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◇◆ Mi mancherai ◇◆
◆ 浅海さんの華麗なるホームシック

 満月の妹の新月が事故に遭い、イタリアから慌てて日本に帰国したのは二月の半ばだった。
 新月の容態はかなり深刻で、いつもは陽気な義理父ですら一度も微笑むことのない空気が漂う病院。
 そんな両親と、自分を責め続ける武頼を見かねて、満月が日本に残ると言い出したのは当然の成り行き。
 こうして、結婚半年足らずで訪れた別居生活。
 頭では全てを理解しているのに、満月が傍に居ない日々が続き心がそれに追いつかない。
 そして今日もまた、デスクに飾られたフォトフレームに手を伸ばし、にこやかに笑う満月の頬を撫でては溜息を繰り返す。

 数日前からサマータイムに入ったため、日本との時差は七時間。
 7時に目が覚めれば、満月は既に病院内。
 20時に家に戻れば、満月は既に就寝中。
 つまり、完全なるすれ違いが生まれているということだ。
 そういうわけで、連絡方法はもっぱらEメールのみ。
 事細かに書かれた新月の回復の様子と、俺の体調を気遣う文面が続くが、 肝心な自分自身のことには一切触れていない。
 満月らしいと言えばそれまでだけれど、どうにもならない気持ちがこみ上げる。
 新月のことは心配だ。それでも言わずにはいられない。
「俺はお前が一番心配なんだよ。Luna piena……」

 寝ても覚めても仕事中でも、満月のことが頭を離れない。
 大事な商談が控えているのだから、頭を切り替えねばならないと自分自身に渇を入れるものの、重役会議でも上の空。
 カプチーノにバルサミコをたっぷりと注ぎ、パスタに砂糖を振り掛け、皆の度肝を抜き続ける。
 これは不味いと悟った浅海が、日本に一旦帰れと何度も言うけれど
「満月さんが恋しくて、帰ってきてしまいましたよ」
 だなどとは、口が裂けても言いたくない。いや、言えるはずがない。
 だからこうして来る日も来る日も、悶々とした生活を送り続けているわけで、 声すらも聞くことができないのなら、せめて写真だけでも……
 そう考えたとき妙案が浮かび、顎をさすって一人含み笑った。

『PS.新月さんの現況を私も見たいので、満月さんと新月さんが一緒に写っている写真を添付してください』

 二度ほどメール内容を確認し、満足な出来栄えに何度も頷きながら送信ボタンをクリックする。
「我ながら傑作だ。何一つとして、嘘偽りがない」
 好物の冷凍チェリーを口の中に放り投げ、飴のように転がしながらつぶやいた。
 少しご機嫌にパソコンの電源を落としながら、チェリーの種をゴミ箱に向かって吹き飛ばす。
 そしてまたフォトフレームに手を伸ばし、片方の手指を自分の口元に当ててから、そっと写真の中の満月に触れた。
「Mi mancherai…… Ti voglio bene……」

 ところがあくる日、満月から送られてきた写真は、期待に反して新月が単体で写っているものだけだった。
 眼鏡を掛けて画面を食い入るように見つめるけれど、満月の姿は影すら見当たらない。
 なぜ一緒に写ることができなかったのか。もしかしたら具合でも悪いのか。
 何一つ知ることのできない現状に、不安と心配と、何に対してなのかすら解らない怒りがこみ上げる。
 数ヶ月もの間、押し殺してきた理性は遂に跡形もなく吹き飛んで、身体は勝手に受話器を握り締め、頭は日本時間を知りつつ番号を押していた。

 満月が起きるまで呼び出し音を鳴らし続けると意気込んだけれど、 たった一度の呼び出し音で、待っていましたとばかりに張本人の声が受話器から響く。
「も、もしもし? 寛にぃ?」
 少々慌てているものの、相変わらずの声のトーンに元気だということが分かり、そっと安堵の溜息を漏らした。
 満月の声が聞けたというだけで怒りは和らぐけれど、逆にこうして声を聞いてしまえば、逢いたい気持ちが溢れて胸が苦しい。
 それでもその気持ちを押し殺し、何気なさを装い言葉を発した。
「満月さん?」
 俺と同じような溜息を、俺に聞こえるほど大きく吐き出す満月は
「……きっと電話がくるだろうと思って、起きて待ってた……」
 少し間を置いた後、躊躇いがちにボソボソとつぶやいた。
 受話器の向こうで、きっとこんな顔をしているのだろうと想像しながら微笑んで
「ほう。では、私に隠している事柄があると?」
 意地悪く低い声で囁けば、予想通り慌てふためきながら満月が言い返す。
「ちがっ! あ、いやそうじゃなくて……その、か、髪を切っちゃったの」
「ええ、それで?」
「寛にぃに、何も相談せずに切っちゃったから」
「ええ、だから?」
「だ、だから、その、当分、寛にぃには逢いたくないの……」

 満月のその一言で、頭の中の何かがブツンという音をたてて切れた。
 口を開いたら、満月を傷つけてしまう言葉が羅列しそうでたまらず、心の中で10まで数えてやり過ごす。
「ひ、寛にぃ?」
 俺の突然の沈黙に、不安に苛まれた満月が何度も俺の名を呼ぶ。
 けれど頂点に達した憤りは優にキャパを超え、長い間堪えていた感情が溢れ出し、 それはそう簡単に治まりそうになかった。
「そうですか。わかりました……」
「イヤ! 待って Rilassa!」
「すみません満月さん、携帯が鳴ってしまっているんですよ……」
 もっともらしい理由を述べて、引き止める満月を省みず強引に電話を切った。
 
 満月が、どういう意味で逢いたくないと言ったのかは解りきっている。
「だからって、逢いたくないはないだろ……」
 女々しいと言われても、情けないと笑われても、その言葉だけは聴きたくなかった。
「恋しくて堪らないのは、まるで俺だけみたいじゃないか……」
 堪らず何か物を投げつけたい気持ちに駆られ、テーブルに置かれた携帯を手に取った。
 ところがそれを振り上げた瞬間、嘘から出たまことか、偶然にも本当に携帯が鳴り出した。
 苛立ちながら画面を確かめれば、浅海の文字。
 浅海が私的な用件で電話を掛けてくることは滅多にないため、仕事上のトラブルだと容易に見当が付く。
 だからこそ電話に出た。何かに集中すれば、少しは胸の痛みが和らぐだろうと考えて。

「寛弥か? 実は不味いことになった。悪いんだが、私の代わりに日本に飛んでくれないか?」
 珍しく切羽詰った浅海の声で、ただならぬ事態が起きたことが分かる。
「一体、何があったんですか? フライトは2時間後じゃありませんでしたか?」
 冷静さを金繰り集め、時計を確かめてからいつものようにやんわりと問えば
「そうなんだ。悪いが時間がない。既に部下を空港へ送っている。そいつからチケットと資料と受け取ってくれ――」

 浅海の私情を挟まない仕事上の伝達事項はその後も続き、俺はただ頷きながら相槌をうってメモを取った。
 最終搭乗時刻ギリギリにマルペンサ空港へたどり着き、待ち構えていた社員からチケットと資料を受け取り、挨拶もそこそこ飛行機へと向かう。
 目的の座席に雪崩れ込み、ようやくここで一呼吸を置いた。
 離陸までの間、暗闇が広がる窓の外をただ見つめて、満月とのやり取りを思い出しては憂鬱になる。
 けれどちょっとした意地悪を思いつき、ニヤケ顔を誰にも悟られないように片手で顔を覆った。
 満月は俺が帰国することを知らない。
 逢いたくないとまで告げたはずの俺が突然目の前に現れたら、満月はどんな動揺ぶりを披露してくれるのか……
 その前に確認しておかなければならないことがある。仕事の予定だ。
 カウンター前でチケットとともに受け取ったファイルに手を伸ばし、中の資料を取り出した。
 ところが肝心の資料はただの新聞で、慌てた浅海が間違って同封したのだと溜息をつけば、新聞の中からヒラヒラと舞い落ちる一枚の紙切れ。

『満月と一緒に帰ってこない限り、お前は無期有給! by 素敵なパパより』

「く、くそ親父め……」
 そうつぶやきながらも、言葉とは裏腹に顔には笑みが広がっていた――

It continues.

※ Luna piena(満月・マツキの愛称) / Rilassa(寛ぐ・寛弥の愛称)
  Ti amo(愛してるよ) / Mi mancherai(君がいないと淋しいよ)
  Ti voglio bene(強く想う・君の幸せを願う)

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photo by ©ミントBlue