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◇◆ 飛ぶ鳥を落とせっ! 2 ◇◆
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「ずっと前ぇから、あたし。彼と出会う運命、だぁった」
何時か聴いた、ラジオネーム毎日がスペシャルさん、あの時は吹き出してしまってごめん。 今、私は貴女の気持ちが、苦しいほど解ります。猛烈に。 「あ〜ぃむいん、ラヴィズゆ〜!」 色・色々、ホワイトハッピーです私。人生最大の色ボケしちゃってます私。 トイレの個室で、便座に腰掛けながら語ることではないのだけれど、何時でも何処でも、飛鳥さんのことが頭から離れないので許してください。 トイレットペーパーをガラガラと引き出しながらも、思い出しニヤケが飛び出すんです。否もう本当に。 そう。それは、初めて出逢ったあの日から始まりました―― 振り向いた先に佇む男性は、緩やかな秋風でもさらさらと靡く鳶色の髪の毛で、見上げるほど長身で、変わった眼鏡を掛けていらっしゃる方でした。 「恵美、今逃げようとしたでしょ?」 戯けた口調で囁く、穏やかな音調。 何処かで聴いたことのある声質だけれど、男性は皆似たようなものですよね。 「あ、や、えっと、あ! はじめまして……」 「え? はじめまして?」 というか、はじめましてのご挨拶が、何故か疑問符なのは何処か変だ。 けれどそれは、舞い上がった私の幻聴だと片付けよう。 現に、こんなサラサラヘアーの眼鏡紳士になど、一度も出逢ったことなどないのだから。 恵美、恵美、恵美。 名を呼ばれるだけでもドキドキするのに、呼び捨てなんてされたら、更に浮き足立っちゃうよ。 だから眼鏡を掛けてこなくて、本当によかったと思う。 だって、ぼやけている方が未だ増しじゃん。クリアに見えちゃったら、心臓が破裂しちゃうもん。 それなのに飛鳥さんが、屈みこみながら私の顔を覗き込む。 「恵美、ちゃんと見えてる?」 見えなくていい。見えない方がいい。そう言ったら失礼だから言えないけど。 「そ、その、眼鏡を忘れちゃって……」 忘れたのではなく、故意的、意図的なんですが、お願い、つっこまないで。 それより、そんなに近くまで顔を寄せないで。頬が熱くて堪らないから。 そこで思わず顔を横に背ければ、漸く飛鳥さんが顔を離し、気を取り直したように話を展開させる。 「そ、そうなんだ。ごめんね、電車の移動を選んじゃった」 飛鳥さんが謝ることなど何も無い。だから咄嗟に言い返し、引き攣る笑いを向けた。 「いえ、ぜ、全然! 大丈夫です」 些か疑問の残るご挨拶を終え、飛鳥さんのリードの元、名店と名高い銀座の百貨店内に入り込む。 よく解らないのだけれど、未だ少し時間があるらしい。 「エスカレーター、気をつけて?」 「あ、はい」 相変わらず顔は上げられないけれど、飛鳥さんの言葉には即答した。 だけど、ぼやけた視界の動く乗り物は恐怖に近い。 恐怖を抱えながら進むから、当然よろけちゃうわけで、人間て精神的に脆いよね。 けれど今日は、いつもと違う。私の肘に、そっと飛鳥さんの手が伸びる。 「ほら危ない。大丈夫?」 飛鳥さんに触れられた肘が熱い。 長袖の洋服だから直に触れられたわけじゃないのに、鼻息が荒くなっちゃうの。 どうしよう。早くも、高血圧でぶっ倒れそうだよ、私。 「恵美? 聴いてた?」 けれど、穏やかにそう問われ、高血圧が一気に低血圧まで下りきる。 やばい。テンパッちゃって、何一つ聴いてなかった。 拙い。何て答えたらいいの。聞いていたと嘘を吐く? それとも正直に告げる? そんなことを考える必要もなく、飛鳥さんは全てを解っていたらしい。 だから私の返答を待たず、忍び笑いを漏らしながら、同じであろう台詞をもう一度告げてくれた。 「恵美の誕生日に、何を買おうか迷っちゃったって話だよ」 そこではたと思い出す。そうだよそうだ、今日は私の誕生日じゃん。しかも三十路の。 「いや、いいんです。そんな、め、めでたいものじゃないし」 齷齪と両手を動かし、好意の辞退を強調するものの、又もや私の肘に手を添えて、飛鳥さんが優しいトーンで囁いた。 「だから恵美、危ないって」 甘い匂いの立ち込める、地下一階へ二人降り立ち、混雑する店内をゆったりと歩く。 飛鳥さんはそこで、明らかにチョコレート屋さんであろうテナントにて、小さな紙袋を受け取った。 そして、さらに訳の解らぬ言葉を繋ぐ。 「これは、後でのお楽しみ」 それから、ぐるりと一周店内を散策し、テレビの中でしか見たことのない、スイーツの数々を眺め見た。 「あ、これ、もっとイマドキ! で、紹介してた!」 何を言い出すんだ、自分。咄嗟に出ちゃった田舎者丸出し発言に、多大なる赤面をしたけれど、そんな私を覗き込みながら、至極嬉しそうに飛鳥さんが告げる。 「恵美も、目覚まし派なんだ」 目覚まし派。そう言えば会社で、そんな話題を耳にしたことがある。 朝の情報番組は、ズームイン派と目覚まし派に真っ二つだとか、なんだとか…… ちなみに私は、飛鳥さんの言う通りの目覚まし派だ。大塚さんの優しい笑顔が好きなんです。 そして飛鳥さんも、この接続詞からして、目覚まし派に違い無い。 「あ、飛鳥さんも、目覚まし派なんですか?」 「うん。大塚さんを見ると、何だかホッとするから」 そんな他愛もない会話を弾ませながら、またまた恐怖のエスカレーターに乗り上げた。 恐怖は恐怖でも、肘に触れられることによる、心臓破裂の恐怖だけど。 そこからまた通りに出て、何度か角を曲がり、ホテル裏にひっそりと佇む料亭の暖簾を潜る。 お昼から懐石です。しかも銀座の個室なんですが、瞬きをする度、目が料金を刻んで行くのは貧乏人の証拠でしょうか。 さらに、この食器。割ったり欠けたりしたら、とんでもないことになりそうで怖いです。 もう鮪がルビーに見えます。味なんか解りません。というか、飛鳥さんの前で口を開くことが既に恥ずかしいのに、ゆっくり味わうなんて出来るわけがないでしょう? 「お気に召さなかった、かな?」 食の進まない私に、戸惑いを隠せない様子で飛鳥さんが問う。 「いい、い、いえ、そそ、そんなことは決して」 今の気持ちを言葉にするとすれば、こう、ピギャって感じ。 顔文字で言うと、目がバツ印のやつ。あ、不等号の連続でも可。 どうしよう。折角飛鳥さんが連れてきてくれたのに、緊張しすぎて何も喉を通らないよ。 私、財布にいくら入ってたっけ? こういう処ってクレカも使えるの? 誰か教えて! けれど飛鳥さんが、全てを見越したように、小さく小さく囁いた。 「エミの誕生日だから奮発したけど、実は僕も敷居が高過ぎて、ちょっと辛い」 そこで漸く顔を上げ、ぼやけた飛鳥さんの顔を見つめた。 良い人だ。本当にこの人は、善人の塊みたいな人だ。小心者の私に話を合わせてくれて、尚且つ、自分を卑下できちゃうところが恰好良過ぎでしょ。 だけど何やら、見つめた先の顔に見覚えがあるような。 いやいや、そんな筈は無い。こんな眼鏡を掛けた、こんな男前と私が知り合うはずがないのだから。 それからは、瞬く間に時が進む。 思い切って顔を上げた瞬間から緊張が解れ、暗闇が迫る頃には、飛鳥さんの隣に、居心地の良さを覚えるほどになっていた。 けれど裏を返せば、早過ぎる別れの時が、否応無く近づいているってことだ。 こんなに楽しい休日を過ごしたのは、何年ぶりだろう。 否、何年じゃないかも。人生初めてでも大袈裟じゃないよね、きっと。 最高の誕生日だった。飛鳥さんと会えたことが、何よりも最高のプレゼントだと思う。 それなのに、もっと最高な気分にさせてくれる言葉を、飛鳥さんが放ってくれた。 「また会える?」 それは願っても無い言葉だった。否、この一ヶ月、願い続けた言葉だった。 何だか解らないけど、合格のハンコをドンと貰った気分だよ。 頑張ったよね、私。こんな言葉を貰えるんだから、努力は無駄じゃなかったよね、私。 だから泣き出しそうになって、手の甲で鼻と口を覆い隠した。 「恵美? どうし……」 「会えます! 勿論、いつでも、いつだって会えちゃいます!」 困惑する飛鳥さんの言葉を遮り、喚くように言い返した。 我ながら可笑しな返答だと思うけれど、これ以上は無理だ。 それでも飛鳥さんは、私の頬にそっと手を当て、莫迦にすることなく最後の言葉を囁いてくれた。 「なら、また来週の土曜に、恵美を予約させて――」 くはっ。いやん。もう、超たまんない。 アパートの階段を上るのもツーステップだし、玄関の鍵を閉めた後は、思う存分ニヤケ捲りだし、現金すぎるほど現金な女だよね。 さらに別れ際、飛鳥さんが手渡してくれた例の紙袋を開けて、メロメロモードがバリバリドキュン。 「やだ、これってもしかして……」 そう。飛鳥さんが老舗店舗で受け取っていたチョコレートは、オリジナルチョコだったの。 今まで、メールの遣り取りにて私が送った、くだらない空とか風景とか雑貨などの写真が、プリントされたチョコだったの。 『飛鳥さん! チョコが写真!』 プレゼントしてくれた張本人なんだから、そんなことは重々承知なはずの飛鳥さんへ、感動を上手く表現できない私は、有りの儘を文字にして送る。 だけど飛鳥さんは、そんな私をちゃんと解ってくれるんだ。 『喜んでもらえて良かった^^』 言葉の裏の想いを掬ってくれるから、こんな私でもメールが出来る。 そして、こんな私でも、また会いたいって、予約したいって、言ってくれる飛鳥さんが、ちゃんと会ったことで、バーチャルな世界から実像化されて、私の中で膨らんで行く。 メールをしながらも、飛鳥さんのアンダーリム眼鏡がぽわんと浮かび、電話しながらも、飛鳥さんのサラサラ髪がはらっと風に靡いて見えるの。 これはもう、かなり重症な恋の始まりかも。 こうして、予約されちゃった二度目のデートは、自宅前で待ち合わせ。 布じゃなくて、皮のシートが貼られた車で、飛鳥さんが迎えにくるの。 「また眼鏡を忘れちゃったの?」 その悪戯めいた囁き方から、多分飛鳥さんは、故意で忘れていると悟ってる。 でも私は、それに気付かないフリをして、頬を染める作業に勤しんだ。 「あ、はい、えっと、その、また忘れちゃって……」 秋だけど、ちょっと暖かい土曜日。 高速に乗って、山を潜り抜ければ、潮の匂いが車の中までやってくる。 暖かい日差しが照らしているけれど、海風はやっぱり冷たくて、ブランケットで身体を包み、ラブソファーばりの流木に腰を下ろす。 途中で買ったコーヒーを飲んで、訳もなく二人で海を見つめて、取りとめのない会話は何時間も続く。 「恵美、鼻の頭が真っ赤」 くすりと笑いながら、飛鳥さんの指が私の鼻にちょこんと触れた。 「や、み、見ないで」 恥ずかしさの余り、ブランケットで鼻まで覆うけれど、風で乱れた私の髪を、さわさわと弄る飛鳥さんの指で、鼻どころじゃなく顔全部が熱いよ。 だから少し俯いて、タンブラーに目を落とす。すると飛鳥さんの唇が私の額にそっと触れた。 今、顔を上げたらどうなっちゃうんだろ? 唇にキスしてくれるかな? 否、そんな図々しい考えは捨てなくちゃ。偶々だっただけだ。偶然額に触れちゃっただけ。 でも、もしかして、もしかしたら、私と同じくキスしたいって思ってくれているかも。 それに、ただ顔を上げたからって、キスの催促だとは決まってないし…… そうやって、あれやこれやと考え過ぎて、なかなか顔が上げられない。 そんな私に痺れを切らした飛鳥さんが、そっと私の顎に手を当て、そして持ち上げた。 「チュ…ッ」 今、ドキューンって音が聴こえたよね? 誰かが何処かで銃を発砲したよね? いやいやそれより、私はちゃんと目を瞑った? 唇がだらしなく半開きになってない? 「恵美、真っ赤。ヤバイ、ストライク入った……」 そりゃそうだよ、だって飛鳥さんとキスしたんだよ。真っ赤になっちゃって当然だ。 でも、ストライクとヤバイの意味が解らないけど。 「ヤ、ヤバイ? ス、ストライクって?」 だから、ぼそぼそと蚊の鳴く声で呟けば、飛鳥さんが小さく笑う。 「恵美がめちゃくちゃ可愛いって意味」 間近に掛かる息は、大好きなコーヒーの香り。 思い切りそれを吸い込んで、今度はちゃんと目を閉じた。 優しいキスは顔中に降り注がれ、肩を抱かれ、引き寄せられ、二人ブランケットに包まった。 拙い、拙いよ私。何だかもう、マリヤモード一直線だ。 歌の中の二人みたいに、蕩けるアルトボイスに浸っちゃってるよ。 それでも、こんな恋は初めてだから、恋に酔ってる私を多めに見てください…… 帰りの車の中は、ずっと手を繋ぎっぱなしで、掌が異様に汗ばむ。 カーステから流れる大好きな音楽でも、胸の高鳴りを消してくれそうにないとさえ思うんだ。 そのくせ、陽気な春頭は、つい、曲に合わせて言葉を吐き出しちゃうから恥ずかしい。 「ナイスなバディじゃ、なくてもね〜」 穴があったら入りたい。けれど何事も聞き逃さない飛鳥さんは、曲に合わせたツッコミを入れる。 「今日は、スペシャルデーになった?」 イエス、アイドゥー。しかも、ベリーベリーなスペシャルデーだ。 だけど、もっとベリーな気分にさせてくれる言葉を、飛鳥さんが放ってくれた。 「来週の土曜も会える?」 イエス、アイドゥー! って答えた、三度目のデートは水族館。 前の週に出掛けた海で、魚の話をしたのが切っ掛けだ。 飛鳥さんはいつも、私の言葉を聞き逃さない。ぽろっと口に出しちゃった他愛もない言葉を覚えていてくれて、そこに私を連れ出してくれるの。 薄暗い館内を手を繋ぎながら歩き、童心に戻って笑顔が増える。 四度目のデートは紅葉ドライブ。 真っ赤に染まった木々たちを遊覧船から眺めた後、今度は徒歩で散策するの。 ひらひら舞う落ち葉を、どちらが早くキャッチできるかなんて競争して、予測不能な動きをする落ち葉に悪戦苦闘の大笑い。 奇蹟に近い確立でキャッチした落ち葉を持ち帰り、大好きな本に挟んで押し葉にした。 五度目のデートは…… 「ねぇ聞いて! 土曜に野田課長を見かけたんだけどさ、超綺麗な人と一緒だった。ムカツクほどお似合いでさ!」 突如響き渡る声に、妄想の世界からトイレの中に戻る。 「あぁ、やっぱね。ユキが振られたらしいよ。何でも心に決めた人がいるとかでさ?」 この声は多分、我が営業部のヒヨコちゃんたちだ。 入社年数三年未満の女の子。まだピチピチの二十代前半で、毎日が合コンな女の子たちなの。 「あ、それ知ってる! 結婚するんでしょ?」 結婚。その言葉に胸が締め付けられた。 否、野田課長の結婚なんてどうでもよくて、勝手にやってくれって感じなんだけど、胸が苦しいのは自分の結婚の方だ。 どんなに好きでも、私と飛鳥さんの結婚など有り得ない。 だって彼女達の言う通り、美男には美女が似合うのであって、美女と野獣とは聴くけれど、美男と野獣は可笑しいだろ。 そもそも、毎土曜に飛鳥さんとデートをしているけれど、好きだなどと言われたことが無い。 デートの時間が日曜に跨ることはあっても、一緒の朝を迎えたことも無い。 日曜の飛鳥さんが、何をしているのかなんて解らないし、日曜どころか平日の飛鳥さんが、毎晩遅くに帰宅することしか知らないでいる。 「そう言えば、瑠奈が遊ばれちゃってさぁ!」 「うそ、誰に? まぁ、言っちゃ悪いけど、遊ばれそうなタイプだよね」 遊び。さらにその言葉は胸の奥深くに突き刺さる。 否、ルナさんとやらが遊ばれちゃったのは、ご愁傷様であり残念に思うけれど、胸に突き刺さったのは、遊ばれちゃうタイプの節だ。 どういう人間が、遊ばれちゃうタイプに属するのだろう。 多分きっと、私のような女だ。恋愛音痴で何も知らず、ちょっとのことでときめいて、勝手に誤解して盛り上がっちゃうような女ね。 だとしたら、今までのデートも全部全部、私の勝手な誤解で、飛鳥さんは楽しいとなど思っていないかも知れない。 私の想いが強過ぎて、気の毒だと、可哀想だと、同情してくれているのかも知れない。 そう思い始めたら、自分の色ボケ加減が、矢鱈と虚しくなってきた。 だから、音も無く個室から出でて、ふらふらと手洗い場へ歩む。 「う、うわっ、さ、佐倉さんかよ」 「はい、すみません。私です」 「い、いや、ちょっと驚いただけで、そんな謝っていただくことは何も……」 ヒヨコちゃんが、何やら恐縮気味に話しているけれど、私の耳には届かない。 制服のポケットからハンカチを取り出し、黙礼を済ませてトイレの扉をパタンと閉めた。 「佐倉さんて、マジで不気味だよね……」 「でもさ、肌だけは綺麗だよね。あれ、すっぴんでしょ」 「あぁ。それだけは私も認める。あれは三十路女の肌じゃないよね」 「宝の持ち腐れ? ぷぷっ」 扉の前で、何気に聴こえたその後の会話。 き、綺麗なのか私の肌。思わず引き返して、本当なのかと胸倉揺さぶって確かめたかったけれど、気持ち的にそれどころじゃないから止めた。 トイレを出てからはもう、周りの音など何一つ聴こえなくなって、悶々と悩んでは溜息を吐く。 「佐倉、何か遭ったのか?」 だから野田課長の言葉など、当然耳に入らなくて、珍しく素で無視したらしい。 そして、帰宅してからもこの想いは続き、飛鳥さんへの返事も返せないでいた。 『恵美? どうしたの? 何か遭った?』 今話したら、行き先も宛先もないヤキモチで、飛鳥さんを問い詰めちゃいそうだから。 どうして? 何で? 本当に? って、質問攻めしちゃいそうだから。 その週はずっと、独り善がりの悩みを抱え、食事も喉を通らないで居た。 いつも以上に野田課長がしつこいけれど、この人に、ちょっと相談してみようかなんて思った自分が、最も情けない。 「佐倉、顔が真っ青だぞ。送って行くから着替え」 「青くなんて無いです。蛍光灯を換えれば直ります」 「そんな訳無いだろ。もういい加減」 「大丈夫です! これから家に帰ってヨガを……」 「え、恵美っ!」 何でかな。課長と話していたはずなのに、記憶の最後に聴こえた声は飛鳥さんの声で、こんな幻聴が聴こえる程、私は思い詰めていたわけで…… つっぷり途切れた記憶と、長く可笑しな夢の狭間で、独り芝居に明け暮れるんだ。 「アス、カ…さん……」 『ん?』 「好きです…すごく、好きです……」 『やっと言ってくれたね』 はい、言いました。一世一代の大告白ができた私を褒めてください。夢の中でだけど。 そして、こんな夢に付き合ってくださり、嬉しそうに微笑んでくださり、飛鳥さん有難う。 だから、飛鳥さんの笑った顔が、野田課長に似ているなんて思っちゃった私を許してください―― ぼやけていても、見知らぬ場所だと雰囲気で解るのですが。 しかも何やら、美味しそうな香りが立ち込めているから、ぐるぐるとお腹が鳴っちゃいましたよ。 「恵美? 起きたの?」 待て。待て待て。何故此処に飛鳥さんが居るの? 否、いやいや、そうじゃなく、何故私は此処に居て、此処は何処で、えっと…… 「栄養失調による貧血だって。無理なダイエットでもしたの? そんなに細いのに」 細い? 飛鳥さん、あなたはやっぱり良い人だ。乙女心を解っていらっしゃる。 いやいや、そんなことに感心している場合じゃなくて、現状説明をして貰わねば。 だから飛鳥さんの問いには答えず、最もらしい経緯を自ら述べる。 「も、もしかして、野田課長が飛鳥さんに連絡を?」 「え? あ、あぁ、そ、そんな感じかな」 なんか微妙。でもいいや。そんな感じなら、そんな感じなんだ。多分。 「やっぱり。あの人、お節介焼きなんです。本当にすみません……」 そこで、ちょっと嫌味交じりの責任転嫁謝罪を呟けば、何故か飛鳥さんの声色が変わる。 「あ? や、そ、そうなの?」 あ? って、ちょっと柄が悪くない? 飛鳥さんって実は昔、不良だったとか…… でもいいや。昔悪いことしていたとしても、今が真面目ならそれで。きっと。 「はい。課を纏めようと躍起になっているから、食み出し者の私に声を掛けたがるんです」 重たい前髪を掻き上げながら、にこやかに事実を告げたものの、今度もまた、何故かそっぽを向いた飛鳥さんが、辛辣な反論をボソと溢す。 「そういうつもりじゃ無いと思うけどね……」 「え?」 「いや、こっちの話。それより、僕の見ているところで、これを食べてもらうから」 そう言いながら飛鳥さんが運んできたのは、大皿てんこ盛りな、蟹のトマトソースパスタ。 目覚めを促した良い香りは、これだったのかと納得し、ゴクンと唾を飲んだ。 「飛鳥さんが作ったの?」 「当然。自炊のキャリアも長いからね」 私の問いに、ちょっと照れ臭そうに笑いながら、飛鳥さんが私へカトラリーを差し出した。 不良でもいい。料理が上手ければオールオッケーだよ。これは断言。 「いただきます」 カトラリーを受け取って、一礼してから一口食べれば、濃厚な蟹の味と、酸っぱいトマト味が口の中いっぱいに広がって行く。 「あ、美味しい!」 「ほんと? 良かった。じゃ、沢山食べて」 この味なら、沢山どころか、全部平らげそうなんですが、そうなると、大食いの称号を頂く羽目になりますよね? それでも、次の飛鳥さんの一言で、漸く手の動きを止められました。 「あんまり驚かさないでね。目の前で倒れられるのは、二度とごめんだから」 「え? 目の…前?」 私の記憶が正しければ、私は飛鳥さんの前で倒れたのではなく、しつこい大魔王な、野田課長の前で気を失ったんですが。 けれど私の声が聴こえなかった飛鳥さんは、飲み物をコップに注ぎながら、明日の予定を話し出す。 「明日のお出掛けは、キャンセルだね」 そうだ、明日は土曜日だ。 今度の土曜は美術館へ行くから、眼鏡を忘れちゃダメだよって、飛鳥さんに言われたんだった。 「だ、大丈夫です、私、行けます!」 パスタをゴクンと飲み込んで、キャンセルなんかにしたくないと、懸命に言い返したけれど、飛鳥さんはやんわりとそんな私を嗜めた。 「貧血で倒れちゃう人は、美術館に行けないよ」 飛鳥さんの言う通りだ。今だって迷惑を掛けているのに、これ以上の迷惑は掛けられない。 それでも、キャンセルにしたくないの。もっと一緒に居たいの。 だけど捻くれた私の口は、ついポロっとジェラシー発言を呟きだす。 「な、何か予定が、入っちゃった…の?」 言っちゃった後、酷く後悔しても取り消せないと知っている。課長のお蔭で。 こんな重い発言をしたら、飛鳥さんだって疲れちゃうよね。課長は疲れてもいいけど。 俯いちゃったから、飛鳥さんがどんな顔をしているのか解らない。 だけど足音が近づいてくるから、今の一言が聴こえちゃったのは間違いない。 「お出掛けはキャンセルするけど、恵美と会うことを、キャンセルするつもりはないんだけど」 その言葉で、漸く顔を上げた。 すると間近に、飛鳥さんの風変わりな眼鏡がほわんと浮かぶ。 今日の眼鏡は、マドラスチェックのセルフレームに違い無い。 飛鳥さんが、お洒落な男性とは知っているけれど、先ず会う度、同じ眼鏡を掛けていた例がないの。 先週は、アンダーリムだった。ほら、下半分だけにフレームがあるやつ。 その前は、オーバルセル。えっと、楕円形の鼈甲フレームね。 多分、洋服に合わせて、眼鏡も変えているのだろうけれど、特徴のあるフレームをセレクトするのが飛鳥流らしいのよ。 だからいつも、飛鳥さんの顔を思い浮かべると、眼鏡ばかりが思い出されちゃうんだよ。 まぁどの道、眼鏡を掛けていなかったとしても、曇りガラスの向こう側程度しか思い浮かべられないんだけどさ…… そんな私の思考を余所に、飛鳥さんが突然切り出した。 「恵美? 明日は此処で、DVD観賞なんてどう?」 一緒に居られるのであれば、何だって構わない。でも、まったりと、家で過ごすのも良いな。 「はい。喜んで」 七度目のデートにして、初、まったりだ。何だか今からワクワクしちゃう。 やっぱり、好きな人とDVDを観ると言えば、ホラーだよね。 危機一髪が訪れる度、怖がってみたり、背中に隠れてみたり、ラジバンダリ? それなのに、飛鳥さんが、訳の解らぬ質問を放つから遣る瀬無い。 「何か観たい映画ある? やっぱりラブコメかな?」 「え? ホラーでしょ?」 「え? ホラーなの?」 え? ホラーじゃないの? ラブコメじゃ、私の秘めに秘めた、ラジバンダリの行き場がないでしょう? 「だ、だって、一人だと怖くて観られないし、ラジバンダリが……」 「ら、らじばんだり? あ、や、じゃ、じゃあ、すっごい怖いやつを借りよう」 「うぃや、や、いいです。そんなに怖くなくて……」 拙い。これ以上此処に居たら危険だ。私の秘めた作戦を、飛鳥さんに悟られてしまう。 だから唐突に立ち上がり、いそいそと撤退発言を申し出る。 「そ、そろそろ私、お暇を…あ、明日は何時に、っ」 何が起こったかなんて、私に解るわけが無い。 ただただ感じるのは、柔らかな唇の感触と、味わったことのない、滑らかな舌の食感だけ。 半ば強引にやってきたその舌は、私の舌をなぞり、上顎をなぞり、どこまでも妖しく私を犯す。 纏わりつく空気にまで翻弄されて、腕も膝も重力に負けて、ガクンと身体が傾いたところで、飛鳥さんの唇が小さな音を立ててゆっくりと離れた。 「……帰りたい?」 ドキドキが集団で襲ってくることを、ドッキンドッキンって言うのかな。 心臓が可笑しな動きをしちゃって、動悸、息切れ、不整脈? 飛鳥さんの囁き声が、何を意味するものか解ってる。 だからこそ、カタカタと小さな震えが止まらない。それでも、この状況から逃げ出したいとは思わない。 きっと私は、何かの発作に襲われちゃったんだ。だから思考能力なんか何処にもなくて、直感と本能だけが勝手に私を動かすんだ。 「帰りたくない……」 真っ暗闇でも薄暗がりでも、私が見る分には大差ないけれど、見られているとなれば話は別だ。 一筋の光も届かない暗闇が欲しい。手探りだけで抱いて欲しい。 けれど飛鳥さんは、そのことを譲ってはくれなかった。 五感全てで私を感じたいのだと、恥ずかしがることなく、はっきり告げた。 そうだ、そうだよね。決してクリアじゃないけれど、私だって飛鳥さんに抱かれた証拠が欲しい。 目で口で肌で、飛鳥さんを確かめたい…… だけどやっぱり、不安と羞恥は我が身に襲い掛かってくる。 三十路のくせに、誰も貰ってくれなかったお蔭で、錆びて干からびた無垢な身体。 そんな恥ずかしい身体を愛でられるのは、清水の舞台から落ちるよりイタイって。 だから、経験の有るフリをしちゃおうって考えるでしょ、普通。 それでも経験が無いから、経験者のフリなんか出来るわけがないっつうの! 「ふぁっ……」 ところが、意に反して私の身体は、未経験者歓迎だった様子です。 飛鳥さんの舌にほろ酔い、甘々猫なで声を出しちゃいました。しかも素で。 胸の輪が、キュって縮むのが自分でも解るの。 ころんと舌で転がされる度、顎が持ち上がり、仰け反りたくなるんだよ。知ってた? だけど、こんな余裕をカマしていられるのも、上半身を攻められているときだけで、飛鳥さんの指が中心に到達した途端、何も考えることができずにパニックを起こす。 「あっ、や、やだっ、やめ」 けれど飛鳥さんの一言で、息を飲み、我に返る。 「……怖い?」 この発言は、私が処女だとバレ掛かっているのではあるまいか。 それは拙い。確か、二十五過ぎた女の処女は重いと、どこぞの雑誌に書かれていたはず。 体重も然り、重いと思われるのは心外です。私は決して重くありません。 だからバレ掛かった疑惑を返上しようと、咄嗟に考え付いた出鱈目を正々堂々言いました。 「ご、ごめん。久しぶりだから緊張しちゃって!」 ところが飛鳥さんは、何かがお気に召さなかった様子で、先程とは打って変わった口調にて、私の台詞に一言した。 「へぇ……」 これを境に、飛鳥さんの愛撫が、少し乱暴になった気がする。 でも、何分初めての経験故、こういうものなのだと思うしかないのだけれど。 「いっ! …くぅ、んっ」 突然、二本指を差し込まれて、その痛みに驚き、危うく叫びそうになった。 ここまで頑張ったのだから、最後まで経験有る女を演じ切りたい。 だけど意思とは裏腹に、身体は勝手な涙を、勝手に放出するんだ、これがまた。 そこで案の定、飛鳥さんの動きが止まり、私の顔を覗き込む。 かなり拙い。中途半端な叫び声と、この涙の言い訳が、完全に浮かびません。 どうしよう。早く何か言わないと、飛鳥さんが気分を害してしまうかも。 「え、えっと…、す、すごくいい!」 む、無理がありますよね。自分でも辻褄が合わないことは承知です。 ところが飛鳥さんは、何かがお気に召した様子で、ぼやけていても解るほどの優しい微笑を浮かべながら、私の涙を唇で拭い出す。 そしてその唇が、こめかみを伝い、耳元へ流れ、最後に囁きを齎した。 「愛してるよ、恵美……」 今、ドカーンって音が聴こえたよね? 何処かで爆発事件が起きたよね? 一瞬にして全身が一気に総毛立ち、その後直ぐに、全身が一気に熱くなりました。 内側から、燃えるように噴火しているのですが、鎮火までどれ程の時間が掛かりますか? けれど、心配は無用でした。えぇ、直ぐに鎮火できました。 「ごめんね恵美。最初からやり直させて……」 何で飛鳥さんが謝るのだろう。訳の解らぬ謝罪に、身体の熱が引いて行く。 「う、嘘だった、の?」 愛してるは、嘘だったに違い無い。当然だ。飛鳥さんが私を愛してくれるはずなど…… 「ん? 嘘吐きは恵美でしょ?」 バ、バレたのか。バレたんだな。この戯けた口調は確実に。 「えっと、その…んっっ」 言い訳無用とばかりに、突如再開された、仕切り直しのやり直し。 だけど隠し事を抱かずに済んだ心は、晴れ晴れとして、演ずることなく快感を受入れる。 「ふぁっ、ぁ、ぁんっ」 飛鳥さんの唇が、舌が、指が、労るように優しく動いては、私の脳までをも蕩けさす。 「……怖い?」 もう平気。もう怖くない。だから飛鳥さんの問い掛けに、首を横に振って答えた。 そして、膝が折り曲げられ、腿が開かれ、飛鳥さんの身体がその中へ滑り込む。 ゆっくりと。でも確実に、飛鳥さんの高まりが、私の中へ沈む。 「んんんぁっ」 痛い。痛いけど、繋がった悦びの方が遥かに勝る。 「恵美…愛してるよ、愛してる……」 キスの合間に、飛鳥さんが何度も何度も囁いてくれる。私の痛みを呑み込みながら、何度も何度も。 私だって愛してる。私の方が愛してる。 だけどそれを言葉にできなから、代わりに涙が零れ落ちるんだ―― 果てた身体を寄せ合いながら、ウトウトとまどろむ私に、飛鳥さんが囁いた。 「ごめん恵美…ダメだ……」 そして、その言葉と同時に、飛鳥さんの唇が、指が、寝ぼけた私の身体に降り注ぐ。 「……ん? なぁに…んんっ」 「全然足りない。もっと…恵美が感じるまで、もっと……」 何度も何度も繋がった。飲むことも食べることも忘れて、何度も何度も愛された。 飛鳥さんは、その度に果てるわけではなく、私の苦痛が無くなるまで、優しく激しく抱き続ける。 セックスと汗の香りが部屋を満たし、淫靡な空気に満ちた密室で、飽くこと無く絡むんだ。 気付けば、二度目の朝がやってきて、気付けば、感度の可笑しくなった身体が絶頂を叫ぶ。 「んっ、あ、ああ、んっ、あぁぁぁっ!」 果てたことで窄まった視界は、一瞬だけクリアな映像を脳へ流し込んだ。 それが、愛しげに私を見下ろす、野田課長の顔だったなんて、口が裂けても言えやしない…… |
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