないまま、修学旅行の土産として克っちゃんに押し付けた。
 当時、高校生だった克っちゃんは、この土産に唖然としていたけれど、十年経った今でも、愛用してくれているらしい。
 香水じゃないからこそ、こうして首筋に近づかなければ、この匂いは解らない。
 それなのに私は、何故この香りを、克っちゃんの匂いだと言い切れるのだろう。

 不意に身体が反転し、克っちゃんの瞳が、上から私を覗き込む。
 余計なことは考えるなと、克っちゃんの瞳が囁くから、掴んでいた浴衣の袂を離し、克っちゃんの首に腕を巻きつけた。
 けれどその腕も、キスが深まるに連れて力を失くし、重力に負けて床に落ちる。
 このキスは曲者だ。形は変えても、そこに激しさは加わらない。
 だから、穏やかに凪いた人肌の海に、漂っているような錯覚を起こす。
 緊張も心労も、自分に圧し掛かる苦痛の全てを、克っちゃんの唇が掬い取ってくれる。
 そして、渇き切った心が少しずつ潤い、最後には、たぷんと溢れて零れ出るんだ。

「んっ……」
 背中を持ち上げるように抱きすくめられ、仰け反ったことで、何よりも高く突き出た胸の隆起を、克っちゃんが口に含む。
 固く膨れた頂を、とろとろと舌で溶かされ、全身に隈無く漣が走る。
 堪らず克っちゃんの頭を掻き抱き、齎される刺激から逃れようと試みた。
「んっ…あっ、だ、だめっ、だめ」
 夢だと解っていても、疚しさは拭えない。
 さらに、亮の激しい愛撫に慣れた身体が、違和感を訴え始める。
 それでも、克っちゃんの瞳に射られた心は、全ての事柄を捻じ伏せた。
 良心も身体も、克っちゃんを欲する心に、負けてしまったらしい。

 愛でて撫でる。愛撫とは、こういうものだったのだと改めて想う。
 どこまでも優しく、どこまでも愛しげに、克っちゃんの指と唇が私を撫でる。
 克っちゃんは囁かない。甘い言葉も、私の名も、何一つ。
 だけど、こんな抱き方は反則だ。こんな抱き方をされれば、誰だって勘違いをしてしまう。
 一呼吸置く度、繰り返されるキスは、勘違いの肯定を促す。
 絶頂を迎える度、胴の括れをぎゅっと抱き締められれば、それは確実なものとなる。
 私はこの人に愛されている。そう誤解したまま、新たな快楽の坂を昇って行くんだ。

 指が襞を弄り、焦らすことなく要処を弾く。
 襞の中にも隆起があるのだろうか。こりと弾かれては、我慢できずに、悲鳴に近い喘ぎ声が漏れる。
 けれど、そんな抵抗の言葉も、克っちゃんの唇が拭ってしまう。
「んんっ! やっ、やめ…んっ、ふっ、んっ」
 与えられる苛烈な刺激から、逃れる術がない。
 だから行かされる。自分の意思で昇り詰めるのではなく、耐え切れずに爆発してしまうんだ。
「ふぐっ、んん、んんんぁぁっ!」
 そしてまた、狂おしいほど腰を抱かれ、唇を吸われ、溢れ過ぎた心が涙に姿を変えて滲み出す。

 名を呼んだら、克っちゃんが消えてしまいそうで、夢から覚めてしまいそうで怖い。
 言葉で確かめる必要も無い。目を閉じていても、それが克っちゃんだと解るから。
 だから覚めないで欲しい。ただ一度でいい。二度と無くて構わない。
 ずっとこのまま、何時までもこのまま、愛されていたいと心から願う。
 そして、有り丈の想いを伝えたい。誰よりも大切で、何よりも掛替えの無い、最愛の……
 違う。私は亮が好きなんだ。譬え夢の中でも、こんな想いを抱いてはいけない。
 認めてしまえば引き返せない。気づいてしまえば、互いに苦しいだけだ。
 何を引き換えにしても、失いたくない人だからこそ、想いを閉じ込めなければ壊れてしまう。

 けれど私の想いとは裏腹に、裾が割られ、秘裂に熱く硬いものが押し当てられた。
 そこで漸く我に返って息を呑み、この期に及んで抵抗を試みる。
「だ、だめっ、や、やっぱり、だめっ、おねが……」
 それでも躊躇うこと無く、高まりの先端は、くっと花唇を押し広げて沈む。
「ぐぁっ」
 蜜は溢れている。それなのに苦しい。引き攣るような痛みに襲われ、錯乱状態に陥った。
「いっ痛っ、やめっ、いやっ…やめ」
 そこで初めて、闇雲に動く私の手首を掴みながら、克っちゃんが私の名を呼んだ。

「美也」
 こっちを向け。俺の目を見ろ。
 そんな想いが隠された呼び掛けに、震えながら応えて瞼を開ける。
 朧に映る克っちゃんの顔が、鮮やかに象られたとき、一点の曇りもなく、凛然と瞳が囁いた。

『愛してる』

 唇は動かない。音も無い。けれど、心に響くその言葉で、克っちゃんの顔が霞んで行く。
 途端に、押し込められていた想いが、奔流となって流れ出す。
 苦しくて、苦しくて、言葉になどできなくて、ただ、克っちゃんの胸を拳で叩きながら、呼気だけが空気に散らばっては消える。
「ずる、くっ、…んっ、かっ」

「答えなくていい。答えなくていいんだ……」
 宥めるような囁きとともに、克っちゃんの唇が混乱を拭い取って行く。
 それでも、圧迫感は限りなく続き、きちきちと襞を押し広げ、ゆっくりめり込んでくる。
「んんっ…はむぁっ、んあっ!」
 壮烈な高まりは、最奥に到達しても尚、間断なく沈み、重ねられた唇の合間から嘆が漏れた。
 襞は攣れたまま小刻みに震え、滾る心もまた、克っちゃんの肩に爪を食い込ませる。
 更に、掻き抱かれた背中が宙に浮かび、白く靄かかる意識は、滅裂した言葉だけを繰り返す。
「行かないで…いやっ、行かないで!」

 激しく高鳴る鼓動とともに、父さんの声が、幾度も脳裏に流れていた。
『美奈! 俺を置いていかないでくれ! 置いて行かないでくれ!』
『美也ちゃんは、小さい頃の美奈と瓜二つだ……』
『克っ! 美也を失いたくなければ、距離を置け!』
『美也ちゃん、お口でちゃんと話そう? 克っ! 美也と目で話すなっ!』

 そうだ、思い出した。父さんは、私と克っちゃんが寄り添うことを、異常なほど嫌がった。
 私は実母に似ていて、克っちゃんは自分に似ていると、誰かに溢していた記憶もある。
 だからなのか、私には優しく諭したけれど、克っちゃんには、いつも怒鳴っていた。
 そしてその後直ぐ、母さんと亮が我が家へやってきて、私たちの環境は一変する。

 置いて行かないで。その語源は、離れたくないのに、離れなければならなかったからだ。
「駄目だよ美也、此処に来ちゃ駄目だ。じゃないと、父さんみたいになる……」
 皆の目を盗んでは、克っちゃんの部屋に忍び込んだけれど、寝ているとき以外、克っちゃんはこうして私を拒み続けた。
 父さんみたいになる。その言葉で私は、悲痛に泣き叫ぶ父さんの姿を思い出し、我慢して我慢して、克っちゃんの部屋の扉を閉める。
 けれど、一緒に居ても居なくても、私の答えはどちらも同じだ。
 克っちゃんに置いて行かれてしまう。その想いが常に付き纏う。

 だから夢の中だけでも、約束して欲しかった。
 決して置いて行かないと、言い続けて欲しかった。
 それなのに克っちゃんは、夢の中でさえ、私を拒み始めた。
 けれど今日は違う。今までの言葉とも、これまでの言葉とも違う台詞を克っちゃんが囁く。

「…俺と一緒に行くか」

 行く。行くに決まっている。何処だって構わない。克っちゃんの傍に居たいんだ。
 だから克っちゃんに取り縋り、無言で何度も何度も肯いた。
 けれど、克っちゃんは私の顔を覗き込み、微苦笑を浮かべて問い返す。
「二度と帰れなくても?」
「行く! っ、行くの。だから置いて行かないで……」
 そこで、瞼を閉じた克っちゃんは、透明な何かを飲み込んだ後、ゆっくりと目を開き、覚悟を決めたように断言する。

「もう、躊躇も容赦もしない。奪われた分を、根刮ぎ奪い返す」

 この言葉の意味するものが、解るようで解らない。
 それでも考える暇を与えては貰えず、重なる唇とともに、ゆっくりと克っちゃんの腰が動き出す。
「ぐっ…ぁっ」
 昂りが形骸を残すように、深く沈んでは僅かに停まり、そしてまた、ゆっくりと引き抜かれて行く。
 焦らされるに等しいこんな動きでも、昂りに全ての要処を押し抉られ、息が苦しい。
 耐えられない。こんな刺激は無茶苦茶だ。
 引き攣る痛みは消えて無くなった。それでも、この甚な官能から逃れたい。
 けれど逃してもらえるはずなど無く、指に指を、腕に腕を重ねて、克っちゃんが私を嬲り続ける。

「んぐっっっんんっ!」
 唇を塞がれながら、大きく爆ぜた。
 呑み込むことはできても、締め付けることのできない襞は、小刻みな痙攣を繰り返し、恍惚とした思考は、定まらない視点を作り出す。
「その顔が見たかった」
 克っちゃんが何かを囁いている。それでもそれを聞き取れる耳が、存在しない。
「ひゃくっ、ひゃうっ、ひっく……」
 止むことなく抜き差しされる動きに合わせ、吃逆に似た吸気が漏れ続けた。

 克っちゃんが動く度、泥濘した淫水の音が激しくなって行く。
 気持ちいいだなんて言葉では追いつかない。どんな言葉でも言い尽くせない。
 とにかく逃れたいんだ。この襲い狂う快楽から、どうにかして逃げ出したい。
 だから無闇に首を振り続ければ、そこでまた、克っちゃんが私の名を呼ぶ。
「美也」
 甘く蕩けるように囁く言葉じゃなくて、命令を帯びた言語の呪力。
 心を動かすその呪文は、たった一言で全てを統制し、思うが侭に私を操る。
 そして私の身体はひたと固まり、命令通りに克っちゃんを見つめた。

 そんな顔をしても、そんなことを目で語っても、駄目なものは駄目だ。
 平気な訳がない。全然平気じゃない。
 今にも気が狂いそうなのに、もう平気かと、芳容な笑顔で問われても困る。
 だから憤り悶えながらも、威圧するように克っちゃんを睨みつけた。
 けれど克っちゃんは、そんな私を恐れるどころか、優麗の笑みを湛えながら頬を撫でる。
「一緒に行くと言っただろ?」
 そういう意味で言ったわけじゃない。それでも克っちゃんは、戯け口で付け加える。
「そういう意味も、含む」
 厭だ。克っちゃんがイクとなったら、こんな動きじゃ済まないはずだ。
 断固拒否する。これ以上、激しくされたら気が狂れるに決まってる。

 必死で焦点を合わせ、残された僅かな理性を金繰り集めて抵抗した。
 それでも、そんな私の抵抗を容易く躱し、克っちゃんが上体を起こして行く。
 角度が変わる。ただそれだけで、強い眩暈に襲われ、離れ行く克っちゃんの腕を握り締めた。
「やだっ! やめ、やめ、やっ」
「覚悟しろ」
 決然と吐き出す言葉と同時に、克っちゃんが私の腰を掴んで引き寄せ、深く杭を打ち込んだ。
「いやぁっ、あああっ!」
 さらにさらにと、加速を増しながら貫かれ、目の奥に稲妻が走る。

 爆ぜても爆ぜても、キスはもう降って来ない。
 愛撫とは打って変わった、激情と情熱と熱情を注ぎ込まれ、身体も心も燃え焦げてしまいそうだ。
 けれど克っちゃんは、私の背中を抱き持ち上げると、襞の中から内臓までをも抉るように突き上げる。
「んぐぁっ!」
 それは止まることを知らず、最奥の壁を破り、胎内で蠢く。
 強烈、威烈、苛烈、熾烈。どんな烈よりも、過激な烈が身体中を支配する。

「っつあああ、やめてやめっ、ぃあああっ」
 自分が爆ぜていることも、淫水を迸っていることも解らない。
 ところどころの意識が飛び、気づけばまた、官能の濁流に呑み込まれて行く。
「あああっ! ぃやぁっ、おねが、おねがいーっ」
 引っかいても、噛み付いても、殴っても、克っちゃんの動きは止まらない。
 だから、身を捩って逃れれば、背後から回された腕が私の腰を抱き止め、さらに片足を持ち上げる。
「ややめて、死んじゃう! 死んじゃうか、…かぐぅはっ!」

 枕など、何処にも見当たらない。あったとしても、気づかない。
 だからシーツに顔を埋め、狂った咆哮を、布団の中に吐き出し続けた。
「ぃあああっ、あぁぁぁぁっ」
 ビリビリに千切られ、バラバラに砕け壊れ、消えて無くなってしまいそうだ。
 その証拠に、意識は掠れ、感覚器の全てにノイズが入る。
「っ、行くぞ……」
 遥か彼方から、克っちゃんの声が聴こえた気がする。
 けれど、もう駄目だ。もう持ち堪えられない。
 目の前に真っ白な光が差し込み、その光が暗闇を消し去った瞬間、私の意識も消え去った。

 ほら、やっぱり夢だった。そんなこったろうと思ったよ。
 あれが現実ならば、私は裸だし、布団は乱れているし、裸の克っちゃんだって隣に居るはずだ。
 でも今の私は、少し肌蹴てはいるものの、きっちりと寝衣を纏っている。
 更に、克っちゃんの布団は遥か遠くに敷かれているし、そこに寝ているはずの人物は、何処にも居ないおまけつきだ。

 それでも不安になる。何処から現実で、何処からが夢なのだろう。
 萩乃ちゃんと会った。これは確実に現実だ。
 そして日改くんと遭う。これも多分現実で、このとき異物混入ジュースを飲んだ。
 けれど其処からは、全てが夢だったのかも知れない。
 あんな絶妙なタイミングで、克っちゃんが助けに来てくれるだなんて、実に都合が良過ぎるし。
 しかも、愛してるとか言っちゃったんだよ、克っちゃん。否、言っちゃいないか?
 最早、もてない女の、ドラマチック大妄想が大暴走だよね。語呂っぽく。

 けれど私は此処に居て、仕立ての良い旅館の浴衣を着て、枕に顔を埋めている。
 しかも枕の匂いが、克っちゃんの匂いだなんて、思っているところが腑に落ちない。
「はうっ。なんか、カッタル〜!」
 うつ伏せに寝転び、枕の中へ叫び声を放つ。
 吐き気は治まったけれど、頭は呆けているし、身体はあちこち痛む。
 多分、異物ジュースの副作用なんだな。お酒だって、飲みすぎた翌日はしんどいし。

 不意にバルコニーへ繋がる引き戸が開き、深い藍色の浴衣を纏った克っちゃんが、姿を現す。
 深めに開いた掛け衿を、極自然にすっと正し、私の目を見ることなく克っちゃんが問う。
「起きたのか?」
 だから、寝返りを打ち、もそと起き上がりながら口を開く。
「あ、うん。ねぇ克っちゃん、私……」
 けれどその先が続かない。夢の中の出来事を聴いたところで、克っちゃんが答えられる訳がない。
 しかも、キスしたと告げただけで雷が落ちたのに、えっちしたなんて言い出そうものなら、どんな仕打ちに遭うことか。

「お、お風呂に入ったっけ?」
 とりあえず、妥当なラインで言い逃れができたのは奇蹟です。
 克っちゃんの眉毛も、一瞬だけひくつきましたが、こちらの質問にきちんと答えてくれました。
「俺の記憶では、入っていたな」
 この答えが真実ならば、苦手な夜雨の中、私が露天風呂になど入った理由も現実だ。
「じゃ、じゃあ、克っちゃんの洋服に…その、」
「洗えば済むと言ったはずだろ?」
 ぃやっぱりっ。ということは、裸の日改くんも現実で、部屋に克っちゃんが現れたのも現実で、つまり克っちゃんは、私を助けに来てくれたということで……

「ありがとう。その、色々」
 珍しく、得意の抽象言葉を、謝罪ではなく、感謝の形で引用してみました。
 意外にも、しっくりと言葉に馴染むので、言った私の方が驚きです。
 けれど克っちゃんは、嫌味な微笑を浮かべ、驚きとは違う意味で、私の目を見開かせます。
「厭なことは忘れてしまえばいい。お前の得意技だろ?」
「失敬なっ」
 それでも、本当にその通りだと思う。厭なことと言うよりも、自分に不都合なことは、いつだって綺麗さっぱり忘れちゃうんだ。
 だけど、何かの拍子に一部分だけを思い出し、そんな自分を嫌悪する。の、繰り返しだ。

 そんなどうでも良い物思いに耽る私へ、克っちゃんが唐突に切り出した。
「明日は朝早くから出掛ける。もう少し寝ておけ」
 旅館と言えば、観光地だ。そして観光地と言えば、娯楽施設に違いない。
 しかも、一面が山の娯楽施設と言えば、私が何よりも愛する場所しか無い。
「牧場? マキバだよね? イチローさんの!」
「それは、ゆかいな牧場だろ」
「私、牛の乳搾りやる!」
「やらせてやるから、寝ろ」
「やったぁ! イーアイ、イーアイ、オー!」

「……解ったから、寝ろ」

 翌朝と言っても数時間後の話なのだけれど、いつの間にか雨が上がり、気持ちの良い晴れ間が覗く。
 居ても立ってもいられず、早々に布団から飛び出して、贅沢にも朝日風呂を味わった。
 その後、バイキング形式の朝食を鱈腹食べ、またお風呂に入ってから牧場へ向かう。
 てっきり、このままチェックアウトをするものと思っていたけれど、克っちゃんは、もう一泊の延泊を申し込んだらしい。
「夕飯を下見していないだろ?」
 確かにその通りだ。夕飯の無い宿なんて、クライマックスを見逃した映画だよ。キスシーンとかさ。

 しかしまた、こんなにも長く、克っちゃんと二人っきりで過ごす時間など、何年ぶりだろう。
 しかも、とんでもないことを、克っちゃんが言い出したから堪らない。
「美也? これ以後、一言でも喋ったら……」
「ななな、何かな?」
「俺の財布は、開かないと思え」
 貴方は、殺生という言葉を知ってるかね。『そんな殺生なぁ!』って、あれよあれ。
 考えてみるとさ、この言葉って、生殺しだよ、生殺し。
 つまり、克っちゃんの財布が開かないということは、目の前の煌びやかな郷土の品々が、鼻先にぶら提げられたままになるということで、牧場なのに、ヨーグルトどころかアイスも食べられないということで、これぞ本物の殺生じゃん!

「そう。俺は惨いし、思い遣りも無い」
 こいつ、殺生の意味を、国語辞典バージョンで返してきやがったな。
 もしかして克っちゃんは、七和よりも此畜生な男なんじゃなかろうか。
「こっ、このっ、ちっ」
「え? 何?」
 いえ、何でもありません。ブルーベリーソフトが食べたいので、此処はぐっと堪えることに致します。
 それにしても、この口から生まれた口太郎に、喋ることを止めさせるなど、惨過ぎるにも程がある。
 ダイエットじゃないけどさ、これが原因で、リバウンドしちゃったらどうしてくれるんだ。

 ところが、最初の小一時間は、赤い罰点の付いたマスクが欲しかったものの、数時間が経過する頃には、喋らないことが我慢にはなっていない自分に気が付いた。
 多分、七和が他人の言動を言い当てることと同じで、注意深く克っちゃんを見上げれば、仕草や表情から、何を言っているのかが解るんだ。
 そこで改めて思う。七和、お前は洞察力が優れていたんだね。褒めたくないけれど。
 それでもこれは、克っちゃんが相手だからこそ、罷り通る代物だ。
 互いに、昔取った杵柄が、大いに役立っていること間違い無い。

『克っちゃん、この搾った乳で、レアチーズを作れるんだって!』
『乳言うな』
『克っちゃん、この摘んだブルーベリーで、ジャムが作れるんだって!』
『またそれか……』

 そして、とっぷりと日が暮れる頃には、笑い声をも、私の口から漏れることがなくなった。
 何と言うか、英会話もこのくらい、手早く素早く上達して欲しいものだよね。
 万国共通語はさ、英語じゃなくて、表情筋語にするべきだと思うよ。結構真剣に。
 その証拠に、大浴場でご一緒した初老の貴婦人から、こんなことを告げられる。
「貴方達は目でお話をするのね。でも、何を話しているのかが、私達にも解って楽しかったわ」
 このご婦人のことは、牧場でも幾度と無くお目にした。
 旅館も一緒とは奇遇だけれど、だからといって、特別不思議なことではない。
 なんたって、ほら、山の娯楽施設は、イーアイ イーアイ オーだからさ。よく解らないけど。

 ご婦人は、白髪の紳士と牧場を訪れていて、私たちの反対側で、ブルーベリーを摘んでいた。
 ブルーベリーの木の背丈は、意外にも低い。
 私の身長よりも低いくらいだから、私たちの表情が丸見えだったのだろう。
 現に私も、ご婦人たちが、どれほど摘んでいるかを窺ったりした。
『美也、失礼だろ』
『だって、気になるじゃん』
 当然このように、克っちゃんから窘められたけど。

 さらにブルーベリーを摘んだ後、そのまま近くにあるテント内へ移動した。
 そこでは、今摘んだばかりの実を、ジャムやドリンクにして楽しめるという心憎さだ。
 そしてこちらでも、お隣の卓上コンロで、ご夫人がジャム作りに精を出していた。
『ジャムって、あんなに砂糖を使うのか……』
『克っちゃん失礼だよ。知ってるけど』
『頼むから、食えるものを作れ』
『失敬なっ』
『ほら、焦げる!』
 こ、焦がしてないよ? 克っちゃんが大袈裟なだけだよ? 多分。

 さらにさらに、牧場を巡るトラクターバスの中でも、羊の群れに襲われたときも、ご婦人と白髪紳士の姿を垣間見た気がする。
『克っちゃん、ダチョー!』
『あれは駝鳥じゃないだろ』
『克っちゃん、羊ぃ!』
『そうだな、それは羊だ』
『克っちゃん、囲まれた!』
『……見れば解る』
 なんてリアリズムな男なんだ。もうちょっと、浮かれようよ。弾けようよ。
 まぁ、そんな克っちゃんは、克っちゃんじゃないんだけどさ。実際、目にしたら怖いし。

「余りにも静かだから、最初は主人も私も、お耳に障害があるのだと思っていたのよ」
 岩で縁取りされた、大きな露天風呂に浸かりながら、ご婦人が柔らかな口調で話し出す。
「だけれど貴方達は、手話を用いるどころか、唇さえ動かさないでしょ?」
 煩いとは再三言われ続けてきたけれど、静かとは言われたことがないので驚いた。
 けれど、そう言われれば当然だ。確かに何にも喋っていなかったのだから。
 
「そこでね、貴方達の真似をして、主人と目で会話をしてみたのよ」
 白髪の紳士は、ご主人だったんだな。否、そうだとは思っていたけどさ。
 父さん母さんより、十は年上だろう方々なのに、仲睦まじくて、微笑ましかったんだよね。
「目は口ほどに物を言うと言うけれど、本当に解るものなのね」
 そうだろう、そうだろう。長年連れ添ったご夫婦ならば、私たちよりも密な会話ができるはずだ。

「言葉に頼ると、それを鵜呑みにして、本心を見過ごしてしまうけれど、目は嘘をつけないのね」
 ご婦人の言う通りだ。一体私は何度、克っちゃんの本心を見過ごしてしまっただろう。
 多分、何回どころじゃなく、何百、何千回だ。
 克っちゃんは、口を開けば説教で、褒めてくれたことなど一度もなくて、まるで機械みたいに自分の感情を語らない。
 だけど今なら、きっと解る気がする。目が語ってくれるはず。

『克っちゃんどう? 浴衣似合う? そそる?』
 ご婦人と別れ、部屋に戻ったところで、克っちゃんの本心探り作戦を決行した。
 けれど、窓辺の椅子で優雅に寛ぐ男は、頬杖をつきながら、有りの儘を語る。
『昨日も見た。いや、今朝も見た』
 褒めろよ。そこは褒めておけよ。こう、話の展開的にもさ。
 けれど所詮、この男はこうだ。そして私の浴衣姿もまた、所詮こんなものだ。
『そうでした。そうですね』
 大きな溜息を吐き出しながら、克っちゃんに背を向け、冷蔵庫の扉を開ける。
 だから、私の背中に語り掛ける克っちゃんの本心を、また見過ごした。

『脱いだ姿の方が唆る』

 まるで二十年前にトリップだ。ラタンの椅子に寄り掛かる克っちゃんと、そんな克っちゃんの脚に凭れ掛かる私と、古い映画と、風鈴の音。
 違うのは、大きくなった身体と、部屋の風景だけ。
 そして、いつもなら聞き逃してしまうであろう風鈴の音が、とても心地良い。
 だから克っちゃんが、私の前髪を掻き揚げる。
『眠いのか?』
『ん……でも、このままがいい』
 そこで当然、克っちゃんの切れ長流し目が降ってくるのだけれど、今回は嫌疑ではない。
 では、この目が何を語っているのかと言うと、ずばり、呆気です。あ、迷惑かも。

「はぁ……」

 すみません、この感じ悪い溜息は、喋ったことにならないのでしょうか。聞けないけど。
 

 日曜の夕刻、渋滞に巻き込まれることなく、全て順調に無事帰宅した。
 当たり前だがこのことは、父さんと母さんには内緒だ。
 ガーデニング好きな母さんは、きっと牧場の花々に喜んでくれるだろう。
 温泉好きな父さんも、あの旅館のお風呂には、きっと満足するはずだ。
 夕食も、本当に美味しかった。海と山に囲まれた場所だからこそ、肉も魚も美味しいの。

 旅行だとは聞いていなかったから、ほぼ手ぶらで訪れたけれど、着替えも何もかも、貸し出してくれるサービスまであるらしい。
 電話一つで、要り様なもの全てを、部屋まで届けてくれた。
 これぞ正しく、超一流の旅館と呼ぶに相応しい。
 ところが、チェックアウト時の料金は、極普通。高くもなく安くもなく、これぞ正しく普通だ。

 そんなこんなで、帰りの荷物が矢鱈と重い私は、居間に寄ることなく部屋へ直行。
 すると、待ち構えていたように亮が現れ、片付けの邪魔をし始める。
「美也、何が遭ったの」
「え? 何もないよ?」
「美也の携帯に、男が出た……」
 そういえば、この休み中、携帯の存在を完全に忘れていた。
 そこで、片付けの手を止めて、首を捻りながら将と考える。
 確か、萩乃ちゃんと別れた後、克っちゃんに電話して、あれ、それからどうしたっけ。

「ん。七和から預かった」
 そんな言葉と不貞腐れ気味な態度で、亮が何かを私の目の前に突き出した。
 よくよく見ればこちらは、紛れもなく私の携帯です。
 けれど何故、そのような経由で、私の下へ帰還したのかが解りません。
「え? 何で夕焼けナナワが?」
 だから、疑問に素敵な飾りをつけて問えば、明らかに不審顔の亮が質問を投げ返す。
「……美也、何でさっきから、何も喋らないの?」

 そう問われて初めて、一度も唇を開いていないことに気が付いた。
 そこで、久しぶりに口を開き、久しぶりに声帯を震わせるけれど、滑らかさなど何処にも無い、ざらついた自分の声に驚き叫ぶ。
「あれ? そういやそうだね。おぉ?」
「信じられない…美也、何時から喋ってないの?」
 信じられないとは何事だ。それでも、亮がそう言うのも無理はない。
 私自身も昨日までは、自分のことを口太郎だと思っていたのだから。男性じゃないけどさ。
 しかしまた、とんでもなく喉がネバネバしているよ。痰っぽい液体が張り付いてる感じで。

「んんっん! あー、あー」
 喉の気持ち悪さに顔を歪め、発声練習に勤しめば、私を後ろから抱き締めながら、亮が耳元で囁く。
「また、兄貴に怒られて、喋るの我慢してたんでしょ?」
 どうして皆が皆、私の異変と克っちゃんを結びつけるのだろう。
 否、確かにいつも怒られてるしさ、確かに結びつくんだけどね。あ、だからか。
 けれど、我慢はしていない。逆に今は、喋ることの方が億劫なくらいかも。
 多分私は、お喋りなくせに、話し方が下手だ。多分だよ多分。
 更に、心の中とは全く違った言葉を放ったりもする。これじゃ、嘘つきみたいだけど。
 だから喋るとトラブルが起きるわけで、喋らなければ怒られないわけで、つまり億劫なんだ。

「美也……」
 吐息のように囁きながら、亮の唇が背後から私の首筋を這う。
 途端にぞくとした感覚が身体を巡るけれど、ぞくはぞくでも、いつものゾクとは全く違う。
 そこで、突然の恐怖と吐き気に見舞われ、大袈裟な程の勢いで抱擁を解き、振り返る。
 当然そこには亮が居て、当たり前なことなのに、何故か酷く安心して肩から息を吐き出した。
 そんな私の顔を見て、亮は確信の込もった言葉を投げる。
「日改に何された……?」
 そうだ。そうだった。その後の夢が余りにも強烈だったから、思い出したくない過去プレイバックがプレイしなかったんだな。きっと。
 否、潜在的にしていたのか。だから背後からの抱擁に恐怖を感じたんだな。

 けれどこのことは、話したくない。亮と言うより、誰にも話したくないんだ。
 自分の莫迦さ加減が招いた結果だし、克っちゃんにも、石岡兄にも迷惑を掛けた。
 それに、洋服は脱がされたけれど、何かをされた記憶はない。
 だからこのまま、全てをなかったことにしてしまいたい。
「何もされないよ。私がゲロったくらいでですね?」
 それでも亮は、全てを詳しく知りたがる。部外者にするなと憤る。
「今の態度からして、そんなわけがないだろ? 後ろから襲われたんだろ」

「石岡さんが心配してメールをくれた。美也は日改の弟に会った」
 何故、心配されるのかは解らないけれど、その言葉で思い出した。
「あぁ、そうそう! 亮ちゃん、彼と同級生だったんだって?」
 けれど亮は、私の質問を完全に無視した言葉を続ける。
「弟が兄を呼んだ。そこで美也は逃げるように去った。でも、兄と遭遇した」
「亮ちゃん、あのね?」
「どうせまた、デートドラッグを飲まされて、何処かに連れ去られたんだろ!」
 そうだ、その通りだ。だけど、その言い方はきつい。
 どうせまた。私を表現するのに、これほど適切な言葉は無いけれど、この場で用いられるのは、ちょっと辛い。否、かなりかも。

 だけど言い返しても無駄だ。自分が悪いことを、自分が一番解っている。
 図星を指されたから堪えただけで、亮は何一つ、間違ったことを言っていない。
 となれば、アレだ。この場は逃げるに限る。どうせまたっぽく。
「そうだ! 亮ちゃん、お土産があるのだよ」
 ベッドの上に置かれた荷物が目に入り、絶好の逃げ要素を見つけて、それを掴む。
 ところがこちらもまた、喜んでもらえるどころか、亮を苛立たせる代物と化す。
「何これ…何でこんな場所の土産を美也が……」

 何かを閃いたように目を見開き、亮が私の腕を掴んで問質す。
「美也、ねぇ、何時から兄貴と一緒に居たの?」
 克っちゃんと約束をしたとき、亮もその場に居たはずだ。それなのに何故、こんな解りきったことを聴くのだろう。
「え? 金曜の夜からだよ? ほら、父さんと母さんの」
「下見が旅行だなんて、聞いてない」
 そこで、もう一つお土産があったことを思い出し、亮の手を解いて荷物に手を伸ばした。
「うん。私も聞いてなかったから、ビックリしちゃった」

 けれど、伸ばした手は荷物に届くことなく、まるで巻き戻しボタンを押したかのように、逆回転しながら元の位置へ戻る。
「ねぇ美也、始めから、ちゃんと話してよ」
 そして、振り解かせないとばかりに、痛いほど強く、亮が私の手首を握り締めた。
 手首を握り締められたことで、別の痛みを肌が感じ取る。
 痣を押されたときのような痛み。その痛みは、否応無く、枷せられたことを甦らせた。
 拙い。吐き気がする。此処は自分の部屋で、こんなところで吐きたくないわけで、でも亮は、腕の拘束を解いてくれないわけで……

「りょ亮ちゃん、ごめん、ちょっとトイレに」
 拙い。両腕を掴まれているから、口元に手も添えられない。
「美也、逃げないで話してよ」
 拙いって。このままでは確実に、ゲロが亮を直撃だゲロ。否、そうじゃなくて、こうじゃなくて、頼むから解ってくれ。頼むよ頼む。
「ほ、ほんとにごめん、吐きそうなの!」
 ところがそこで、解ってもらえない理由を、憤慨した亮に叫ばれた。

「だから美也、喋れよ!」

 しまった。また喋ることを忘れていた。
 道理で伝わらないはずだよね。というか、何時から喋ってなかったんだろう。聞けないけど。
「ご、ごめんね亮ちゃん。つい……」
「つい? つい、何?」
「しゃ、喋ってるつもりというか、喋らなくても伝わるというか、その」
「伝わるわけがないだろ。喋ったって、美也の話は伝わりにくいのに」
 そうだけど、そうじゃない。喋らなくても、克っちゃんは解ってくれる。
 けれどそんなことを、言い合っている暇はございません。

「亮ちゃんごめん、ちょっとトイレに行きたいの」
「……そんなこと言って、美也はいつも逃げる」
 まるで、オオカミ少年になった気分だよ。いつも、こんな言い訳をして逃げるから、本当にトイレに行きたいときには、誰も信じてくれなくなる。
 けれど、もう二度と、トイレを言い訳に使わないと誓います。なのでどうか、信じてください。
「吐きそうなの、お願い!」
「厭だ。絶対に放さない」

 今、確信した。救いの神は存在する。貴方にもきっと。
 絶妙なタイミングで、珍しくノックもせずに、克っちゃんが私の部屋の扉を開けた。
「おい、帰宅早々……亮、美也を放せ」
「悪いんだけど、兄貴は黙っててよ」
「いいから放せ!」
 克っちゃんが怒鳴った。静かに怒りを発する人間が、声を荒げる事態を何と呼べば良いだろう。
 だから亮が手を放す。克っちゃんから発せられた、緊急事態を察知したのだと思う。
 それでも、これ以上のことを考えている余裕は無い。

「か克っちゃん、ごめんね、私」
「言い訳は後で聴く。だから早く行け」
 ということで、間一髪で間に合いました。これで母さんから、文句を言われずに済みそうです。
 しかし今回は、異常に嘔吐シーンが多いですよね。
 なんだか、蛙の怨念とか祟りなんて気がしてなりません。ゲロだけに。
 けれどこちらは、悪阻ではないことを、今、此処に誓います。

 何と言うか、パブロフの犬なんです。こう、生理学的な条件反射って言うの?
 梅干を見ると唾が出るのと一緒で、八年前の出来事を彷彿すると、吐き気が込み上げるんです。
 だけどこの間、七和に厭なトリビアを聴かされました。
 こういった反射行動は、ゴキブリにも起こるそうです。つまり私は、ゴキブリの仲間ってことですよね。あ、また吐き気が……

「美也、大丈夫?」
 トイレのドア越しに、心配気な亮の声が聴こえてくる。
 一応、二回ほど戻しましたが、そのおかげで、吐き気は綺麗さっぱり消えました。
 だから、仕上げにトイレットペーパーで鼻を咬み、深呼吸をした後、ドアを開ける。
 すると亮が、ペットボトルを差し出しながら、ボソと私に謝った。
「ごめん。気づいてあげれなくて……」
「ん? あ、ありがとう。それに、大丈夫だよ、間に合ったし!」
 そう。何時の世も、結果が全てだ。間に合ったのだから、それで良し、と。

 そこで漸く、安堵の微笑みを見せた亮は、背後を振り返り、克っちゃんにも謝罪する。
「兄貴もごめん。でも、ただの痴話喧嘩だから」
「痴話?」
「そう、痴話。美也の話は要領を得ないから」
 失敬な。これほどまでに、要点だけを伝えているというのに、その言い草はないだろう。
 けれど克っちゃんは、声なく鼻で一笑すると、どちらへの返答か解らない独り言を漏らす。
「要点だけ。だからだろ」
 失敬な。とは思いますが、流石に六年連続ナンバーワンにはなりなくないので、これ以後は無心の境地を貫くと誓います。ティアラは欲しいけど。

 しかしまた、随分あっさりと承認なさるんですね。
 痴話? なんて疑問符で聞き返したので、てっきり、お決まりの眉間筋が浮かび上がるかと思っておりましたが、杞憂でしたよ。
 けれどこれでもう、安心して、家内で痴話ることができるってもんですね。イチャっと。
 ということで、素晴らしい作り笑いを持って、克っちゃんを見た。
 すると私に釣られた克っちゃんもまた、美しい媚笑を返して寄越す。
 ところが、そんな克っちゃんの目を見て、身体中に鳥肌が立ちました。サブイボでも、粟肌でも、チキンスキンでも構いません。

『やれるもんならやってみろ?』

 間違いない。九十九パーセントの確立で、あの目はそう言っている。
 やってやろうじゃない。と、言い返してやりたいですが、怖くて言えそうにありません。
 というか、我が家は冷房要らずですね。七月だというのに、何この寒さ。
 も、もしかして、やっぱり蛙の祟りかも。言われた通り、三人の方に移さなかったから、不幸が舞い降りるとか何とかさ。うわ、絶対そうだ。そうに違いない。

「克っちゃん、亮ちゃん、私を助けると思って、ゲロって言うだゲロっ!」
「は? ゲロ?」
「ゲロって、美也お前……」

 よしっ。これで七和も含めて、三人ゲットだゲロ。
 蛙よ、もう私を祟るのは、ルール違反だゲロよ。ゲ〜ロゲロゲロゲロ!
 ん? やだな二人とも、何でそんな顔で私を見るかね……

「……ゲロ?」
← BACK

INDEXMAINNOVELBROSIS
Image by ©ふわふわ。り