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「隆ちゃん……」
闇が全ての音を拭い去る夜、小さなノックの音に、胸騒ぎを覚えてドアを開けた。
部屋からこぼれる明かりを浴びて、鼻の頭を赤く染め、すすり上げながら佇む君の姿が目に映る。
目をきつく閉じ、今すぐ君を引き寄せたくなる想いを殺す。
そして眉間に皺を寄せたまま、迷惑そうな声を出した。
「なんだよ、こんな時間に……」
俺の想いを君は知らない。知らないままでいい。
俺の抱く邪な気持ちは、墓場まで連れて行くと決めているから。
それでも心の奥底で、今も燻る惨めな想い。
俺が先に君を見つけた。
俺が先に、君に恋をしたんだ――
けれど恋に落ちる動機は、そんな順番など関係ない。
嫌な予感がしたんだ。
あいつがずっと探し続けている少女の特徴が、君とそっくりだったから……
嫌な予感がしたんだ。
二人が出逢ってしまったら、磁石のように惹かれ合い、離れることなどなくなると……
俺の予想通り、何も知らない君はあいつに恋をした。
ときどき喧嘩をしながらも、幸せそうに微笑む君を見るたび、複雑な想いに囚われた。
別れちまえばいい。
何度もそう願いながら、気持ちとは裏腹に仲裁役を買って出る俺。
けれど幾度に渡るそれは、ただの切なさと空しさだけを手元に残した。
なのに君はここに来る。
決して俺には与えてくれることのない、愛するが故の傷ついた感情を抱いて。
「おまえ、こんな時間にここに来るな。俺だって男だぞ?」
「隆ちゃんは、そんな人じゃないよ!」
何も知らない君は、真剣な顔で俺を庇う。
君の中で、既に確立された俺の地位が、今はどうしようもなく腹立たしい。
いっそこのまま君を抱いて、全てをぶち壊してしまおうか……
伸びた腕は君を捕らえ、強引に引き寄せ抱きしめた。
けれど身体を硬くしたまま、決して俺を受け入れない君。
だから俺は躍起になって、君のブラウスのボタンへと手を掛けた。
ただ呆然と、抵抗することすら忘れて佇む君。
ただ震えながら、ひとつずつ外されていくボタンを見下げる君。
君の素肌から俺の指先に、直に伝わる小さな震え。
苦しいんだ。気が狂うほど、君が愛しくて……
奪いたい。壊したい。
懸命に守ってきた平常心を失い、醜く歪んだ心。
けれどボタンが全て外されたとき、揺れる瞳が俺を見上げた。
その瞳を見た途端、蝕む心の中に、決して色褪せることのない君への想いが溢れ出す。
君を傷つけたいわけじゃない。
何よりも、君を失いたくないんだ――
「どうだ解っただろ、俺も男なんだぞ」
なけなしの理性を金繰り集めて、ボタンに手をかけたまま君に告げた。
未だ見開らかれた瞳で見上げる君を、安心させるようにそっと微笑む。
そしてまた、ひとつずつ君のブラウスのボタンを嵌めていく。
ようやく君の口から、安堵の溜息がこぼれ出て、張り詰めた空気に広がった。
君の中で確立された俺の地位を壊そうと、躍起になったはずなのに
結局その地位を失うことを恐れ、しがみついた俺。
「ごめんね。私、隆ちゃんに甘えすぎてた……」
しゃくりあげながら、必死で謝る君の頭を撫でて
「違う男に触れられてはじめて、あいつをどれだけ好きか思い知る」
そっとドアに促しながら、茶化すように君の瞳を覗き込む。
「ごめんね……だから、隆ちゃんが大好き……」
最後にそう囁いた君の姿が、暗闇に溶けていく。
愛しくてたまらない君は、愛しくてたまらない人の下へ去っていく。
謝るなよ。悪いのは君でもなく、あいつでもない。
想いを伝えることができなかった俺だから。
囁くなよ。君が思うほど、俺は強くない。
今にも駆け出して、「行くな」と君に伝えてしまいそうだから。
指先に残るボタンの感触を握り締め、壁に凭れ掛かりながら君を想う。
何よりも想うのは、何よりも願うのは、君の幸せ。
だから夢でいい。夢だけでいい。
夢は夢のまま、これからもずっと……