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◇◆ 飛ぶ鳥を落とせっ! 1 ◇◆
 あたし。佐倉恵美、今年で三十路。取り得? 何も無い。
 目を覆う長さの厚ぼったい前髪に、プリズム入りの分厚いダサ眼鏡。
 見せることもないからと、眉毛はゲジを超えてカモメと化し、口元には産毛も泣く無精髭保有。
 唯一自慢できるとすれば、出不精故の色白肌。それでも鼻周りには、無数のソバカス星屑が煌く、と。
 まぁ、つまり、名に反しちゃって、美に恵まれ無かった、自他ともに認める全日本モテない女選手権、堂々殿堂入り女である。

 自分のコンプレックスを挙げたら限りが無い。
 異様に太い足首に胴でしょ、垂れ下がった胸に尻に口角と、直ぐに出来る吹き出物?
 だから今、顔を洗うときでさえ鏡を覗かない。夜の電車も窓際に立たない。だって、見なければこれ以上は凹まずに済むじゃん。
 というより多分、成人した辺りで、自分自身に諦めが入ったと思う。
 それまでは、私は芋虫なんだ、サナギなんだと言い訳し、いつかきっと羽化すると思ってた。
 だけど何を遣らせても冴えないし、お洒落したところで輝かないし、結局さ、羽化しても蛾の幼虫は蝶にゃなれないってことだ。

 それでも、年老いた親の期待を背負っているんだよね。
 あんたを置いて死ねないだの、孫の顔を拝むまで死ねないだの、殺しても死なないような頑丈さを誇っているくせに、口を開けば死ぬ死ぬと脅かされるわけですよ。
 まぁ、確かに母親の言い分も解るっちゃ解る。
 私だっていい加減このままじゃいけないと思ってはいる。思うだけなら誰にでもできるし。
 だけどこのリアルな世界で、私のことを相手にしてくれるような奇特な男性は見当たらない。

 だから私は、思い余ってバーチャルな世界へ飛び込んだ。
 インターネットお見合いシステムとやらに登録し、出会いを探してみようかと。
 否、私だって、そういったサイトの危険性を知らない訳じゃない。
 でも、ちゃんとちゃんと吟味すれば、私に似合った男性が、普通なら会うことなく終わった男性が、何処かに居てくれるのではないかと思ったの。
「私だって命懸けの恋に憧れること、んがぁ有〜る、と」
 命懸けの意味が何か違うけど、それはそれだ。成せば成る。多分。

 そう考え始めたら、全てがプラス思考へ傾いて、何だか本当に上手く行く気がするから恐ろしいよね。
 だから入念にリサーチをして、先ず、サイト選びから始めた訳です。はい。
 そこで漸く、安心できそうなサイトを見つけ出し、散々迷った後、新規会員登録のボタンをクリックしちゃいました。
 凄いぞ私。遣ればできる子じゃん。否、もう『子』じゃないけどさ。
「恋の舞台に上がっても、脇役じゃ終われない。いや、終わらせまい……」

 ところが、クリックした後、まさかの溜息。
 会費制度のこのサイトでは、兎に角、事細かく自分の履歴や趣味などを記載せねばならないらしい。
「暗いだけが取り得なんですが、どうしたら……」
 自己PRするものが皆無な者にとってのそれは、卒業論文より難しいと思えるよ。
 さらに、任意ではあるけれど、自分の履歴に写真をアップロードしろと記載されている。
 当然だが、こんなものは却下だ。自分で自分を見てもキショイのに、どうしたら他人様へ見せられるんだっつうの。

 それでも頭を掻き毟りながら書き込んで、理想の相手の希望条件を選択記入し、漸く登録の完了。
 でも、条件なんて無い。というか、言える身分じゃ無い。
 だけど全ての選択項目にチェックをいれなきゃならないから、渋々といいつつ妥当以上の高条件をチェックした。
 身長は175cm以上で、学歴は大学以上で、車を保有してて……
 だってバーチャルだもん。現実では有り得ない男性とメールしたって罰は当たらないよね。
 私だってちょっとくらい、タイプの男前と文字の会話を楽しんだっていいよね。減るもんじゃないし。

「佐倉、未だ居たのか」
 突然、背後から掛けられた声に、思わず悲鳴を上げそうになった。
 会社のパソコンで、こんなことを遣っている自分がいけないのだけれど、背後から忍び寄るのは反則だと思う。
 それでもミラクルな早業でブラウザを落とし、振り向かなくても解るけれど、辞令的に振り向いて挨拶に勤しんだ。
「はい。すみません、今直ぐ消え去ります」
「いや、違う。そういう意味で言ったんじゃな」

 野田課長。否、名前は課長ではないだろうけれど、知らないから課長で。面倒臭いし。
 当然、我が営業部の課長であり、長身、独身、興味津々に女子社員から騒がれている男性でもある。
 でもはっきり言って、私は興味が無い。逆に相当苦手な範囲?
 否、というよりも、こういった男前はスルーが一番だと思うのよ。
 だって、私の統計学では、男前ほど性格が悪い。
 それが基本の王道であり、王道は横道に逸れちゃいかんだろ。
 だから課長の言葉など最後まで聞かず、さっさと帰り支度を始めましたとさ。

 が、この野田課長は、ちょっとどころじゃない曲者だ。
 課を纏めようと躍起になっていると言うか、食み出し者の私に偽善的な声を掛けたがると言うか、兎に角ウザイの。
「佐倉、お前食事は?」
「食べます。私でも」
「いや、だから、そういう意味じゃ…お、おい、ちょっと待っ」

 もういい加減、放っておいて欲しいよ。
 この人が課長に就任してからというもの、気が休まる時が無い。
 何時だって、「それじゃ佐倉も一緒に」とか、「佐倉が行かないなら俺も遠慮する」なんて、仲間の輪に加えようと必死になられるのが困るんだよ。
 だから当然、そそくさとロッカー室へ逃げ込んだわけで、ざまぁみろって感じなわけで……

 ところがだ、面倒だから制服のまま帰宅しようとバッグ片手にロッカー室から踏み出れば、何故か其処には未だ笑顔の野田課長。
「佐倉、一緒に食事をし」
 親切ぶるのは結構だけど、その火の粉を私に撒き散らすなっての。傍迷惑だっつうの。空気を読め。
 そこでこれまた、話など最後まで聞かずに、歩きながら遣り過ごす。
「心配には及びません。近所にコンビニ有りますから」
「そうじゃない! 俺は」
「では、お先に失礼します」
 運良くエレベーターが到着し、捨て台詞とともに閉めるのボタンを押しました。

「はぁ。マジで疲れる……」
 そう独り口を溢したものの、上司にここまで威圧的な態度を取れる私も凄いよね。
 だけど、厭なものは厭なんだから仕方がないんだ、これがまた。
 どう言ったら良いのか解らないけれど、あの爽やか具合に蕁麻疹が出ちゃうの。
 目尻に皺をちょっとだけ寄せてニコっと笑われると、身体中にゲジゲジが這いずり回る感じなの。
 人間、異次元の住人を目の当たりにすると、それに対応できないものだよね。

 そんなこんなで課長を巻き、漸く安堵の深い溜息を溢しながら帰路を急ぐ。
 サイトへ登録した後の結果が、気になって仕方が無い。
 だって、写真を掲載してないし、年齢的にはちょっとヤバめだけど、私のプロフィールに興味を抱いてくれる男性が居るかも知れないじゃん?
 否、居るよ。居るはずだよ。多分……

 浮き足立って改札を潜り、寒さが沁み始めた夜道を早足で歩く。
 途中、近所の弁当屋で海苔弁を買い、おばちゃんが余ったからと手作り豚汁をおまけしてくれた。
 なかなか良い日だと更にパワーアップしたスキップで部屋へ戻り、豚汁のプラカップを箸で掻き混ぜつつ、携帯でサイトを呼び出す。
 さらに、何故か妙に甘いチクワの天麩羅を頬張り、サイト内のメールボックスを確認すれば未読メール一件の表示。

『恵さんを、とても気に入っている男性がいらっしゃいます』

 はっきり言って、文頭一行だけで狼狽えた。
 そして、お相手のハンドルネールを回覧して退いた。否、仰け反ったが正解か。
「チャゲってお前……」
 夏、夏、常夏した顔が浮かび上がり、片側の口端だけが持ち上がっちゃったじゃないか。

 恵さんと言うのは、私のニックネームだ。
 何でなのかは知らないが、この業界ではニックネームをハンドルネームと呼ぶらしい。
 よくラジオでさ、噴出しそうになるネーミングってあるじゃない? ほら、恋するウサギちゃんとか、毎日がスペシャルさんとか。
 それと同じように、ウケを狙った芸人魂でハンドルネームを設定する人もいるのだろうけれど、正直言って、私にそんなネーミングセンスは無い。
 だから本名の一文字を使用したのだけれど、チャゲという男性は、どういうつもりで、こんなハンドルネームを付けたのだろう。
 至極失礼だけど、微妙なセンスの持ち主な気がする。こう、微妙な。

 いやいやそれよりも、このサイトは多数ではなく、一人ずつ男性を紹介してくれるらしい。
 その紹介された男性が気に入らなければ、チェンジ。そしてまたチェンジ、といった具合だね。
 システム的なことは詳しく解らないのだけれど、言うなれば早い者勝ちってことなんだな。
 そして私に宛がわれたこのチャゲさんは、写真こそ無いけれど、何故か素晴らしく理想にぴったりと当て嵌まる男性だった。
「え? 身長179? 年収700万以上? 33歳で都内のIT企業に勤務? マジでつか……」
 逃がした魚は大きかったと、後悔したくないお年頃。
 はい。食らい付きました。もう、ヨダレを垂らさんばかりに、承諾ボタンをクリックしましたとも。
 すると、ものの数分でチャゲさんからメールが届きました。

『恵さん、はじめまして^^』

 ニヤリ。何だか解らないけれど、気分はニヤリなの。
 恥ずかしいような、嬉しいような、何とも言えないニヤリ感が満載なの。
 だって考えてもみてよ。此処数年、野田課長以外の男性と話したことがないのよ、私。
 だから、見られているわけでもないのに、口の中に溢れるチクワを呑み込みました。
 序に髪を耳に掛けて、箸も置いちゃいました。こう、テヘって感じで。

『はじめまして。メールをありがとうございました(*^^*)』

 こうして始まった、私とチャゲさんのメール合戦。
 けれど直ぐに、私たちの名称は互いに本名へと移り変わる。

『実は僕、飛鳥という名前なんです。それでチャゲにしたのですがσ(^_^;)』
『そうだったんですか^^ 私はエミなんです。恵美と書きます。安易なHNですよね(笑)』

 さらに、意外にも互いが近場に住んでいることを知った。
 まぁ、希望条件に同県を選択したのだから、当たり前といったら当たり前なのだけれど、通常では出会うことの無い男性と、こうして出会えた奇蹟に感謝する。

 彼は三人兄弟の長男で、弟達は既に結婚しているのに、跡取りの彼だけ結婚していないことに両親の方が焦っているらしい。
 その気持ちは痛いほど解る。だから、厭な期待を背負った者同士、親愚痴込みの方向で、遣り取りが夜更けまで続く。
 そんな関係は幾日にも渡り、遂に私は、Wii fitを購入した。
 だって飛鳥さんがジムに通ってるって言うんだもん。ちょっと触発されちゃったんだもん。
 それほどまでに、彼の存在が大きくなっている今日この頃だったりするのです。えぇ。

 何だか毎日が薔薇色なの。いつもの景色も何もかも、ほんのり頬を染めているような色合いなの。
 それは全部、飛鳥さんのお蔭。
 真剣な話に不真面目な話。洒落の利いたユーモアにと、飛鳥さんの文字に心が揺れる。
 自分で気がつかない凹み加減を、飛鳥さんは文字から悟ってくれる。
 そして穏やかに問い、的確なアドバイスをくれ、柔らかく嗜めるんだ。

『話してごらん。受け止められる自信があるから――』

 安らぎとゆったり感を乗せて、私たちのメールは何処までも続く。
 タイムカードを押す自分が、鼻歌交じりでいることにも気づかないまま。
「あ、な、た、との出逢いの日を、さ、か、い、にしてっ」
「最近愉しげだな。何か良いことが遭ったのか?」
 そんな私に水を差す、野田課長の戯言は、聴こえなかったフリで華麗に無視を決め込もう。
「タ、イ、ム〜 カードを〜 押、す、た〜びにぃ」
「佐倉、一緒にカラオ」
「好きな〜歌違う〜。心帰る場所はひとつ〜 いつものマイ、スイースイーホ〜ム」
「お、おい佐倉、待っ」

 足首が締まるとトイレの噂で小耳に挟み、ちょっと踵高めのヒールを買った。
 足首と言うより、弁慶の泣き所に効くって感じなんですが、まぁよかろう。プラスだプラス。
 猫背だと益々前につんのめりそうになるから、必然的に背筋が伸びるし、メディキュットを穿いてるから、浮腫みも大分緩和されたしね。

 だけどそうやって、視線を上げた世界を見ると、随分違うものだ。
 ヒールと背筋の分だけ背が高くなったことが大きいけれど、それだけじゃなくて、夜なのにカラーなの。モノクロじゃなくて色が点いてるの。
 だから足取りも軽やかで、またまた飛び出すマリヤ節。
「冷蔵庫の中で、ふんふふん。腐りかけた愛を、ふんふふん」
「凍りかけた、だ。腐ったものは温め直せないだろ?」
 この声は課長だよ、また課長。あ、違った。またじゃなくて、野田だった。野田課長。

 ずり下がった分厚い眼鏡をきりりと正すものの、その一声で丸まる背中。
 矢張りこの男は侮れない。何て神出鬼没なんだ。まさか、本気でカラオケに行く気じゃないよね?
 そこで拒絶オーラを出し捲り、目を合わすことなく問い掛ける。
「何か落としましたか、私」
「頼むから、最後まで喋らせろよ」
「落としてないのなら、これで」
「佐倉、こっちを見ろ」
 それは上司命令ですか? ですが今はもう、私的なタイムですよね? 職権濫用じゃん。

 だけど流石に、ここまで言われて無視はできない部下の悲しい定めかな。
 でも見上げる前に、大きな大きな溜息を心行くまで吐き出すことは忘れません。
「はぁ〜。何でしょう?」
 それでも相手は、溜息の意図を気にすることなく、言いたいことだけ言い出します。
「話があるんだ……」
 み、見上げなければ良かった。目なんか合わせなければ良かった。
 何、この顔。何なの、この表情。
 全世界の不幸を背負っちゃったみたいな苦悩顔で、何で私を見つめるの?

 確かに今の今まで、上司的な扱いをしてこなかったよ。ごめんね、謝る。
 だけど人にはそれぞれ、得て不得手というものがあってだね、課長と私は不得手な間柄なのだよ。どうかどうか解ってくれ。
「私は無いです」
「俺は有る。兎に角、もっと落ち着いた場所で」
「いえ、どう考えても私には無いです」
「だから、何でそうやって俺を避けるんだ」
「苦手だからですっ」
 言っちゃった。言っちゃったよ言っちゃった。物の見事にざっくりと。
 そして、言っちゃったものは取り返しがつきません。どう足掻いても。

 この世の全てから逃れるように、俯きダッシュで走り出す。
 課長は未だ、呆気に取られ、その場に佇んでいると思う。だってきっと、不快感を持たれたことなんて、あの男の人生には一度もなかったはずだから。
 自分でも、どうしてなのか解らない。ただただ苦手なのだとしか解らないの。
 直視どころか、チラ見をすることも憚るし、声を聴くだけでも身体が痒くなるし、触れられたら発狂すると思う。絶対。

 全く自分が情けないよ。普通にすら成れない。
 こんなときは、飛鳥さんに癒してもらおう。飛鳥さんならきっと、良い助言をくれるはずだ。
 そこまで考えて、走ることを止めた。
 大丈夫。私には飛鳥さんが居る。優しくて、頼りになる、大好きな飛鳥さんがいる。
 ところが、私の想いに反して、今日の飛鳥さんは何か様子がおかしかった……

 その日の夜、彼が突然切り出した。
『恵美の誕生日に、連れて行きたいところがある。逢える?』
 一瞬、私の時が止まる。ドクンって大きく一発、心臓が鐘を打った。
 そりゃあ私だって逢ってみたい。でも逢うのが怖い。
 逢って嫌われちゃったらどうしよう。否、ちゃったらじゃ無い。嫌われるに決まってる。
 折角、憂鬱だった毎日が、飛鳥さんのメールで鮮やかに彩られ始めたのに、逢って嫌われて、この毎日が無くなってしまうのが怖いんだ。
 だからこの誘いを回避したのだけれど、彼の方が何枚も上手でした……

『恵美? 自己改革でしょ?』

 そうだった。そうでした。
 タイムカードを押しに行くだけの毎日から脱却し、顔を上げて歩くんだと、毎晩のように飛鳥さんへ話しているんだった。
 今のままでも悪いことは起こらない。だけど、良いことも起こらない。
 虫だってヒヨコだって、纏った殻を破るのは、誰かじゃなく自分なんだ。
 そう教えてくれたのは飛鳥さんで、今まで誰に言われても耳を貸さなかったのに、今度は頑張り通してみようって思ったんだ。

 私の誕生日まで、あと一ヶ月。
 少しでいい。少しだけでも綺麗になりたい。せめて嫌われない程度まで――
 そう想い始めたら止まらないのが、この私。
 とにかく暇さえあれば、美容クチコミサイトを閲覧し、優秀と噂高い美容関連グッズを買い漁る。
 基礎化粧品から美顔器。ゲルマニウム入りのコロコロローラーに、あれにこれに。
 気休めでも構わない。でも遣ることだけは遣りたいんだ。後悔する前に遣りたいんだ。

 さらに、眼鏡屋さんへ訪れたものの、極度の乱視な私は、コンタクトレンズ不適合者だと判明。
 しかも、どんなフレームに変えたところで、分厚く、そして目が小さく見えちゃうオマケ付き。
 だから渋々諦めて、このダサ眼鏡のままなのだけれど、眼鏡を掛けていたら、フレームが邪魔で眉毛の手入れが出来ません。
 ということで、これまた有名理容室にて眉カット。序に産毛もシェービングしていただきました。
 仕上がりは、眼鏡が無いから定かじゃないけど、ビフォーより悪くなっていることは無い。はず。

 そんなこんなで、遂にやってきました三十路の日。
 昼過ぎの面会までに、済ませねばならない要件がごまんとある。
 だから朝も早くから部屋を飛び出し、変なカッパを着せられて、ぼやけた鏡の中の自分に呟いた。
「今日だけ。今日だけ見られるようになれ、あたし……」
 すると、私の背後に佇むお兄さんが、私の髪を弄りながら目を丸めて聞き返す。
「はい?」
 この際、恰好つけても始まらない。直球だ。直球で私は勝負する。
「勝負なんです。今日が人生最大の。こう、山場?」
「な、なるほど。それは勝負だ。解りました。なら俺も勝負します!」

 お兄さんが何に勝負するのか解らないが、美容師運命を賭けた一戦の如く、そりゃもう真剣な面持ちで私の髪を切り始めた。
 視界不透明なため、どんな按配なのかも解らないが、私の命運はお兄さんに預けよう。
「えっと、佐倉さん、どう? ダメ?」
 ドライヤーを掛け終え、ペトペトする物体を髪に擦り付けられた後、大きな手鏡を手にしながらお兄さんが告げた。
 だけど私には、髪の色がいつもより明るいとしか解らない。
「見えません。が、これで勝負する」
「な、なんかカッコイイ。よし、俺も参戦する。メイクさせてよ!」
 なんて良いお兄さんだ。君と出会えたことを神に感謝するよ。髪だけに。

 未だカッパを着たまま、今度は刷毛が私の顔を滑り続ける。
 ビューラーで睫毛をカールさせるとき、瞼のお肉も一緒に挟まれちゃったけど、化粧を施してくれること自体、善意の行為なのだから痛がるまい。
「できた、会心の一撃完成! どうせ見えないって言うんだから、このまま行け!」
「あんた、ほんとにいい人だ。このご恩は必ず返す」
「頑張れ、恵美ちゃん」
「おう!」

 そうやって、意気込んで美容院を後にしたものの、いざ時間になると竦みはじめる奇妙な脚。
 眼鏡は朝から外している。だから人混みも不鮮明で、いつもみたいに怖くない。
 それでも何やら、擦れ違う人々の痛い視線を感じるんだよ。本能がさ。
 きっと、無理しちゃって! なんて思われてるに違いないよね。自分でもそう思うし。
 しかも此処は有楽町。ちょっと歩けば銀座だよ、銀座。
 思い切り場違いだよ。渋谷や原宿も場違いだと思うけどさ、こんな処は私の来る街じゃないと思わずにはいられないんだよね。

 だけど脚は、一歩一歩と待ち合わせ場所に近づいて、この日のために買った、履き慣れないフリンジブーツがゆらゆら揺れる。
 ケイトモスが履いているからって、これを履けば、私もケイトモスに変身できるわけじゃない。
 梨花ちゃんが着ているからって、これを着れば、私が梨花ちゃんに成れるわけでもない。
 でも、どんなものが自分に似合うのかが解らないんだから、彼女たちを手本にするしか道はないじゃん。だよね、だよね?

 あれやこれやと自分に言い訳しながら、到頭、銀座四丁目の交差点へ躍り出た。
 半円形のコーヒーショップと、老舗百貨店が連なるスクランブル。
 これを渡れば、飛鳥さんが待っている……
「や、やっぱり、無理っ」
 ざわめく人混みが恐怖心を煽り、誰も彼もが私を笑っているような気さえした。
 だからこの場から逃げ出そうと独り言を吐き出したところで、握り締めていた携帯電話が振動する。

『そのまま後ろを振り向いて。そこに僕が居る』

 頭の中が真っ白だ。だから、何故私が解ったのかなんて疑惑も白く塗り潰されていた。
 振り向いたら飛鳥さんが居る。このまま前に走ろうか、振り向こうか、自由だ〜!
 否、そんな冗談を考えている場合じゃなくて、どっちにするの、私?
 答えは簡単。飛鳥さんは、この人混みの中、ちゃんと私を見つけてくれた。だから私も飛鳥さんを見つけよう。逢いたくて逢いたくて堪らなかった、飛鳥さんを見つけよう。

 鼻で大きく息を吸い込み、勢いよく振り向いた。
 時間差で付いてきた髪が、頬にさわさわと当たる。
 そして目の前に、多分微笑んでくれているだろう飛鳥さんが居た――

   
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