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◇◆ Tesoro ◇◆
 眠れぬ夜を過ごした。
 不注意な私の一言が彼をとても傷つけてしまったと、泣いて悔やんでも取り返しがつかない今の状況。

 新月が心配だった。平静を装いながらも、壊れていきそうな武頼くんが心配だった。
 泣き崩れ続けるママも、仕事が手につかないパパも、心を痛め続けている高遠さんも、武頼パパも……
 自分が不器用だということは、自分自身が一番よくわかっている。
 彼が手を差し伸べてくれなければ、全てをうまくこなすことができないことも知っている。
 私が日本に残ったところで何も解決などしないし、何も役に立たないかもしれない。
 それでも、自分だけが日本を後にして、彼と幸せな日々を送るなどとは考えられなかった。
 私が幸せを手に入れることができたのは、背中を押し続けてくれた新月のおかげ。
 はちゃめちゃなくせに淋しがり屋で、要領がいいくせに素直になれない、そんな大好きな大好きな新月のおかげ。
 新月が目覚め、奇跡的に快復を遂げている今、私が願うこと。
 誰よりも誰よりも、新月に幸せになって欲しい――

 けれどそれは、ただの思い上がりに過ぎなくて、ただの偽善に過ぎなくて……
 彼と離れて暮らすということが、こんなにも心を疲労させるものだとは思いもよらず、 相変わらず胸に揺れるロケットを握り締めては溜息を漏らす私に
「満月、私はもう大丈夫よ? だからイタリアに帰りなさい」
 平然と朗らかに笑いながら新月はそう言った。
 こんなときにまで、余計な心配を新月にかけさせている私。
 どんなことが起きても、どんなに月日が流れても、私たちの立場は変わらない。
 私はいつも、新月のお荷物だ……

 頑張れば頑張るほど空回りをしてしまうから、そう気がついたときに怖くなった。
 いつか彼も、私をお荷物だと思う日がきてしまうのではないかと……
 彼は温和な表面で自分を守る反面、心の中では激しい情熱を秘めている人だ。
 小さい頃の思い出がなければ、その表面だけが彼なんだと騙されていたと思う。
 年齢も関係するのだろうけれど、自分を見失った彼を私は見たことがない。
 いつも穏やかに、そして上手に笑うから、不安になったときは目を覗き込む癖がついた。
 瞳の色だけは感情をごまかし切れないようで、怒っているときは黒く深くなり、嬉しいときは銀色に輝く。
 そして愛を語るときは、グレーの瞳の上に濃いブルーの輪が現れる。
 けれど電話やEメールでは、彼の瞳の色はわからない。
 だから何もかもが不安になって、また空回りを繰り返す私は、余計な一言を吐いて彼を傷つけた。
 彼の瞳が見たい。今でもまだ、私を見てブルーの輪が現れてくれるかな……

 ママの焼きたてマフィンを、ちぎってはお皿の上に戻し溜息をつく。
「満月、あなた本当にいい加減にしないと……寛ちゃんに愛想つかされるわよ?」
 そんな私を上から覗き込みながら、心配そうにママがつぶやいた。
「もう尽かされちゃってるかも……」
「え?」
「あ、ううん。なんでもない」
 いかにも小鳥が喜びそうなほど細切れにされたマフィンを、溜息とともに口に放り投げた。
 けれど、なぜか今日は上機嫌のパパが
「今日は早く病院に向かったほうがいいさ! 病院は寛げるぞ?」
 ちっとも面白くないジョークを言い放ち、その言葉に自分自身だけが豪快に笑った。
 寛ぐ…… とてもそんな気分にはなれないよ……

 結局、なんだかんだと迫るパパに強引に病院へと送り出され、バス停までの道のりを俯き歩く。
 こんなしみったれた顔をしていては、新月にまた気を遣わせてしまうと思い直し、 いつものように空を見上げて深呼吸を繰り返せば
「相変わらずお前は、宇宙との交信を続けてるのか?」
 突然の声に驚き振り返ると、怪訝そうに私を見つめる武頼くんが居た。
「そんなこと、したことありません!」
 咄嗟に言い返すものの、鼻から失笑を漏らした武頼くんは
「当たり前だろ? 本当にやってたら、俺はお前を親戚だと認めないね」
 自分が言い出したくせに、そう小馬鹿にする始末。
「もう親戚じゃなくなるかも……」
「は?」
「いえ、それはこちらの話です」
「馬鹿かお前?」
「ええ、もう、なんでも結構ですよ……」

 病院に向かいながら武頼くんと小競り合い、なだらかな坂を一緒に歩く。
 新月が記憶を失ったことで、家族以外の面会が禁止されているこの数週間。
 武頼くんは毎日毎日こうやって、私と一緒に病院の門までやってきて、門から先に入ることなく引き返していく。
 新月が目覚めるまで片時も傍を離れようとしなかった武頼くんを、目覚めた途端に部外者扱いする病院の規則。
 納得がいかずに何度も談判したけれど、病院の規則は早々変わらない。
 こんなとき彼が居てくれたなら、きっと先生をうまく言いくるめて、面会の許可をとりつけてくれるはず。
 立ち去る武頼くんの背中を見送りながら、なんだかやりきれない思いがこみ上げた。
 頬を何度か両手で軽く叩き、笑顔を作り出す。
 それでもきっと、新月には見破られてしまうだろう。
 新月は記憶をなくした今も、そういうところは鋭いままだから――

 桜のつぼみが膨らみ始めた病院の門をくぐり、自動ドアを抜けてエレベーターに乗り込んだ。
 外来の階を抜けると、混雑していたエレベーターが一気に空く。
 人混みが苦手な私は、この数分がとても苦手だけれど、階段で上りきる勇気もない。
 ようやくエレベーターが目的の階で止まり、いつもは静かなはずの病棟に足を踏み入れる。
 ところが今日は、ナースステーションの方角で黄色い声のざわめきが上がっていた。
 何事かと思いつつも、いつものように歩き進んで、いつものように挨拶をすれば
「あ、噂をすれば満月ちゃんよ!」
 黄色い声のままの看護士さんが叫ぶと、その場に居た看護士さんたち全員が、一目散に走りよってきた。

「新月ちゃんのところに、面会希望の方が現れたのよ!」
「もう、すんごいカッコイイの! 武頼くんとタメを張るわね!」
「今、山崎先生と新月ちゃんのことで話しているんだけど、満月ちゃんなら彼が何者か知ってるでしょ?」
「絶対にハーフよ! だからきっと、満月ちゃんのパパ方の親戚ね!」
「家族だと言っていたけど、満月ちゃん、是非紹介してよ〜!」

 看護士さんのけたたましい会話内容を総合すると、思い当たる人物は一人しかいない。
 でもそれは、そんなまさかの話であって、彼が日本に居るはずがない。
 素早く頭の中で、飛行時間を逆算する。
 あれからイタリア発の朝一番の直行便に乗ったとしても、この時間にここには到達しないはず。
 それよりも何よりも、私は彼が帰国をするなどとは聞いていない。
 それでも確かめずにはいられなくて、ナースステーションのカウンターに置かれている面会者用の記帳を、恐る恐る覗き込んだ。

「う、嘘でしょ……」
 記帳に刻まれた彼の名前と筆跡に、思わず言葉が漏れて後ずさる。
 けれど数歩下がったところで、道行く人にぶつかり慌てて頭を下げた。
「あ、ご、ごめんなさい」
 謝罪をつぶやき顔を上げれば、先程の武頼くんとそっくりな怪訝顔を浮かべた彼が立っていて
「嘘であって欲しいですか?」
 相変わらずの上手な笑顔に素早く切り替えると、私を見下ろしながらそう言った。
「Rilassa!」
 そう叫び、思わず伸ばしかけた自分の腕を見て思い止まる。
 慌てて帽子を押さえつけ、病室とは反対方向に走り逃げようとすれば、 機敏に動いた彼の腕が私のおなかに巻きついて
「Carimera mia 逃げられると思っているのですか?」
 聴きなれたいつものバリトン声よりも低く、彼が耳元で囁いた。
 それでも尚、帽子から手を離さず頑なに抵抗する私を強引に振り向かせると
「逢いたくないの原因はそれですね? 後でバッチリお説教です」
 銀色に近い色を放つ彼の瞳に覗き込まれ、囚われた者のように動けなくなった。

 彼は怒ってはいない。
 それだけは解るものの、ずっと抱き続けていた不安は解消されなかった。
 Luna pienaではなく、Carimera miaと私を呼んだ彼。
 イタリア独特の、ジョークを込めた親愛を表す言葉だけれど、やっぱり何か落ち着かない。
 だからこの期に及んでモジモジと返す言葉に迷っていると、業を煮やした彼に先を越された。
「Mi ami?」
「Mi ami anche?」
 本当は一番聞きたかった言葉を先に言われた私は、咄嗟に聞き返す。
 けれどいつものような答えは返ってこない。
 彼の沈黙に不安になって、唇を噛みながら見上げれば、グレーの瞳に浮かぶブルーの輪――

 たまらず彼の胸に飛び込んで、数ヶ月ぶりの彼の温もりに子どものように泣きじゃくる。
 そんな私を彼は軽々しく抱き上げて、互いの鼻を擦りあい、そして確かめ合うようにそっとキスを交わした。
 首に巻きつけた腕をそっと解き、彼のうなじに走らせながら
「Ti amo da impazzire……」
 息継ぎ紛れにそう囁けば、彼の瞳が深く濃く輝き
「Io anche」
 周りを気にすることなく、貪欲に私の唇をむさぼり始めた。

 誰かの息を呑む音でようやく我に返り、手のひらを唇の間に滑り込ませて強引にキスを止める。
 恥ずかしさで顔を赤らめる私とは対照的に
「続きは、我が家に帰ってからですね」
 彼は何食わぬ顔で平然と囁き、ようやく私を地面に降ろすと
「ご挨拶が遅れました。満月がいつもお世話になっております」
 やっぱり平然と何事もなかったように微笑んで、大きく口を開けたままの看護士さんたちに向かって言った。

 唖然とする人々の視線に背を向けて、新月の病室へと歩き出す。
 いつまで日本にいられるの? そう聞こうとして思い直した。
 ようやく逢えた彼と、また離れることなど今は考えたくなどない。
 そんな私の心の中全てを、お見通しだとばかりに彼が言った。
「Sono sempre accanto a te.」
 その言葉に驚いて立ち止まるけれど、彼は何やら思い出し笑いをしているようで
「何? なんで? どうして? 何があったの?」
 沢山の言葉で問い詰めても、げんこつを鼻に押し当て笑うばかりで埒が明かない。

「寛にぃ、すっごく感じ悪いよ」
 頬を膨らませて文句を言えば、ようやく笑いを堪え、話題を替えようとする彼が言い出した。
「そうだ満月さん、ビックニュースがあるんですよ」
「今度は何?」
「先程、新月さんの主治医にお話を伺ったんですけどね? 明日から、面会謝絶を解いてくださるそうです」
「やっぱり! ねえ、どうやって山崎先生を言いくるめたの?」
「失礼ですよ満月さん。それはとても心外の至りです」
「さっきのお返しです!」

 彼と寄り添いながら歩く病院の通路は、窓の外に広がる春の日差しのように温かく
『ねえ新月? 新月の春も、もうそこまで来てるよ』
 心の中でそうつぶやき、新月の待つ病室のドアを開けた――


It continues.


※ Luna piena(満月・マツキの愛称) / rilassa(寛ぐ・寛弥の愛称)
  Tesoro(宝物) / Carimera mia(僕の黒いヒヨコちゃん)
  Mi ami?(僕を愛してるかい?) / Mi ami anche?(あなたこそ愛してる?)
  Ti amo da impazzire(気が狂うほど愛してる) / Io anche(僕もだよ)
  Sono sempre accanto a te(ずっと君の傍にいるよ)
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photo by ©ミントBlue