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◇◆ Aphasia ◇◆
 目覚めてから数週間は、全ての事柄に戸惑い続けた。
 右手に痺れる様な感覚があったけれど、それはすぐに治まって、 左足に巻かれていたギブスも眠っている間にほぼ完治し、目覚めてすぐに外された。
 頭部の手術が施されたため、手術当時よりは少し伸びたのだろうけれど、 鏡で見た私の髪の毛は、いわゆるスポーツ刈り状態。
 更にどう隠そうとも、目立ってしまうであろう、額からこめかみへと走る長い傷。
 そして何よりも戸惑ったのは、言葉を、記憶を失ったことだった――

 記憶喪失だなんてよく耳にしたけれど、実際私の場合は、 物の名前や人物の名前、人間関係……そんな全てのものが、綺麗にフォーマットされていた。
 自分の名前が思い出せなかった。
 当然、家族の名前も、年齢も、職業も言えなかった。
「これ、なんだかわかるかな?」
 腕時計を指差しながら、私に問う医者の言葉に眉根を寄せる。
 時間を表すものだとはわかるものの、『腕時計』という名前が出てこない。
 いわゆる『名詞』と呼ばれるものが、ことごとく頭の中から消えていて、 『パパ』と『ママ』それが解らないから、当然名前と顔も一致しない。

 私を産んでくれた『ママ』という女性は、私を見るたび泣いていた。
 どうして泣いているのかが解らないから、そのまま伝えれば
「うれし泣きって言うのよ」
 いつもそう答えていたけれど、ちっとも嬉しそうには見えなかった。
『パパ』もママと大して変わらない。
 豪快に私を抱きしめると、やはりママと同じ様に涙ぐむ。
 けれど私の双子の姉で、満月と名乗る女性はこの2人とは違い、 毎日病室に訪れては、根気よく私に物の名前を教えてくれた。
 ひらがな、漢字、数字、ローマ字などを、この満月から教わった。
 そして私は、『新月』という名で、21歳になったばかりだということを知った。

 満月は、ただそこに居るだけで、静かな輝きを放つ人だった。
だから『満月』という文字が、真ん丸い月を意味する文字だと知ったとき、 名前どおりの人だと微笑まずにはいられなかった。
 背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪と、その髪と同じ色に輝く瞳。
 そんな満月を見たあと、ふと窓ガラスに映る自分の姿を見てショックを受けた。
 髪は伸びるものだと解ってはいたけれど、どれだけ経てば、満月の様な髪になれるのだろう……
 そうやって窓に映る自分を眺めながら、チクチクする自分の短い髪を触り、また落胆した。
 ところがあくる日、いつもの様に現れた満月を見て、開いた口が塞がらなくなった。
 昨日とは打って変わった、私と同じ様に刈り込まれた満月の頭。
 驚き続ける私に、満月が優しい微笑をたたえて、こともなさげに言う。
「新月、一緒に髪を伸ばしましょう?」
 冷たい飲み物を一気に飲んだときの様に、満月のその優しさが心に染み渡っていく。
 目覚めて初めて私の目から涙が零れ、このときから、満月は私の大事な親友となった。

 色々なものを吸収していく術はとても面白かった。
 足し算、引き算、九九、そしてトランプというカードを使った遊び。
 満月がビニール袋を手に現れたときは、必ず面白いゲームを持参してくれる。
 だから満月がくることを、毎日楽しみにしていた。
 そんな私の脳の検査をするたびに、先生方は『奇跡』という言葉を繰り返す。
 通常、失われた言葉はそうそう元に戻らないらしく、 それを目を見張る速度で修復している私に、先生方も心から喜んでくれていた。

 そんなある日、満月の旦那様の寛弥さんが海外出張から戻り、病室へと現れた。
 背がとても高く、男性には似つかない『綺麗』という言葉が似合う人だった。
 最初は、眼鏡のレンズと日光の加減なのかと思ったけれど
「私の瞳は、グレーなんですよ」
 満月と同じく優しく微笑みながら私に近づいて、『よく見てね』とばかりに眼鏡を外す寛弥さん。
 覗き込んだ瞳の色は本当に綺麗なグレーで、その色は満月を見るときだけ深みを増した。
 刈り込まれた満月の頭を、驚きながらも愛おし気に優しくなでて、おでこにキスをする。
 そんな二人を見て、心がむず痒くなった。
 なにかとても大切なことを、何よりも一番大切なことを、私は忘れてしまった気がしてならなかった。

「先ほど担当の先生に伺ったのですが、明日から家族以外の方も面会できるそうですよ」
 寛弥さんが私に向かって言った後、意味ありげに満月を見た。
 その言葉を聞いた満月も、目を大きく開き、意味ありげに微笑んで
「じゃあ、ようやく武頼くんがここに来れるのね!」
 そう言って少し飛び跳ねながら、嬉しそうに手を合わせた。
『ブライ』という言葉の響きに、さっきと同じ様なむず痒さが走る。
 けれどその『痒み』の正体が解らないまま、『ブライ』を迎えることとなった――


 目覚めてから、21日目の火曜日。
 一体、ブライとは何者なんだ?(゚д゚*)
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photo by ©Four seasons