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 此処から紀伊までの道程は、数百キロ程に及ぶ。本来ならば公共の移動手段を選ぶのだが、今の晴香ではそれが無理だ。
 だから車での移動を嶋田さんへ申し出たものの、既に車の手配は終わっていると告げられた。
 平日である今日、親類ではない者の不幸に忌引きは使えない。それでも通常ではない晴香の様子に不安を覚え、欠勤の旨を嶋田さんへ伝える。
「ですが、俺も……」
 けれど嶋田さんは、解っているとばかりに俺の言葉を遮った。
「谷石には話を通してある。山下、お前も迎えの車へ同乗してくれ」
 谷石とは、海外事業部の部長名だ。どう考えても、経理一課の課長である嶋田さんより、谷石部長の方が階級的にも上だ。その部長へ、上から物を言える嶋田さんを訝しく思う。
 それでも、そんなことを何時までも考えている暇はない。だから、迎え来た運転手付きの車に晴香と乗り込み、一路紀伊へ向かう。

 途中休憩を取りながら、昼前に目的地へ到着した。
 既に嶋田さんは到着しており、数人の部下らしき人間に、あれこれと指示を出している。
 挨拶も其処其処、晴香は喪服に着替えるため、係員に誘導され別室へ姿を消し、残された俺は嶋田さんの下へ歩み寄る。
「私にも、何かできる事は」
「こっちは良い。晴香の傍に居てやってくれ」
 すると其処へ、書面の綴じられた数冊のファイルを片手に、喪服ではないスーツ姿の人間が現れた。
 その人は俺の姿を見やり、微かな苦笑を浮かべると、無言のまま俺に頭を下げる。

 葛城先輩だ。数年前に退職したはずな、海外事業部切ってのホープと呼ばれた葛城先輩が、何故か此処に居て、嶋田さんからの指令を待っている。
 そこでようやく悟った。嶋田さんは覆面だ。隠密やスパイと称される、間諜の人間だ。
 社内にも、覆面が数人配置されているという噂はよく聞いた。
 嶋田さんは、一課の課長という建前職に就き、経理という部門から、内部調査をしていたに違いない。
 考えれば直ぐに気づいたはずだ。嶋田さんの切れ者具合を、今更ながら思い出す。
 そしてそれを踏まえれば、谷石部長は嶋田さんを間諜と知っているからこそ、下手に出る。つまり、谷石部長もまた、覆面ということだ。

 覆面は、エリートの上を往っていなければ勤まらない。だからこそ選良がその職に就く。
 数年に一度、葛城先輩のような優れた人物が、忽然と退職してしまうことがあった。
 漸く納得した。それは退職という仮の形を象り、間諜へ移動になったということだ。
 そして俺は此れを公然と見た。状況が状況だとは言え、己の置かれた立場が解って青褪める。
 俺にはもう、間諜に引き抜かれるか、飛ばされるか、将又、首の三択しか残されていない。
 そんな俺の思考を読み取った嶋田さんが、外面だけ穏やかさを保って静かに告げる。
「表立ち、私はお前に是を見せた。意味は解るな?」
「はい……」
「解っているならそれで良い。今はもう、何も考えるな」

 俗に言う老人ホームと呼ばれる場所で、晴香の祖母は、十日間の昏睡状態の末、帰らぬ人となった。
 嶋田さんは全てを把握していたものの、晴香の状態を考え、それを告げることなく今に至る。
 喪主は長男という、晴香の母の兄である人が務めていた。とても気弱そうな人だった。
 現に、全てを取り仕切っているのは、この人ではなく、その嫁だ。
 足を患い、動くことが不自由になった祖母を此処に入居させたのは、自分だと嫁は皆に告げていた。介護が酷く大変だったのだと、胸の心境を語り続けている。
 それでも、頭の下げ方から判断するに、この全費用は嶋田さん側から送呈されたものだと思う。
 だからホーム斎場の係員は、皆が皆、この夫婦ではなく、嶋田さんに確認を取っているのだろう。

 其処に、喪服へ着替え終えた晴香が現れた。
 安定しない足取りで斎場へ導かれる晴香に、その夫婦が駆け寄って行く。
 親族ならではの挨拶が、執り行われるのだと思っていた。だから俺は一歩下がり、輪に加わることなくその光景を眺め見る。
 けれど、その夫婦が真っ先に切り出したことは、挨拶ではなく、遺産の話だった。
 祖母の家に、その夫婦が住んでいるのだろう。先ずはその土地家のこと。さらに僅かな貯蓄や、家財道具にまで話は及んで行く。

 晴香はただ呆然と、声なく静かに首を横へ振り続けていた。
 こんな馬鹿げた話よりも、祖母の顔を見たかったのだろう。話半分で、白い布に覆われた盛り上がるベッドへ、幾度となく視線を走らせている。
 それでも相手は確証を欲しがった。だから、仕草だけで想いを伝える晴香に苛立ち、執拗にそれを問い詰め続ける。
 何の権限も持たない付き添いなだけの俺が、この件に介入することは出過ぎた真似だ。
 けれどこれ以上は許せなかった。故人の前で、そんな下世話な話は慎むべきだ。
 況して、身寄りのない晴香にとって、親族という存在はとても大きい。何故その晴香に、思い出の一つも語ってやることができないのだろう。
 大きくなった。お母さんに似ている。そんな他愛もない会話で良いんだ。
 そんな言葉が、どれほど晴香を癒すか、この人たちが知らないはずはない。

「晴香、全てを放棄するんだろう?」
 晴香に歩み寄り、腰を抱き支えながら、ゆっくりとした口調で切り出す。
 本当は、非常識だと、故人を尊べと、声を荒げて言ってやりたい。
 ふざけるな、お前等は何様だと、怒鳴りつけてやりたい。
 それでもそんなことを言ったところで、この話は解決しない。それどころか余計複雑になるだけだ。
 晴香は俺の言葉を聴き、憤然と顔を上げ、当然だとばかりに強く肯いた。
 憤りを隠し、穏やかに微笑みながら、それを相手に見せ付け言葉を返す。
「ということだそうです。法的手段は、全てそちらにお任せしますよ」

 そこでようやく、嶋田さんがその場へ介入し、俺の肩を一度だけ叩くと、相手へ向き直り話始める。
「菊池さん、この場での其れは、余り関心できたものではありませんね。一切の遺産放棄ということで、こちら側から……」
 これだ。俺は何時まで嶋田さんに試されるのだろう。晴香の隣へ正式に立てる日がくるまで、否、正式に立てたとしても、俺はこうして嶋田さんから試され続けるのだと思う。
 けれどこれは、試されたというより、意地悪をされたと言う方が、近いかも知れない。
 俺の隣で眠る晴香を起こしたと、嶋田さんは知っている。それに対しての細やかな仕返しだ。
 その証拠に、少し意地の悪い笑みを湛えて、嶋田さんが俺をちらと振り返った。
 まるで嶋田さんは姑だ。舅ではなく姑だ。そして、厄介な人を姑に持ってしまったと思う。
 それでも構わない。晴香が傍に居ない日々を想うより断然良い。

「お祖母ちゃん……」
 床に膝を付き、ベッドに縋って身体を揺らす晴香。その場の誰もが涙腺を緩め、そんな晴香の姿に目元を押えるが、俺と嶋田さんだけは驚きで目を瞠っていた。
 本人すら気づいていない。今、晴香は喋っていた。声を出して、祖母へ話しかけていた。
 そんな晴香へ、ホームの院長が声を掛ける。
「初さん、いい笑顔でした。何て素敵な笑顔で旅立つのだろうと、皆で話したほど」
 十日間、昏睡状態にあった晴香の祖母は、最期に、つと大きな笑顔を残したらしい。
 そんな話を聞きながら、晴香は隠すことなく涙を溢す。
 そして話の最後に、院長は晴香へ小さな包みを手渡した。
「晴香さん、これを貴女に渡そうと思って……」

 きっと、肌身離さず、晴香の祖母が携帯していたのだろう。
 京ちりめんを縫い上げた、お守り袋のようなその小さな巾着は、元の色が何色であったのか定かでない程、古び、色褪せていた。
 晴香は不思議そうにそれを受け取り、巾着の紐を解く。
 けれど、晴香の掌に零れ落ちた中身を見て、晴香ではなく俺が息を呑む。
 南京錠の鍵。巾着に入れられていたのは、何処にでもある、丸く薄く小さな鍵だった。
 そこで初めて俺は、恐々としながら晴香の祖母の顔を覗き込んだ。そして、その安らかな顔を見て取り、喉に熱いものが込み上げる。

 夕方、くぬぎの樹に、砂糖水を塗り終えた帰り道だった。これで明日は、ごまんと鍬形虫を捕まえられると、鼻高々に歩いていたときだった。
 夕暮れの海辺で、泣きながら腹を抱えて蹲る老女を見つけ、慌てて走り寄る。
「どうした、ばーちゃん、具合でも悪いのか?」
 老女は声を掛けたことで、はっと我に返り、涙を袖口で拭ってから俺を見上げた。
「あんたは、瀬尾さんとこのお孫さんだね?」
「瀬尾? あぁそうだよ。でも俺は山下って言うんだけどね」

 俺でも背負うことができそうなほど、小さく細いその人は、未だ身体を震わせ顔を歪める。
 きっと何所かが痛いに違いない。だから俺は、その人に背を向け、しゃがみ込む。
「ん、乗れよ。おぶってやる。病院に連れていってやるから」
 ところが老女は俺の背中におぶさることなく、痛みの原因を小さな声で呟いた。
「孫が、ばーちゃんの孫が、東京へ行っちゃったんだよ……」
 その言葉で、俺は老女に向き直り、聴きなれた響きの言葉を返す。
「東京? 俺も東京だぞ。夏休みの間は此処にいるけど」

 その人は、初めて少しだけ微笑んだ。そして何度も小さく肯きながら囁く。
「そうだったね。晴香って言うんだよ。東京でばーちゃんの孫に会ったら、仲良くしてくれな」
 俺は、そのとき何も考えてなど居なかった。会えたらいいね、くらいなものだった。
 それでも、老女の痛みを止めてやりたいという想いだけは募る。
 医者の子ども故に起こる、特有の感情なのかも知れない。

 だからズボンのポケットを弄り、手に触れたそれを取り出し、老女に差し出した。
「あぁ、絶対約束する。誓いの印にこれをやるよ。宝箱の鍵だ。だから元気だせ」
 宝箱の鍵だと喚きながら、道端で拾った小さな鍵。夢ばかりが沢山詰まった小さな鍵。
 そんなどうしようもない物を、俺は得意げに老女へ押し付けた。
 老女はこれが何の鍵なのか知っていたはずだ。それでもそれを握り締め、にっこりと笑った。
「有難う。これでもう、ばーちゃんは安心だ」

 胸が苦しい。あんなにも適当に交わした約束を、この人は生涯忘れずにいた。
 孫を、晴香を想い、この鍵に沢山の願いと希望を籠めたんだ。
 偶然とはいえ、この人との約束を、守ることができて良かったと心から思う。
 けれどそこで、ふと思い出す。この微笑む口元。この小さな鍵。
 夢の中の藍色ヴェールを被った老婆。俺の足枷を、懐から取り出した鍵で解いた老婆。
 祖母が昏睡状態に入ったとされる日、俺はその夢を見た。

「夢の老婆は、貴女だったのですね……」
 非現実的なことだ。都合の良い、こじつけに過ぎない。
 それでも思う。俺の十日間は、この人が与えてくれたものだと……
「感謝します。感謝し…ます……」
 恥ずかしい、見とも無い。そんな想いが片隅にあっても、声を抑えることができなかった。
 力なくベッド脇に崩れ、何度も何度も同じ台詞を繰り返す。
 そんな俺に晴香の方が戸惑い、躊躇いながらも背中を摩ってくれていた。

 俺は君に、泣き虫の称号を貰いそうだ。
 君と出会ってから、空っぽだった心が満たされ、すぐに溢れて零れ行く。
 心を奪われた者は、心を奪った者の傍に居ると、それが返ってくるのだろうか。
 そんな幻想に取り憑かれながら、晴香を見上げ、その頬にそっと手を当てた。
 目笑を交わし、晴香が俺の手を握り締める。その温もりを感じて、大きく息を吸い込んだ。
 君が居る。君が傍に居てくれる。ただそれだけで俺は満たされる。
 だから笑おう。大丈夫だと君に伝わるよう、想いを込め、感謝を込めて笑おう――

「あんたが初さんの、自慢の厄介者だね?」
 滞りなく進む通夜の席に、車椅子の老女が現れ、焼香を済ませた後、晴香の手を握り締める。
「初さんは、毎月あんたから届く封筒を、そりゃもう自慢げに、あたし等へ見せてくれたよ」
 その言葉を聴き、晴香の身体が震え始める。
 それでも毅然とした表情を崩すことなく、晴香はその老女の背中を見送った。
 けれど不意に晴香が席を立つ。あの表情は、想いを殺しに行くときの晴香だ。
 晴香は何時も、一人陰に隠れ、想いを呑み込み蓋をして、頑丈な殻を被る。
 だからそんな晴香を迷わず追った。俺の居る場所で、二度とそれはやらせない。

 何かから逃げるような足取りで、晴香が回廊を進んで行く。
 そんな晴香の手首を、後ろから掴んで引き寄せた。
「晴香、駄目。行かせないよ」
 しんと静まり返った回廊に、俺の声が響いて跳ね返る。
 その声を、身体で感じ取った晴香は、小さく細かく震え始めた。
「一万なんだ。たった一万なんだ……」
 ようやく観念した晴香は、何度もそれを繰り返し、俺の胸の中で咽び泣く。
 その内容からして、晴香は多分、祖母宛てに、毎月仕送りをしていたのだろう。
「金額じゃない。金額なんて、関係ないんだよ晴香」
 家族からも、自分の存在を忘れ去られているのではないかと、考えてしまい勝ちなこの敷地内で、毎月止むことなく届き続ける晴香の封筒を、どんな想いで祖母は受け取っていたか解る。

 抱きしめ揺れながら、晴香の頭に口付ける。
 この愛しい少女は、厄介な大人たちに囲まれ、訳の解らぬまま翻弄され続けていた。
 晴香の周りには、不器用な人間が多過ぎると熟々思う。
 祖母も、嶋田さんも、そしてあの人も。皆が皆、不器用に晴香を愛する。
 何故こんなにも晴香を想いながら、その想いを伝えることなく背を向けるのだろう。
 色々な事情が在る。そう解っていても、晴香の心を想えば遣る瀬無い。
 何事にも真っ直ぐな晴香は、投げ掛けられた言葉を、真っ直ぐに受け取ってしまう。
 その言葉の裏に隠された想いを、読み取ることが出来ずに、傷ついてしまうんだ。

「ばーちゃんは晴香が大好きだった。だけど意地っ張りだから、それを言えずにいたんだよ」
 涙も鼻水も一緒くたな顔で、愛しい少女が俺を見上げる。
 それは本当かと、期待を籠めた瞳で、俺を見上げている。
「本当だよ。俺は知ってる。ばーちゃんに会ったんだ。あの海辺の町で」
 晴香の顔をハンカチで拭いながら、あの日の出来事を要約して話し出す。
 その話を聴きながら、懸命に涙を堪え、晴香は唇を噛み締めていた。
 晴香の額に唇を押し当ててから、そっと耳元で囁く。
「晴香ちゃん、その顔をされると、無性に抱きたくなるんですけど……」
 その言葉で、見る見るうちに晴香の頬が赤く染まり、大袈裟な程大胆に、俺から視線を外した。

「ひ、光…?」
 突然、聞き慣れた声で名を呼ばれ、晴香を抱きしめながらも振り向いた。
 予想通り、其処には母が立っていた。母も全く事情が解らず、俺の姿を目にして固まっている。
「母さん? 何でここに……」
 晴香もまた、泣き腫らした顔のまま、俺の母親を呆然と眺めていた。
 けれど、真っ先に我を取り戻し、事の次第を把握したのは、他でもない母だった。
「あぁ、そうか…父さんが言ってた光の彼女は、晴ちゃんだったのね……」

 通夜が終わり、酒気帯びた人々が、上機嫌で帰って行く。
 そんな中、線香の灯火を絶やさぬよう、静かな祭壇の前で、晴香を中央にして三人座る。
 昔を懐かしむように語り出す母。そんな母の話に、晴香は釘付けだった。
「彩香ちゃんと母さんは、小学校からの同級生でね……」
 晴香の母は、親父の病院で晴香を産んでいた。それは母が、その病院に勤めていたからだった。
「彩香ちゃんと二人で東京に出てきてね、母さんは看護士の勉強を。彩香ちゃんは大学へ……」
 けれど、親父と結婚し、既に退職していた母は、そのことを後に知ったと言う。

「互いに、右も左も分からなくて。東京の人って、何処か冷た気でね……」
 もう何十年も都民なくせに、やはり故郷を忘れることがないのだろう。
 こういった昔話を始めると、母親は途端に東京を悪く言い始める。
「それで、互いに連絡を取り合って、ゴールデンウイークにね、二人で映画を観たの」
 そこまで告げると、母親は不意に立ち上がり、新たな線香に火を点ける。
 晴香は絵本を読み聞かせてもらう子どものように、母親の話の続きを待っていた。
「その映画に凄く感動しちゃって。その足でレコード屋さんに寄ってね?」

 そこで、母が何の話をしているのか、漸く解った。あの曲だ。あの曲の話をしているんだ。
 応接間のステレオからその曲が流れ始めると、必ず両親は抱き合うように身を寄せ踊っていた。
 俺と弟は、そんな両親を階段の隙間から盗み見ては、にやにやと笑ったものだ。
 母は東京に出てきて直ぐ、この曲を晴香の母とともに知った。
 そしてこの曲は、父とも繋がっているのだろう。
 沢山の思い出が詰まったこの曲を、母は子守唄代わりに俺たちへ歌った。
 歌う母の顔は、何時も嬉しそうに輝いていた。だから俺は、この曲を嬉しいときに歌う。

 出所が同じだった曲。互いの母が、我が子に齎した歌。
 晴香は母親の話を、恍惚として聞いていた。遠い過去に想いを馳せ、うっとりと聞いていた。
 そんな晴香を、母もまた愛しげに眺め見る。
「晴ちゃん、本当に彩ちゃんは、晴ちゃんのことを愛していたのよ」
 思わず発せられたその台詞に、晴香が堪らず母へ抱きついた。
 まるで母が、本当の母であるかのように甘え、しっかりと抱きついていた。
 そして母も、晴香の母が乗り移ったかのように、晴香をきつく抱きしめていた……

 涙、涙の葬儀を終え、舞い戻ったマンションの部屋。
 ソファーが可哀想だと思える程、互いの定位置になったベッドの上で、互いの母がともに観たという映画を鑑賞していた。
 明日から晴香は、仕事に復帰する。
 俺も間諜のことを思い出せば頭は痛いが、彼是と考え悩んだところで始まらない。
 況して親父に、晴香を手放すくらいならば、首になっても構わないと明言したんだ。
 そう覚悟したことが現実に起きたのだから、腹を括れば良いだけだ。

 エンドロールが流れ始めても、晴香は依然として無表情のままだった。
 疲れたとばかりに身動きし、ベッドから足を下ろして立ち上がる。
 少し意地悪をしたくなった俺は、そんな晴香を眺め見ながら言葉を投げる。
「晴香、感想は?」
 すると晴香は憮然と顎を上げ、淡々と感想を述べた。
「猫が欲しくなっただけだ」

 この愛しい女性は嘘が下手だ。そこがまた、堪らなく愛しいと想う。
「晴香」
 ベッドの上から、晴香へ向けて両腕を広げ伸ばし、愛しいその名をそっと呼んだ。
 ひたと動きを止め、俺を盗み見る晴香は、噛み締める唇をふるふると揺らし、少し躊躇った後、俺の胸の中に飛び込んできた。
「バレバレだよ」
「うるさいっ」
 感動の涙を溜める愛しい女性は、今も尚、それを制御しようと必死に強がっている。
 追い討ちをかけて泣かせるか、それとも意を汲んで笑わせるか。
 そんなことを考えながら、晴香を抱きしめ、くすりと笑う。

「お前と違って、私は断じて泣き虫ではない」
 聞き捨てならないその台詞に、思わず俺が動きを止めた。
 ここ数日で、そう思われても仕方がないとは解っていても、酷く侵害だ。
「俺も、断じて泣き虫ではない」
 晴香の口調を真似て、損なわれた威権の奪回を試みる。
 けれど、経理部の女は数字に強い。どうやら其れをカウントしていたらしい。
「嘘を吐け。私は知っている。泣いた回数はお前の方が断然多い」

 俺は何回、晴香の前で泣いただろう。そんなことを考えながら、飽く迄も強気に切り出した。
「え? 俺が何時泣いたの? 言ってごらんよ、晴香」
 祖母の葬儀では互いに泣いた。それを告げれば、俺に逆襲されると判断した晴香は、俺だけが泣いた事柄に焦点を絞って嘲笑う。
「私を抱いたときに、お前は泣いた」
 拙い展開だ。此処で汚名を挽回しなければ、一生こう言われ続けるに違いない。
「ほう。そんなこと言っちゃっていいのぉ? 拙いんじゃないのぉ?」
「な、なにがだ……」

 何か妖しい気配を感じたらしい晴香が、もぞと動いて俺の腕から逃れ始める。
 追われるのは苦手だが、逃げるやつを追い込むのは、昔から得意だ。
 だから一切、晴香へは手を触れず、言葉だけで追撃を開始する。
「パニクってたくせに」
「パ、パニックなど起こしておらん!」
「そうだったかなぁ? 晴香は弱虫さんだからなぁ?」
「お前、失言も甚だしいぞ!」
 まるで大型犬と小型犬の睨み合いだ。どちらが優勢なのかなど一目瞭然なのに、小型犬は吠えることを止めずに戦いを挑む。

 けれどその戦いも、大型犬が手を出せばそこで終わる。
「じゃ、パニクらないって、証明してね」
 微妙な位置で吠え続ける晴香を、瞬時に抱き寄せ組み敷いた。
「や、ま、待て、それとこれとは……つっ!」
 圧勝と言う名の優越感に浸りながら、にやりと笑って敗者復活戦の旨を告げる。
「晴香、ヤメテとダメは禁止ね? それを言ったら負けだから」

 肌蹴た胸から零れる、柔い双の膨らみを、両掌で包み揉む。
 淡く桜色した輪を舌でなぞると、晴香が無闇に動いてそれを拒んだ。
「だ、駄目だ。止め……」
「ダメ? ヤメ?」
 外気に当たり、少しずつ盛り上がり始めた乳首を、舌の上で溶かす。
 身体全体を攣らせ反る晴香は、俺の頭を押し退けようと両手でもがく。
「っつ…や、やめっ…」
「ヤメ?」
 俺に問われる度、びくっと縮こまる晴香が、可愛くて仕方がない。
 唇を噛み、必死で何かに耐える仕草も、恥ずかしさに視線を逸らす仕草も、全てが愛しい。

 初めて抱いたとき、研ぎ澄まれた身体に心が追いつかず、晴香は混乱に陥った。
 声が出なかったことも、その不安を煽ったのだろう。
 それが小さな抵抗と震えに為って、俺に伝わり、そして伝染した。
 晴香を壊してしまいそうな不安は、片時も頭から離れず、小さな抵抗が益々それを増大させる。
 それでも晴香は、俺にしがみついた。止めないでくれと、放さないとばかりにしがみついた。
 労ることが出来なかった。溢れる感情を押し殺すことに必死で、痛みを和らげることも、苦痛から解放してやることも出来ず、自分の想いを優先させてしまった。
 だから誓う。不名誉な過去を返上すると誓う。

「晴香、気持ちいいときは、もっとって言うんだよ」
 指が触れるだけで、苦境から逃れようとするかの如く、晴香は狼狽える。
 それでも愛撫に苦痛は伴わない。慣れて欲しい。想いのままに感じて欲しい。
「そ、そんなこと言え……くぅっ…や、やめ」
 指を中心に這わせ、茂みを掻き別け、小粒な隆起を指の腹で撫で上げる。
 秘裂を弄り、溢れ始めた蜜を絡めて、隆起を押し捏ね、囁く。
「違うよ。もっと…だよ」

「ぁっ…ぅっ…っ」
 声を出すことにすら、羞恥を感じる晴香は、両手で口を押さえ、懸命に堪え続ける。
 それでも身体は教えてくれる。襞唇が限界を迎えて拘攣を囁いていた。
「やっ、だめっ…やっ、やっ、ぁぁぁぁっ!」
 全身が緊張し、声にならない叫びを上げた後、小刻みな震えとともに、弛緩して行く晴香の身体。
 そんな晴香を愛しげに見下ろして、感情とは裏腹な意地悪を投げる。
「やだ? 厭だったら、やめるよ」
 頬を上気させ、恍乎とした表情を浮かべる晴香は、視線を逸らしながら、思わぬ言葉を口走った。
「も、も…っ、もっと……」
 本気で言わせる気など、毛頭なかった。だからこの無垢さに、俺はやられるんだ。
「晴香…愛してるよ。愛してる……」

 まだ土台の出来上がっていない晴香では、中で絶頂を迎えることは無理だろう。
 それ以上に、こうして挿入しただけでも、きっと拷問に近いはずだ。
 歪めることなく表情を保っているが、腕に込められた力が、それを物語っている。
 だから、繋がるだけに留めて、潔く高まりを引き抜き、晴香を抱きしめながら唇を重ねる。
 けれど俺は、この愛しい女性が、真顔で無茶をする人だと、完全に忘れていた。
 憤懣に震えだした晴香は、力の限りで俺を押し退け、そして自ら俺の上に跨る。

「は、晴香? な、ど、…え?」
 驚く俺を余所に、苦い表情を隠そうともせず、晴香が俺の高まりを包み込んで行く。
「はるっ、やめ…痛いよ、やめろって」
 それでも晴香は動きを止めない。歯を食いしばり、明らかに間違った方向で欲求を満たし続ける。
 痛みと悔しさと怒りと、秩序なく入り混じった感情から、晴香が涙を零す。
「そ、そんなのは許さないっ、…狡いっ、卑怯だっ…」
 俺への罵詈を、途切れ途切れに喚きながら、自ら苦しみを招き入れて泣いている。
 完敗だ。傷つけたくなくて自粛した行為は、反対に晴香を傷つけた。
 どんな言い訳を告げたところで、晴香は絶対に納得しないだろう。

「ごめん…ごめんね、晴香……」
 跨る晴香を掻き抱き、そのまま互いの身体を反転させる。
 涙は拭わない。きっとまた、泣かせてしまうだろう。
 だから、晴香の両腕を自分の首に回させ、涙で濡れ潤う唇を掠めながら囁いた。
「掴まって。絶対に放さないって、約束して……」
 動き出せば止まらなくなる。晴香の襞が絡みつき、きつく締め上げ、俺を狂わせる。
 それでも晴香はそれを望む。この愛しい女性は、俺に爆ぜろと、相当な無茶で懇願した。
 堪らない。こうやって君はいつも、俺を満たす……

 感情も欲求も、何もかも、押し殺すことなど、もうできない。
 熱く滾る想いを乗せて、晴香の中へ全てを叩き込む。
 我を失くし、勢いを増し、ただ只管、晴香に溺れ昂ぶり、そして悶える。
 それなのに、晴香は俺を追い詰める。
「…光…っ、もっと……」
 愛し過ぎて狂いそうだ。飽くことなく掻き抱き、溢れ止まない想いを激しく打つ。
 爆ぜる。全てを晴香の中へ注ぎたい。受け取って。俺の全てを何もかも……
「晴香…っ」


 誰よりも、何よりも君を大切に想う。きっと幾年経っても、この気持ちは変わらないだろう。
 君をもう二度と、一人にしたくない。だから君より先に死んだりしない。
 だけど、どうか直ぐ、俺を迎えに来て欲しい。君が居なければ、俺は満たされないのだから――

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