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というよりも、隣に座るこの人が、俺を眠らせてくれるはずがない。 「で、相手は菊池くんと言ったかな? まだ結婚という段取りには、至っていないのかね」 白々しく、晴香の名前を、知らぬ存ぜぬで通そうとするその人へ、からかい半分で返答する。 「もういいですよ、ハルちゃんって呼んで」 「な、何を言っているのかね。そんな馴れ馴れしい名称などだな……」 「よく言いますよね、再三、そう呼んでおいて」 親父の病院で目撃してしまったときから、多分そうだろうとは薄々感づいていた。 けれど、四六時中こうして傍にいると、それはもう、多分ではなく確実だ。 人間は育った環境で作られると言うが、遺伝子を嘗めてはいけない。接点のないはずな二人なのに、ふとした仕草から表情に至るまで、余りにも酷似し過ぎだ。 晴香には、紛れもなくこの人の遺伝子が組み込まれている。幾ら本人が否定したところで、足掻らうことの出来ない事実だ。 それでも、晴香の性格や言動は、やはり環境から生まれでたものなのだろう。こちらは、完全に嶋田さんのコピーだ。否、クローンでも良い。 そう考えれば、嶋田さんは晴香の父ではなく、母代わりだったのではないかと思う。 あの細か過ぎるほど細かい干渉は、母親特有の代物だ。しかも、切れ者故に性質が悪い。 嘘だろと、思わず叫びたくなる間合いで、嫌がらせのように電話を寄越されたりすると、部屋の中に盗聴器でも仕掛けられているのではないかと、疑いたくなったりする。 「菊池くんの呼び名は良いとして、だから、結婚のだな?」 どうやらこの人は、今の俺と晴香の関係を、快く思っていないらしい。 それはそうだ。紙の上では何一つ繋がりのない、同棲という形を踏んでいるのだから、双方の家族が頭を悩ませるのも無理はない。 現に俺の両親も、早く晴香を家族に迎え入れたいと、引っ切り無しに連絡を寄越す。 それでも、当の晴香が承諾してくれないのだから、仕方がない。しかも、その原因はこの人だ。 「何でも、借金を返済したいそうなので、結婚はできないと」 「しゃ、借金? い、いくらなんだ! 大体、なんの借金なんだ!」 「お母さんの治療費と、自分の学費だとか?」 介護云々ではなく、共に暮らし始めることにしたとき、当然俺は、晴香へ結婚を申し込んだ。 けれど晴香は、首を縦には振ってくれず、代わりに一冊の通帳を差し出しながら、ぼそと呟く。 「高額な借金を抱えているんだ……」 躊躇い勝ちに中を覗けば、郊外の中古物件ならば、一括で購入できるほどの金額が刻まれていた。 「晴香、これは……」 正式に契約を交わした借金ならば、自分の通帳などに溜めたりしないだろう。 況して晴香には、付かず離れず見守ってきた嶋田さんが居る。この羅列する金額以上に高額な借金など、晴香に背負わせるはずがない。 つまりこれは、晴香が勝手に借金だと判断し、背負い込んでいる代物だ。 掻い摘んだ話とはいえ、嶋田さんから聴いた、晴香の過去と照らし合わせれば、多分、これは今まで自分に掛かった金だ。 「もうちょっとなんだ。全てを清算したいんだ」 生い立ちの梗概を途切れ途切れに語った後、怖づと晴香が付け加える。 愛憎相半ばする想いで、それを遂げたいのだと思った。復讐のようなけじめのような、邪な想いだと。 そんなことをさせたくなかった。だから、止めようと口を開いたところで、晴香の仕草が目に止まる。 晴香は感情を押し殺すときに、唇を噛む癖がある。けれど感情に依って、その噛み方が違う。 その言葉を付け加えたとき、晴香は下唇を噛んだ。この仕草は、照れや恥じらいを隠すときだ。 そこで漸く、晴香の想いが解った。晴香は会いたいんだ。ただ純粋に、会う理由が欲しいのだと。 「なら、早く溜め終えて。じゃないと、俺が不貞腐れるよ?」 その言葉で、晴香が下唇を噛んで笑う。そして、小さく肯いた。 そこで、今の部屋を引き払うよう提示する。家賃や光熱費も、返済に回せるだろうと言い包め、何やら納得した晴香が、それを受諾した。 それでも、毎月数万を、晴香は俺に支払う。経理の人間らしく、事細かに計算された明細とともに、自分が俺に負担させている金額だと言いながら、俺が受け取るまで引き下がらない。 渋々受け取りながら、身体で支払ってくれれば良いのにと冗談を告げれば、憤慨した晴香に、春を鬻ぐようなことはできないと一喝された。 今考えれば、そんな契約を結ばなくて良かったと思う。多分、数ヶ月で俺は破産しただろう。 若気を隠すように、掌で口元を覆ったところで、しみったれた顔の主が、文句を呟いた。 「それは借金ではないだろうに。人様の好意を」 この人の言い分も解る。だから、晴香の真意を遠回しに告げる。 「堂々と会いたいんだと思います。その足長おじさんに」 すると、俺と同じように掌で口元を覆いながら、くふくふと笑いを殺しきれない口調で、又もや呟く。 「そんな回り諄いことをせずとも、幾らでも会えるだろうに」 何やら、感動の対面を妄想していそうなこの人に、その勘違いを訂正してやらねばならない。 「晴香には、お父さんがちゃんといますから。そうでもしなければ、会う理由がないのでしょ」 嘲笑いながら堂々と言い放てば、憤然としながら、俺の言葉に文句をつける。 「お、お父さんとは、嶋田のことか?」 「そうですよ? 嶋田さん以外に、何方が居るというのでしょう?」 我ながら、意地悪だと思いつつ、相手が事実を認めないのだから仕方がない。 そのくせ、気に障れば、向きになって絡んでくるから堪らない。 全く、晴香の周りには、不器用なくせに分かり易い、大の大人が蔓延り過ぎだ。 「大体、仲人をお願いしたい方が、お二人とも独身なんですが」 「私と嶋田は駄目だ。互いに、ハルちゃんの親族席筆頭へ座ると決まっている」 「え? 何で社主が親族席に座るんですか? というか今、ハルちゃん言いましたよね?」 晴香との未来を描くからこそ、職を失うことが怖い。けれど、それを免れ、間諜に配属されても、それはそれで厳しい。 同じ社へ勤める晴香へ、自分の全てを、包み隠さなければならなくなる。 私生活に措いては無垢な晴香だが、仕事面と為れば、社内でもかなりの兵だ。 そんな晴香相手に、遣り通せるわけがない。小さな嘘を守るために重ね、軈てそれは大きな塊となるだろう。 それは、俺が目指す、願う、関係ではない。本音でぶつからなければ、晴香には届かない。 けれど蓋を開ければ、全く予想外の展開が、俺を待ち構えていた。 略、二週間ぶりに社へ出勤した晴香は、課の後輩等に囲まれ、下唇を噛んでいた。 柔らかく結い上げられた髪と、ほとんど化粧の施されていない顔。 俺の部屋からの出勤だった為、事足りなかっただけの話だが、今までとは全く違う晴香の印象に、経理部の誰もが沸いていた。 それでも、仕事が始まれば、鬼の復活だ。手厳しさを和らげる気など毛頭ないらしい。 けれどあの、透明な有刺鉄線は何処にも見えない。 そして、誰もが何よりも聴きたかった言葉が、晴香の口から零れ出た。 「五十嵐、すまんが是をやってもらえるか?」 五十嵐と呼ばれた部下の、はにかむ姿がとても良かった。 晴香に頼まれる。それは、信頼と評価に繋がるのだろう。 妙な達成感に浸りながら、我が部へ足を運べば、俺の姿を見るなり、部の誰もが固まった。 何事だと、辺りの空気を嗅ぎ取ろうとした矢先、谷石部長が俺の元へ歩み寄り、明快に告げる。 「山下、掲示板を見なかったのか?」 「あ、すみません。経理から直接此処に来たもので」 「お前の正式な移動が決まっている。掲示板を見てから、直ぐに社主室へ赴け」 間諜だ。ここまで早く動かれるとは思っていなかった。 けれど谷石部長は、移動だと言った。どうやら首は免れたらしい。 さて、飛ぶか、間諜入りか、俺の運命はどちらだ―― ・本社、海外事業部・山下 光 ・以上の者を、本日付で社主室・秘書に任命する。 「う、嘘だろ……」 道理で、皆の目が可笑しいと思った。今の部からすれば、是は紛れもなく、立派な左遷だ。 どんな失態をやらかしたのかと、皆が聞くに聴けず、戸惑っていたのだろう。 どうやら俺は、間諜の存在を知り得たものの、間諜入りできるほどの器がないらしい。 さらに、飛ばすことも出来ず、社主、間諜の足元で、飼い殺される運命らしい。 意気消沈しながら、その足で、最上階の社主室に向かう。 ところが、所謂、古株と呼ばれる面々は、是がどんな意味を成すものか知っているらしく、俺と擦れ違う度、動きを止めて一礼する。 部長クラスの面々にまで辞儀をされたとき、とてつもなく、厭な予感が駆け巡った。 一体俺は、これから、どんな任務を司るのだろう。 自社ビル最上階には、大会議室と社主室の二部屋しか設けられていない。 階下のフロアは、多種部が犇き合っている坪数なのに、最上階は厭に閑散としていると思う。 そのくせ、社主室はそこまで広くない。変な造りだと常々感じてはいたけれど、漸くその謎が解けた。 数回のノック後、開かれた社主室の扉向こうには、社主ではなく、嶋田さんが待ち構えていた。 「これはこれは、山下くんではないですか」 相変わらず飄々と、素顔を隠した仏顔で俺に握手を求め、嶋田さんは俺を室内へ導く。 平常心を保とうとしても、それは無理だ。内臓という内臓が軋み、込み上げる吐き気を呑み込んだ。 室内に社主は居なかった。それでも、自室のような動きで、嶋田さんがゆったりと歩む。 部屋中央まで進むと、嶋田さんはつと振り返り、にやと一笑いした後、書籍棚を脇から押す。 まるで映画のワンシーンの如く、棚がスライドし、其処に大きな壁が現れた。 呆然としながらその光景を眺めていれば、物の見事に壁の一部が開く。 今思えば、あの社主が遣りそうな仕掛けだ。兎に角、スパイ映画が大好きな我が社主は、至る処に、お気に入り映画の様相を取り入れる。 けれど、そのときのように、何一つ知らない者にとってのそれは、恐怖に近い。 監禁、牢獄といった単語が頭を埋め尽くし、開かれた壁の向こうに、足を踏み入れることが怖い。 それでも、嶋田さんが壁の向こうへ消えてしまうと、室内へ取り残された方が心細い。 戦々兢々としながら嶋田さんの後を追い、覚悟を決めて壁の中へ足を踏み入れる。 すると、その先には、広大且つ、機能的な事務所が広がっていた。 此処は間諜だ。だから社主室は、敷地面積に比べ、こぢんまりとした造りになっているのだろう。 さらに、自分の眼にしている全てが信じられなかった。 あの人もこの人も、早々たる面子が雁首揃えて俺を待っている。 「追々、お前自身で、自分の役目を解って行くだろう。だが今、お前に伝えなければならないのは、事実上、私たちはお前の部下になるということだ」 「は?」 唐突に声を掛けられ、その内容が全く解らず、半分口を開けた間抜け面で、嶋田さんを見た。 すると嶋田さんは、要約し過ぎる程の纏め方で、核心を説く。 「間諜は、社主のためだけに動く。そしてお前は社主の秘書官だ」 俺はどうやら、重大な一文字を逃して掲示板を読んだらしい。否、違う。態とそう記載されていたんだ。 秘書と秘書官の差は歴然だ。どちらも、要職にある人へ直属するが、機密事項の取り扱い方が違う。 我が社の秘書課は、セクレタリー。つまり、書記の意味合いが強い。 けれど、秘書官は違う。その人の半歩下がった隣に佇み、全ての行動を共にする。 そこで想い馳せる。今まで我が社主に、そのような者が隣に居ただろうか。 「歴代の……」 思い余って口を開けば、その先は言わずとも解る口調で、嶋田さんに切り返される。 「社主に秘書が宛がわれたのは、三十年程前のみ、ただ一人だけだ。由って、前任は居ない」 頭が轟音を立てて、回転しているのが解る。なるほど。段々と、その絡繰りを解明できそうだ。 三十年前、その役に着いていた人間。そしてそれ以後、社主が後任を宛がわなかった職。 社主、嶋田さん、晴香の関係を考えれば、自ずと答えは出る。 「前任は、晴香の母ですね?」 けれど嶋田さんは、それを肯定も否定もせず、ただ前を向く。 そこでまた考える。何故俺は、三十年の時を経て、この職に着任したのだろう。 ふと、鴨井のことを思い出した。 逆玉。晴香との結婚を考えるが故、この役に抜擢されたのだろうか。 もしそうならば、それは辛い。引かれたレールの上を進むのが厭だと、子ども染みた啖呵を切って、俺は家を飛び出した。それなのに、射止めた女性のお蔭で、此処に居るのは意に反する。 晴香のことは手放せない。何が起きても、手放すつもりなど毛頭ない。 それでも、この職を退くことは出来る。 「嶋田さん、俺は」 意を決し、辞任の旨を伝えようと言葉を発するけれど、俺の思考を読んだ嶋田さんの反論が入る。 「晴香とのことがあるから抜擢されたとでも? そんなもので大事な役を渡せるか」 そこで、忍び笑いを漏らしながら、人事部長の折原さんが、俺たちの会話に割り込んだ。 「帝恵の異端児として、面接時から、君は目をつけられていたよ」 そう言われるのも無理はない。俺は、この種の職に不釣合いな、医大出身の身だ。 当然、面接時にそれを突かれ、当たり障りのない、模範解答たるもので返答をしたけれど、俺の面接官はこの折原さんだ。間諜の人間を、そう簡単に遣り過ごせるはずがない。 そして、続く折原さんの言葉で、俺は研修時から、試練を受けていたことを知った。 「だから私は、君に鴨井を宛がった。意味は解るね?」 さらに其処へ谷原部長が加わり、その後の経緯を話し始める。 「松坂と私の、どちらがお前を捕るか散々揉めて、結果、私がお前を捕った」 松坂とは、営業一課の課長名であり、当然、今も、この場の前衛に座っている。 座る位置からして、間諜のトップは、間違いなく嶋田さんだ。そしてその脇に、社内でもやり手と呼ばれる、部長、課長たちが配置付く。 この面々が、社主が社主と成ってから、覆面として、内部調査を執り行っているのだろう。 その後方に、葛城先輩を始めとする、若手の外部調査部隊が控えている。 総勢十二名。それが社主直属の部隊であり、これから俺の部下になるという。 「お前は間違いなく間諜へ移る予定だった。けれど菊池女史との件で、それが変更された」 谷石部長の言葉で我に返った。嶋田さんは違うと言い切ったが、やはり多かれ少なかれ、この件に関しては、晴香と俺の関係が絡んでくるのだろう。 その意図は解らない。それでも、一つだけ確かなことがある。 俺はこれから、最大の試練を受けるということだ。 しかも、至極冷静に、冷酷なまで、その挙動を監視される。 何てことだ。この部屋へ足を踏み入れてからというもの、胃の痛みは治まらない。 何の経験も能力もない俺に、務まるのだろうか。否、務まるはずがない。 けれどその後、漸く姿を現した社主のお蔭で、決心がついた。 それは、俺の心を見透かしたような、自らの過去を吐き出したような、社主の言葉が切っ掛けだ。 「結婚に拠る富貴の身分など、所詮、絵空事だ。身分違いで輿入れし、幸得た者など私は見た例がない」 その言葉は、強く身に沁みた。母がそれで苦しんでいたことを、俺は知っている。 共に出席する会が大きければ大きいほど、母への差別と蔑称が、あからさまに聴こえたと母は泣く。 小さなことでも失敗すれば、重箱の隅を突かれ、身体に流れる血を呪われる。 けれど世継ぎとなる俺を産み、それは少し緩和されたと母は言った。 それなのに俺は、そんな母に背を向け、我が道を貫いた。そのことで、大なれ小なれ、母への罵詈は増えただろう。 世継ぎを世継ぎに教育できなかった駄目母。そんな格付け評価を母に貼らせたのは俺だ。 それでも母は、幸せだと言い切る。 『お前の代わりは、何処にも居ない』 父が、不器用に投げつける言葉。そんな言葉に、母は笑みを浮かべて咽び泣く。 「どちらかが音を上げるか、共に倒れるかだ」 俺の家とは、位が違う。資産も背負うものも、凡人には程遠いものだ。 それでも思う。頭から、そう決め付けないで欲しい。もしそれが晴香ならば、きっと音を上げたりしない。 そして俺の母も、音を上げたりしていない。 「お言葉ですが、音を上げない人間も居るのですよ」 「ふん。お前は、嶋田のような男だな」 其処で漸く覚悟が決まった。俺はこの人に、それを証明しなければならない。 こうして動き出した、新たな職務。 「出会った全ての人間の顔と名を覚えろ。何か引っかかるものがあれば、それを全て間諜に回せ」 そうやって、この人は、穏やかに笑いながら、直感と経験で人を捌いて行く。 否、裁くと言った方が良いのかも知れない。 どこぞの会長、社長、専務。幾度と会い、面識のある者ですら、直感が働けば、その者のファイルが間諜へ回る。そこで間諜が動き、人知れず不正を暴く。 これが、この人の遣り方だ。それが社員だろうが、身内だろうが、徹底的に不安を拭う。 この人に、食らいついていくのが精一杯だった。機転を効かせるどころか、隣にも並べない。 この半年間は、本当に、あっという間だった。 漸く息ができるようになったというのも、大袈裟な話ではないと思う。 そして、この人に対する接し方も、対処の仕方も、やっと要領を得た。 大空。この人は、大空と書き、ヒロタカと読む。本当に、その名の通り、掴み処がなく広い。 大空晴れる。晴香の母も、面白い命名をしたものだ。そして嶋田さんの名を合わせると、益々凄い。 俺には、この三人に、何が起きたのか知る術がない。きっとそれは、永久に語られることがないだろう。 それでも、誰もが晴香を愛していることだけは伝わる。 当初は、非道だと冷酷だと思っていた社主のことも、今は全くそう思えない。 それは、七五三から始まる、晴香の歴代記念写真を、肌身離さず持ち歩く人だからだ。 会いたくても会えない。宣言したくてもできない。そんな事情があったのだろう。 だからそれを、嶋田さんに託し、嶋田さんの目を通して、晴香の成長を見てきたのだと思う。 現に今でも晴香は、毎月、欠かすことなく嶋田さんと会食をする。けれど、同じ日、同じ時間、そして同じ場所に、社主も予約を入れる。 きっと晴香は、何一つ気づいていないだろう。けれど、其処で話した全ては、社主に筒抜けだ。 そして、俺にも筒抜けだというのに、社主も嶋田さんも、事実を懸命に、白々しく隠す。 それは俺に、色々と思惑があるからで、そしてその思惑を、直感で知り得た社主は、下品な笑みを湛えて俺に問う。 「同棲半年で、ハルちゃんの浮気疑惑? お前、捨てられちゃうの?」 「莫迦じゃないですか? 何で俺が…というか、今また、ハルちゃん言いましたよね?」 一番に出てくる荷物を二人分受け取り、国内線空港のロビーに流れ出る。 其処には当然、迎えの者が待ち受けていて、俺の荷物も纏めてカートに乗せた。 何時もの光景だが、今日は違う。社主が迎えの者を止め、俺の荷物を下ろせと命じてから振り返る。 「今日はもう、此処で帰宅して構わない」 「ですが……」 俺の反論を掌で制し、迎えの者に聴こえないよう、意地悪く囁いた。 「直感は働いても、其処に間諜は使えないじゃ〜ん?」 「こっ、この…あ、いえ。では、お言葉に甘え、これで失礼します」 カートから荷物を受け取り、社主に辞儀をする。 そこで、真顔に戻った社主が、鋭い視線とともに言い放つ。 「山下、本当に菊池くんが、そうだと思っているのか?」 だから、ここぞとばかりに、きっぱりと言い返す。当然だ。此処で退けば、相手の思う壺だ。 「いえ思っていません。早くこの腕に、抱きたいだけです」 「こっ、このっ…あ、いや、ご苦労だった。けれど、は、や、く、休むように」 部屋に直帰をしたところで、肝心の晴香はまだ、社から帰宅などしていない。 こういった孤独な空間を垣間見ると、晴香の具合が悪かった頃を、思い出さずには居られない。 あのベッドで俺の帰りを待っていた晴香。そんな姿が懐かしい。 苛立ち紛れに、荷物を放り投げ、ソファーに深く沈んで、物思いに耽る。 苛々しているのは、此処に晴香が居ないからではなく、この三日間の晴香が齎せた態度だ。 何度電話を掛けても素っ気無く、逆に晴香からの電話は一度もない。 さらに、電話を掛ける度、明らかに雑踏の中であり、言い訳がましい返答が洩れる。 「いや、その、ちょっと急用で外に出ている」 社主の言葉ではないが、本当に晴香が浮ついた心で動いているとは思っていない。 それでも、俺には言えない、疚しいことを抱えているのは確実だ。 顰め面のまま腰を上げ、考えを纏めようと、風呂場へ向かう。 昔から、風呂は考え事をするのに最適な場所だった。それでも今日は、湯を張るのが面倒で、シャワーだけに留めて、立ち浴びる。 どのくらい呆けていただろう。突然、風呂の扉が開き、捨て台詞とともに、瞬く間に閉められた。 「居たのか。なら良い」 水音で、物音が掻き消されていたとは言え、是には流石に驚いた。 晴香が、態と仕出かした行動ではないけれど、それでも言い方があるだろう。 慌てて湯を止め、水滴を払った程度の腰にバスタオルを巻きつけ、晴香の下へ駆け寄った。 「晴香? 久しぶりに顔を合わせられたのに、言うことはそれだけ?」 「久しぶりではないだろう。高だか三日だ」 無理に用事を作り、俺から逃げ惑う晴香を見て、浮気疑惑は直ぐに解消された。 この素直さから掛け離れた女性は、半年経っても、俺の裸体に慣れることがないらしい。 「晴香、お帰りでしょ?」 晴香の腰を捕まえ、無理矢理に抱き留め文句を囁けば、下唇を噛んだ晴香が、ぼそと呟く。 「お、お帰り」 「俺が居ないと淋しくて、死んじゃいそうだったんだね」 「帰宅早々、間抜けなことを……っ」 素直じゃない晴香の唇を塞ぎ、片手間でスーツのボタンを外して、上から剥ぐ。 キスに溺れ、朦朧としていた晴香でも、流石にブラのホックを外せば、我に返る。 「や、やめっ…私はまだ……」 この台詞は、行為の否定ではない。だからその言葉の先を呑み込み、勝手に断言した。 「俺が洗ってあげるよ。昔みたいに」 「いい! 遠慮す…やめっ」 抵抗しても無駄だ。どんな邪魔が入ろうと、今日は抱く。今日こそは抱く。 抵抗に虚しさを感じたらしい晴香の髪を洗い、上を向かせて泡を流す。 「晴香、この三日間、何があったの?」 「別段、これといって何もない」 瞼を閉じ、淡々と白を切る晴香に、眉を顰め、逆襲を試みた。 「社主に、晴香は浮気疑惑を掛けられているよ?」 そこで、驚きに目を瞠り、手で垂れた泡を拭いながら晴香が喚く。 「な、何故、そんな話になるんだ」 「だって、晴香が疚しい動きをしていたからでしょ?」 「だからって、社主にそんなことを」 「あのね、うちの社主を嘗めたら拙いよ? あの人、あれで凄いから」 何やら、晴香は晴香なりに、我が社主像を思い描いているのだろう。俺の言葉で押し黙り、それから疑惑を払拭しようと口を開く。 「とにかく、そんなことは断じて」 「じゃ、何があったの?」 そこでスポンジを泡立て、少し力を込めて晴香の背中を洗えば、当然文句が飛ぶ。 「痛っ。もっと優し」 自分の失言に気づいた晴香が、途中で言葉を切った。けれど、後悔してももう遅い。 「そう? じゃ、手で洗うね」 「ち、違う。そういう意味では」 スポンジを握り締め、泡を掌に落としながら、晴香へ脅しを掛ける。 「さあ晴香、白状しないと、大変だよ?」 すると晴香の目が泳ぎ始め、嘘ではないが、確信から逸れた回答を叫ぶ。 「お、お母さんと会っていたんだっ」 「誰の? 俺の?」 母と会っていることを、俺に隠す必要は何処にも無い。現にこれまで、幾度となく二人は出掛けている。 大概、母から晴香を誘い出し、あれやこれやと、晴香を連れ回すのだが、意外にも、晴香はその行為を好意と取って嬉しがる。 嘘や媚び諂いが、苦手な晴香だけに、意見が相違することも多々在るらしいが、そのくせ、数日経てばまた、それを忘れたかのように、俺を抜いて二人で買い物に勤しむ。 「なんでそんなことを、俺に隠すの?」 全くもって気に入らない。何を隠しているのか、白状するまで追い詰めると決めた。 「光には言うなって…っ、お母さんが、っ」 泡で包みながら、両手で乳房を揉みしだく。ぴんと張った乳首を指で挟めば、晴香の言葉が詰まる。 ところがそこで、視覚と触覚が晴香の異様を感じ取り、動きを止めて疑問を呟く。 「あれ? なんか、晴香の身体……」 異様と言っても、悪い意味ではなく、逆に良い意味でなのだが、何かどうも腑に落ちない。 泡を纏っているとはいえ、肌の滑らかさがいつもと違う。 さらに、胴の括れが、以前よりくっきりしているような気もする。 その言葉は、どうやら核心に迫ったらしい。 逃げに走った晴香は、纏った泡を素早く流し、そそくさと風呂場から脱出する。 そんな晴香の行動に戸惑いを覚えながら、自分の身体も洗い流し、脱衣所へ躍り出た。 俺に指摘された身体を隠そうと、躍起になってバスローブを着込む晴香に手を伸ばし、抱き寄せたところで、観念したように晴香が啖呵を切る。 「ちょ、ちょっと綺麗になりたかったんだっ」 言葉の真意が解らない。多分、母と一緒にエステか何処かで、美容術を受けたのだろう。 それでもそれを、何故、今始めたのかが解らない。 「何で今頃、そんなこと考えたの?」 女性特有な美の追求と言われればそれまでだが、今までの晴香に、それを当て嵌めるのは難しい。 何か、切っ掛けがあるはずだ。そこで漸く、その動機を、晴香が口にした。 「それは、その、ここのところ……」 赤みを差す晴香の頬に、遣られた。またこの無垢さに射られ、囚われたように動けなくなる。 此処のところ富に忙しく、全てが国内とは言え、出張も多く続いた。だからと言ってはなんだが、自分の仕事に精一杯で、晴香を抱く余裕がなかった。 そんな俺の行動を、晴香は自分の所為だと考えたらしい。 「俺のために、磨いてくれたの?」 晴香は綺麗だ。心も身体も何もかも。晴香の想いに気づいて遣れなかった自分が情けなる程に。 俯きながら顔を背け、両手で拳をきゅっと握り締める晴香。そんな晴香を抱き上げ、ベッドに運ぶ。 丸まった晴香の指を、そっと伸ばしながら、心を籠めて、手の甲へ口付ける。 「では、心行くまで、ご馳走になります」 「む、無理にしなくても……」 「冗談でしょ? 今日は、嶋田さんから電話があっても、止めてあげないからね」 晴香を抱く度、言い表せない優越感に包まれるのは、俺の色に染まっていくような、俺の手で開花させたような、育成に似た感が齎すものなのかも知れない。 それでも、そんなことを口に出せば、晴香は憤懣やる方なく、肩を怒らすだろう。 私は私であり、誰かに調教されるようなことは、断じて許せないと、静かに怒りを語るだろう。 それはそうだ。これはただ、独占欲、征服欲に塗れた、俺の勝手な悦びだ。 「ぁっ…っ」 しっとりと滑らかな肌に唇を這わせ、指は甘く溢れる愛液を絡めて、小粒な花芽を捏ねる。 回を重ねる度、羞恥を煽る激しい愛撫を加え始め、今では略、抵抗することが無い。 初めて秘裂に唇を当てたとき、晴香はその汚辱に耐え切れず、泣きながら抗った。 それでも強引に事を推し進め、汚辱も屈辱も、吹き飛ぶまで延々に続け、快楽を得て今に至る。 「んっ、ぁ、ぁ、んんっ」 その後の数日間、目が合うだけで、逃げ惑われたことが嘘のようだ。 蕾を舌で転がせば、両手の甲を額に押し当て、控えめな嬌言を吐き出す。 執拗に蕾を舌で溶かして弄び、ふっくらと充分に膨れ上がったところで、きつめに吸いつく。 瞬間、一気に晴香の全身が緊張し、俺の髪に両手を這わせながら否定を叫ぶ。 「んぁっ、いやっ、だめっ…ぁっ、や、やっ」 けれど今日は、爆ぜさせない。漸く、柔襞での快楽に目覚め、絶頂に達することができるようになった晴香だ。俺自身を求めさせたい。だから愛撫では行かせない。 爆ぜる寸前を見切って、ひたと動きを止めた。すると晴香の瞼が、ゆるり惘然と開かれる。 ひくと揺れる花唇の動きが止むまで待ち、見計らって、新たに蕾を吸い上げた。 さらに、中指をつと差し込み、絃を弾くように襞の皺一つ一つを擦れば、晴香の声が上擦り噎ぶ。 「んくっ、ふぁっ…ぁ、ぁ、んんっ」 爆ぜさせてくれと、襞が俺の指に絡みつき、ひそひそと揺れ囁く。 腿も小刻みに震えながら、俺の頭を挟んで、止めないでくれと懇願する。 けれど、願いを叶えてはやらない。晴香が求めるまで。俺の名を叫ぶまで。 「お、お願い…だめっ、お願いっ」 鼻頭で包皮を持ち上げ、張り詰めた剥き出しの肉芽を、厭と言うほど掬い舐めながら、二本に増やした指で、一際ざらつく襞を掻けば、堪らず晴香が懇希を繰り返し始めた。 それでも是は、俺の求める願いではない。だから晴香へ意地悪く問う。 「何のお願いなの? やめて? イカせて? それとも……」 「ひか、おねが…だめっ、きてっ、きて、光っ!」 これだ。これが堪らない。我を忘れて、本能が俺を求め、俺を呼ぶ。 晴香の深い部分にまで、自分が入り込んでいると解るから、独占欲が満たされ、愛しさが増す。 俺の願いは叶った。だから今度は、晴香の願いを叶えたい。 「んっぅっ!」 花唇を数度なぞってから、一気に自身を埋め込んだ。 けれど、熱く潤う襞に、絞るよう締め上げられ、俺の眉間にも筋が入る。 「…っ、晴香の中、すごく気持ちいい」 内襞を押し広げ、俺の形痕を遺すように焦らし、抉る。 今にも達しそうに、襞がやわやわと蠢いているけれど、晴香はそれに満足できないらしい。 俺の腰に足を巻きつけ、切なそうな瞳で、もっともっとを要求する。 「晴香、それじゃ、俺が先にイっちゃう」 微苦笑を浮かべながら囁けば、その言葉で、ほわと柔らかい笑みを浮かべた晴香が、気を弛めた。 その隙を逃さず、身体の芯に響かせるよう、強く深く、塊を叩き込む。 「ぁぁぁぁっ! ずる、ひ、ひきょ…ぁぁっ、だめ、やめ」 優美な曲線を描いて反りながら、晴香が文句を叫ぶ。そんな晴香を見下ろし、不敵に告げる。 「甘いよ、晴香」 最奥まで突き上げ、浅く引いては叩き込み、何処までも晴香を追い込んで行く。 頭を何度も横に振り続けながら、乱れに乱れた晴香が爆ぜる。 「お、おかしくなるっ、やめっ、もう、ああっ…んっっっ!」 弛緩して行く身体とは裏腹に、絶頂を迎えた晴香の襞は、痛いほど俺を締め上げた。 「…くっ」 俺の口から鋭い呼気が漏れ、余韻に浸る晴香が、とろりとした瞳で俺を見つめる。 その瞳で、俺が蕩けてしまいそうだ。 晴香に包まれ、直ぐにでも爆発したい。全てを解き放ち、注ぎ込んでしまいたい。 けれどそれよりも、その顔がもっと見たい。その顔をもっとさせたい。 「ぁぁぁっ、くっ、ああっ、ひか…光っ」 俺に爆ぜろと君が求めるまで、そのうっとりとした顔を、幾度も俺に見せてくれ。 「ごめんね晴香。でも、晴香の所為じゃないんだよ。俺に余裕がなかったんだ」 未だ顔を上気させた晴香は、自分の誤解を受け入れた上で、ゆったりと問う。 「今の部署は、そんなに大変なのか?」 「ええ、それはもう。誰かにそっくりな、意地悪さんのお陰でね」 そこで、天井に視線を走らせ、何かを回想するように、晴香が呟いた。 「そう言えば、そんなことを嶋田も言っていたな」 「ん? 嶋田さんが何て?」 肩や蟀谷にキスを施しながら問えば、擽ったそうに身体を縮めて、その答えを吐く。 「いや、山下は、よくあそこまで食らいついていると、珍しく褒めていた」 珍しいという形容詞は気になるが、あの嶋田さんが漏らしたという評価に、照れが芽生えた。 それでも、それを晴香に悟られないよう、話を摺り返る。 「というかさ、エステだよね? 晴香、そんなに散財して平気なの?」 すると、何とも言えない、満足気な笑みを浮かべ、主語を抜かした言葉を晴香が告げた。 「その、実はだな、終わったんだ。でも、今回のはお母さんが」 思い違いは、もう充分だ。だから、晴香の言葉を強引に切って、きっちりと主語を問う。 「終わったって、借金を貯め終えたってことだよね?」 「そ、そうだ。一応、勝手に算出した概ねの金額ではあ」 「じゃ、もう一回、しよう!」 「な、なんでそうなるんだ」 真顔で驚く晴香を抱き寄せ、早くも昂ぶり始めた自身を腿に押し付け、囁く。 「え? 晴香の中で爆ぜたいから。何も着けず」 「だっ、だめだ、待っ」 俺の言葉に狼狽し、慌てふためく晴香を組み敷いて、強引に唇を奪う。 「晴香、愛してるよ」 「そ、そんなことを言われても、駄目なものは」 「あ、晴香、この間読んだんだけどね? イクと男の子が出来る確立が高くなるんだって。なんかね……」 どうやらこの愛しい女性は、女の子が欲しいらしい。 必死で耐え、絶頂を回避しようと躍起になっている姿が、また狂おしい。 けれどそれは、晴香を抱きたい俺の言い訳だ。まだまだ晴香を独り占めしていたい。 それでも、何時かそのときが訪れれば、俺は泣くのだろう。そしてそれが、次に俺の泣くときだ。 晴香、晴香。君に出会えたことを、心から誇りに思う。 至らない俺だけれど、君にとって忠実な者で在りたいと願う。 だから、俺の差し出す手を取ってくれ。その手の甲に、永遠の誓いを印し続けたい。 代わりに、愛していると囁いてくれ。 偶にでいいんだ。君の囁くそれは、眼に見えなくても本物だと伝わるから。 「ひ、光?」 「ん?」 「や、その…あ、愛してる……」 |
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