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◇◆ Finger of start ◇◆
「会計番号210番から230番でお待ちの……」
 自動ドアが一定の音を立てて開き、嗅ぎなれた病院特有の匂いが漂う。
 小さな紙袋を片手に、迷うことなく迷路の様な外来を抜けて、 自分の足音だけが響く静か過ぎる薄暗い病棟へと歩き進む。
 慣れた手つきで、添えつけられたポンプ式のエタノールで手を消毒した後、答えなど返ってこないと知りつつも、目的の病室の扉をノックした。
 扉を開けたら、お前が笑って手を差し伸べてくれる奇跡を夢見ながらも、どこかでもう諦めかけている自分が居て、どうしてあの時俺は……
 一生止みそうにない、そんな後悔ばかりがこみ上げる。

 一ヶ月前、いつもなら自宅まで迎えにきてとせがむのに、 なぜかその日だけは待ち合わせ場所を指定してきたお前。
「この冬空に自転車なんて冗談じゃない」
 そうやって突っぱねたものの、いつものお前らしからぬ素直さで、何度もお願いだと懸命に言うから渋々承諾した。
 なのに、お前は一向に姿を現さない。
 苛立ちが限界へと達しそうになったとき、走り行く救急車の赤いランプと独特の甲高い音に胸騒ぎを覚え、 お前が通ってきそうな道を逆走した先にできていた人垣。
 社名の入ったトラックが狭い道路にハザードをたきながら停まり、その会社の制服を着た男が震えながら警察と話していた。
 そこだけ雨が降った様に、アスファルトに広がる黒いしみ。

「二十歳そこそこの女の子だって……」
 ぼそぼそと喋る野次馬の声に背筋が寒くなり、自転車を飛び降り放り投げ、 人垣の中を割って入れば、ひしゃげた銀色の自転車が目に飛び込んできた。
 違う。よくある色の自転車だから、あいつと決まったわけじゃない。
 自分自身に言い聞かせる様につぶやいて、懸命に呼吸を整えようと自転車から目を逸らす。
 けれどそこから逸らした左目の隅に見えた『もの』

「そのマフラー、見ているだけで寒いんですけど」
 そうやって小馬鹿にし続けた、お前の空色のマフラー。
 トラックのタイヤに絡まるそれを見て、全身が凍りつく。
 見間違いだ。暗いから、見間違えただけだ。
 もっと近くで見れば、違う色だとわかるはず……

 よろめきながらトラックに近づいて 、ヘルメットをかぶった警官に、制止されるまで近づいて
「おまわりさん、あれは空色じゃないですよね?」
 こみ上げる変な笑いとともに、マフラーを指差した。
「君は、あの子の知り合いなのか?」
「違う! 俺が聞いているのはそんなことじゃない! あのマフラーの色なんだよ!」
「落ち着きなさい。君、しっかりして!」

 錯乱し、警官に支えられていることにも気が付かないまま、 野次馬の中にお前がいることを祈って、朦朧としながら辺りを見回す。
 ブランドのマークが入った真新しいスニーカーが、 片方だけ横向きに転がっているのを見つけ、同じスニーカーをお前と一緒に買いに行ったことを思い出す。
 違う! 認めない。ただの偶然だ。

 そこら中に散らばる紙袋の中身が、現場には不釣合いな甘い香りを放つ。
 一枚の汚れたカードが、風に煽られ地を這うように滑り、そのままパトカーに貼り付いた。
 パトランプに赤く照らし出されたカードの宛名。

『Dear 武頼』

 狂った様に早鐘を打つ心臓と、全てがスローで動く映像。
 崩れ落ちながら叫ぶ、俺の太い悲鳴が闇に広がった――


「お嬢さんは、昏睡状態に陥っています。事故による脳損傷で、脳の活動と意識レベルを調整する機能が損なわれたためで……」
 白衣を着た男の、無神経で言葉を選ばない病状説明が、延々と続いていた。
 医学をかじったことのある人間なら、簡単に頷くことができたのだろう。
 けれどこの状況で、そんな小難しいことを語られても、冷静さを欠いた俺やお前の家族には伝わらない。
「側頭葉の一部を損傷しているので、言葉の記憶や言語の理解能力が著しく低下してしまう可能性も考えられますが……」
 だから、意味のないことだと知りつつも、白衣の胸倉を掴んで揺さぶり怒鳴る。
「助かるのかって聞いてるんだよ?」
「な、なんとも言えません。今は、意識が回復するのを待つばかりです」
「どういう意味なんだ? はっきり言えよ! お前、医者だろ?」


 あの日から、一ヶ月が過ぎた。けれど未だにお前の意識は戻らない。
 何度訪れても、慣れることのない管だらけのお前の体。
 両手で頬を叩き、天井を睨んで深呼吸を繰り返してから扉を開けた。
 入った瞬間、頭部に巻かれていた包帯がなくなったことに気づき、ベッドに近づきながら努めて明るく話しかける。
「お? ようやく包帯が取れたのか?」
 額からこめかみに走る長い傷跡を、指でそっとなぞる。
 指先から伝わるザラっとした傷跡の感触に、目頭が熱くなっていく。

 意味もなく、手で何度も口をこすり、漏れそうになる震える息を堪えて、パイプ椅子を引き出しドッカリと座る。
「今日はホワイトデーだってから、律儀な俺様は、お返しを持ってきてやったぞ?」
 手にしていた小さな紙袋を、目を閉じたままのお前にもわかる様に耳元でカタカタと振ってから、枕元にそっと置いた。

 枕と首の間に手を滑り込ませ、安堵の息を吐く。
 緑のラインを描くモニターと、このぬくもりだけが生きている証。
 血管が透けて見えるほど青白く、息の音すら機械任せのお前。
 顎がカタカタと震えてしまうから、 止めようとして唇をきつく噛み締めるけれど、堪えきれずに嗚咽が漏れる。
 ベッドに両肘をつき、握り返してはくれないお前の手を両手で包み、握り締めたまま、祈りを捧げる様に自分の額へと押しつけた。

 枕元で小さく踊る小さな紙袋。
 お前に会いたい。お前に会って、これを渡して、そして言うんだ。

「Ama ……」

 震えながら搾り出す、ずっと言いたくて言えなかった言葉。
 言ってしまえば簡単な言葉なのに、どうして言えなかったのだろう。
 今頃言ったって、お前に届いているのかすらわからないのに……


 目を大きく見開いて、お前の顔を覗き込む。
 狂った様に早鐘を打つ心臓と、全てがスローで動く映像。
 その手を離さないまま、ナースコールを何度も押した――


「どうなさいました?」
「新月が、新月の、ゆ、指が動きました! い、今も動いてます!」
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photo by ©ivory