ヴァッシュ・ザ・スタンピードと言えば、すなわち恐怖と同義。
自分がこの星でそういう存在であること、少なくとも大多数の人々にそう思われていることを、ヴァッシュは知っている。
泣く子も黙り悪党も怯える、生ける災厄。

が、しかし。

いま現在のヴァッシュは逆に、心底から怯えていた。
おびやかされていた。

 

別段、暴力を加えられそうになっている訳でも、口汚く罵られている訳でもない。
何もされてはいない。

それこそが、恐ろしい。

 

「あぅぅ・・・」

情けなく口を突いて出る呻きを途中で押し殺し、ヴァッシュは前を行く広い背中を追って歩いた。
ふたつの太陽が黒々と地面に落とす影を踏まない程度の距離をあけて、とぼとぼとついていく。

着古した黒いスーツの背中は静かで、短気で怒りんぼな筈の男は、先程から一言の罵声もヴァッシュに投げてこない。
どう出てくるかわからないその静けさこそが、ヴァッシュにはとてつもなく恐ろしかった。

 

 

 

 

Punisher with love

 

 

 

 

無言で宿の部屋のドアを開けたウルフウッドは、無言で窓辺に歩み寄ってガラス戸を開いた。
後に続いて部屋に入ったヴァッシュを振り返ることなく、牧師は無言で引き寄せた椅子に座り、やっぱり無言で煙草に火をつけた。

積みかさなってずっしり重い沈黙の圧力をうけて、ヴァッシュは逃げ出したくなった。
心の底から、力いっぱい、後ろも見ずに逃げたかった。
しかし、いまこの場の居たたまれなさに押されて逃げても、事態がより悪化するのは目に見えている。
その場しのぎの選択を採りたくなる己を必死に制し、ヴァッシュはドア近くに立ち尽くして静かな重圧に耐えていた。

 

そのまま、どれくらい沈黙が続いたろうか。
ヴァッシュの感覚としてはおそろしく長い時間だったのだが、牧師の煙草が一本灰になる間だったことを考えれば、客観的には数分でしかなかったのだろう。

ウルフウッドの指先が、ぎりぎりまで短くちびた煙草を口から離し、灰皿に吸殻を押し付けて消す。
そして、牧師はヴァッシュの方を向かないまま、ふわりと呼び掛けの声を寄越した。

「・・・トンガリはん?」

「はいっっ、何でしょうかっ!!」

背筋をぴいんと伸ばし、直立不動にしゃちほこばってヴァッシュは応えた。

ウルフウッドの声は静かで、状況を考えなければ穏やかに聞こえたであろう柔らかさだった。
いつもの呼び名のしっぽに、男の独特の口調で丁寧語さえくっついている。

しかし、ヴァッシュにとっては落雷のさきぶれに等しい。
強張った笑みを面に浮かべ、内心では泣きそうになりながら、ヴァッシュは落とされるであろう牧師の言葉を待った。
全然、待ちたくはなかったのだが。

「ワイなあ、この前の町飛び出るときに確か、騒ぎに首突っ込むんも大概にせえて、おどれに言わんかったかなあ?」

続けてヴァッシュにかぶせられた言葉は、やはり口調はやわらかかった。
口調だけは。
内容はといえば、刺だらけの皮肉だ。

「はい、確かにおっしゃいましたです!」

嫌味ったらしい牧師の問い掛けに、しかし己の言動を省みれば反発する訳にもいかず、ヴァッシュは極力丁寧な言葉遣いで肯定を返した。
緊張のあまり少々言い回しがおかしいものになったが、そんなことを気にする余裕は、いまのヴァッシュにはない。
ウルフウッドも、そんな瑣末事には突っ込んでこなかった。

かわりに牧師は、否定しようもないヴァッシュの過去の浅はかさについて、ざくざく突っ込んできた。
それも、あくまで口調は穏やかなままでだ。

「せやなあ。せやったわなあ。・・・そんで、ここに辿り着いた時にも、揉め事起こさんで目立たんようにしとけて、ワイ言わして貰いましたわなあ?」

「ええ、その通りでゴザイマス」

へこへこと卑屈に、ヴァッシュはうべなった。
ただし、視線をこちらに向けていないウルフウッドに、その態度がどれだけ判ってもらえたかは、不明である。

「けさおどれが部屋出るときにゃ、大人しゅう遊べよて言うたワイが貰うたご返事ちゅうたら」

まだ続く牧師の台詞は、刺が研ぎ澄まされこそすれ和らいだ様子は全く無く、堪えきれずにヴァッシュは皆まで言わせず、途中でウルフウッドの言葉尻を頂戴した。

「はい、『判ってるってば、いい加減しつこいよ』なんて暴言を吐いてしまいました。深く深く、心から反省しております!」

せいいっぱい真摯かつ丁寧に反省の言葉を述べたヴァッシュは、声に合わせてぐうっと腰を折り頭を下げた。
すると、かたんと椅子を立つ音が部屋に響いて、床に落ちたヴァッシュの視界に、歩み寄ってくるウルフウッドの汚れた靴が入る。

「反省してはるんですか。ほお、さいでっか」

丁寧さをはりつけたままの言葉が、ヴァッシュの頭上から降ってくる。
視線を向けるのは恐かったが、相手の出方が皆目わからずにいるのもまた恐ろしく、ヴァッシュはおずおずと顔を上げた。

そして、見たくなかったと、心底ヴァッシュは怯えた。

「反省するだけやったら、そこらのノラネコかて出来るんでっせ?」

辛辣に囁いてくるウルフウッドは、悪魔のような笑顔をヴァッシュに向けていた。
醜いとか見苦しいとかいう意味では、ない。
精悍に整い、大変男前で魅力的な、牧師にあるまじき男の色気あふれる笑顔である。
ただしそこには、聖職者の慈愛はかけらも見て取れなかった。

「トンガリはーん?おどれのこのホウキ頭にゃ、一体何が詰まっとるんですかい?」

ぽふ、と牧師の手が、ヴァッシュの頭に触れる。
逆立てた髪をわさわさと撫でる手の優しさに、血の気の引く思いだった。
拳を固められて殴りつけられた方が、よっぽど恐くない。

「えーと・・・愛と平和?」

冷や汗を流しつつも、えへ、とヴァッシュはせいいっぱい和やかに、つくった微笑みを浮かべてみた。
相手も、それに笑みを返してきた。
ただし、その表情ときたら獣が獲物をいたぶるような、寒気の走る笑いだったが。

「ほおお。そらまた、大層なもんが詰まっとりますなあ」

ヴァッシュに浴びせられる声も、甘やかに低いが底にたっぷりと揶揄の毒をひそませた、大変に恐ろしい代物だ。

いっそ殴って欲しい、それともなじってくれればいいと、まるでマゾヒストの要求のようなことを、ヴァッシュは怯える心の中で呻いた。
もちろんヴァッシュにしてみれば、背徳的な欲求から来るものでは、全くないのである。
猛獣の爪先でつつかれるように、やんわりじっくりいたぶられているくらいなら、一気にぱーっと殴る蹴るの無体を受けるとか、腹にこたえる怒鳴り声をぶつけられる方が、よっぽどましだ。
日頃温和な人間が怒ると恐いとは良く言うが、普段怒りっぽい人間が怒りを押さえているのもまた恐ろしいものであると、ヴァッシュは思い知った。

「何ですかい?愛と平和を詰め込むと、かわりに約束は守らなあかんとか物事は穏便にとか、そーゆー常識は頭に入らんようになるんでっか?」

にこにこと笑いながら、ウルフウッドは辛辣な皮肉を囁いてくる。
どちらかといえば直情な男が、ここまで曲がりくねった言い様をしてくるのだから、牧師の腹立ちの深さが察せられた。

「いえ、そんなことは・・・。あれは、たまたま」

どう言い訳すれば牧師を宥められるだろうかと、なるべくやんわりとヴァッシュは反論を試みたのだが、ほとんど言わせては貰えなかった。
大層恐い笑みをにこやかに浮かべたまま、ウルフウッドはヴァッシュが連ねようとした言葉をはねつけた。

「おどれの場合、たまたまやないやろ。いっつもやろ、このクソボケトラブルメーカー?ん?」

これほど口汚い呼び掛けを、これほど穏やかに言われては、ヴァッシュとしても二の句が継げない。

真昼の日差しが差し込む部屋に、再び沈黙が落ちる。
だが、今度はそれほど長続きせず、静けさは牧師の溜息で打ち消された。

「・・・ま、ここ座れ」

窓辺に歩み寄ったウルフウッドはぽつりとそう言って、先程まで彼が座っていた椅子をヴァッシュに示した。
それがどういう意図からの発言かを理解できず、また、叱られている立場である以上立ったままの方がいいような気もして、ヴァッシュはぐずぐずと立ち竦んでいたのだが、その躊躇いをいまの牧師が許してくれる筈もない。
窓のそばに立ったウルフウッドはヴァッシュの方を向いて、声と表情にかりそめの穏やかさを貼り付けたまま、脅してきた。

「座れて、言うたんやで?聞けへんの?」

「いえっ、とんでもないです!」

ツインとは言え狭い安宿の部屋のことで、距離は数歩分でしかない。
慌ててへだたりを一気につめて、ヴァッシュはがたがた音を立て椅子に腰を下ろした。

「はいっ、着席しました!」

元気良く――カラ元気だったが――お返事したヴァッシュに、牧師は優しいというより生ぬるい笑みをたたえた顔を向け、低い響きのいい声をやんわりと降らせた。
真綿で首を締めるような、口調だった。

「ワイ、なんべんも言うたやろ?・・・せやけど言うこと聞けへんのやな、トンガリは。ほんま、しゃあない奴やなあ」

ふうう、とひどく長く息を吐いたあと、ウルフウッドはぽいと爆弾のように、とんでもない事を言って寄越した。
むしろ本物の手榴弾か何かのほうが、ヴァッシュにとってはよほどマシだった。

 

「お仕置きしたる」

「いっっ!?」

 

思わずヴァッシュは、頓狂な声を上げた。

 

おしおき。
お説教の次は、お仕置き。
順当なようだが、そのお仕置きはごめんなさいを書き取り百回とか、尻を20回ぶたれるとか。
そういうもの、では、ないのだろう。
やはり。

牧師の浮かべている色悪めいた表情を見ればそれは明らかだったが、ヴァッシュは聖職者たる連れのなけなしの良識にすがり、質問を試みた。

「・・・おっ、お、お仕置きって、あのぅ、牧師さん」

内容のせいでその声は途切れがちだったが、ウルフウッドはヴァッシュの意を汲んで、聞きたくもない答えをいっそ朗らかに告げてきた。

「言うても判らんのやろ?せやったら、体に言い聞かすしかあらへんもんなあ。ひどい真似なんぞしたないんやけど、おどれがもう厭やて泣き出すくらいしっかり覚えさせんと、お仕置きにならへんし。どないしょうか、なあ?」

ヴァッシュの座る椅子の背に手をかけ、顔を間近に寄せて、ウルフウッドは答えようもない問いを楽しそうにつきつけてきた。
返事を実際に求められているのではない事は、ヴァッシュにも判る。
言葉の暴力、いやムチである。
鼓膜を打つ、『体に言い聞かす』だの『泣き出すくらい』だの『お仕置き』だのという単語に、色を失っていた自分の面が勝手に紅潮するのを、ヴァッシュは感じた。

「縄で縛るとか鞭でしばくとか煙草の火押し付けるとか、そーゆーてっとりばやいお仕置きは、気がすすまんなあ。ワイ、サドやないし」

嬲るような口調と獲物をいたぶるみたいな目付きに、絶対それ嘘だとヴァッシュは心の中で牧師に反論した。
心の中では大いに反論したが、口には一言も出さなかった。
出せなかった。
言葉を直截にぶつけて、おうその通りやと相手に開き直られたら、どうすればいいのか。
今だってそりゃあどうにもならないが、もっと酷くどうにもならなくなってしまいそうではないか。

牧師のお仕置きとやらを甘んじて受けるのは真っ平だが、だからといってどうするという代替の名案も頭には浮かばず、あうあうとヴァッシュはパニックに陥っていた。

対してウルフウッドはといえば、何を思ったかおもむろに己の首の後ろに手をまわした。
聖職者でありながら、ひっそりと隠すように胸元深くつけている十字架のチェーンを外し、それを手に下げる。
どーしようどーしようとパニック続行中のヴァッシュは、それを気に止めていられるほど心に余裕がなかった。

 

「手」

「へ?」

「手」

重ねて求めてきた牧師の口調が、それまでの嫌味ったらしく丁寧なものでなく、いつもと変わらぬぶっきらぼうなものであったことが、まずかったのだと思う。
ヴァッシュはつい反射的に、両の手をゆるく開いて差し出した。

「ん」

「え?」

ヴァッシュの右手は、一般的なハンドガンからすれば規格外に重くでかい銃を握る手だ。
当然続く手首も、それ相応の強靭さを備え、細いとは言いがたい。
つくりものである左の手首も、隠し銃をしこんである機能上、それなりにしっかりと太い。

その手首を両方とも、大きな手でひとまとめに握りこみ、ウルフウッドはちゃらちゃらと音を立てて、そこに幾重にも鎖を巻きつけた。

「・・・え!?」

「よっしゃ」

牧師の指がチェーンの止め具をいじり、かちりと音を立てて止める。
細い鎖ではあったが、ヴァッシュの腕は体の前でひとつに括られ、自由を大幅に奪われてしまった。

「・・・っ、えええ!?」

先程のサディスティックな牧師のお言葉から、考えると。
これはつまり一応、生ぬるいながらも緊縛とかいうものなのだろうか。
身動き取れないようにして、縄で縛るとか鞭でしばくとか煙草の火押し付けるとか。
更に考えたくないよーな事とかをするための、第一歩・・・?

さすがにのんびりパニックに浸ってもいられず、ようやくヴァッシュは抗いはじめた。

「何すんだよ、この変態!・・・は、外せよ!」

「ん?厭なん?」

「決まってんだろが!」

反省は、している。
そう思っていればこそ、ここまでひたすら下手に出てきた。

反省はしているが、けれどこんな変態的なお仕置き――もとい遊びにつきあう気はヴァッシュにはない。
遊ばれるのが一方的に自分であるとなれば、なおさらだ。

いくらなんでも黙ってられないと、ヴァッシュは赤い顔で憤然と抗議した。

しかし。

「さよか」

拒むヴァッシュの声を受けて牧師は怯むどころか、にいっと、それはそれは楽しそうに笑った。
悪ガキめいた、とかガキっぽい、とか表現すれば、聞こえはいいかもしれないが。

はっきり言ってそれは、苛めっ子の笑みだった。

「そら、結構やなあ。おどれが厭がってくれんと、お仕置きにならへん」

罵りを全く意に介した様子のない、しゃあしゃあとしたウルフウッドの笑顔に、ヴァッシュはふがいなくも気圧された。
コートに包まれた背中に汗が流れるのが、気持ち悪い。
ヴァッシュが厭がることを、どういう方向でどれくらい、どこまでされてしまうのだろうかと考えれば、想像の翼も怖じ気づく。
かわりに空想の翼が、逃亡の夢をヴァッシュに見せた。

「・・・・・・」

ちろりと、ヴァッシュは脱出口であるドアへの距離を目で測った。
足を縛られているわけではないし、とりあえずこの場から、というより牧師から一時避難するのは、いまなら出来なくはないだろう。
腕を拘束している鎖だって、牧師の首にかかっていれば細く華奢に見える程度の代物だ。
充分に、ぶっちぎってしまえる。

しかし、そのシュミレーションをヴァッシュが実行に移す前に、ウルフウッドが周到にも言葉で逃亡を阻んできた。

「このクルスなー、ワイのだいっじなモンなんや」

牧師の指が伸びてきて、ヴァッシュの両手首を拘束している鎖に下げられた十字架を、ちゃりんと音を立ててもてあそぶ。

「ガキのころに、世話んなったおばちゃんがくれてん。ろくなことなかったワイの、数少ないココロ温まる思い出の品ちゅう奴やな」

「・・・う・・・」

しみじみとした牧師の口調は間違いなく、わざとつくったものだったけれど、そんな事を言われては、やみくもに嘘と断じることなどヴァッシュにはできなかった。
恐怖に切羽詰まってはいても、牧師の訓戒を無下にしてあげくウルフウッドを煩わせた負い目はやはり確かにあって、抵抗をいっそう鈍らせる。

「――それをぶっ壊すような惨い真似は、まさかおどれせえへんよなあ、トンガリ?」

午後の日差しに照らされて、さも穏やかに微笑む牧師の目は、獲物を狙う獣のように細められていた。
とどめとばかりにその眼差しに射すくめられて、ヴァッシュは半泣きになりながらもそれ以外の動作を許されず、わずかに首を縦に振った。

 

 

 

 

 


 

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