議論の熱気が過ぎ去った蔵書室で、蝋燭は丸火の先に小さな二つの影を燻らせる。
筆立てにペンを戻したポロムは、完成した議事録を恭しく巻き上げた。言葉足りない個所の補足や、誤綴の訂正を終えた今、それは頼もしい重厚さを備えている。
「完っ璧、ですわ。」
四隅を飾る花模様さえかつてない会心の出来だ。満足感を一呼吸に換えたポロムは、書類を結ぶに相応しいリボンを雑貨箱の中から迷わず選び取った。小遣いをはたいて買った舶来の藍織は、こういう時のための取って置きだ。
「ポロ、出来たか? 早く行こうぜ!」
「止しなさいパロム、焦りは禁物ですわ。」
椅子をがたつかせる弟の手を戒め、見事な四つ羽を結んだ少女は、姿勢を翻し床にひらり降り立つ。
「いいですか? パロム。私たちは明日からまた、カインさん達と旅をすることになります。」
「もーーー! そんな話どうでもいいよ!」
「こら、ちゃんと最後まで聞きなさい!」
話し始めた矢先に腰を折られたポロムは、ばたばたと足を踏みならす駄々っ子の頭をぽかりと鳴らした。
「知っての通り、カインさん達は、とっっっても大事なシメイを持って、旅をするんです。」
滔々と言い聞かせる少女の脳裏に、大人達の真摯な眼差しが呼び起こされる。
遥か彼方の地、『月』を目指すカイン達の肩に掛かった責任が、実際どれほど大きく重いものであるのか、にわかに測り難い。
しかし、確実に分かっていることが一つある。
それは、自分たちに許された同行の権利は、持てる限りありったけの全力を尽くさねばならない義務を伴うということだ――これまでの旅を通じ、魔道の力が彼らの助けとなれることは十分に知れた。だが悲しいかな、彼らの背中を勝ち取るには、まだあと数歩足りないのが現状だ。ことあるごとに自分たちを安全な場所に置いておこうとする彼らから、真に頼れる仲間として隣に立つことを望まれるためには――そう、彼らの度肝を抜くような、高度で強力な魔法の入手が絶対必要不可欠なのである。
「私たちは、これまで以上にしっかりお手伝いしなければなりません。だから、新しい魔法は、自分のためではなく、カインさんたちのため、そして何より皆様のために――」
「ポロムのばか!」
憤然と拳を振り上げる姉の腕を素早く掴んだパロムは、続いて舌戦をも制すことに成功した。
「お説教なんかしてるから、じっちゃん戻ってきちゃったじゃないか! どうすんのさ!」
弟の詰責に、ポロムはハッと耳を澄ます。すると、旅の引率二人を部屋に案内し終え、まさにこの蔵書室へと戻り来る足音が確かに聞こえてきた。
「し、仕方ないですわ、ごまかすしか……」
「どうやって!」
「えっ、えぇと、そ、それは……、」
言い淀む間にも刻一刻と足音は階段を下る。進退窮まり視線を逃がした先に、雑然を山と積んだままの机が立ちはだかった。
「そう! ここは私たちがお片付けするって言えば、きっと!」
「えぇー! オイラさっきお片付けやったのに……」
パロムは盛大に顔を顰める。この世で何が嫌いかといって、お片付けほど嫌いなものはない――しかし。舌の根まで登ったヤダの二文字は、お絵描き道具を自主的に片付けた際と同じ動機によって速やかに押し戻された。
すなわち――すごい新魔法で、ニィちゃんと隊長とポロムをカッコよく助ける天才黒魔導師・パロム様の勇姿――この輝かしき想像を現実とするために、今はワガママを言っている場合ではない。
「お片付けするって言ったら、じっちゃんホントにどっか行ってくれる?」
「もっちろんですわ! さあ、長老様が戻っていらっしゃいますわよ、笑顔でお片付け作戦開始ですわ!」
「分かった!」
大人に怒られないことにかけては天才的な姉の頭脳を信じ、パロムは入り口に満面の笑顔を向ける。程なく最後の段を踏み切る音がし、扉が大きく開かれた。
「……どうしたのじゃ? お前達。」
思いがけない大歓待を受けた長老は首を傾げる。あからさまな訝しみ眼に、双子は一層輝く白い歯を見せつけた。
「何でもございませんわ、長老様!」
「ねねね、じっちゃん、じっちゃんも疲れただろ! ここの後かたづけはオイラ達がするから、早くどっか行って!」
ポロムは即座に失言者の足を踏みつける。
「ほ、おほほほほほっ、ちょ、長老様は、そうですわ、塔のお部屋にお戻りくださいませ! ここは私たちが、ピーッカピカにお片付けいたしましてよ!」
学都ミシディアをして長を務める賢老が、こんな取り繕いに誤魔化されてくれるだろうか? ――多分、駄目だ。首の後ろを冷たい汗がたらりと伝う。
「お前たちの申し出、有り難く受けるとしようかのう。」
果たして、長老は髭を撫でながら目を細めた。ポロムがほっと胸をなで下ろしたのも束の間。
「じゃが、掃除はひとまずさて置いて、与えねばならぬものがある。」
傍らの書棚から分厚い呪文書を抜き取る様を見、双子は慌ててその足に組み付いた。
「じっちゃん、呪文の書き取りは帰ってきてからにして!」
「お願いします長老様! 私たち、どうしても新しい魔法を――」
パロムは慌てて姉の口に手を被せる。長老は意味有に口元を寛げ、二人を手招いた。
「こっちじゃよ、付いて来なさい。」
踵を返した長老の姿が書棚と書棚の隙間に音もなく消える。双子は顔を見合わせた。
一方その頃。
打ち合う剣と槍の徽章が、天火を写した深紅の中央で静かに揺らめく。その朧な旗影が踊る白煉瓦は、巨人の手になる模型然として微塵も動かない。だが、窓からか漏れる昼餉の仄香から、その内部には普段と変わらぬ生活が確かに宿っていることが知れる。
石畳を行き交う緩やかな雲足に紛れ、二対の靴が表通りを広場へ向かい下ってゆく。型を揃えて地面に抜かれた二つの影は、やがて二階建ての軒先で動きを止めた。扉に吊られた屋号の綴りに旗蜻蛉が踊る。ハンドルに手を掛け押すと、主同様愛想の無い質素な木戸は呆気なく口を開けた。
「誰もいないな……。」
一目瞭然の事実を告げる声が閑古鳥を窓席へと押し退ける。
「当たり前だろう。善良な市民はみーんな家に籠もってるさ。」
テーブル席の合間を縦に割り、男はカウンター裏の棚から酒瓶を一本手に取った。同僚の勝手な行動を咎めるでもなく、依然入り口に立つ男は一歩脇へ身を寄せる。その些細な動作に従って、床に描かれた光の四角形は急激に幅を狭め姿を消した。
「それで戸締まりも必要ない、か。」
「日頃の行いの賜だな。」
誇りを帯びた言葉がカウンターに立った筒硝子に映る。
「違いない。都市生活法第三条一五項、他の私財を正当な理由なくして収奪した者、所蔵没収及び禁固三年以上の刑を科す!」
入隊時に嫌と言うほどたたき込まれた知識の暗誦で応じた男は、酒瓶二本分の値段を筒硝子の横に置いた。錠のない扉こそ、この町の治安に対する市民の信頼の証。その信頼の拠り所となっているのは、他ならぬ自分たちなのだ。
「おい、掲杯は?」
ささやかな誉れを分かち合いもせず、自分の取り分を注いだなり杯を傾ける同僚に待ったを掛ける。
「誰に?」
「誰って、そりゃあ……バロンに。」
結局は常と変わらぬ献句に、二つの杯が重なった。
「「バロンに!」」
乾杯を終えたカウンター席に、溜息が仲良く配膳される。半ば空になった器と互いの顔を窺い、仕方なく代杯を充たしそれさえ空にしてみたものの、一向にどちらの口からも声が発される気配は見えない。
逆腕側からがしがしと突き出される肘打ちの猛攻に屈した男は、空の杯をひとまず机上に据えた。
「……なぁ、あの話、本当だと思うか?」
「あの話?」
よもやの問い返しに、男は自然身を乗り出す。
「まさか、知らないのか? ゴルベーザの呪いだよ! 死してなお恐ろしい邪悪な魔導師の呪いが――」
直後、凄まじい衝撃が兵士二人の脳天を含めカウンターに並ぶ全てを揺るがした。
「こぉりゃ貴様ら、こんなところで何を油売っとるんじゃあ!」
「「シドさん!」」
良く晴れた昼下がりの酒場に降臨した憤怒の雷神は、鉄腕を再装填する。
「ジョン! フリック! 警備をサボって真っ昼間から酒など、言語道断甚だしいわい!」
「「自分たちだって、居たくてここにいるわけじゃないです!」」
異口同音の悲痛な叫びが、シドの眉根をピクリと動かす。
「登城するなり自宅待機を命じられたんですよ!」
「俺達みたいな下っ端はお呼びじゃないんだそうです!」
陳情を受け、シドは唸りに喉を振るわせた。バロン全軍中、陸兵団に次いで多様な業務を担う海兵団の、下級とはいえ士官たちに、事前告知もなく暇を出すなど通例考えられない。記憶にある限り、王命による軍士官の緊急下城が行われたのは、三十余年前に起きた穀病害虫大量発生時のみだ。勿論、今年の気候は例年通り穏やかで、作付けを終えたばかりの穀倉地帯では早くも大豊作が期待されている。※しかも、ただでも現在は農繁期のため、また、先の戦役で消耗した労働力を補うため、通常よりもずっと城詰人数が減らされている。これ以上人員を減らしたら、警備網に穴が空いてしまう。
だが、彼らが言うことに偽りはないだろう――シドは青年二人の言い分を真と断じる。何故なら、かく言う自分こそ、こんな時間に町を散歩もとい巡回するに至った理由を彼らと同じくするからだ。
「ぬぅ、お主たちまでもか……。」
こうして、城から一人、また一人と不自然に追われていく様は、まるであの時――一年前のバロンを彷彿とさせる。
「お主たちまでも……って、シドさんは隠居したんでしょ? 自伝を書くんですよね――」
「ワシゃ生涯現役じゃい! そんな年寄りじみた真似なぞせんわ!」
恐らくはセシルが吹聴元であろう猪口才な流言を蹴散らし、シドは再び鉄腕を回す。頭上への鉄槌再来を警戒して身を竦める兵士の合間を縫い、カウンターから酒瓶を一本引き上げた生涯現役技師は、手近なテーブル席から椅子を引き三角陣を形した。
「……で、ゴルベーザの呪いとは何じゃ?」
酒瓶ごと献杯を行い、話の続きを掘り起こす。
「知りませんか? 俺達の間じゃ有名な噂ですよ。」
「ゴルベーザが陛下を恨んで、バロンに呪いをかけたって話です。バロンがおかしくなっちまったのはそのせいに決まってる!」
言って、杯に半分も残った酒を一気に呷った兵は拳を震わせた。
彼らの不安はよく分かる――返す刀を失ったシドの目は酒瓶の口に吸われる。旅路を共にした者であれば一笑に付せる他愛のない噂話。しかし、詳細を知らない彼らを始めとする大多数にとっては、深刻な懸念事項に違いない。
「飛空挺が飛んだきり帰ってこないのは、国外へ逃亡したからに違いないぜ!」
「そうだ! こんな時期外れに新兵の研修だなんて、絶対おかしいもんな!」
「しかも、エブラーナの旅人とミシディアの使者を、問答無用で投獄しちまった!」
「投獄された者たちの姿をその後見た者はいないとか……」
「ローザ妃もトロイアへ行ったきりだし、もう何が何だか……!」
兵士達の苦渋を存分に和えた酒が喉を灼く。錆のような味の水をようよう飲み干したシドは、暗い呼吸を一塊吐き出した。
「……お前達の言う通り、バロンにおかしなことが起こっとるのは確かじゃ。しかし、それは断じてゴルベーザの呪いなんぞではないわい!」
力強く言い切り、瓶底でテーブルを叩く。
「どうしてそう言えるんです? 部下のカイナッツォでさえ、強力な呪いで陛下やシドさんたちを苦しめたじゃないですか!」
「そりゃあ……――」
言いかけ、シドは慌てて口に滑り止めを流し込んだ。
ゴルベーザがいまなお生を留め、あまつさえセシルの肉親であったことは、ごく限られた仲間だけが大いなる光の御許に召される日まで抱えてゆくべき秘密だ。実兄に大罪人の名を冠し、この星の歴史として残さざるをえなかったセシルの決断を、まさか無碍にするわけにはいかない。
中途半端に立ち止まった会話の最中で、喉に引っかかった酒気を咳払いで慎重に下す。
「いいか、お前達。セシルはもうゴルベーザを倒しとるんじゃ。」
「……だから何です?」
「分からんか! 同じ敵が何度かかってこようが結果は同じじゃ、ゴルベーザなど最早セシルの敵ではないわい!」
鋭い指摘が兵士たちの疑念を錐と穿つ。だが、まだ突破口を開けたに過ぎない。彼らの表情を完全な納得へと至らせるにはあと一手、だめ押しが必要だ。
「それに、これは極秘情報じゃが――」
態とらしくもったいぶってみせ、シドは身を乗り出す。
「もしバロンに万一何かあれば、ワシを始めとして、先の戦役の英雄たちが即座に駆けつけてくれる筈じゃ。」
雷神の口から放たれた予言は今度こそ、兵士達の憂いを微塵に撃ち砕いた。
「クリスタル戦役の英雄たちが!?」
「シドさん、それ、本当ですか!!」
「うむッ! みんなセシルを信じとるからなっ、協力は惜しまんわい!」
噛みつかんばかりの勢いをがっしりと受け止める。告げた言葉に嘘はない――自分はセシルを信じているし、牢獄で会ったカインやエッジ、双子たちの瞳にさえ、疑念の光の下に信じたい気持ちは決してかき消されてはいなかった。
快報に感極まった兵士はカウンターを軽々乗り越え、新たな酒瓶を手にする。遥か頭上から狙い過たず三つの杯を充たした琥珀金が、窓から差す光を反射し輝いた。
「こりゃあ腐ってる場合じゃないぞ! 俺達だって、いつ陛下から協力を求められてもいいように準備しておかないと!」
そうだその通りと乗する賛同が場を囃す。
「聖騎士王、万歳!」
「バロンに栄光あれ!」
若き王からたった一言、助力を請う言葉の発されるその時の遠からぬ訪れを願い、シドの小銭袋が豪快に卓を叩いた。
一方その頃。
目の前に広がる本の山。長い年月に灼かれた紙の匂いが鼻を付く。入り口に立てば広げた両腕に収めてしまえそうなほどの小部屋は、抱えきれないほどの知識の傍に訪問者たちの足を留めた。
「儂の友人が昔使っていた部屋じゃよ。」
魔道に通ずる長老の言葉が、この部屋の時をしばし過去へと戻す。幼い双子の脳裏に鮮やかに浮かび上がる在りし日の光景。それは彼がミン・ウの名を継ぐ以前――祈りの塔に籍を置く一介の学徒であった頃の記憶。
無造作に古書を広げ、知識の深遠へと友を手招く快活な青年。築かれた一里塚の輝かしき披露目に破顔で応じる穏和な青年。長きに渡る使用に洗われた椅子はガタリと大きな音を立て、若き賢者のくまなく入墨に彩られた体を受け止める。机に腰を凭げた未来の長は、友人の講釈を時に促し時に諫める。朝な夕な繰り広げられた高度な魔術議論。
それは、思い出と塗り込めるにはあまりに鮮やかで、今なお薄れることはない。
「テラ様のお部屋でしたのね……。」
「秘密基地の方がかっこいいよね。」
場所の名称について同意を求める弟に、少女は静粛を仕草で促す。若き日の面影に深い年月と豊かな髭を蓄え、入り口の二人に振り返った元学徒は、机の下に隠された菓子の包み紙を摘み上げた。
「もっとも、お前達が足を踏み入れるのは初めてではないようじゃの。」
「へ、へへ……ごめんなさい……。」
「も、申し訳ありません、長老様……。」
高度な錯視術によって隠されたこの部屋への入り口を知ったのは、全くの偶然だった。蔵書室で共に呪文の書き取りをしていた際、小突き合いから発展した喧嘩の最中に、ポロムの投げたインク瓶が壁に消えたのだ。
入り口さえ知れてしまえば、子供達の探求を阻むものは何もない。壁を抜けた先、時間から隔てられた空間の至る所に無造作に放置された帳面には、埃の下に彼らの好奇心を刺激して余りある叡智が書き留められていた。多くは難解な魔道理論の研究だったが、幾冊かは実践指南書であり、ポロムは風に働きかける術を、パロムは魔力を物体に直接送り込む術を、それぞれ持ち出したのだった。
この場所への出入りを長老は快く思わないだろう――魔道は常に心と共に歩めと教える長老が、知識のみ先駆けて修得することを何より嫌っていることは重々承知していた。故に、書を持ち出したことは元より、『秘密基地』への立ち入りそのものを内緒にしていたのだ。
落雷に備え、双子は固く身を籠める。だが、実際訪れたものは予想を裏切る言葉だった。
「糧になっとるなら良いんじゃ。お前たちは、魔力の理を正しく使っておる……テラも喜ぶじゃろうて。」
親友の名に伴う一抹の寂しさが、半ば見えぬ眼に翳りを落とす。
才気に溢れ、メルトンやアルテマなど大津波が時の彼方へと押し流した理智の数々を、見るも鮮やかに復活させた友の眩しい姿。誰もが彼の栄光を信じ、その大成を疑いはしなかった。
そんな彼の人生に翳りが見えたのはいつだったろう。元々、危うさは感じていた。それが、自分には遠く及ばぬ才を備えた友人に対する嫉妬の変形であったのかさえ、最早定かとする術はない。
幾度となく発した諫言に耳を貸さず、未だ見えぬ道の先へ向かい真っ直ぐに走り続けていた友人はしかし、ある日突然、幼子の手を引いてミシディアを後にした。海を隔てた大陸の小さな町で静かに暮らしているという手紙を受け取った時は、安堵とも不安ともつかない漠然とした感情を覚えたものだ。このまま平穏に時が過ぎるとは思えない――抗う術などないことを知りながら、日々の祈りにかき消していた不吉な予感。
それから時を経て、彼は再びミシディアに現れた。まるで昔のままの瞳で――寄る年波に褪せたとはいえかつての偉才を疑いなく抱え、真っ直ぐに行く先を見据え――彼は魔道の闇に墜ちた。最後まで、一度も振り返ることなく。
「継ぐ者が絶えし時、その心も共に絶える。友人として、これが最後の縁であるかもしらん。」
長老は書机の上に置かれた人の頭ほどもある塊石を軽々と手に取った。その手が淡い光を放ち、石に縦横無尽の幾何学模様を描く。無数の四角形が織りなす模様を枯枝の指が滑り、それに伴い石の上辺がするりと推移した。
石を再び机に戻した長老は、内部に収められていた小さな帳面を双子に手渡す。部屋に散乱する他と違い、時の流れから隔てられたそれは、双子の手の中で真新しい紙の香りを放った。
「長老様、これは……!」
「これ、オイラたち、良いの?!」
開いた紙面にさっと目を巡らせた双子は、ほぼ同時に声を上げる。
「良いんじゃ。」
今や旧き標にその名を刻む存在――ミシディアをして大賢者の称号を得た友人の魂を、幼い子供にしっかりと託し、再度の生を与える。
「でもじっちゃん、……オイラたちがもし、この魔法を悪いことに使ったりとかしたら、どうすんのさ!」
真横から放たれた警句に、ポロムははっと顔を上げる。魔法を悪いことに使う――考えたことさえなかった。意外な視点の在処を示した弟は、今ただ一心に眼の先を見据えている。
「悪いことに、か。そうじゃな……。」
長老は未だ衰えぬ智の光を白い糸滝のような眉の下に埋めた。
「迷いの心で用いる時、魔法はお前達の身を必ずや滅ぼし、魂までも食い尽くすじゃろう。」
賢者の予知は、幼い身を竦ませるには充分以上の禍々しさを持って響く。ゆっくりと腰を折った長老は、押し黙る二つの顔を両腕に抱き寄せた。
「されど時はまだ、お前達を必要としている。良いか……先ずは、己が身を守ることじゃ。大使殿やエブラーナ王殿の助けとして力を尽くすことは無論じゃが、何よりも先ず、お前たちが無事でいなければならぬ。」
一音一語に祈りの籠もった魔法の言葉が耳を包む。心から祈り発されるとき、言葉は魔を帯びる――ポロムは目を閉じ、懐かしい香のローブに額を預けた。
「パロム、ポロム、お前たちは強い子じゃ。信じる通りに、道を選んでゆきなさい。ワシは――いや、皆が、お前たちの選んだその道を信じとるよ。」
枯枝の指を掛けられた二の腕が徐々に軋む。不思議と、痛くは感じられない。
「お前たちを信じとるよ。」
一方その頃。
淀んだ水を穿つ水滴が波紋を広げる音が響く。扉の合わせに重ねた掌を慎重に剥がすと、瞬く間に冷たさが表面を覆う。同時に左手にした結晶の輝きも失せた。
踵を返せば、深閑と静まりかえった薄闇が途方もなく広がる。男は二の腕を軽く摩った。無論、この行動に気休め以上の意味は無い――肌の粟立ちが実際の冷感ではなく、目と心の奥底から訪れたものであろうことは分かっている。
目が慣れるのを充分待って見回した空間は、足の形を朧に捉える程度には明るく、周囲の様子を見通すには足りない。男はベルトポーチから燐寸を取り出し、手にしたカンテラに火を移す。鎧戸を絞ると、直線光が滑らかな通路を描き出した。
「……よし、出発だ。」
自らに進む意志を確かめ、男は行軍を開始する。その輝かしき第一歩は、爪先に跳ね返った金属質の響きによって水を差された。右手に柄を触れた姿勢を取り、蹴転がした方向へと灯りを向ける。輪郭を無くした円の端に、腐蝕した金属面がぼんやりと浮かび上がった。正体を見てなお慎重を期し、男は爪先でもう一回転それに加える。丸く鋳られた無機質な鉄塊は、がらんどうの音を立てて半歩先へ進んだ。
拾い上げ、光を直に当てる。鼻先を強く燻る錆をしばらく擦ってやると、見慣れた模様が現れた。旧式の陸兵団歩哨兜――庇の上部に刻まれた先代王家の紋。
持ち主の心当たりを確信に変えた男は、しかし、手にしたそれを後列に一度戻した。所有者に遺失物の預かりを告げることは出来ない。ならばせめて持ち帰るにしても、どのみち後の話だ。
改めて灯りを回し、道を行く。一定の歩幅を保ち歩くことおよそ四半刻ほどを経、男の行く手に再び扉が立ち塞がった。一番目の扉と同じ要領で、これも難なく開ける――瞬間の目眩ましから回復した男はまず、カンテラの火に息を吹きかけた。
ここはまだ照明が生きているようだ――あるいは、とうに死んだ光の亡霊か。壁を走る青白く光る静脈の流れが時間の見当を失わせる。唯一標となる風さえもここには届かない。ざっと見渡す室内は、非常に良好といえる状態を留めている。壁は磨かれた鏡のように男の姿を映し、床には足跡を刻む塵一つない――しかし、ここが既に放棄された場所であることを、男はよく知っていた。
この場所は恐らく、いわば通用口に当たるのだろう。推定される施設の規模からして、正面玄関は恐らくこの倍、もしくは更に倍なければ格好が付かない。
――それでも、広い。
男の口を小さな溜息が叩く。見えるだけでも分岐は八つ、その先に広がる空間となると最早想像も付かない。一人でここを調べきるなど、あまりに途方もない話だ――が。
協力を頼むとしても、一体誰に?
忍び笑う男の脳裏に式典の光景が蘇る。それは、あの日彼らの眼差しの向こうに見えた、自分を仰ぐ皆の瞳。燦々と打ち寄せる尊敬の眼差し――仰ぐは白眩たる正義の英雄王。多大な戦債に打ちのめされた民にとって、その存在はどれほど癒しであるだろう――故に、成さなければならない。民を、臣を、友を、そして家族を救う。それはまるで些細な、ごく当たり前の務めだ。
そんな務めを当然と思う心さえ、つい最近まで失くしてしまっていた――男は小さく笑う。それは、自分が荷を背負うことで誰かの荷が減る、たったそれだけの、ごく単純なことだ。思い出してしまえば、何故そんなことを忘れていたのかと首を傾げるより他にない。
一頻り笑って、男はいざと唇端を締めた。もう迷いはしない。成すべき事を成す、自分には――自分だけが、それを成せる。いずれは皆の知るところだとしても、それは全てを滞り無く終わらせた後の話だ。そのためには、出来うる限り迅速に行動しなければならない。
そうと思えば、益々もって立ち止まっている時間が惜しくなる。早速、右手の壁に沿い進んだ男は、行先を閉ざす扉に水晶を翳した。この扉を開いた先にある道が正解か否かは知らない。だが、虱潰しの労を嫌うのはそれを試した後で良い。
音もなく開いた扉の向こうには、空洞が広がっていた。僅かな足場と、それを囲う手摺りの他に何もない――正確には、この部屋と同じく壁に光の走る模様が施されているのだが、空間の全容を照らすには圧倒的に光量不足だ。
半歩下がって背後の部屋から光を通してやると、巨大な円筒形が辛うじて視界に描き出される。上下層の移動に用いる小型の吊部屋を通す筒だろうか。どのみち、肝心の吊部屋を動かすことの出来ない今、それを確かめる術はない。
再び灯したカンテラの光は、上下共測り知れない奈落へ呆気なく吸い込まれた。天井と床の視認を潔く諦めた男は、続いて足下周りに炎を回す。縦横およそ三歩分の足場から、向かって左に昇る階段、右には下る階段が、質素な柵を伴い壁の緩いカーブに沿わせる形で設えられている。
――どちらへ行くべきか。
しばし逡巡のち、男は決断した。設備の大まかな配置は、かの地に建つ塔とそう変わらないはずだ――人の手により造られたものは、人と同様、癖を持つ。従って、目指す物は下層にある可能性が高い。
ベルトポーチから小銭入れを引き出し、硬貨を一枚暗闇の底に向かって落とす。1ギルと引き換えに些細な願いを叶える幻獣が現れることはなく、ただ冷たく澄んだ音が返ってきた。幸運にも、底の在処は常識の範囲内に収まっているようだ。次いで、男は懐中時計を手繰る。盤面の針は、次の巡回までに下層の入り口を拝む程度の猶予があることを告げていた。
カンテラを掲げ、慎重に一段目を踏み出す。どれほど綺麗に見えても、短からぬ間維持を受けず放置されていた場所だ。段が抜けるなどの事故は高確率で起こり得るだろう。しかし、単なる杞憂であったことがすぐに判明した。思いの外しっかりとした接地感を得、男は苦笑する。この様子ならば、もう二、三人乗ったところでびくともすまい。むしろ、普段移動に用いる居塔の石段こそ余程危うく思えるほどだ。
一段一段と数えることなく闇の底へ降りる。男はふと火を下げ道程を振り返った。徐々に深まる暗闇の中、やや右上方に小さな星の煌めきが見える。行程の半分くらいは消化しただろうか。
降下作業の労を軽い吐息に変えたその瞬間、靴底が妙な感触を踏み込んだ。即座に足を引いた男は、手にした灯を差し向ける。その口から声は出ず、ただ喉の痙攣りが肺を打った。
朧明かりの中心で蠢く血溜まり。無理矢理既知の形状に当て嵌めるなら、軟質の赤い被膜に包まれた蜘蛛のようなとでも言おうか――一瞬たりとも形を確かにすることのない抽象物。その天辺に刻まれた滑り止めの跡は、見る見る薄くなり消えた。
男が声を忘れている間にも、目も鼻も口もないそれは触手を伸ばす。咄嗟の判断さえ閃く前に足が動き、それを奈落へと蹴り落とした。
落ちたものの顛末を確かめんと、手置柵を越えてカンテラを差し向けた男は、階下に待ち受ける光景に息を呑む。
下層の床に巨大な池を成す夥しい数のそれら。灯火に一瞬きらりと光った硬貨はしばしも経ず、緩く蠢く赤模様に取り込まれた。
――あんな場所へ踏み込んだら、ひとたまりもない。
靴底を鳴らさぬよう交互の踵で五段計り、向きを変えて一気に駆け上る。窒息に伴う痛みが空の肺を打つに構わず、降ってきた全距離を回収した男は、目前に開けた光の中に迷わず飛び込んだ。
閉めた扉に凭れ、ゆっくりと上体を折り曲げる。存分に呼吸の循環を終えた後に、一つの言葉が吐き出されてきた。
「一人……か。」
途方もない空間に単身挑む。だが、不安に思うことは何もない。何故なら、あの時もそうだった――今回も同じことだ。急ぐことなく着実に、前回よりも巧いやり方で、必ず乗り越えてみせる。
男は懐中時計を取り出した。今当てにすることが許される唯一の仲間――時間は、まだしばらく共に居ることを告げている。
鈍銀をポーチに戻した男は、次なる扉に向かい水晶を掲げた。