「おにいたんはどうして泣いているの？　どこか痛いの？」
「お前には関係ないだろ！」
「今、まちゅきがおにいたんのママを呼んで来てあげるよ」
「余計なことするな！　もう、ママなんかいないんだ！」
「なんで？　なんでおにいたんにはママがいないの？」
「ママは死んじゃったんだ！　うるさいよお前！　もうあっちいけよ！」
「ふ〜ん。じゃ、まちゅきがおにいたんのママになってあげるよ！」
「ば、ばかじゃないのか？　お前？」
「大丈夫。ずっとず〜っと　まちゅきがそばにいてあげるよ」

「あ、あの……」 お互い、黙ったまま物思いにふける2人の男性たちに向かって、この場をどうにかしようと発した私の言葉。
あの後、パパと別室で商談していたとき、裏口から出て行く私と
そんな私を追いかける彼を見つけて、後を追ってきたと告げた浅海さんは
自分の腕に掛けていた見たことのあるコートを私に差し出しながら言った。
「コートを着ずに飛び出していった満月さんを、お父様は心配なさっていましたよ」
どうりで見たことがあるはずだ。これは私のコートだもの。
きっと、パパが浅海さんに渡したのだろう。
そこまで考えてようやく、手伝いもそこそこ飛び出してしまったことを思い出し、ハッと息をのむ私。
そんな私の気持ちを悟った様に
「大丈夫ですよ。ちゃんとお父様には事情を説明しておきましたから。それと、責任を持って私が満月さんをご自宅まで送り届けると 約束もしてきましたし」
そうやって、安心させてくれる様な微笑みとともに浅海さんが続ける。
少しホッとしたものの、送り届けるという言葉に反応して
「い、いえ、いいです。本当に、そんな、ご迷惑ですし私は1人で帰れますから」
慌てて両手を振りながら返事をする。
そんな私たちの会話を鼻で笑い、そっぽを向く彼。
浅海さんがゆっくりと彼の方へ向き直り、少し顔をゆがめ、怒っているそぶりを見せながら、言い聞かせる様に話し出した。

「武頼？　十数年前の幼かった頃の話をいつまでも根に持って、満月さんに当り散らすのはどうかと思うよ？」
「こいつは満月じゃね〜よ！　新月だって！」
顎で私を指しながら、鼻にしわを寄せて彼が怒鳴る。。
「いや、この人は新月さんではなく、正真正銘の満月さんの方ですよ」
浅海さんはそう言いながら、私の肩に掛かりっぱなしだった彼のベージュのコートをそっと外して椅子を引き出し、 手のひらで「どうぞ」と、私にそこに座る様に促した。
少し躊躇ったあと、コクンと1度だけ頷いて　私は恐る恐る椅子に座った。
私の隣の椅子を引き出して、少し距離を離して自分も腰を下ろすと
「冷めてしまいますよ？」
そう言いながらトレーに置かれたままの私のコーヒーを手に取って
スチロールのカップのふたを綺麗に外してそっと私の前に差し出してくれた。

カップの中から、ココアの様な甘い香りが漂ってきて、言われるがまま両手を差し伸べカップを持ち上げて、 彼の視線を感じながら　そっとコーヒーをすすった。
それを見届けると、浅海さんも自分のカップのふたを取り、彼もトレーを自分の方へ引き寄せてカップを手にし、 そこからは、誰かのコーヒーが　誰かの喉を通る音しか聞こえなくなった。

誰も何も話さない。
ともにテーブルをただジッと見つめ、ともに深く物思いにふける彼と浅海さん。
二人の様子を、テニスの試合を見ているかの様にいったりきたりしながら眺めていて
それでも黙りこくる二人に対してと、何一つ思い出せない自分に対してと
わからないことだらけの今の状況にだんだんとイライラしてきた私は思い切って言葉を発してみた。
先に我に返ったのは彼のほうで、なにやらむちゃくちゃな言葉を私に向かって吐き捨てる。
「俺は忘れない！　お前は、新月だ！」
彼の声に驚いて、一瞬ビクッと体を揺らした浅海さんが
テーブルに肘をつき、やれやれといった具合に額をさすりながら溜息をつく。

あぁ、言わなくちゃ。彼に私は満月だと言わなくちゃ。
大きく深呼吸してから、 「あの、私は新月じゃ……」
そこまで彼に向かって言いかけたとき、 突然どこからか、ママの宝石箱のオルゴールと同じ曲【月の光】が聞こえてきた。
オルゴールとは違う、オーケストラの様な色々な楽器が混ざった調べ。
慌ててスーツの内ポケットに手を差し込んで、携帯を取り出した浅海さんは
「ちょっと、失礼しますね」
それだけ言うと席を立ち、店の外に消えていった。

あぁ、浅海さんの携帯の着信音だったのか。
だからあの時、すぐにオルゴールの曲の名前がわかったんだ。
そう思いながらも私の頭の中に、月の光の曲がグルグル回りながら響いていて
溶けかかった生クリームが、じわじわとコーヒーに広がっていく様に、私の記憶もまた心に染み出してくる……

「満月？　またそのオルゴールを聴いてるの？」
「ん？　あぁ、うん。なんとなく聴いていると落ち着くんだもん」
「ふ〜ん。あ、そんなことよりさ、例のおまじないをはじめるわよ♪」
「え？　今から？」
「うん。そう今から！　すごくワクワクしちゃうよね♪」
「う、うん。そうだね……」
「満月はもう何をおまじないするか決めた？」
「え？　おまじないをするのに、おまじないを決めるの？」
「うん。そうだよ？　何かおかしい？」
「いや、なんかちょっと、変なおまじないだなって……」

「変なのはお前だろ？　てか、人の話を聞いてんの？」
「え？」
どうやら私は、過去の記憶を声に出していたらしい。
テーブルの上に両肘をついて指を組み、その上に顎を乗せながら まっすぐに探るような視線で私を見ている彼と目が合い
「えっと、ごめんなさい。聞いてませんでした」
初めて視線を合わせながら彼にそうつぶやいてみる。
彼の鼻がちょっと膨らんで、声にならない含み笑いをもらしてから
「お前は本当に昔から変わらないんだな」
ボソッとそれだけつぶやくと、口を横に広げ歯を少し覗かせて笑った。

初めて私に見せる彼の笑顔。
それが余りにも印象的で、それが余りにも淋しそうな笑顔だったから
何かが私の心に突き刺さった音が聞こえた気がした。
心臓の脈を打つリズムと合わせて、ズキンズキンと胸が痛む。
とても、とても小さい頃　この笑顔とそっくり同じ笑顔を見たことがある。
真っ黒い洋服を着て、つやのない真っ黒な靴を履いて
真っ黒なレースが顔にかかる帽子をかぶり、そのレース越しに見た笑顔。
どうしてなのかは全く思い出せないのに、そのとき私は、なにかとてもすごく悲しかったんだ。
それだけはハッキリ覚えている。
彼の笑顔が急に消えて、細めていた目が段々と大きく開かれて
「な、なんで泣いてんだよお前」
そう問われて初めて、自分が彼を見ながら泣いていることに気が付いた。
「わからない。わからないけど悲しいの」
「はぁっ？　お前、言ってることがめちゃくちゃだぞ！」
「だって。黒い服を着た人がたくさん居て、私も黒い服を着ていて、みんなが泣いていて、それで、それで」
「お前、満月？　満月のほうなのか？」

両手をテーブルについて勢いよく立ち上がる彼と
そんな彼を見上げながら涙が止まらない私と
携帯を右手で握り締めたままその場で立ち尽くす浅海さんと
話が複雑になる一方の
誕生日１２日前の土曜日