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◇◆ Gelosia 1 ◇◆
 高遠家所有のヴィラ程近くにイタリアの自宅があるものの、結局そこには帰らず、満月とともにヴィラへ留まった。
 それは、急遽同行することになった祖母からの提案で、正月くらい皆で一緒に居たいとのことだったけれど、 それだけの理由ではないと思っている。
 あの意味深にキラキラと輝く祖母の瞳は、何か悪巧みを考え付いたときの満月とそっくりだ。

 そもそも祖母が同行する運びになったのは、祖母が双子たちのために、正月用の着物を仕立てたことから始まる。
 新月は、深い藍色に蘭の絵図が刺繍された糸目友禅で、満月は、若草色に源氏絵図が描かれた手描京友禅。
 祖母の見立て通りどちらも良く似合っていたけれど、満月の着物の色は、数日前の斬新な下着を思い起こさせた。
 絶対に、祖母から何かヒントをもらった満月が、あの下着を買ったに違いない……

 高遠の家で、祖母から着付けを習う満月だったけれど、要領の悪い満月は上手くこなせずに半べそ状態。
 付け焼刃で習得できるものではないけれど、俺が習ったほうが早そうだ。
 それでもあの満月の性格からして、完璧にできるようになるまで、祖母宅に泊り込むと言い出しかねない。
 祖母の方も、既に娘も嫁も自分より先に他界していることも重なって、孫嫁である満月のことを、 とにかく可愛がっているのは分かる。
 けれど、なかなか思うように着付けが習得できない満月へ向かって
「満月ちゃん、わたくしが、イタリアまでお供させていただくわ」
 そう言い放ったのは出発前日。
 こんなことになるような予感がして、込み合う時期のチケットを、 一枚余分に取っておいて良かったと安堵の溜息をついたのは、紛れもなく俺と武頼だ。

 まったく、優に還暦を越えているものの、祖母のバイタリティーには頭が下がる。
 染めることなく白くなった髪を綺麗に結い上げ、袂にかんざしをスッと挿す。
 凛と背筋を伸ばし和装を着こなすその姿は、誰よりも美しい貴婦人だと心から思う。
 そして、なんだかんだと言いながらも、祖母のお節介に沢山の想いを救われた……

 はじまりは、このヴィラで、この窓辺で、苦手な紅茶を飲んだときからだった。
 祖母は言った。誕生日と満月が重なる日、願いを込めて紅茶に浮かぶ満月を飲み干すと、 それが心から強く願うものならば、その願いはきっと叶うと。
 正直言って、信じてなどいなかった。今でも半信半疑だ。
 それでも俺は、祖母に言われるがままそれを飲んだ。

 施設からヴィラに連れやられたとき、歪んだ俺の心は、金持ちなんてクソ食らえ! だったと思う。
 俺が高遠の孫だと分かると、手のひらを返したように態度を変える周りの大人たち。
 侘びや償いを、金で解決しようとする大人たち。
 別に償いなどいらない。俺に謝る必要もどこにもない。全て母親が好きでやったことだ。
 それでも思う。この全てを捨てて、母親は何を手に入れたかったのだろう……

 悔いる気持ちの大きかった祖母は、誰よりも俺に謝った。
「ごめんね寛ちゃん、おばあちゃんが、もっと早くに気付いていれば、もっと早くに許していれば……」
 その言葉が、取り繕った上辺だけのものではないと俺にも分かる。
 後悔して、後悔して、それだけを十数年思い続けていた人間が、自分を責め続けて吐く言葉。
 そのとき感じた。気の毒なのは、この人の方だと。
 だからこの人を、懺悔という呪縛から解放してあげたいと思った。
 この人に、微笑んで欲しいと思った……

「飲むよ、紅茶」
 それだけしか言えなかったと思う。
 それでも祖母は、泣きそうになりながら微笑んだ。
 そして祖母が持ち寄った紅茶を片手に、輝く満月を見上げながら、小さな満月のことを想う。
 家族のいなかった俺の、たった一人の家族。恋や愛じゃない。もっと深く、もっと強い想い……

「寛ちゃん」
 不意に脇から声を掛けられて、物思いから目覚めて振り向けば、あの頃と同じような、不安気の表情を浮かべた祖母がそこに居た。
 溜息だけの笑い声を吐き出しながら微笑んだけれど、この手の作り笑いは祖母に通じない。
 騙されないわよとばかりに小さく首を横に幾度か振りながら、俺の隣まで歩み進んだ祖母は
「思い出すわ。ここであなたと、満月を眺めた日のことを……」
 そう言いながら窓に手を当てて、満月ではない月を見上げた。

 しばらく互いに黙ったまま湖面に揺れる小さな月を眺めた後、茶目っ気を見せながら祖母が切り出した。
「あのとき、あなたが囁いた言葉。それが満月ちゃんを指す言葉だったと気がつくまでに、 十数年もかかってしまったけれど、『月の紅茶』の願いは叶ったのだと、安心しても良いのかしら?」
 まじないの効果を聞きたいわけじゃない。俺の幸せを問う祖母の言葉だ。
 だから、迷うことなく祖母に告げた。
「今、私もそのことを考えていたんですよ。効果絶大のおまじないだったと」
 その答えを聞いて、祖母の顔に満面の笑みが広がる。
 そんな笑顔を見て、ようやく祖母が呪縛から解放されたのだと気がついた。
 俺は幸せだ。満月が居て、浅海が居て、そしてこんな祖母が居る――

「それよりもお祖母さん? 何かよからぬことを企んでいますね?」
 胸に詰まるような想いを、祖母に悟られないように話を切り替えれば
「さあ、何のことかしら?」
 ほつれ毛などどこにもないのに、祖母が髪を撫で付ける。
「隠しても無駄ですよ。あなたと満月はそっくりですから」
「まあ、それは光栄だわ。神秘的という意味に、受け取らせていただくわね」
「いえ、隠し事ができない性分という意味です」
 そうやって追い詰めれば、観念した祖母が、人差し指を口に押し当てて話し出した。
「実はね……」

 翌日、朝から出かけた祖母を除く四人で、午後から街に繰り出した。
 遅い昼食を取ったばかりだというのに、小腹が減ったと訴える新月のため、ドルチェが豊富なバールに立ち寄る。
 付き合いで入っただけなはずの満月は、ガラスケースの中のドルチェに釘付けで、既に食べる気満々だ。
 けれど何にしようかといつまでも悩み続ける満月に、苛立った新月が決定を言い渡した。
「もう満月はティラミスでいいじゃない! 私はアマレッティ!」
「うーん。でも、トルタディリコッタも食べたいんだもん……」
「だったら、パンナコッタ。はい、決まり!」
「え、でも、ティラミスも……」

 そんな満月に、そろそろ助け舟をだしてやろうとした瞬間、俺よりも先に武頼が口を開いた。
「俺がティラミスを頼むから、お前はリコッタを頼めばいいだろ? 半分やるから」
「本当? じゃ、私のも半分あげるね!」
「当然だ。そして、口をつける前に分けろ」
 まるで恋人同士のような二人の会話に、新月が白目を剥いて首を振る。
 どちらも悪気が無いから、始末が悪い。
 だから俺が新月に切り出した。
「では、私はパンナコッタにしましょう。新月さんと半分こで」
 そしてそれを聞いた新月が、耐え切れずに吹き出した。

 予定通り、目の前に並べられたドルチェの数々。
 新月の不意を付いて満月が皿に手を伸ばし、新月のアマレッティを頬張りながら言い出した。
「ここのアマレッティ、めっちゃくちゃおいしい! 私もそれにすればよかったな……」
「あっ、満月! 信じられない……もうこれ以上はあげないからね!」
 二十歳を越えたというのに、子ども染みた喧嘩を繰り広げる二人を微笑みながら見下ろして、 そんなにそれが気に入ったのであれば、テイクアウトをしてやろうと思った矢先
「Scusi!」
 やはり武頼が先に口を開き、店員にアマレッティのテイクアウトを注文した。
「ぶ、ぶらいくんも、食べたかったの? ごめんね、私が食べちゃったから……」
「Sei scemo?」

 今日は、一日中こんな感じだ。
 俺が満月に手を差し伸べようとすると、ことごとく武頼に先回りされる。
 昨夜、祖母の内緒話を聞いていたからこそ耐えているけれど、それでもそろそろ我慢の限界だ。
 夜になったら、覚えてろよ満月?
 心の中でそうつぶやきながら、微笑みを絶やすことなく、濃い目のコーヒーを煽るように飲み干した。


※ Luna piena(満月・マツキの愛称) / Rilassa(寛ぐ・寛弥の愛称)
  Gelosia(ジェラシー) / Scusi!(すみません) / Sei scemo?(アホか?)

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