ミシディア大陸を南から回り、連なる列島を小石づたいにちょうど十数えてから針路を東に取る。足の早い潮の流れを捉えた船は滞り無く行程を消化し、一行はいよいよトロイア上陸の日を迎えた。
自ら小舟の櫂を取り陸地まで送り届けてくれた船長に厚く礼を言い、踵を返した四人の前に広大な森が拓ける。僅かな草原の向こうには見渡す限り碧緑の世界だ。
「すっげー!」
全員分の感想を、少年がまとめて代弁する。
「すごいな……」
パロムの言葉を繰り返す形で、カインは胸を揺るがす感情を吐き出した。国土のおよそ八割もが森林に覆われ、世界の木材需要を一手に賄う――数値として知ってはいても、それが実際の光景となると正に圧巻の一語だ。
かつてこの国を訪れたのは二度。しかし、正確には上空であり地上に降りたことはなかった――雲の合間に僅か見えていた緑の溜池が、今は押し流さんばかりの洪水と化して眼前に迫る。
しばしの驚きから醒めた一行は、まず東に固まった低木群を抜け、河口へ下ることにした。一旦河と合流してから、流れに逆らう形で北へ向かえば城に到着出来る。遠回りにはなるが、深い木立に道を失わずに済む安全な進路だ。
川辺を進む隊列の傍らでせせらぎが徐々に急ぎを増してゆく。今や潮風はすっかりと吹き抜け、緑の息吹に肺までも染まるようだ。
「いやァ、気分爽快~♪」
それなりの距離を歩いたにも関わらず、エッジでさえ休憩を要求してこない。上質な絨毯に包まれ、その足運びはいつにも増して軽やかだ。晴れ渡る空に流れゆく雲が若葉を撫で、天気も良く景観は最高――たった一つ惜しむらくは、これが散策行でないことだろうか。
「ポロム。」
意地の悪い風に枝から振り落とされたのだろう、路傍を飾る盛りを迎えた花の一房を拾い上げたカインは、前を歩く少女を呼んだ。
「どうしました? カインさん。」
小走りに駆け寄った少女の髪に、淡黄の五片から成る釣鐘を下げる。遊び盛りの頃を大人の都合で犠牲にしてくれた彼女に対し、今はこんな物しかくれてやることの出来ない自分が歯がゆい。
耳の真上に花の連なりを揺らした少女は、川面に映る驚き眼を瞬いた。たった一房が飾られただけで、水面に映る姿は宴席に着飾った淑女の姿に勝るとも劣らない。
「ポロばっかずるいぞー! オイラも欲しい!」
双子の姉への寄贈を目敏く見咎めた少年が声を上げた。
「パロムもか……そうだな――」
確かに、片割れだけを贔屓するのは好ましくない。少年の襟元を飾ってやるため、カインは辺りを見回す。
「えっとねー、オイラは花よりもっとカッコイイのがいいな!」
難解な注文を受け、草地の上を巡らせる視線が躓く。花という存在を語るにあたって、格好良い悪いという基準があることを初めて知った。花よりカッコイイ物とは何だろうか。草はどうか。樹そのものか。はたまた――
「ったく、生真面目騎士様はしょーがねぇなぁ~。」
棒立ち竜騎士を脇へ押しやり、エッジは大仰に胸を張った。川辺から天辺のなだらかな小石を選び出し、少年の掌に乗せてやる。与えられた小石を矯めつ眇めつしたパロムは、不満に頬を膨らました。
「こんなのちっともかっこよくない、ただの石じゃん!」
「まぁ見てろって。」
少年を宥めたエッジは、自らも似た格好の小石を手に取り、緩やかな横手投げで川面に向け放つ。エッジの手を離れた小石は水面に五つの波紋を連ね、六度目の着水で冠を立てた。
翼を持たぬただの石礫が、水面すれすれを軽やかに飛ぶ魔法を目の当たりにした少年の口から、言葉にならぬ感嘆の音が漏れる。
「どうやったの? 今のどうやったの!?」
「まぁまぁ待ちねぇ、次はもっと上手く――」
忍者の言葉を水切り、竜騎士の手から放たれた石が七つの波紋を描いた。対岸に当たり静かに沈んだ石を見、カインはふふんと鼻を鳴らす。父より習い、セシルと共に競い磨いた技はまだ衰えていない。
「っ手前ェ、上等じゃねぇか! そっちがその気なら本気で行くぜ!」
得意の投擲術を横取りされた形となったエッジは、勇んで次弾を手に取った。
「フッ、受けて立とう。」
一方カインも、竜騎士の名に掛けて、負けるつもりの勝負など挑まない。
「ねねね、オイラもやりたい、やりたい!」
「あのっ、私も!」
――かくして対岸に小石の堰を築いた後、四人は昼下がりのトロイア市街に足を踏み入れた。
森の拓けた場所にひっそりと息づく民の生活。浅茶の煉瓦と、水源より導かれる清廉を頌えた水路が、白い石造りの家々の間を縦横無尽に渡る。景勝地としても名高いトロイアに於いて、旅装束の他国人は珍しくない。行き交う町人の穏やかな歓迎を受けながら、一行は城門前に立った。
トロイア城。森に仕える八神官の住まう神聖な社でもある三階建ての宮殿は、円柱を基礎とした曲線美によって構成され、荘厳な静謐さに充ちている。
番を務める女官の誰何にミシディア長老よりの書状と用向きを託し、待つことしばし。
「大神官様がお会いになるそうです。皆様、こちらへどうぞ。」
門が開かれ、城の奥へと招かれる。急な来客を受けてか、城内を行き交う者の足は総じて早い。
「迷惑を掛けてしまったようだな……。」
「さてどうかな、別件かもしれねぇぜ。」
彩り豊かな陶瓦で大輪の花を描いた通路は、やがて巨大な噴水を中央に据える内庭に突き当たった。降り注ぐ光吹雪を左手に回廊を逆順し、柱を六本数えたところで、番兵を両脇に従えた一際立派な扉が現れる。
「ミシディアよりの使者が参られました。」
番兵の手により扉が内側へ押しやられると、翼状の階段を両側に備えた中規模の広間が開かれた。中央の壁際に設えられた長椅子の傍らに、薄碧地の法衣を纏った上品な年配の女性と、淡緋の被衣を着た侍女らしき女性が並んで立っている。門兵に託した書状を手に提げた年配女性の前に、一行は跪いた。
「遠路遥々ようこそおいでくださいました。我ら森の民、水の都よりおいでの皆様を、心より歓迎いたします。どうぞ楽になさって。」
トロイアを統治する八神官の一人として名を連ねる女性は、年輪を刻んでなお整った顔に微笑を浮かべた。四人が立ち上がるのを待って、侍女が神官の傍らに恭しく書状を広げる。
「早速、お返事を差し上げましょう。ミシディアへのクリスタル貸与について、事情は承知いたしました。ですが、輸送の準備に取りかかれるのは、早くても一週後になります……よろしいかしら?」
「厄介ごとかい?」
エッジの問いに、神官は目を伏せた。
「ええ……森に異常が起きまして、明後日には城兵の大半が出掛けなければならないのです。」
エッジとカインは顔を見合わせる。城内の慌ただしさは、目前に大規模作戦を控えてのことであったようだ。
「……ご説明を?」
間の悪さを詫びるより先に、二人の怪訝を見止めた神官が伺う。
「よろしければ、是非。」
催促を受け、神官は唇に憂いを紡いだ。
「一巡月ほど前のことです――」
異変発生の報は、城下に住む薪取りの者よりもたらされた。異常成長した木々が恐ろしい勢いで水を吸い上げており、一帯の植物は枯れ果て、大地が干上がりひび割れているという。早速調査に派遣された城兵は、樹木が赤い瘤を成す奇病に冒されている様を目撃した。直ちに病瘤を焼き払い、事態は沈静化したかに見えたが、病瘤は日を跨がずに復活し、あまつさえ他の木々へ感染が拡がりつつある様子さえ見られるという。
「――幸い、対応策は既に得ることが出来ました。大規模な作戦になりますから、今は皆その準備に追われておりますの。」
説明を終えた神官は、改めて視線を前に据えた。
「ですので、申し訳ありませんが、皆様には明日昼までにお発ちいただけるようお願いいたします。クリスタルは、近く必ずミシディアへお届けいたしましょう。」
「了解した……――」
語尾を曖昧に濁し、カインは視線を回す。今この状況で、他国の問題に首を突っ込むことを、皆が了承してくれるだろうか。しかし、皆の顔を見ればその意向は問うまでもない。
「その作戦、我々の参加を認めてはいただけないだろうか?」
カインの申し出に、神官は緩く首を振った。
「感謝いたしますが、お気持ちだけ。先をお急ぎになるのでしょう?」
「確かに、猶予がどれだけあるのか分からないが……もしかしたら、我々が調べている案件と無関係ではないかもしれない。」
よもやの懸念を聞きつけ、エッジは大仰に顔を顰める。
「おいおい……奴さんら、木にまで寄生しやがるかァ?」
「むしろ木にこそ、とも考えられる。ステュクスは植物だ、他の生物よりも同属である樹木に対してこそ、より親和性が高いかもしれん。実際、既に成体とおぼしき状態になっているような様子もあるしな……。」
この場合、宿主となった樹木の餌に当たるのは水と光。即ち、水を大量に吸収する状態は異常食欲に相当する。
「ってことぁ――」
エッジに頷きで返す。もし懸念が的を射ていれば、感染が広がる前に食い止めておかなければならない。
「我々はこれまで、貴官の仰る奇病に似た事案を何件か目撃した。調査の一端として、貴国の事案に関わることをどうかお許しいただきたい。」
「まぁ……あなた方のご厚意に心より感謝いたします。お言葉に甘えてよろしいかしら?」
四人の力強い頷きを返事とし、神官が両手を交差させて胸元に合わせる神式の礼を返した。
「では、より詳しい状況をお伝えいたしましょう。皆様、お掛けになって。」
壁際の長椅子を示され、それぞれ腰掛ける。侍女に何事か囁き下がらせた神官は、自ら一行の向かいに椅子を引いた。
「東南の森の守護樹が病の感染源であることは、調査によって既に判明しております。守護樹は森の母、その区画にある全ての樹木と繋がりを持っていますから、守護樹を浄化すれば、区画にある全てのトレントの浄化が共に叶うでしょう。」
「浄化とはどのように?」
「聖水にて行います。」
「「「「聖水!?」」」」
神官の言葉に混じった爆弾発言に四人の声が揃う。
「ええ、聖水です。特別な樹液を清めの水で溶いたものですのよ。」
大袈裟な反応に気圧されながらも、神官は笑顔を崩さない。
「質問させてくれ、その……聖水の精製法は、一体どのようにして知ったのだろう?」
カインは重大事項を掬い上げる。
「彼が訪ねてきたのです。」
「彼?」
三人称を冠された存在とは、もしや月の民だろうか? ――核心に迫りつつある予感に、カインは自然と身を乗り出す。
「ええ、彼……北東の森の守護樹です。」
神官は目を閉じ、回想を語り出した。
今からそう遠くないある夜のこと、寝室に吹き込む風に目を開けると、傍らに年老いた男が一人立っていた。彼と目が合った瞬間に、映像と感情が頭に次々浮かんできたのだという。
遠い場所に、老人と同じ年程の穏やかな表情をした美しい老女が座っている様が見える。ひどく懐かしい気持ちを呼び起こすその姿は、しかし、内側から急速に変わっていく。苦しみも痛みもなく、ただ止めどなく変化していく――途方もない悲しみに心を砕かれた神官は、彼女を救いたいと強く念じずにはおれなかった。すると、まるで心の声を読んだかのごとく、老人は静かに手を差し伸べてきたのだという。その手に触れられた瞬間、まるで五体に灼けた鉄を流されるかのような苦痛に襲われ、神官は堪えきれず床に崩れてしまった。そして再び目を上げた時には、既に老人の姿はすっかりとかき消えていたのだという――
繋がる糸の全く見えない、謎に満ちた印象の羅列。神秘体験とはえてしてそういうものなのだろう――カインは解釈を放棄した。言葉による会話とは全く異なる、一対一のみ想定した意思の完全形を伝達する手法。現在ある言語体系は感覚に直接捉えた事象を瑕疵なく表せる域にまだない。例えば、自分が傍らに竜の羽ばたくあの感覚を説明した際、芳しい理解を得られた試しがないのと同じように――それは決して口下手なだけに起因するわけではないだろう。
つまるところ、この手合いの出来事に関しては、当事者が理解したと言うかぎり、それで充分なのだ。
「予知夢のようなものか……。」
「いいえ、我々はそのような不確かなものを信じません。」
呟きに近い感想を拾い、神官は笑いながら首を振った。
「夢と思われるのも無理はありませんが、我ら八神官は確かな森の声を聞くことができるのです。どうぞ、ご覧になって。」
子供に諭し聞かせるように言って、預言者はするりと手袋を抜く。その痩せた手の甲には、腐蝕毒か何か、強烈な劇薬によってもたらされたと思しき重度の火傷痕があった。夢が夢ではない確かな証拠を見、一様に目を瞬く四人の顔を眺めた神官は、手袋を戻し話の続きを薄い唇に乗せた。
「翌朝には調査隊を派遣し、『彼』から浄化に足る量の樹液を採取することができました。その他、浄化に必要となる仕掛けも既にほぼ揃っております。一部、仕掛けに白魔術が必要な物のみ必要数を充たしておらず、別室で今も作業をしておりますが、これも期日には確実に揃うでしょう。」
「白魔術?」
「ええ。根の浄化は、全て同時に行われなければなりません。エルメスの靴と蜘蛛の糸で吸水速度を調節するのです。」
話を聞き終えた一行は、改めて顔を見合わせ頷いた。聖水による浄化作戦――古木に寄生したものがステュクスであれば、その顛末を見届ける意義はあまりにも大きい。
一段落を迎えたところで、ちょうど侍女が戻って来た。神官に耳打ちをし、再び元の位置に控える。
「お待たせいたしました。部屋の用意が整いましたから、明日の作戦会議のお時間までどうぞゆっくりなさって。」
神官の好意に礼を返し、一行は席を立った。
「よし、そうと決まりゃあ……何しよっかねぇ?」
「そうだな……」
部屋で寛ぐにはまだ日が高く、とはいえこれといってすべきことも思いつかない。カインは腕を組む。
「城内をご覧になりますか? 案内させましょう。」
「いや、そんなことに人手を割いていただいては申し訳ない。」
「ねねね、オイラ水泳したい!」
ぴょこぴょこと跳ね上がるパロムが、空白の予定表に第一希望を書き付けた。
「さっきでっかい噴水があったぜ、あそこで泳ぐ!」
「ってお前、泳げんのかぁ?」
「ううん、まだ。でも忍者は水の上歩けるんだろ? オイラにそれ教えてくれたらダイジョブだよ!」
「歩けねぇよ誰に吹き込まれたそんなこと!」
「歩けないのか?」
肩に担がれたパロムの歓声の横からカインが声を挟む。デマの発信源を見付けたエッジはがっくりと肩を落とした。
「お前なぁー……忍者を何だと思ってやがる。」
「泳ぎの練習をなさるのでしたら、浮板をお使いになりますか?」
楽しげな水泳教室開催に向け、神官が協力を申し出た。
「浮板?」
「ええ、ご存知ありませんか? 今お持ちいたしましょう。」
神官が手を上げると侍女が席を外し、しばらくして氷青色に塗られた三十センチメートル四方ほどの中厚板を抱えて戻った。侍女は一礼を挟み、胸に暖めた板をエッジに差し出す。
「お持ちになってみて。」
神官に促され、エッジは空き手にそれを携えた。見た目から陶器の重みを想定していた分、羽根のような軽さに意表を突かれる。軽く叩いた反響からみて、材質は恐らく小型の船材にも用いられる非常に軽い材木――楠の仲間のようだ。これを胸に抱えれば、上半身を水から上げておくのに充分な浮力を得られる。
「それ使ったらオイラ泳げる?」
エッジの肩上で体を捻ったパロムは、真剣にそれを見つめる。
「かもな。こりゃ面白え、借りて構わねぇか?」
神官は笑みを刻んだ唇に二つ返事を乗せた。
「すまない、それをもう一枚、この子の分も貸して――」
「わ、私は遠慮いたしますわっ!」
ポロムは慌てて肩を抱く保護者の言葉を遮る。まさか水泳をする予定などなかったため、水着を持って来ていない。
「そうか、では……どうする? 寝るまでかなり時間があるが。」
しばし考えた後、ポロムは自分の予定をカインに告げた。
「あの、私、道具作りのお手伝いをしようと思います。白魔法が必要なら、きっとお役に立てますわ。」
「それでいいのか? ポロムは偉いな……。」
「どこかの誰かさんとは違いますもの!」
カインの感心を得、ポロムは大いに胸を張る。一方、引き合いに出されたパロムの剥れ頬からは不満が飛び出した。
「ちぇっ、何だよ、良い子ぶっちゃってさ!」
拗ねる少年を宥めたカインは、一行それぞれの決定を神官に伝える。幼い少女からの助力申請に、神官は顔を綻ばせた。
「まぁ、そちらの女性は白魔導師でしたのね! 助かります、是非お願いいたしますわ。」
「はい、喜んで!」
思いがけない言葉にポロムの胸が一鐘脈打つ。女性――そんな称号で呼ばれたのは初めてだ。スカートの端を摘み女性らしくお辞儀をすると、耳の上に飾った花が軽やかに揺れた。
「では、作業場へ案内いたしましょう、こちらへ――」
「カイン! みんな!」
神官の手向けた先で、開いた扉から麗しやかな声が咲き零れる。
カインにとって忘れ難きその声――そういえば、シドから聞いた彼女の行方を、すっかり失念していた。
神官に略式の礼を交わす白金の裾がたおやかに翻る。
「久しぶり! 会えて嬉しいわ!」
異口同音に再会の辞を述べる面々と挨拶を交わした彼女は、遂にカインの前に立つ。カインは重い視線をその顔までようやく引きずり上げた。
「カイン、元気だった?」
言いたいことや、言わねばならないこともある。しかし、何も言葉が出てこない。
「ローザ……妃殿下……」
差し出された手を取れず、ただその名をゆっくりと口にする。
「やだ、そんな畏まらないで? 妃殿下なんて、柄じゃないわ!」
朗らかな笑みが、変わらない幼馴染みの顔を彩った。幼い頃から見慣れた筈のその表情に、消していた感情が蘇る。会ってしまえばこうなることは当然予測していた――故に、婚礼の儀への出席は辞退するしかなかった。
枝垂に咲き誇る花のように、間近で揺れる美しい笑顔。手を伸ばして手折る無礼は許されない。この花を手にすることが出来るのは、花が自ら枝を離れた時のみ――
「では、ローザ……」
苦笑を収め、改めてローザに向き直る。いざこの時を迎え、今の感情を表すならば、故郷の空を仰ぐような気持ちだ。恐れ続けた苦い感傷は、意外にもそれほど深刻ではない。何もかも昔のまま――無論、そう感じられるのは、彼女の努力に甘んじているのだという自戒から逃れることは出来ないとしても、だからこそ。
「久しぶりだな、元気そうで何より――と言いたいところだが、先ほどお前が来る直前、とても気になる光景を見たんだが、俺の気のせいだと思うか?」
「ん?」
言わんとするところを測りかねてか、ローザは首を傾げる。カインは階段の中程にある大窓を指した。
「向こうの棟に、大きな出窓があるだろう。」
指の先に庭を挟んで隣接する棟の二階を示す。
「ええ、あるわね?」
「その手すりを軽々飛び越える若い娘の姿を見たような気がしてな。どう思う?」
「……。」
凍り付いたローザの笑顔。剣呑な沈黙が流れる。
「――ローザ。」
「なぁに?」
童女を真似た笑みと仕草が、ローザの満面に頌えられた。他ならぬこの男に対して、それらが盾として働くことは決してないと彼女自身分かっていながらも。
「いいかローザ……お前はバロン王妃、国母なんだ! お前の身に何かあれば、どれだけの人間が責任を負うか理解しているのか? ちょっとお転婆しちゃった程度では決して済まされないんだぞ! ああいう真似をするのは止めろ、たまにでも止めろ、いいか、絶対に止せ!」
「ねぇ、ちょぉっっっと心配しすぎじゃないかしら?」
「お前に限って、心配しすぎということはない!」
きっぱりと言い切られた娘は、憂いの頬に手を当て優雅に愁息した。
「それが困ったところなのよねぇ……。」
「お前のことだお前の! まったく、あんな真似を一体誰から――」
「あらっ、あなたが教えてくれたのよ?」
晴れやかな返答に、一瞬呼吸が止まる。
「……何だと?」
「忘れた? ほら、士官学校に入るより前、閲兵式観覧の誘いに来てくれたことがあったじゃない? 私が玄関へ回ろうとしたら、あなた、『早く早く、窓から出て来ちゃえよ』って。」
満面笑顔を頌えたローザは滔々と思い出を語る。カインは額から血の気が引くのを確かに感じた。三人で閲兵式を観覧した遠い記憶が、朧な白黒から鮮やかな総彩色へと変化する。
――あの時、彼女は家に居た。両耳の上に高く結い上げた豊かな金の髪に、花房を模した髪飾りを付けて。遅れがちな親友を急かし、我先にと彼女の部屋の窓に取り付くと、修身の稽古を言い付かっており、厳しい母親の目を盗んで玄関へ廻る術はないと断られた。それでもどうにか彼女を連れ出したくて――口にしてしまったのだ、頭に閃いた『名案』を。
「……俺が……」
「ええ、あなたが。」
確認するまでもなく分かっているのだが――一縷の望みに垂らした細糸は、快刀乱麻すっぱりと断ち切られる。
「セシルは、『やめなよ、そんなの危ないよ』って言ったのね。そこであなたが、『大丈夫だって、上手なやり方があるんだ、教えてやるよ!』って……思い出した?」
そして彼女は窓から見事飛び降りるに至り、自分はといえば、彼女と親友の『カイン、すごーい』という無邪気な賞賛を勝ち得て鼻高々――あろうことか、仔細に思い出してしまった。自分とて昨日今日父から教わったばかりの技能を『教えてやる』とは偉そうに、あまつさえ『竜騎士の技なんだぜ!』などと胸を張るあのバカガキが今目の前にいたなら、頭の一つもひっぱたいてやりたいところだ。
「……ところで、何故トロイアに?」
エッジ指揮による大合笑を空咳で払い、カインは半ば呻く。このまま墓穴を掘り続ければ、頭まで埋まるのにそう時間は掛からないだろう。今は悔念の泥沼に嵌り込んでいる場合ではない――と自分を納得させ、話題を前向きな方向へ修正する。
この時期にローザがトロイアに身を置いていることは、ステュクス事件との関連が当然疑われる。もしローザの状況にセシルの故意が介在しているのであれば、それは彼が事件の深部に関わっている可能性をより濃厚なものとするだろう。
「本当はね、二人で来る予定だったの。」
答えるお転婆娘の顔が、一転、妃のそれに変わる。
「すまない……!」
「やだ、どうしてあなたが謝るの? コホン、『僕は国を離れるわけにはいかないけど、君は是非行っておいでよ、トロイアは素晴らしい国だから』……ね、似てるかしら?」
ローザは夫の仕草を真似、戯けてみせた。
「それでね、用意していただいた以上、お断わりするのは失礼だし、お言葉に甘えちゃったっていうわけ。」
娘の顔には依然として華やかな笑みが留まる。しかし、その顔の曇りに気付けぬような付き合いの長さではない。
気付いたところで結局は、彼女の気分を晴らすための良い言葉を持てないのだが――自責をひとまず遠ざけ、カインは読み誤りの繙きに掛かった。ローザがバロンから離れたのは結果的な問題であったようだ。しかし、セシルが国に残った理由が分からない。この時期は特に王が国に居るべき行事は無い筈だ。当然、彼の自己申告通り通常業務が押していた可能性はあるが、ゴルベーザの傀儡政権となる以前の重鎮達ほぼ全員が元職に復帰したと聞く。前王の息子も同然であり、幼少時より臣民共に親しみ、かつ救世さえ成し遂げた新王に対する諸侯の感情は、決して悪くはないはずだ。
何らかの新たなしきたりを施行しようとしていた気配もなく、新王の手に余る負担ならばそもそも重鎮たちが通すとは考えられない。むしろ、就任間もない王に求められているのは象徴的な役割――他国、しかも先の大戦による直接利害関係に無いトロイアへの親善訪問は、まさにうってつけの筈だ。
「……トロイア旅行の話が出たのは、婚礼の儀のすぐ後よ。」
ローザはすかさず追加情報を差し込む。勘の良い幼馴染みは故国で起きた異変を言下に察したようだ。
「その後すぐ、トロイア側から正式なお誘いをいただいたの。だから予定を調整して、二巡月前にお返事を……その時は、とても楽しみにしていたの、釣りがしたい、って。」
ローザの手がドレスの裾を縒り合わせる。彼女が不安な時によくやる仕草だ。それでも尚、娘は明るい声を取り繕う。
「……バロンへ、行ったのね?」
問われて答えを失う夫の親友。時に考えの行き過ぎる兄代わりの男に動揺を気取られまいと、健気に震えを押し殺す指がそっと肩当ての縁に添わされた。
「久しぶりのバロンはどうだった?」
気丈に繕う晴声も空しく、榛を揺らす瞳がとうとう床に落ちる。雪崩れて顔を覆う金糸と、肩に添う手が痛々しくさざめいた。
もしその指に、妃である身分を示す指輪が無ければ――そして、恐らく彼女の唇から次に発されるであろう言葉が、彼女と対の指輪をした男の名で無ければ――彼女を抱き寄せることに何の躊躇いも無かっただろう。
寄る辺なく立ち尽くす娘は、その唇を震わせる。
「セシルは……――」
「やめて!」
突如、横から飛び出してきた小さな影が、肩当て越しに温もりを伝える白い指を引き剥がした。夢から覚めたような気持ちで、カインは目の前に立ちはだかった小さな影の名を口にする。
「ポロム……?」
「自分勝手ですわ!」
瞬くより早く、更なる糾弾の声が広間に木霊する。青年を庇うように仁王立ちした少女は、娘の驚き顔を睨み付けた。
「ポロムちゃん?」
なぜそんなことを言われるのか分からないと如実に訴える娘の表情が、少女を更に苛立たせる。
「ローザ様は自分勝手ですわ、カインさんがどんな気持ちでここに来たかも知らないくせに!」
一声放つごとに、飾ってもらった花の枝が一際冷たく心を氷らせるようだ。握る拳の非力さに、ポロムは唇を噛む。
――カインは誰より辛い思いをしているのだ。未知の敵と戦い、辛い過去の痛みに耐え、みんなの為に頑張っている。それなのに、土埃などまるで無縁のきれいなドレスを着て、安全な場所でのうのうと過ごしている彼女が、何の権利があって彼に寂しそうな顔をさせるのか。
「ポロ、どうしたんだよ!?」
「触らないで!」
異常事態を止めようと伸ばした腕は猛然と振り払われる。姉の烈火に焼かれた手を押さえ、パロムは凍り付いた。
「さっきから聞いていれば、バロンのこととか、セシルさんのこととか、ローザ様が言うのは自分のことばっかり!」
彼女がそれらを口にするたび、カインの瞳がどれほど悲しげな色へ沈んでいったか――あんなに近くにいたくせに、彼女は自分の足下ばかり見て、それを見ようともしなかった――彼はずっと彼女を見つめていたのに。
「ローザ様なんて大っ嫌い! あなたなんか――」
その時、ローザの足がするりと前に踏み出された。白い裾がわずかな仕草を抱えてふわりと膨らむ。ポロムの目前に腰を落としたローザは、少女の両頬を軽く押さえるように叩いた。
ぱちんと小さな音が鳴った瞬間、自分の頬にまで走った電撃に、パロムは身を竦ませる。
「気をお鎮めなさい。」
唇に険しさを刻むローザは、両手の中に少女の瞳をしっかりと捉えた。
「それは、白魔導士が決して口にしてはいけない言葉よ?」
少女の両腕が闇雲に振り回され、ローザの手を振り払う。駆け出すポロムの髪から落ちた花が、床でぱさりと乾いた音を立てた。
「――っあ、おい!」
一体何がどうしてこの状況を迎えたのか――掛けた声を扉に閉め出されたカインは、ローザの様子を窺う。少女の落とした花を拾い上げた娘は、こくりと頷きその背を押した。
パロムには、姉を追って広間を出て行く男の背をただ見送ることしか出来ない。時の刻みを忘れた体が、頭上から降りた枷に包まれた。
「心配するようなこっちゃねぇよ。」
後ろ頭から響く声に鼻の奥を抓まれ、パロムは眉間に皺を寄せる。
「……だって、だってさ、ポロはいつだってオトナで、良い子なのに……」
動揺は力無く滑り落ち、やがてすっかりと襟に埋もれた。
噴水の吹き上げる水が細かい飛沫となって頭から降り注ぐ。日が傾いた今、浴びる水は冷たいが、そんな寒さこそが自分にはまったく相応しいように思えた。
何故あんなことを言ってしまったのだろう――行き所の無い自問が胸を灼く。彼女に叩かれていなければ、長老に固く戒められた忌み言葉さえ口にしてしまうところだった。
ポロムは膝を強く引き寄せる。両腕に力を込めて体を固めていなければ、惨めに大声を上げて泣き出してしまいそうだ。ふと、こめかみを掠めた手の甲に直接皮膚が触れる。耳に指を添えると、そこにあった筈の物がない。
背筋を冷たい雫が滑り落ちる。必死にかき分ける手のひらには髪の毛しか触れてくれない。辺りを巡らせる視線の先に、今しがた出てきたばかりの扉が立ちはだかった――あの場所へは戻れない。
彼から貰った大切な花を、なくしてしまった――ポロムは慌てて唇を強く噛み付ける。嗚咽を一つでも漏らしてしまえば最後、決壊を止められないだろう。
運悪く、水音に混じり靴音が聞こえてきた。ゆっくりと規則正しく確かに地を踏むこの足音は、よく聞き慣れた――カインのものに間違いない。
「ポロム……」
腕の隙間から男の声が浸みる。
「……ごめんなさい……。」
ポロムは締まる喉から必死に声を絞り出した。
「何故あんなことを?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――!」
他に言うべき言葉がない。会話の邪魔をしたばかりか、激情に駆られるまま彼女を侮辱してしまった自分を、彼は許してくれないだろう。
前髪の隙間から男の顔を窺ってみれば、想像通り、途方に暮れたような表情がそこにある。どんなにバカな子供だと思われているか、実際彼に聞くまでもない。
「……私、お手伝いに行ってきます!」
ようやくはっきりと口から出せたのは、沈黙が呆れの溜息に変わる前に逃げ出すための口実だった。
少女の姿を認め、女官が大扉を押し開く。内部に他の皆の姿はなく、唯一、書卓に向かう神官の後ろ背が見えた。彼女と出くわさなかった幸運に感謝しながら、書き物をしているらしき背中に歩みを寄せる。
「あの、お仕事のお手伝いを……。」
小声に顔を上げた神官は、少女に微笑を向けた。
「作業部屋は、階段を昇ってすぐ右の扉です。今、迎えの者を――」
「いいえ、一人で行けます!」
微笑まれることさえ後ろめたく、一礼を残し足早に作業場へと向かう。広間を抱く階段を駆け上り、天頂に明星を飾る樹木の彫刻を施した扉を開くと、天井に釣られた二基の貯蓄樽が目に入ってきた。二抱えほどもある巨大な空容器には、一方に純水、もう一方に樹液と書いた札が貼り付けてある。その下の壁には、聖水を満たした六本の細長い容器が並べられていた。
真正面から左へ向かって視線をずらすと、彼女と数人の女官が机を囲んで作業をしている。祈り空しく、少女の存在に真っ先に気付いたのは彼女だった。
「あっ、ポロムちゃん! いらっしゃい――」
丁寧に引かれた椅子を無言でやり過ごし、ちょうど彼女に背を向けられる机端の席に登る。
「尖った部品があるから、怪我をしないように――」
「分かってますわ。」
背中から掛かる気遣いさえ素直に受け取ることが出来ない。
――この仕事を終えたら、振り向いて謝ろう。
女官の説明を聞きながら、ポロムは決意した。何より救いは、こなすべき仕事がまだ机の上に山と積まれていることだ。これだけの量を終えた頃にはきっと、いつもの――良い子の自分に戻れるに違いない。
噴水の吹き上げる水しぶきが一つの月明かりを無数に複写する。城の周囲を取り巻く木立が吹き寄せる清涼な風が、濡れた肌に温く纏わりついた。
「夜の水泳ってのもなかなか風情があらぁなぁ。」
水風呂よろしく縁石に両腕を広げたエッジは、泉の中央に浮く小さな影に声を掛ける。
「パ~ロム~、それじゃ泳いでんだか溺れてんだか分かりゃしねえぞ?」
エッジの両足が起こす細波が、浮き板に乗ったパロムの体をゆらりゆらりと揺らす。釣り竿の浮きと化した少年に見切りを付け、エッジはちょうど通りがかった女官へと矛先を変えた。
「姉ちゃん、一緒にどうだい?」
淑笑にあっさりと受け流され、いよいよ溜息が口を付く。軽口も、突っ込み役がないと寂しいものだ。
「ポロム、ずっと部屋から出てこないんだ。」
半分水に浸かった呟きがぷくぷくと泡を立てる。
「そりゃあ、仕事任されて忙しいんだろ?」
「だって、夕飯も食べに来なかったんだ。」
「そりゃあ、部屋で食ったんだろ?」
これはなかなか重症なようだ。エッジは後ろ手に縁石を押し、パロムの足下を潜る。
「ンーな、これまで四六時中ずっとくっついてた訳でもあるまいによ?」
立ち泳ぎで四つ半身を浮かせたエッジは、少年の頭に濡れ帽を被せる。それでもパロムは変わらず、ぷくぷくと泡を作った。
「いつもくっついてたのはポロの方なんだぜ、オイラが悪戯したりするとすっ飛んできて、頭叩いたり文句言ったりしてさぁ……。」
弾けて消える水泡に、夕餉を告げるため呼びに行った時の様子が蘇る。顔を上げることもなく、素っ気ない断りを告げて、すぐに扉の向こうへ消えてしまった姉の姿。再びノックをしなかったのは、自分と姉とを閉ざした扉が、もう二度と開かない気がしたからだ。
「……今のポロは、ちっとも知らない奴みたいだ。」
気泡がまた一つ、水面に儚く消える。
「オイラが一番ポロのこと知ってるはずなのに、もう全然分からなくなっちゃった……。」
「んなこたぁねぇよ。」
少年は初めて顔を上げた。その視線を拾い、エッジはにやりと目後を曲げる。
「一緒にいようがいなかろうが、お前らが兄弟だってことにゃぁ変わりねえ。『知らねぇ奴みてぇなポロム』だって、今じゃもう知れたワケだろ? ンならやっぱり、お前が一番ポロムのことを知ってんのさ。」
禅問答のような言葉に、パロムはぐるぐると思考を回した。言われたことを反芻し、その論旨を噛み砕く。
確かにエッジの言うとおり、『知らない奴みたいなポロム』はさっき見た。つまり、今の『知らない奴みたいなポロム』は、もう知っている『知らない奴みたいなポロム』だ。ということは――
「……そっか、オイラ、知らない奴みたいなポロのこと、もう知ってるんだ。」
エッジは笑顔で力強く頷いてやる。気をよくした少年は、更に大きな水しぶきを上げた。
「じゃ、やっぱり今でもオイラが一番ポロのこと知ってるんだ!」
エッジは親指を立て大正解を示してやる。少年は笑顔で胸を撫でおろした。
「なーんだ。じゃあ、ぜんぜんダイジョブじゃん! オイラ、心配して損しちゃったよ。」
「そーいうこった。……てことで、そろそろ出ようぜ、ふやけっちまわ。」
「えー! まだ水の上歩くの教えてもらってないよ!」
「歩けねぇっつってんだろうがまだ言うかこのォ!」
喧噪の起こした波が水面に輝く松明の火を千々に散らす。浮板ごと小脇に抱えられた少年の爪先を離れた水滴が、星砂の空に一回りの波紋を広げた。